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志高く、より良く生きるために

■ 壮年ならびに高齢者のクラス■
(そうねんならびにこうれいしゃのくらす)

●「ヤワな人間」からの脱出

 本来、歩く事は、ヒト科の動物の基本動作であったが、こうした有酸素運動は遣(や)られなくなった。また、心臓と血管の強化を目的とする、酸素を摂取しながら持続的に行う歩行は、車に取って代られている。

 こうした結果が招いた事は、現代人を「ヤワな人間」に造り変えてしまった。そして、「ヤワな人間」は、基本的には、人間の精神力を強くする「運動精神」までもを衰退させ、心身相関病などの、現代特有の病気を派生させた。
 不定愁訴(ふていしゅうそ)なども、この顕著な現れであろう。 人間は「運動不足」になると、肉体を損傷するばかりでなく、脳を汚染させ、精神に異常を来すことになる。

 つまり、運動不足は、肉体が「ひ弱になる」と同時に、記憶力や思考力を衰えさせ、同時に、本来、発散されるべきエネルギーが、外に向かって放出されず、体内に滞って、それは充満して「陰気」となり、体細胞のあらゆる箇所を巡り、その「気」は、やがて脳に蓄積されて行くことになる。こうなれば、精神的にも不安定になり、精神に異常を来して、心身共に衰退して行く。昨今の精神障害者が急増している背景には、こうした実情が大きな病因を作り出している。

 こうして弱ってしまった肉体に、地獄界の狂霊や、不成仏霊がどんどん憑衣して、精神面からも蝕まれて行くのである。これが不可視世界から可視世界に向けて投げかけられる、「暗いメッセージ」である。
 昨今の、一昔前までは、全く考えられなかった凶悪で、陰湿な、惨(むご)たらしい凶悪犯罪や、殺人事件が続出しているのは、老若男女を問わず、庶民階層の、「愛すべき微生物」が狂い出したことの証拠でもある。

 ごく、一般の普通の人が、ある日突然に狂って、親殺し、子殺し、兄弟殺しなどの殺傷事件の及ぶのは、今日の現代人が、様々なストレスを抱え、将来に対する不安や恐怖におののき、それを起因として、精神障害が起っているという事である。これは偏(ひとえ)に、現代人の運動不足と、歩かなくなった「運動精神」が崩壊した為であろう。

 また、運動不足により、寝た切り老人になったり、植物人間になったりする人も少なくない。
 民主主義は人権を取り上げ、精神障害者に対しても、また、既に役目を終えた人に対しても、人権、人権と囃(はや)し立て、更には犯罪者に対しても、人権問題を持ち込んで来る。被害者の殺された人権は、後回しにして、温々(ぬくぬく)と生きている加害者の人権を擁護(ようご)して、犯罪者の人権を保護する立場がとられている。

 そうした中で、一方の人権が迫害され、被害者や被害者の家族の救済は、殆ど及ばない状態になっている。病気は医者任せであり、不摂生を繰り返した挙げ句、「自分で自分を病気を治す」ことを知らない現代人が増えている。
 また、飽食の時代、正しい食餌法(しょくじほう)にも無頓着であり、好きな物を好きなだけ、腹一体食べる美食主義が罷(まか)り通っている。しかし美食を、欲望の命ずる儘(まま)に、腹一杯食べて、これで病気にならない方が不思議である。

 美食主義の中心を担う食材は、主に動蛋白であり、動蛋白主体である食肉や乳製品、高級魚や卵などの食品などが幅を利かせている。また、現代栄養学者も、動蛋白摂取を奨励している。それが有害腐敗物質の元凶であるにも関わらず、である。
 然(しか)も、その中で動蛋白食品が持つ第二級アミンこそ、野菜と食べ合わせの悪い元凶を演出しているのにも関わらず、である。

 食肉類の中には、第二級アミンが存在する。一方、野菜類の中には、硝酸塩が含まれ、これは唾液と混ざり合う事で、唾液中で亜硝酸に還元され、第二級アミンは亜硝酸と反応して、ニトロソアミンを合成し、その結果、大量のジメチルニトロソアミンを生成することである。

 しかし、現代栄養学は、「肉と野菜をバランスよく」と豪語し、また「一日30品目を摂取する」というスローガンで嘯(うそぶ)いている。
 この食指針は、肉と野菜を同時に摂取することで、動蛋白食品の酸性と、野菜食品のアルカリ性が、胃袋の中で中和でもすると考えられたものであろうが、これは中和するどころか、逆に発ガン性物質の、ジメチルニトロソアミンを生成するのである。

 ちなみに、ジメチルニトロソアミンは、胃ガンを発ガンさせる事で早くから知られている。日本人に胃ガン発生率が、外国人に比べて高いのは、この為である。
 実は、植物性の漬物や梅干に含まれる硝酸塩が唾液により、亜硝酸に還元されて、食肉に含有される第二級アミンと反応を起こし、大量のジメチルニトロソアミンを生成していた為なのである。

 更に、こうした状態を吟味(ぎんみ)すれば、食肉・魚肉・イクラ・スジコなどに添加すると、肉の中でニトロソミオグロビンとニトロソヘモグローゲンを生じる。こうした食品添加物は、見た目もよく映る。消費者は、つい、これに騙される。
 また、色も安定していて、食材を選ぶ消費者の眼には、鮮やかに映る。色の保存性もある為、合成着色料や食品添加物がふんだんに遣(つか)われている。何(いず)れも化合物であり、保存料としては、亜硝酸ナトリウムが添加されている。

 亜硝酸ナトリウムは、それ自体に毒性があり、これをマウスに経口投与すれば、体重の1kg当りで、220mlを示し、これだけの添加量で中毒症状を起こす。また、硝酸ナトリウムを含む井戸水では、乳幼児がこの水を飲むと、亜硝酸中毒が発症する。これは硝酸を亜硝酸に還元する性質を持った細菌が、発生し易いことを物語っている。

 食品添加物の中には、ジメチルニトロソアミンという化合物も添加されており、この特有の臭気を持つアミンは、水、アルコール、エーテルなどによく溶ける性質を持っている。更に、皮膚刺激性を持つ。
 また、ジメチルニトロソアミンは発ガン性がある事で知られ、現代という時代に生きる私たちは、食べ合わせと共に、発ガンする食品で、食べ物が取り巻かれていると危険にさらされている。

 更に、ジメチルニトロソアミンは大型の魚肉(マグロやブリ、ハマチや鮭など)や獣肉(牛肉・豚肉・馬肉・羊肉などの四ツ足)の中に、非常に多く含有されており、これが水やアルコールやエーテルなどの液体に出会うと、その中に溶けて、溶解した液体が体内で吸収され、また、その含有量は、調理加熱によって増加する事が知られている。

 有機化学の教科書では、ジメチルニトロソアミンは「第二級アミン」と定義されており、魚肉や獣肉には発ガン性の含有量が多く、酸性化条件において、亜硝酸と反応し、容易にニトロソアミン(Nitrosamin)を生成すると書いてある。

 ニトロソアミンは、2価の基=N-NOを持つ化合物(ニトロソ基-NOおよびアミノ基-NH2を持つ)の総称で発ガン性が高い。第二級アミンと、亜硝酸との反応でニトロソアミンが生ずるが、両者とも天然食品中に含まれ、同時に摂取すると体内で生成する。

 中毒症状を起こし易いジメチルニトロソアミンは、肉類に含有されており、ジメチルアミンが、そこに添加された亜硝酸ナトリウム(化学式NaNO2で、硝酸ナトリウムに鉛を加えて溶融して製した無色の結晶)と反応するという事である。
 これを化学式で書くと、次のようになる。

ジメチルアミンと亜硝酸とジメチルニトロソアミンの化学式

 魚肉製品やハム、ソーセージ、ベーコン、チーズなどの食肉や乳製品には、かなりの量のジメチルニトロソアミンが含まれている。
 特に、魚肉や食肉に亜硝酸塩(亜硝酸の塩類で、水溶液はアルカリ性を呈する)を添加した場合や、燻煙処理した魚介や獣肉の燻製(くんせい)には、ジメチルニトロソアミンの含有量が多くなる。

 かつてドイツの有機化学者J・サンダ−博士が、ラットに、種々の魚介や獣肉の燻製と第二級アミンと硝酸ナトリウムを与えて、2時間後にその結果を調べると、ラットの胃の中には、かなりの量のニトロソ化合物(ニトロソ基-NOおよびアミノ基-NH2を持つ化合物)が生成していることを発見した。これは胃内の酸性条件下で、第二級アミンが、ニトロソ化することを発見したのであった。

 第二級アミンが食肉などに多く含まれるのと同じように、亜硝酸塩はレタスなどの生野菜に多く含まれ、また、茹(ゆ)でた菠薐草(ほうれんそう)や、高菜漬やキュウリの塩漬にも含まれ、第二級アミンと亜硝酸の生成した後からは、高濃度のニトロソアミンが認められた。
 こうした実験結果より、また、第二級アミンはメチルベンジルアミンと結びつく性質があり、硝酸ナトリウムと共に、8週間に亘り、ラットに与え続ければ、14週間後には、多数のラットに食道ガンが発生していることが確認された。

 これは胃の中で、第二級アミンと亜硝酸が反応した結果、ニトロソアミンを生成し、これが発ガン性を齎し、食道ガンはウサギでも認められたと報告している。また、イヌでも食道ガンが認められた。
 イヌの胃での実験結果からは、ピロリジンと亜硝酸の反応によって、ニトロソアミンが生成されたからであり、その生成率は0.2%に達したと云われる。

 ヒトにおいては、動蛋白摂取の食事をした後に、血液中のニトロソアミンの濃度は上昇したと報告されている。更に、次なる報告では、ベーコンと菠薐草(ほうれんそう)を食した後で、血液中の状態を検査したら、35分後にはジメチルニトロソアミンが、65分後にはジエチルニトロソアミンの血液中の濃度が上昇したことが認められている。

 この元凶は、魚肉や獣肉だけを食べて、野菜を食べない外国人よりも、ガン発生率が高いと言う皮肉な結果となっている。つまり、現代栄養学が掲げる、「肉と野菜をバランスよく」のスローガンが、皮肉にもガン発生率を高め、食指針が裏目に出ていることを顕わしている。

このような症状を放置すると、ガンになるかも知れない。ガン疾患とは食の誤りから来る、憑衣・憑霊現象の一つである。(画像クリックで拡大)

 現代人は、間違いだらけの現代栄養学の奨める食品に囲まれ、間違いだらけの食指針に随(したが)い、先の見えない世情の中で日常生活を送っている。
 多くの人々は、「現代」という世相の中で、何かしら戸惑っている。原因が見つからない不安にうろたえている。何にとどまり、何にうろたえているか分からないが、そうした自分が何処から起っているのか、十分に気付いている筈である。

 また、 自分達の未来が決して確かでないことも、日本という国が、隣国の脅威に脆弱(ぜいじゃく)なことも、また、日本人の暮らしが不安の上に築かれていることも、人々は心の奥底で、十分に承知している。それはあたかも、古代のカルタゴが、かつての宿敵であるローマ帝国に、国家安全保障上の一切を守ってもらった如し、である。それはまさに、今日の日本と酷似するではないか。
 しかし、現代人はそれを思い出すまいとしているだけである。

 不安や恐怖の影は、いつも庶民に暗い翳(かげ)りを投げかける。
 不安や恐怖を政治が解決してくれるとは誰も思っていない。経済がそれを救ってくれるとも思っていない。勿論、自分の小さな力で、不安や恐怖を取り除けるとも、誰も思わないだろう。

 資源が枯渇を始めた。特に銅などの非金属は高騰の一途にあり、これがマネーゲームのダシにされている。豊かさを金銭に求めた現代人は、その多くが黄金の奴隷に成り下がった観が強い。元凶は益々傷口を広げ、混乱の誤謬(ごびゅう)が、現代人の生活に歪(ゆが)みを生じさせている。

 それにしても、一昔前までは考えられないような不穏な世の中になったものだ。
 こうした世の中をどう生きたらよいか、また、懸命に生きて、よりよき死を迎えるにはどうしたらよいか、その「解答の鍵」が、わが西郷派大東流の思想の中には存在している。現代は思想が抜け落ちた時代である。だからこそ、思想を補給しなければならない時代でもあるのだ。

 

●霊的神性が失われる現代社会

 日本人は太平洋戦争敗北以前には、それぞれが神仏を敬(うやま)う心を持っていた。神仏に低頭し、それを恭(うやうや)しく畏(おそ)れていた。
 ところが、あの敗戦から60余年ほど経った今日、神仏を敬う精神生活をしている人は殆どいなくなり、それに代わって、神仏などは絶対に存在しないという、唯物史観で自然科学を見る傾向が、社会全体を覆(おお)うようになった。
 しかし、唯物論的な考え方は、果たして正しいだろうか。

  眼に見える世界、手に触れる事の出来る世界を「物質界」という。また、こうした世界を「可視世界」という。
 だが、地球上に存在する世界は「現象界」である為、相対的な変化が起り、それに対極する「二大対極」の一方に、何か別の存在する媒体が無ければならない。変化して止まないのが現象界であるから、変化する媒体は、相反する相対的なものが存在しなければならない。
 したがって、可視世界が存在するのならば、これに相対する「不可視世界」も存在していなければならない。現象界が、一方だけしか存在しないというのでは、片手落ちであろう。また、宇宙法則にも反している。

 かつての日本人は、この不可視世界の霊性をよく知っていた。日常生活の中に、眼に見えない世界があることを、ごく自然に理解し、霊的世界のことを認めていた。神と共に歩く生活をしていた。特に神道に対する畏敬の念は深かった。
 ところが、今日の日本人のこうした霊的神性は、太平洋戦争敗北とともに打ち崩され、それ以降、欧米的な考えに染まり、横文字文化に慣れ親しんできた。
 これが「物質への誘惑」であった。そしてその後、日本人は、「黄金の奴隷」に成り下がる道を選択することになる。

 太平洋戦争敗北は、同時に日本の精神文化の敗北にも繋(つな)がった。太平洋戦争のもう一つのアメリカ側の戦争目的は、「日本の文化破壊」であった。
 日本に進駐してきた欧米を核とする国際連合軍(UN)は、精神破壊工作として、日本人が長年培っていた精神生活を崩しにかかった。そこで日本人に培養したのが、「民主主義」という社会システムだった。
 民主主義の理念である、自由・平等・博愛の精神は、人間の人権という、個人の守るべき道理を教えたが、一方で民主主義信仰という一種の宗教を植え付け、これを日本人の脳裏に悉(ことごと)く培養した。

 昨今の「人権、人権」と、ヒステリックに叫ばれる元凶が、ここに由来する。
 この民主主義信仰の要旨は、眼に見えない神仏を崇(あが)めるよりは、実際に眼に見える「生きた人間を崇めよ」ということだった。
 では、一体誰を崇めるのか。

 それは、群れを率いる「リーダを崇めよ」という、一種の選民意識から端を発した信仰である。個人の人権は、群れを率いる欧米風の思考によって、初めてその機能を発揮する。眼に見えない神仏や、心というものを信仰するのでなく、個人の自由、個人の人権、個人の平等を信仰せよということなのである。
 こうして日本人は、欧米の唯物策略に嵌(はま)り、心を大事にする世界から、金や物を崇める世界へと誘導された。

 そして、「民主主義は何だったのか」と反芻(はんすう)すれば、この信仰は、心という精神世界を一蹴して、人間の肉体と、自分の所有する物財の所有量で差別化する「自分中心」の世界へと導いただけだった。昨今の悪しき個人主義は、ここに由来する。
 しかし、こうして物質世界の真っ只中に放り出された日本人は、資本主義とドッキングした民主主義の中で、「自分中心」という悪しき個人主義に趨(はし)り、あくなきエゴイズムを謳歌(おうか)している。そして、多くの物を所有し、多くの金を所有する人が一番偉いという考え方が生まれた。

 その一方で、神を信じず、仏を信じず、不可視世界を信じず、ひたすら自己中心主義に趨(はし)り、可視世界の物質だけしか信じない人が、やがて歳をとり、死に直面したら、一体どうなるだろうか。
 人間は、生まれた以上、一度は死ななければならない。死こそ、万人に平等であり、人権以上に、この平等は徹底されている。人が平等なのは、民主主義のいう論理が平等ではない。死において、人は平等なのである。
 この平等は奇妙な現象を作る。これまで自分は、世の中で一番偉いという考え方で汚染されていた権力者や大富豪は、自分の死に直面して戸惑いを感じる。

 しかし、死に直面して戸惑いを感じるのは、何も金持ちばかりっではない。物質界で肉体的に恩恵を預かった者、総てが、戸惑いを感じる筈である。理財の才があって金銭を蓄えた者ばかりでなく、肉体的な才能や素質に恵まれたスポーツ選手、力士やレスラーなどの格闘選手、顔や声を売り物にしてきた映画俳優や歌手、その他の芸能人も、自分がしに直面すれば、当然そこには戸惑いが起る。物質界の恩恵に預かってきた者は、自分が幾ら有名人であるからといって、死からは決して逃れることは出来ない。

 大金持ちであっても、政府要人のVIPのお偉方でも、逃れられない死に直面した環境下では、最も惨めな人種と成り下がる。彼等は、彼等自身の為に、これまで豪華な生活を約束してくれた多くの物質的な財産を、自ら失うことになるからである。
 その時点で、人間は「最後は皆同じ」ということを気付かされるからである。彼等は自分の死に直面したとき、それを素直に認めようとしない。彼等は最終段階まで徹底的に、金に物を言わせて闘う。豪華ホテル並みの特別個室に横たえようとするのも、そうした現れであろう。

 しかしそれは、そしうした事が、屡々(しばしば)最終的に、彼等自身が決着をつけねばならない死生観の解決のチャンスをも失わせる結末を招く。拒絶と怒りを露(あらわ)にする。皮肉なことに、死に直面して、死の瞬間に最も孤独な絶望を味わうのは彼等なのだ。

 死の平等において、「人が死ぬ」ということは、逆転できない事実であるが、問題は「人の死」よりも、死ぬ時機(とき)「よりよき死に方」である。金・物・色に奔走する現代人は、一体どのような死に方を考えているのだろうか。
 そして、人の死は大きく分ければ、自然死事故死であり、事故死こそ、古来より言われてきた「横死」ではなかったか。

 

●人間が一生懸命に生きるのは、「よりよき死」を迎える為である

 現代日本人は、現代栄養学の食指針に従って日常生活を送り、その中でも「肉はスタミナのもと」の神話に、長い間、振り回されている。
 一方、ボケ老人になるのは、脳の腫瘍・炎症、中毒(飲食物または内用・外用の薬物などの毒性によって生体の組織や機能が障害する毒性で、食品ばかりでなく、アルコール・タバコ・麻薬等のドラッグ)・血液循環障害(動蛋白である食肉・乳製品・卵による)などに由来する。

 特に、老人性痴呆(アルツハイマー病。ドイツの神経病学者アルツハイマー(A. Alzheimer1864〜1915)がはじめて報告)は食生活の誤りから起り、麻痺性痴呆は内臓機能の老化が早まった為に起る現象である。
 アルツハイマー型痴呆症は、既に40代の初老期に発病が始まり、記銘力の減退、知能の低下、高等な感情の鈍麻、欲望の自制不全、気分の異常、被害妄想、関係妄想などがあって、やがて高度の痴呆に陥り、全身衰弱で死亡する恐ろしい病気である。

 また、老人性痴呆の場合、脳の萎縮に基づく老年性精神病を指し、病変はアルツハイマー病と本質的な差がなく、アルツハイマー型老年痴呆ともいう。
 現代精神医学では、「老人に発生する知的精神機能の減退」と定義されているだけで、極め手となる効果的な治療法は、まだ発見されていない。
 要するに人間の脳は、食生活の誤りによって、血液のサラサラ状態が失われ、血行不全となり、その為に脳の萎縮が起り、脳の退化と共に、肉眼で見えない邪気に憑衣(ひょうい)され、アルツハイマー型老年痴呆へ進行すると考えられる。これはまさに、「進行ガン」が人間に取り憑(つ)いて、深刻な破壊状態を起こすのに酷似している。

 動蛋白食品に含まれる蛋白質は、それ自体が、体蛋白になるのではない。一旦、炭水化物に還元されて、体蛋白を造る素材として使われる。しかし、草食動物の形体を持つ人間は、これを還元する酵素を持たない。その為に、人間が、食肉や乳製品、卵や大型魚類(マグロのトロ身など)の動蛋白食品を食べると、これ等の食品は腸内に停滞し、異常醗酵を起こして毒素を放出する。これが「血液が汚れる」という現象である。

 血液が汚れると、単なる血液が酸性になるだけでなく、酸毒化することになる。血液が酸毒化すれば、細胞機能が混乱を来し、大量に生成された老廃物が組織に停滞して、炎症を起こしたり、粘膜を刺戟(しげき)して異常分泌を起こし、これが組織全体を血行不全にしたり、破壊を起こすのである。

 これこそが、痴呆の血液汚染の病因であり、これが起因して、感情面や意欲面の低下が顕われ、これまで個人が獲得した知的精神的能力が失われて、元に戻らない状態になるのである。
 仮に、薬漬けにされて、長寿を保ったとしても、既に、人間としての役割は終っているのである。

 では、植物状態のままで、あるいは痴呆のままで死に、「霊界入り」した人間は救われるのか。
 寝た切りになって、わが身を思うように動かせなくなったり、更に、重病に罹(かか)り、意識もなくなり、生命維持装置の世話になって、その上、あれこれと投与されて薬漬けにされ、一年、二年、三年と病院生活を送って居る人は、果たして「霊界入り」した場合、その人の魂は救われるのか。

 「死ねばそれまでよ」と思うのは、その人の勝手である。死後の生活を信じなければ、またそれはそれで、一つの人生の考え方である。あえてこれに注釈をつける気持ちはない。
 しかし、重病を患って植物状態になり、長期の病院生活を送る人は、その殆どが60代後半〜70代、80代の人である。そして、入院から数年を経ても、意識がないまま、生命維持装置だけで生きている人である。

 意識も、意思表示もなく、骨と皮ばかりになり、生命維持装置だけで生かされ、こうした状態にありながら、この状態から抜け出せないのである。はっきり言って死に事もできないのである。
 またこうした人が、その後、恢復(かいふく)して社会に復帰したという話は、まだ一度も聞いた事がない。また、この状態から蘇(よみがえ)り、今では元気に働いているなどと言う話も、一度も聞いた事がない。では、何の為に入院生活を続けているのだろうか。何の為の闘病生活なのだろうか。あるいはこれは恢復の見込みがある闘病生活なのであろうか。

 結局、これらの人は、重病に罹(かか)り、意識や意志表示を失った時点で、既に、人間としての役目は終えているのである。また、生命活動も、その時点で終焉(しゅうえん)を迎えているのである。高齢者を生き延びさせる医療技術ばかりが発達して、不健康に、不自然に生き延びさせる自然の生理に反した、この技術は何の目的を持っているのだろうか。然(しか)も、人間としての生命活動は終っているにも関わらず、にである。

 また、生命維持装置だけで生かされている肉体は、その後の精神世界への移行を迎えた場合、一体その魂はどうなるのであろうか。
 肉体が終焉を迎え、この状態から「霊界入り」した魂は、一体どうなるのであろうか。
 「死ねばそれまでよ」と、頑(かたく)なに信じている人は、死んだ時点で、それより先の意識はないから案ずる事はない。
 ところが、一方で死後の意識を信じる人がいる。この信仰を、非科学的と一蹴(いっしゅう)することは出来まい。

 植物状態になり、生命維持装置で生きている人は、喩(たと)え、脳の働きは停止されていても、また、意識や意志がなくても、心臓はまだ動き、呼吸もしている。つまり、精神世界の中では、当人の魂は生息しているのである。心臓と意識体を司る霊魂が繋(つな)がったまま、生き続けているのである。
 だが、此処には問題がある。

 それは、植物状態にある人の魂は、こうした状態に困惑しているのである。生体の中に存在する命体は、魂として、人間が得た智慧(ちえ)や肉体感覚、意識や意志を通じて、自然界にある智慧を吸収して、生・老・病・死の四期を通じて、歓喜を感得し、経験や体験を通して賢くなり、これを歓喜のエネルギーにして、霊界入りの準備を整えているのである。
 しかし、植物状態にある人の魂は、人間としての意識も意志も、なくなってしまった、生きている肉体であり、魂にとっては、何の意味も持たない存在である。呼吸する「生きる屍(しかばね)」に過ぎない。

 この為、植物状態の肉体に居る魂は、霊界生活の為に、何の準備も整えられない。準備を整えられないばかりでなく、この現状に困惑しつつ、体内を右往左往するばかりなのである。その上、こうした何の意味もない、物体の容器の中に詰め込まれ、植物状態になった時から、二年も三年も閉じ込められて、抜け出せず、金縛(かなしば)り状態にされているのである。これは、故障して動かなくなった車に、二年も三年も閉じ込められて、外に出られず、行動を束縛されている状態に酷似する。

 自由が失われている為、まず、霊界入りに関する情報収集が出来ず、物事の判断が出来ず、肉体が生きている間は、死ぬ準備すら出来ないのである。ボケ老人になったり、植物状態になれば、その魂は、肉体の中をただ右往左往して、絶望と不安の中を彷徨(さまよ)わなければならなくなる。

 では、こうした元凶は何処に由来するのか。
 運動不足や不自然な食べ物が、環境悪化の一因となり、文明生活に帰属する習慣が生活習慣病を招き、精神世界の無視が畸形を作り出して、社会全体を歪めてしまっているのである。それが心の側面で、頑固で、怒りっぽくて、あつかましく、嫉妬深く、過去の栄光にこだわり、愚痴っぽくなるという老人像を描き出し、これが老人ボケの初期症状を作り出しているのである。
 こうした人生を生きてきた老人は、死の影に脅かされ、死生観が解決できず、悲惨な死を迎えなければならなくなるだろう。

 そして、絶望と不安の中で、一年、二年、三年と過ごした植物状態、あるいは痴呆で過ごした人が死を迎えた場合、その魂は、ここで肉体から解き放たれて、外に出ていくのであるが、この場合、泥丸(でいがん)部分にある「百会(ひゃくえ)」の経穴(つぼ)のブラフマは開かず、会陰(えいん)から外に洩れて行くことになる。会陰から霊魂が抜け出して、行き着いた先は、確かに極楽であろう。しかし、この極楽は、誰もが向かう、「極楽と言う名の地獄」である。

 では、植物状態や痴呆で死んだ人が、苦界の地獄でなくて、何故、極楽なのか。
 人間が、自分の過失か、不注意か、先入観から起った間違いか、勉強不足か、経験不足かで、植物状態になり、あるいは痴呆になって、その後、一年、二年、三年と肉体だけが生き続け、そして死んだ場合、その当人は意識も、欲望もないわけであるから、悪想念で汚染された精神世界へ流れ込むことはない。

 しかし、生前、霊界の存在を識(し)る、心の準備が出来なかった為に、「極楽と言う名の地獄」以下の階層に霊界入りすることもない。
 したがって、このような植物状態や痴呆の状態で、魂が霊界入りした場合、霊界入りした直後は、途方にくれ、何十年も、何百年も、虚しい漂泊を続けなければならないことだけは覚悟しなければならないだろう。ここに現代人が解決できない「憂鬱」がある。


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