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志高く、より良く生きるために

■ 壮年ならびに高齢者のクラス■
(そうねんならびにこうれいしゃのくらす)

晩年期を迎えて、なおも元気に、後進の指導に当たる赤間道場長の渡辺茂彦師範。

 合気武術の修行は、一切の「こだわり」を捨てることから始まる。人生の終盤戦にかかって、もはや若者と競い合って、何の欲望を満足させようと考えるのか。一切は「空」なのだから、こうした柵(しがらみ)に囚(とら)われることこそ、愚かの一語に尽きるのではないか。何事も、囚われず、さらりと捨てることこそ、本来の「心の佇(たたず)まい」があるのではあるまいか。

●健全の定義を考える

 では、一体「健全」とは、どういう事を言うのであろうか。
 心と身体が、すこやかで、異常の無い状態を「健康」と言うそうだが、「心がすこやか」あるいは「身がすこやか」とは、一体どういう状態を言うのであろうか。

 また本当に、「肉体的に強い」ことだけが、優れた体躯(たいく)と言えるのだろうか。あるいは優れた精神力の持ち主が、逆も真なりの喩(たと)えならば、その次元こそが、「肉体が優れている」と言えるのであろうか。

 ここで成立する図式は、真偽を判定する事のできる命題内容として、命題論理(propositional logic)を用いるならば、例えば、ここに「である」という定理があるとしよう。または、「ならばである」という判断があるとしよう。
 これに対し、「である」、「ならばである」という判断を原判断の「逆」というが、原判断は「真」でも、「逆」は必ずしも「真」ではない場合がある。これを「逆定理」という。

 いま、「健全な精神(Sは、健全な肉体(P)によって造られる」という命題に対し、「健全な肉体(P)ならば、健全な精神(Sである」という判定は正しいだろうか。
 肉体だけを論じて、「健全な肉体」あるいは「健全であると思われる肉体」の持ち主は、五万といよう。その五万といる健全な肉体の持ち主や、健全であると思われる肉体の持ち主は、その精神状態が、総(すべ)「異常なし」と言えるだろうか。心身ともに、すこやかと言えるのだろうか。

 もし、これが「真」ならば、精神病は発病しない事になる。誰もが健全な肉体の持ち主であれば、精神異常者は一人もいない事になり、また、世に「肉体労働者」と数えられる人は、五万といようが、この肉体労働者群は、総て健全な精神の持ち主であるから、肉体度労働者を多く抱える国は、人格者だらけの国でなければならない。
 ところが、そうではない。

 また、「健全」というのは、「邪(よこしま)な気持ちがない」という事であり、物事に、欠陥や偏(かたよ)りがないことを指す。一般的な流言としては、「健全な娯楽」とか、「健全なる財政」などと表されて使われる。
 しかし果たして、この世の中に「健全な娯楽」とか、「健全なる財政」などと言われるものが本当に存在するのだろうか。

 更に、「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」【註】mens sana in corpore sano)と流言した、ローマの詩人ユウェナリスの『諷刺詩集』から引用した、この願望的命題は、現代の世に於いて、「逆」が「真」になり得るだろうか。
 ユウェナリスの『諷刺詩集』の本来の意味は、「健康な身体に宿る健康な精神を願う」というものだった。つまり、願望であり、定理ではない。
 それがいつのまにか、「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」とか、「健全な精神は、健全な肉体によって造られる」と言われるようになってしまった。

 では、「健全なる身体」あるいは「健全なる肉体」というのは如何なるものか。
 これは「体力」という、身体の力、あるいは身体の作業や運動の能力と指すものだろうか。

 もし、そうだとすると、強い体力の持ち主でも、伝染病地域に居合わせた場合、感染して、自然治癒力が働かないまま斃(たお)れることがある。一方、体力がなくても、伝染病地域に居ながら、伝染病に感染し、その後、直ぐに恢復(かいふく)して、健康体に戻れる人が居る。一体この差は、何処から来るものなのであろうか。

 こう考えてくると、「体力」と「健康体」は、イコールでないことが分かる。つまり、伝染病地域で感染しても直ぐに恢復する、この違いは、「体質の良さ」が決定していることが分かる。
 疾病に対する抵抗力するだけの体力だけでは駄目で、疾病から治癒(ちゆ)する体質が良くなければ、最終的には治癒しないと言う事が分かる。これが免疫力であり、自然治癒力だ。

 体質が良いとは、「霊的波調(はちょう)の肌理(きめ)が細(こま)かい」という事である。一方、体質が悪いと言うことは、「霊的波調の肌理が粗(あら)い」という事をいう。
 食肉や乳製品などの動蛋白ばかりを摂取すれば、霊的波調の肌理は粗くなる。霊性も低くなる。
 これに対して、玄米穀物等の植物性脂肪を摂取すれば、霊的波調の肌理は細(こま)やかになり、感受性が敏感になり、理解力や記憶力が増して来る。体質もよくなるから、自然治癒力も旺盛で、病気に対して強い体躯を維持することが出来る。

 体質の良さは、肉体を酷使して、ハード・トレーニングやスポーツを我武者羅(がむしゃら)に頑張っても無駄である。体質と体力は違うからだ。
 人間は「食の化身」であるのだから、食餌法(しょくじほう)により、体質が決定されてる。したがって、健康で平和な日常生活を営む事が出来るのは、単に、体力だけではない事が分かる。健康体と言う決定は、体質が定める「躰の性質」であり、これが治癒力と共に、健康に大きく関与している。

 ハード・トレーニング的なスポーツは、中年を過ぎた初老を迎えた人、あるいは晩年期にある人には不向きである。「力む」からである。
 西洋式スポーツは、呼吸法の吐納が正しくない為に、心臓に負担をかけ、肥大症になる懼(おそ)れが大である。中年のスポーツ愛好者が、練習中に突然死する実情は、こうした肥大症により、不幸な事故を招くのである。

 そして、ハード・トレーニングや肉体ばかりを重視する格闘スポーツは、柔剣道や空手、相撲をはじめとして、心臓肥大症を招くばかりでなく、力で競い合う相対時の「力み」は、過剰な活性酸素を発生させることになる。
 また、活性酸素は、ストレスなどの精神的な要因ならびに、喫煙や飲酒によっても発生し、放射線や紫外線、農薬や食品添加物によっても発生する。活性酸素を大量に作り出すことが老化と繋(つな)がり、この老化は、また、アルツハイマー型痴呆症をも招く。
 本来、スポーツから受けるイメージは、「健康法のエッセンス」と錯覚しやすい。しかし、無理な、必要発汗量以上の汗をかき、格闘することは、同時に余分な活性酸素も作り出しているのである。これは、中年以上の人には向かないことが一目瞭然であろう。

 アルツハイマー型痴呆症を招く人の多くは、肉を常食とした食事をする、格闘技愛好者に多く見られる。これは呼吸法の誤りなどで、「力んだ」ことが要因となっている。脳内に過酸化脂肪質を溜め込む原因になるからだ。過酸化脂肪質は、資質に活性酸素が結合して発生する物質であるから、活性酸素とかかわっている事が分かる。

 現代は、医学の発達した時代であるが、現代医学をもってしても、アルツハイマー型痴呆症に対して、特効薬が無いというのが実情であり、某著名な武道家やスポーツ選手が、老いて痴呆症になり、その状態のままで死んでいくという、実情を考えてみても、呼吸法を正しく身に付ける事が、如何に大事か分かるであろう。呼吸法を誤れば、血流を逆流させ、血管に負担を掛けるからである。

 特に、「気合」をかける競技武道やスポーツなどの多く見られる。それは力を出す瞬間に、呼気を吐き、「想念が力を入れる」に早代わりし、その直後に瞬間的に「息が止まる」からである。要するに有機呼吸になっていないのである。これにより、脳の血管に圧力がかかり、毛細血管が目詰まりするか、切れて内出血を起すのである。動蛋白摂取過剰は、血液を汚して、ドロドロにし、毛細血管を目詰まりさせるのである。

 そして、現代のこうした実情を考えると、食生活と食への誤りを、再検討し直すことが大事である。
 また、「精神力を強くする」と言う事は、肉体を酷使して、運動量を増やして強化を図ったり、食事による「肉と野菜をバランスよく」等といった、現代栄養学の食指針に随(したが)うだけでは、約束されない事が分かるであろう。

 また現代医学では、健康法の一つとして、「充分な睡眠」を上げているが、充分な睡眠をとり過ぎて、いつも眠たくなるような睡眠状態を作り出してしまう。それは、かえって脳を汚染させ、退化させて行くことになる。

 特に、「力むスポーツや格闘技」をやっている人は、相手と対峙(たいじ)するとき、闘志を燃やす。闘志とは、言葉の上ではかっこよく聞こえるが、その心理状態は、「負けん気」であり、「怒り」であり、「感情の興奮」であり、「緊張の連続」であり、こうした緊張状態が続くと、交感神経が緊張して、ホルモンが分泌される。
 このホルモンは、感情を鎮(しず)める為に作り出され、心拍数や血圧を不安定にさせ、抹消血管を収縮させて、心臓や筋肉の血液の供給を増やして、緊張状態に備え、整える体勢を作る。つまり、毛細血管の回路が塞(ふさ)がれてしまうのである。

 ところが、こうした心理状態には感情が伴っている為、生体の恒常性が乱れ、元に戻す為に、酸素供給機能が作動する。この時に発生した酸素を分解する代謝過程で、活性酸素が発生するのである。
 持続的にストレスを受けた場合も同じであるが、緊張が終わっても、抗体ホルモンが合成する際に、活性酸素が大量に生まれている事になる。その状態で、眠り続け、それ以外の時に緊張が起れば、結局、脳内に過酸化脂肪酸の資質を溜め込んでいる事になり、「長時間の眠り」と共に、脳内を汚染させていることになる。

 

●眠りを探る

 一般に睡眠時間は、7〜8時間と言われているが、これだけ眠ってしまえば「寝過ぎ」である。睡眠は訓練すれば、4〜5時間の短時間で熟睡する事が可能で、これを「短眠術」と言う。

 普通、睡眠には「深いノンレム睡眠」「ノンレム睡眠」「レム睡眠」の三つのパターンがある。
 ノンレム睡眠(non-REM sleep)とは、緩やかな振動数の脳波が現れる睡眠で、レム睡眠以外の睡眠を指し、成人では一夜の睡眠の約80%を占める睡眠である。
 そして、この睡眠の中にも「深いノンレム睡眠」と「ノンレム睡眠」の二つがあり、「深いノンレム睡眠」はメラトニン(melatonin)を分泌し、これは脊椎動物の松果体(しょうかたい)で作られ分泌されるホルモンである。

 外界の光周期情報を体内に伝えると考えられ、人間では深いノンレム睡眠中にメラトニンが分泌され、乳酸などの疲労物質を取り除き、記憶や体力の回復に促進する効果などがあるとされている。

 しかし、単にノンレム睡眠中には、疲労物質を取り除く作用はなく、また、一般に記憶の定着を促すとされているレム睡眠は、殆ど疲労回復効果は皆無だといわれている。したがって、「深いノンレム睡眠」を行うには、どうしたら良いか、というのが「短眠術」の目指すところである。

 だいたい、7〜8時間も寝ないと、「意識がスッキリしない」とか、「寝不足で頭がボーッとする」等は、熟睡時間が短いか、「深いノンレム睡眠」が得られない為に、このような現象を起こしている。要するに、7〜8時間も寝ていながら、「深いノンレム睡眠」を得ていないのである。こうした状態は、内蔵機能の障害を疑うべきである。眠りの機能とは違うところで、障害が起っているのである。

 寝起きが悪い人は、徐波睡眠状態であるノンレム睡眠が、だらだらと続き、熟睡状態が得られていないのである。これが7〜8時間睡眠の元凶をなしている。
 また、過剰な動蛋白摂取と大喰いで内臓を疲弊(ひへい)させては、普段でも眠気に襲われる。これが、悪循環の睡眠となる。
 こうして「充分な睡眠」は、生きながらにして、自らの人体と心を狂わせているのである。

 長寿を全(まっと)うするには、筋力的な肉体運動は老化を早めるばかりでなく、食を大量消費する飽食へと趨(はし)らせてしまう。好きな物を、好きなだけ食べれば、内臓が疲弊(ひへい)状態を起こし、老化が始まる。

 また、中年を過ぎた年齢の人が、無理な筋トレ運動を、自分の肉体能力許容量以上を越えて行えば、至る所に故障が起り、障害だらけとなる。心臓にも大きな負担を伴おう。

 特に、根性一徹主義で、「根性コール」の中で、無理な回数の「腕立て伏せ」を遣(や)ったり、「腹筋運動」「背筋運動」を遣ったり、「スクワット」を遣ったり、「ウサギ飛び」を遣ったり、「重いバーベル」を持ち上げたり、「鉄唖鈴」を振り回すような筋トレに励めば、必ず至る所が故障する。また、筋トレは一瞬、力む為、無呼吸になり、然(しか)も丹田を中心とした呼吸法の吐納(とのう)が停止されて、心臓に負担をかけ易く、心臓肥大症になる懼(おそ)れがある。
 つまり、「力む」ことばかりを遣(や)っていると、心筋梗塞に罹(かか)り易い体質になってしまうのである。高齢者が運動中に突然死するのは、この為である。

 運動する事も、「ほどほど」にしなければならない。そして、肝に命じなければならないことは、「健康な汗」というものは、どのスポーツ種目にも存在しないことだ。

 「汗」を出せば出すほど、体内に必要な塩分を排出していることになる。
 汗は、温度刺激により、汗腺から排出される分泌液であるが、その液中には、ピルビン酸・乳酸・アンモニアなどを含み、塩類のナトリウムが含まれている。ナトリウムは海水中に含まれ、水と激しく反応して、水素を発生するアルカリ金属元素で、食塩として多量に、海中に存在し、総ての生物の必須元素である。したがって、「汗を流す」のも、程々にしなければならない。
 スポーツ健康クラブやスポーツジムで、「爽やかな汗」の一言に騙されないことだ。

 特に、運動について言えば、昨今の日本では、競技としてのスポーツや、競技自体を観戦するスポーツが大流行している。この手のスポーツは若年層に持て囃(はや)され、庶民の運動不足に反比例して、観戦スポーツや競技スポーツは衰退するどころか、興奮して、のぼせやすいサポーターを巻き込んで過熱の一途にある。

 ところが一方、庶民階層に分布する、一般人の日常生活の中の運動量は、車の普及により、減少する傾向にある。ちょっとした処に出かけるにしても車を使い、歩く事を止めてしまっている。自分の足で、歩いたり、走ったりする人が少なくなった。つまり、現代人は「力むばかりの勝敗を争う競技スポーツ」に眼を向けて、それが最強だと信じ、本当の意味で有酸素運動する、日本古来からの伝統武術に眼を向けようとしないことである。
 ここに現代という時代の精神的病巣があり、また、肉体的にもガン発症アルツハイマー型痴呆症などの病因の元凶が横たわっている。

 

●「こだわり」を捨てる晩年の生き方

 現代人は何故、こうも「こだわり」を捨てる事が出来ないのであろうか。
 最近の訝(おか)しな社会現象に、「こだわる」ことが善い事だというような、訝しな風潮が生まれた。
 料理から芸術の世界に至るまで、全てが「こだわり」の極(きわ)みであり、「こだわり」通すことの出来る人が、人生の成功者のように言われている。
 また世間では、安易に、「こだわりの○○」などと言って、こだわることを評価する風潮がある。しかし、これは大きな間違いである。

 料理、芸能、芸術などの世界では、いま「こだわり」が流行語のようになり、広く用いられ、また一般にも広く流布されている。そして「こだわり人」などというと、それは尊敬語のように伝わってくる錯覚を抱かせる。
 また、料理人でも、芸能人でも、芸術家でも、「こだわりの人」などと表されると、これに顔をほころばす人が少なくない。

 しかし、これをよく考えてみると、この手の人は、自分の小さな我(が)に固執し、そこから抜け出せない足掻きの姿があることに気付く。また、それがけ「こだわる人」は、自分自らで未熟者であるということを証明していることになる。要するに、一種の馬鹿だ。馬鹿から抜け出せずに、心の中でも、もがき苦しんでいるのである。

 「こだわり」の心は、「我(が)であり、拘泥(こうでい)であり、小さい事に執着して、融通がきかないことを指す。こうした気持ちに発展すると、勝負にこだわったり、思う所に凝り固まって、人の言に従わない、「ひとりよがり」の、「おのれ」の、窮屈な迷妄の世界に踏み込む結果を招く。
 そして最後には、物事の道理に暗く、実体のないものを真実のように思い込むような暗い、固定観念の殻(から)に閉じ籠(こ)もってしまうようなものだ。
 また、こうした考え方をする人が神経を病み、精神を蝕む、辛い後半の人生を選択しなければならない現実を招くようだ。頑迷は、精神の崩壊を暗示するのである。

 この世の中は、心に描いたものが、そのまま反映される「心像化現象」によって動かされている。したがって、こだわれば、こだわるほど、自らの我の世界に閉じ込められて、その行き着く先は「精神分裂病」という、出口のない迷宮が待ち構えている。
 こだわった挙げ句に辿り着く処は、何人と雖(いえど)も、この迷宮に彷徨(さまよ)う事を免れないだろう。こうした、晩年期の仕上げの時期に、こういう処に迷い込むと、折角の人生に「有終の美」を飾る事は出来ない。

 「こだわり」をさらりと捨てて、心を解き放ち、「こだわり」から解放される次元に到達しなければならない。未熟者こそ、「こだわる」という、心の低い次元に気付くべきであろう。

 日本も、アメリカ並に精神分裂病や神経症が猛烈な勢いで増加する傾向にある。どこの精神病院も満員である。精神病院という迷宮では、「こだわり」を捨てられなかった人で溢れ返っている。最近は、こうした「魔界」に堕(お)ちる人が増えている。
 あなたが、近い将来、こうした病気を発病するか否かは、あなた自身の心の裡(うり)にある「こだわり」を捨てられるか、否かに懸(か)かっているといえよう。

 西郷派大東流合気武術では、「こだわり」のない、何事にも囚(とら)われない境地を説く。自己解放の指導を行いつつ、自他共に共存共栄する精神を学び、相手を受け入れ、育み、成長を期待して行くことに、「歓喜」を体感する指導を行っている。
 のびのびと身体を使えるように引き立て、老若男女が共に集い、共に楽しめる優しい稽古場を主催しているのが、わが流の実情である。

 真の合気を求めて、修行して行くわけであるが、その目的は、人を投げたり、倒したりすることでなく、また、痛めつけることでもなく、相手をこてんぱんに負かし、やりこめて勝つことでもない。合気を求めて修行する姿は、自分自身に勝つ、克己心である。しかし、昨今の武道界を見回すと、こうした克己心を教えている道場は、一部の本格派を除いて、あまり見られなくなった。
 弱肉強食の論理に汚染されて、勝負にこだわるアメリカナイズされた格闘技を、「武道」と称しているところが多いようだ。

 しかし、わが流では目的は、自分自身の生き方を修めることであり、我が身を糺(ただ)す、修身ということに重きを置いている。強弱論に囚われない為である。
 こだわりは、「とらわれ」の心をつくる。心の偏りに悩む人は、既に資本主義の競争原理に汚染された人であるといえよう。こうした人に、自己解放の唯一の拠(よ)り所的な、余裕の一面を所持した人がいるだろうか。

 こうした愚に陥ることなく、心に偏りを作らないことである。基本動作を学ぶと、相対しての「引き立て稽古」になる。自分が、人より一歩先に出る前に、相手を引き合ってて、一歩先に行かせるのである。自分が先に出ようとするから、争いが起る。自分を控えめにして、相手に道を譲ってやれば、万事がうまくいくのである。これを「謙譲」という。

 こうした状態までレベルがアップされると、相手は動きが自由になり、それが一定のリズムを作って躍動している事に気付くだろう。
 それと併せて、自らもその動きは自由になり、やがて心の目が開かれ、心も、のびのびとした自由な心を取り戻す事が出来る。

 ところが、「我」が先走ると、ここに無駄な摩擦が生ずる。この元凶が、国家間では戦争となる。自分だけが正しくて他は間違いというような傲慢(ごうまん)な気持ちになると、当然そこには反論が出てきて、争いが起る。また、強弱を決したくなって、勝って相手を随(したが)わせたくなる。

 人間の心は、もともと自由なものであった。ところが、何事かに囚われ始めた時から、自由な心を失い、我執の「我(が)」に籠(こも)ってしまったのである。また、こうした事が、憂鬱(ゆううつ)を作り出したのだった。病める現代は、こうした側面が恥部として隠れている。

 しかし「我」を捨てる事によって、自由が得られるのである。人は、それを素直に学ぶべきである。人間の人生修行は、常にこの現実の中に、「捨てて行く」というところに、本当の真理がある。これが「こだわり」からの解放だ。
 あなたの心の中に、「こだわり」の種子は、芽生えていないだろうか。

 

●晩年の人生の生き方

 この世のものは、総(すべ)て流転する。刻々と変化をして、その止(とど)まるところを知らない。人間の世も、この中にある。変化という現象界にあって、かつての若者は、歳を重ねて、老齢へと向かう。
 恋を漁(あさ)って、歩き回っていた快楽主義のかつての若者も、時の変化を経て、老人となっていく。かつての若い男女は、世にも素晴らしい異性との出会いを夢見ながら、人生を歩いてきた積りであったが、奇(く)しくも、それは成就せずに終わることが多かった。

 最初は、自分自身の恋愛に対する理解と、恋愛感情そのものを重視した点から、世にも素晴らしい、異性に巡り遭う事を当たり前と考えていたのだが、そうした存在は、遂に最後まで現れなかった。そして自分自身を後姿を振り返ると、あれから十年、二十年、三十年と経っていた。虚しいと思う。
 また、人間の寿命の短いことに悔やまれる。若い時のように、シャカリキに動き回った、あの懐かしい日々も、静かに回想するに帰着した。おそらく、こうしたものが「老い」であろう。

 「老い」を思うにつけ、老年の自然条件があることに気付く。老いに向かっているということは、人生の生・老・病・死の四期を顧みて、死に近づくほど、一個の人間が、新しい二つの固体に分かれていくような錯覚に陥る。それはいつまでも、健康で長生きしたいという自分と、歳には勝てず、死に向かって朽(く)ち果てていく、自分がいることに気付く年齢でもある。

 地球上の生物は、それぞれに種類があり、それぞれに異なった寿命を持っているが、亀や鸚鵡(おうむ)は200年近く生きるといわれている。 そして彼等は、ある年齢に近づくと、老境に入るといわれている。

 一方、こうした生物が200年も生きるのに対し、僅か2時間でその生涯を終える、ウスバカゲロウのような昆虫もいる。
 また亀や鸚鵡が200年も生きるのに、バイロンやモーツァルトは、僅かに30年ほどの人生だった。
 最近の日本人の一般的へ平均寿命を見ても、文明の進んだ今日でさえ、まだ百歳には手が届かない。世界一の長寿国日本では、男が78.4歳、女が85.3歳である。まだまだ百歳には届かない。

 しかし、世界一の長寿国日本も、その医療現場での長寿の裏側には、寝たっきり老人や植物状態の老人も含めた、病める長寿の隠された一面がる。これは薬漬けにされ、生命維持装置の手を借り、長寿村での老人が健康に、元気に働いていることとは大いに異なる。
 また、薬漬けや生命維持装置の世話にならなくても、既に恍惚状態に入って、至る所を徘徊(はいかい)する老人もいる。したがって、長寿村にいる健康的な老人と、既に人生を終えている老人を比較して、日本が世界一の長寿国であると豪語することは出来ない。
 この辺も謙虚に捉えて、今日の医療が齎(もたら)す、残酷な長寿は、実は本当の長寿ではないことを認識するべきである。

 今からおよそ百年前、文明の進んだ国では、平均寿命が60歳前後であったという。その上、戦争もあり、革命もあり、衛生上の問題もあって、健康に人生を全うできる寿命は、おおよそ60歳であったという。
 しかし、それより百年後の現代はどうだろうか。百年前の60歳まで生きられずに、病気で斃(たお)れていく人も、決して少ないとはいえないではないか。

 例えば、ガンを発症し、これを現代医学の慢性病対策の最新療法を用いたとしても、「5年生存率」の枠で追跡調査すると、その殆どが5年以内に悉(ことごと)く死に絶えているではないか。
 また、60歳以上の寿命を経ても、その人が健康的で、矍鑠(かくしゃく)とした老人であるとは限らない。

 寝たっきり老人や植物状態でないとしても、アルツハイマー型痴呆症などを患(わずら)っている人は、その精神において健全性が失われ、退職後に精神分裂病などに襲われる高齢者を見ても、仮にその病気が一時的に恢復(かいふく)したとしても、その後は精神安定剤の投与を生涯受け続けなければならない。五体が満足に動く状態であっても、精神が病めば、人間としての機能は失われていることになる。

 かつて南洋の島の土着民の間に、歳をとった高齢者をその後、生きるに値するか否かを判定する資格審査があったという。この審査には、村人全員が立ち合い、審査される老人を一番背の高い椰子(やし)の木に登らせて、頂きにしがみつかせおいて、全員で椰子の木を揺すぶったという。ある一定時間、しがみついていれば、生きる資格があるとされ、もし木から落ちようものなら、その場で殺されたという。
 つまり、この審査は死刑判決を下す裁判であり、同時に刑を執行する役目も持っていたのである。

 「何と乱暴な審査ではないか」と非難の声も上がろうが、今日、このような野蛮なことは行われていない筈であろう。しかし、この野蛮な審査は消滅したとはいえ、私たちの心の中には、これと同じ「椰子の木」を持っているのではあるまいか。

 企業においても職能試験というものがあり、数年に一度定期的にこれを受けねばならず、パイロットや航空関係者にも、こうした定期的な資格審査がある。 また、教員にも職能審査を課せる義務化が生まれた。職能を審査するとは、一種の人生での試練というより、「もう、あいつはダメだ」と烙印を押す、死刑判決のようなものである。審査され、その結果を見て、死刑が宣告される、あの南洋の島の「椰子の木」ではないか。

 この「椰子の木」の物指しは、もしかすると、既に老人にも当てて、その資格を計測しているのではないだろうか。現代とは、そんな時代ではないか。
 誰もが、老いを嫌がり、老いることを不名誉と思う時代になりつつある。

 かつて中国のかの地では、老人を「白翁」と賞賛して、長老として尊敬した風習があった。また、当時の人々は、自分の頭が白髪で覆われ、老いていく自分の姿に誇りを持っていた。老人こそ、偉さの象徴だった。物知りと、大勢から大変な尊敬を受けていた。
 「頒白(はんぱく)の者道路を負載せず」という故事は、ここからでたのであり、これこそ若者が長き経験者に対し、素直に感じる率直な感想であった。
 だから「若いですね」などといわれることを非常に嫌っていた。「若いですね」などといわれて喜ぶ高齢者など一人もいなかった。

冬とは、寒々とした「冬」のことではなく、新たな力が養われる「殖(ふ)ゆ」なのだ。白い雪原は歳を老いて頭に被った白髪であり、頒白であり、この「白」の象徴こそ若者に尊敬された「白翁」ではなかったか。

 ところが、昨今はどうだろうか。
 「あなたは随分と年寄りですね」などというと、逆に怒りを買われるではないか。憤慨(ふんがい)するではないか。
 逆に「お歳に似合わず、随分と若いですね」などと誉(ほ)めそやすと、「いや、それほどでも」と一応は謙遜しながらも、それに顔をほころばし、喜々とする中年以上の者が多いではないか。
 「若いですね」と云われて、「オレがそれほど青二才で、馬鹿に見えるか!」と怒る人などいないであろう。

 本来「若いですね」は、「あなたは学がなく、随分と無学で、経験も乏しく、本当に馬鹿ですね」と言われているのに等しいのだが、これを「若いですね」といわれて大喜びする人が殆どである。「若いですね」といわれて、自慢するのに男女の別はない。

 見方を変えれば、それほど現代人は、古代人に比べて、表皮的で、「馬鹿な人種」といえるだろう。そうした馬鹿が殖(ふ)えるのも、現代という時代の特徴である。

 歳をとった人は、男にしても女にしても、若者から愛される人は少ない。除(の)け者にされ、血の通った親族であっても、遂に最後は、老人養護施設という体裁の良い「姥捨て山」に捨てられる。何週間かに一回かは、自分の子供や孫が訪ねてきても、それは自分の蓄えた資産を充(あ)てにしてのことで、訪ねて行く方も、死ぬまでの我慢だという心の見え隠れが隠せない。それだけ老人は、尊敬されない不要物と成り下がっている。

 しかし、こうした現実を作ったのは、実は老人自身であり、自分の子供や孫には責任がない。子供は親の背中を見て育つと言う。かつて老人が、子供の親であったとき、自分の親もこのように扱ったのではなかったか。その仕打ちが今現れただけのことである。子供は、その親のすることを見て育ち、自分が親になった今、同じ事を、老人にしているだけのことである。

 人間は、「自分の顔に責任を持て」という。しかし、責任が持てようもない状態が「老人の顔」ではないか。人間は歳をとれば、顔の至る所に老人斑(ろうじんはん)ができ、皺(しわ)だらけになり、欠点が殖(ふ)えるのと同じく、精神上にも欠点が殖え始める。
 新時代の思想や考え方に、こなすだけの力がなく、それに同化することが出来ない。中国やインドの故事を集めた『童子教』では、「郷に入っては郷に従え」というではないか。
 しかし、老人はこの教えの本当の意味が分からない。嫁姑(よめしゅとめ)の問題もここから起る。同化することが出来ないから、その反撃として依怙地(いこじ)になる。自分が働き盛りだった時分の偏見に固執し、その考え方を押し通そうとする。経験を鼻にかけ、どんな難問でも解決できると思い込んでいる。つまり、この正体こそ「老い」である。

 では、こうした老いどう考えればよいのか。
 トルストイの『戦争と平和』を読まれた方ならご存知と思うが、この中に、老境に達した老婦人のことが描写される一節がある。

 「息子と良人を失って以来、彼女は自分が何も意味も目的も持たない、偶然この世に置き忘れられた人間であるかのように感じられるのだった。物は食べてはいた。物を飲んではいた。眠ってはいた。歳をとってはいた。しかし、生きてはいなかった。何一つ生きている感じをを残してはいなかった。彼女が生活に求めていたものは、ただ静かにしていることだけだった。それを死に見出すほかなかった。しかし、死にまでは生きなければならなかった。生きていく力を費やさねばならなかった。……(中略)……彼女は食わねばならなかった。眠らねばならなかった。考えねばならなかった。泣かねばならなかった。話をせねばならなかった。働かねばならなかった。それというのも、ただただ、胃があり、脳髄があり、筋肉があり、神経があり、肝臓があるからだけのことであった」

 こんな寂しい描写があった一節を、読者諸氏は覚えているだろうか。
 この描写が、実に哀れで、寂寥(せきりょう)を感じさせるのは、人間が目標を失って歳をとると、生きる現実の中に、凛々(りり)しさが失われることである。また、人間味をも失った老人に成り果てることなのである。また、これが別の角度から見る「老い」である。

 現代は、多難な時代に生活基盤が築かれている。しかし、「多難」を頭から被らねばならないのは、今から死んでいく、老人ではなく、むしろ若者や、次世代の子供達である。
 老年期に達すると、若者のように物狂おしい恋愛から解放されるばかりでなく、本来の固執する我(か)から解放されて、長い未来の責任からも解放されるのである。この点が、若者や次世代の子供達とは大いに違う点である。

 とはいっても、年甲斐にもなく、異性に猛り狂う馬鹿もいようし、金や物に固執する業(ごう)突く張りもいるにはいよう。
 しかし、老いて年齢を重ねるということは、無私無欲になって、一切から解放されることなのである。その意味からすれば、青少年の若さを羨(うらや)まずに済むし、むしろこれから先、荒波を乗り越えねばならない青少年を気の毒に思うくらいの老境に至る筈である。

 晩年期は、一応に与えられた楽しみが若干減って、それを名残惜しく思わなくても、少しも苦にならず、残されているだけの楽しみを、身に染みて味わう人達こそ、自らの「死生観」に決着をつける真の姿であり、老いて残されている「最後の人生の課題」に取り組むのが、つまり高齢者の人生の生き方といえるのではあるまいか。


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