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●健全の定義を考える では、一体「健全」とは、どういう事を言うのであろうか。 また本当に、「肉体的に強い」ことだけが、優れた体躯(たいく)と言えるのだろうか。あるいは優れた精神力の持ち主が、逆も真なりの喩(たと)えならば、その次元こそが、「肉体が優れている」と言えるのであろうか。 ここで成立する図式は、真偽を判定する事のできる命題内容として、命題論理(propositional
logic)を用いるならば、例えば、ここに「SはPである」という定理があるとしよう。または、「SならばPである」という判断があるとしよう。 いま、「健全な精神(S)は、健全な肉体(P)によって造られる」という命題に対し、「健全な肉体(P)ならば、健全な精神(S)である」という判定は正しいだろうか。 もし、これが「真」ならば、精神病は発病しない事になる。誰もが健全な肉体の持ち主であれば、精神異常者は一人もいない事になり、また、世に「肉体労働者」と数えられる人は、五万といようが、この肉体労働者群は、総て健全な精神の持ち主であるから、肉体度労働者を多く抱える国は、人格者だらけの国でなければならない。 また、「健全」というのは、「邪(よこしま)な気持ちがない」という事であり、物事に、欠陥や偏(かたよ)りがないことを指す。一般的な流言としては、「健全な娯楽」とか、「健全なる財政」などと表されて使われる。 更に、「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」(【註】mens
sana in corpore sano)と流言した、ローマの詩人ユウェナリスの『諷刺詩集』から引用した、この願望的命題は、現代の世に於いて、「逆」が「真」になり得るだろうか。 では、「健全なる身体」あるいは「健全なる肉体」というのは如何なるものか。 もし、そうだとすると、強い体力の持ち主でも、伝染病地域に居合わせた場合、感染して、自然治癒力が働かないまま斃(たお)れることがある。一方、体力がなくても、伝染病地域に居ながら、伝染病に感染し、その後、直ぐに恢復(かいふく)して、健康体に戻れる人が居る。一体この差は、何処から来るものなのであろうか。 こう考えてくると、「体力」と「健康体」は、イコールでないことが分かる。つまり、伝染病地域で感染しても直ぐに恢復する、この違いは、「体質の良さ」が決定していることが分かる。 体質が良いとは、「霊的波調(はちょう)の肌理(きめ)が細(こま)かい」という事である。一方、体質が悪いと言うことは、「霊的波調の肌理が粗(あら)い」という事をいう。 体質の良さは、肉体を酷使して、ハード・トレーニングやスポーツを我武者羅(がむしゃら)に頑張っても無駄である。体質と体力は違うからだ。 ハード・トレーニング的なスポーツは、中年を過ぎた初老を迎えた人、あるいは晩年期にある人には不向きである。「力む」からである。 そして、ハード・トレーニングや肉体ばかりを重視する格闘スポーツは、柔剣道や空手、相撲をはじめとして、心臓肥大症を招くばかりでなく、力で競い合う相対時の「力み」は、過剰な活性酸素を発生させることになる。 アルツハイマー型痴呆症を招く人の多くは、肉を常食とした食事をする、格闘技愛好者に多く見られる。これは呼吸法の誤りなどで、「力んだ」ことが要因となっている。脳内に過酸化脂肪質を溜め込む原因になるからだ。過酸化脂肪質は、資質に活性酸素が結合して発生する物質であるから、活性酸素とかかわっている事が分かる。 現代は、医学の発達した時代であるが、現代医学をもってしても、アルツハイマー型痴呆症に対して、特効薬が無いというのが実情であり、某著名な武道家やスポーツ選手が、老いて痴呆症になり、その状態のままで死んでいくという、実情を考えてみても、呼吸法を正しく身に付ける事が、如何に大事か分かるであろう。呼吸法を誤れば、血流を逆流させ、血管に負担を掛けるからである。 特に、「気合」をかける競技武道やスポーツなどの多く見られる。それは力を出す瞬間に、呼気を吐き、「想念が力を入れる」に早代わりし、その直後に瞬間的に「息が止まる」からである。要するに有機呼吸になっていないのである。これにより、脳の血管に圧力がかかり、毛細血管が目詰まりするか、切れて内出血を起すのである。動蛋白摂取過剰は、血液を汚して、ドロドロにし、毛細血管を目詰まりさせるのである。 そして、現代のこうした実情を考えると、食生活と食への誤りを、再検討し直すことが大事である。 また現代医学では、健康法の一つとして、「充分な睡眠」を上げているが、充分な睡眠をとり過ぎて、いつも眠たくなるような睡眠状態を作り出してしまう。それは、かえって脳を汚染させ、退化させて行くことになる。 特に、「力むスポーツや格闘技」をやっている人は、相手と対峙(たいじ)するとき、闘志を燃やす。闘志とは、言葉の上ではかっこよく聞こえるが、その心理状態は、「負けん気」であり、「怒り」であり、「感情の興奮」であり、「緊張の連続」であり、こうした緊張状態が続くと、交感神経が緊張して、ホルモンが分泌される。 ところが、こうした心理状態には感情が伴っている為、生体の恒常性が乱れ、元に戻す為に、酸素供給機能が作動する。この時に発生した酸素を分解する代謝過程で、活性酸素が発生するのである。
●眠りを探る一般に睡眠時間は、7〜8時間と言われているが、これだけ眠ってしまえば「寝過ぎ」である。睡眠は訓練すれば、4〜5時間の短時間で熟睡する事が可能で、これを「短眠術」と言う。 普通、睡眠には「深いノンレム睡眠」「ノンレム睡眠」「レム睡眠」の三つのパターンがある。 外界の光周期情報を体内に伝えると考えられ、人間では深いノンレム睡眠中にメラトニンが分泌され、乳酸などの疲労物質を取り除き、記憶や体力の回復に促進する効果などがあるとされている。 しかし、単にノンレム睡眠中には、疲労物質を取り除く作用はなく、また、一般に記憶の定着を促すとされているレム睡眠は、殆ど疲労回復効果は皆無だといわれている。したがって、「深いノンレム睡眠」を行うには、どうしたら良いか、というのが「短眠術」の目指すところである。 だいたい、7〜8時間も寝ないと、「意識がスッキリしない」とか、「寝不足で頭がボーッとする」等は、熟睡時間が短いか、「深いノンレム睡眠」が得られない為に、このような現象を起こしている。要するに、7〜8時間も寝ていながら、「深いノンレム睡眠」を得ていないのである。こうした状態は、内蔵機能の障害を疑うべきである。眠りの機能とは違うところで、障害が起っているのである。 寝起きが悪い人は、徐波睡眠状態であるノンレム睡眠が、だらだらと続き、熟睡状態が得られていないのである。これが7〜8時間睡眠の元凶をなしている。 長寿を全(まっと)うするには、筋力的な肉体運動は老化を早めるばかりでなく、食を大量消費する飽食へと趨(はし)らせてしまう。好きな物を、好きなだけ食べれば、内臓が疲弊(ひへい)状態を起こし、老化が始まる。 また、中年を過ぎた年齢の人が、無理な筋トレ運動を、自分の肉体能力許容量以上を越えて行えば、至る所に故障が起り、障害だらけとなる。心臓にも大きな負担を伴おう。 特に、根性一徹主義で、「根性コール」の中で、無理な回数の「腕立て伏せ」を遣(や)ったり、「腹筋運動」や「背筋運動」を遣ったり、「スクワット」を遣ったり、「ウサギ飛び」を遣ったり、「重いバーベル」を持ち上げたり、「鉄唖鈴」を振り回すような筋トレに励めば、必ず至る所が故障する。また、筋トレは一瞬、力む為、無呼吸になり、然(しか)も丹田を中心とした呼吸法の吐納(とのう)が停止されて、心臓に負担をかけ易く、心臓肥大症になる懼(おそ)れがある。 運動する事も、「ほどほど」にしなければならない。そして、肝に命じなければならないことは、「健康な汗」というものは、どのスポーツ種目にも存在しないことだ。 「汗」を出せば出すほど、体内に必要な塩分を排出していることになる。 特に、運動について言えば、昨今の日本では、競技としてのスポーツや、競技自体を観戦するスポーツが大流行している。この手のスポーツは若年層に持て囃(はや)され、庶民の運動不足に反比例して、観戦スポーツや競技スポーツは衰退するどころか、興奮して、のぼせやすいサポーターを巻き込んで過熱の一途にある。 ところが一方、庶民階層に分布する、一般人の日常生活の中の運動量は、車の普及により、減少する傾向にある。ちょっとした処に出かけるにしても車を使い、歩く事を止めてしまっている。自分の足で、歩いたり、走ったりする人が少なくなった。つまり、現代人は「力むばかりの勝敗を争う競技スポーツ」に眼を向けて、それが最強だと信じ、本当の意味で有酸素運動する、日本古来からの伝統武術に眼を向けようとしないことである。
●「こだわり」を捨てる晩年の生き方 現代人は何故、こうも「こだわり」を捨てる事が出来ないのであろうか。 「こだわり」の心は、「我(が)」であり、拘泥(こうでい)であり、小さい事に執着して、融通がきかないことを指す。こうした気持ちに発展すると、勝負にこだわったり、思う所に凝り固まって、人の言に従わない、「ひとりよがり」の、「おのれ」の、窮屈な迷妄の世界に踏み込む結果を招く。 この世の中は、心に描いたものが、そのまま反映される「心像化現象」によって動かされている。したがって、こだわれば、こだわるほど、自らの我の世界に閉じ込められて、その行き着く先は「精神分裂病」という、出口のない迷宮が待ち構えている。 「こだわり」をさらりと捨てて、心を解き放ち、「こだわり」から解放される次元に到達しなければならない。未熟者こそ、「こだわる」という、心の低い次元に気付くべきであろう。 日本も、アメリカ並に精神分裂病や神経症が猛烈な勢いで増加する傾向にある。どこの精神病院も満員である。精神病院という迷宮では、「こだわり」を捨てられなかった人で溢れ返っている。最近は、こうした「魔界」に堕(お)ちる人が増えている。 西郷派大東流合気武術では、「こだわり」のない、何事にも囚(とら)われない境地を説く。自己解放の指導を行いつつ、自他共に共存共栄する精神を学び、相手を受け入れ、育み、成長を期待して行くことに、「歓喜」を体感する指導を行っている。 真の合気を求めて、修行して行くわけであるが、その目的は、人を投げたり、倒したりすることでなく、また、痛めつけることでもなく、相手をこてんぱんに負かし、やりこめて勝つことでもない。合気を求めて修行する姿は、自分自身に勝つ、克己心である。しかし、昨今の武道界を見回すと、こうした克己心を教えている道場は、一部の本格派を除いて、あまり見られなくなった。 しかし、わが流では目的は、自分自身の生き方を修めることであり、我が身を糺(ただ)す、修身ということに重きを置いている。強弱論に囚われない為である。 こうした愚に陥ることなく、心に偏りを作らないことである。基本動作を学ぶと、相対しての「引き立て稽古」になる。自分が、人より一歩先に出る前に、相手を引き合ってて、一歩先に行かせるのである。自分が先に出ようとするから、争いが起る。自分を控えめにして、相手に道を譲ってやれば、万事がうまくいくのである。これを「謙譲」という。 こうした状態までレベルがアップされると、相手は動きが自由になり、それが一定のリズムを作って躍動している事に気付くだろう。 ところが、「我」が先走ると、ここに無駄な摩擦が生ずる。この元凶が、国家間では戦争となる。自分だけが正しくて他は間違いというような傲慢(ごうまん)な気持ちになると、当然そこには反論が出てきて、争いが起る。また、強弱を決したくなって、勝って相手を随(したが)わせたくなる。 人間の心は、もともと自由なものであった。ところが、何事かに囚われ始めた時から、自由な心を失い、我執の「我(が)」に籠(こも)ってしまったのである。また、こうした事が、憂鬱(ゆううつ)を作り出したのだった。病める現代は、こうした側面が恥部として隠れている。 しかし「我」を捨てる事によって、自由が得られるのである。人は、それを素直に学ぶべきである。人間の人生修行は、常にこの現実の中に、「捨てて行く」というところに、本当の真理がある。これが「こだわり」からの解放だ。
●晩年の人生の生き方 この世のものは、総(すべ)て流転する。刻々と変化をして、その止(とど)まるところを知らない。人間の世も、この中にある。変化という現象界にあって、かつての若者は、歳を重ねて、老齢へと向かう。 最初は、自分自身の恋愛に対する理解と、恋愛感情そのものを重視した点から、世にも素晴らしい、異性に巡り遭う事を当たり前と考えていたのだが、そうした存在は、遂に最後まで現れなかった。そして自分自身を後姿を振り返ると、あれから十年、二十年、三十年と経っていた。虚しいと思う。 「老い」を思うにつけ、老年の自然条件があることに気付く。老いに向かっているということは、人生の生・老・病・死の四期を顧みて、死に近づくほど、一個の人間が、新しい二つの固体に分かれていくような錯覚に陥る。それはいつまでも、健康で長生きしたいという自分と、歳には勝てず、死に向かって朽(く)ち果てていく、自分がいることに気付く年齢でもある。 地球上の生物は、それぞれに種類があり、それぞれに異なった寿命を持っているが、亀や鸚鵡(おうむ)は200年近く生きるといわれている。 そして彼等は、ある年齢に近づくと、老境に入るといわれている。 一方、こうした生物が200年も生きるのに対し、僅か2時間でその生涯を終える、ウスバカゲロウのような昆虫もいる。 しかし、世界一の長寿国日本も、その医療現場での長寿の裏側には、寝たっきり老人や植物状態の老人も含めた、病める長寿の隠された一面がる。これは薬漬けにされ、生命維持装置の手を借り、長寿村での老人が健康に、元気に働いていることとは大いに異なる。 今からおよそ百年前、文明の進んだ国では、平均寿命が60歳前後であったという。その上、戦争もあり、革命もあり、衛生上の問題もあって、健康に人生を全うできる寿命は、おおよそ60歳であったという。 例えば、ガンを発症し、これを現代医学の慢性病対策の最新療法を用いたとしても、「5年生存率」の枠で追跡調査すると、その殆どが5年以内に悉(ことごと)く死に絶えているではないか。 寝たっきり老人や植物状態でないとしても、アルツハイマー型痴呆症などを患(わずら)っている人は、その精神において健全性が失われ、退職後に精神分裂病などに襲われる高齢者を見ても、仮にその病気が一時的に恢復(かいふく)したとしても、その後は精神安定剤の投与を生涯受け続けなければならない。五体が満足に動く状態であっても、精神が病めば、人間としての機能は失われていることになる。 かつて南洋の島の土着民の間に、歳をとった高齢者をその後、生きるに値するか否かを判定する資格審査があったという。この審査には、村人全員が立ち合い、審査される老人を一番背の高い椰子(やし)の木に登らせて、頂きにしがみつかせおいて、全員で椰子の木を揺すぶったという。ある一定時間、しがみついていれば、生きる資格があるとされ、もし木から落ちようものなら、その場で殺されたという。 「何と乱暴な審査ではないか」と非難の声も上がろうが、今日、このような野蛮なことは行われていない筈であろう。しかし、この野蛮な審査は消滅したとはいえ、私たちの心の中には、これと同じ「椰子の木」を持っているのではあるまいか。 企業においても職能試験というものがあり、数年に一度定期的にこれを受けねばならず、パイロットや航空関係者にも、こうした定期的な資格審査がある。 また、教員にも職能審査を課せる義務化が生まれた。職能を審査するとは、一種の人生での試練というより、「もう、あいつはダメだ」と烙印を押す、死刑判決のようなものである。審査され、その結果を見て、死刑が宣告される、あの南洋の島の「椰子の木」ではないか。 この「椰子の木」の物指しは、もしかすると、既に老人にも当てて、その資格を計測しているのではないだろうか。現代とは、そんな時代ではないか。 かつて中国のかの地では、老人を「白翁」と賞賛して、長老として尊敬した風習があった。また、当時の人々は、自分の頭が白髪で覆われ、老いていく自分の姿に誇りを持っていた。老人こそ、偉さの象徴だった。物知りと、大勢から大変な尊敬を受けていた。
ところが、昨今はどうだろうか。 見方を変えれば、それほど現代人は、古代人に比べて、表皮的で、「馬鹿な人種」といえるだろう。そうした馬鹿が殖(ふ)えるのも、現代という時代の特徴である。 しかし、こうした現実を作ったのは、実は老人自身であり、自分の子供や孫には責任がない。子供は親の背中を見て育つと言う。かつて老人が、子供の親であったとき、自分の親もこのように扱ったのではなかったか。その仕打ちが今現れただけのことである。子供は、その親のすることを見て育ち、自分が親になった今、同じ事を、老人にしているだけのことである。 人間は、「自分の顔に責任を持て」という。しかし、責任が持てようもない状態が「老人の顔」ではないか。人間は歳をとれば、顔の至る所に老人斑(ろうじんはん)ができ、皺(しわ)だらけになり、欠点が殖(ふ)えるのと同じく、精神上にも欠点が殖え始める。 では、こうした老いどう考えればよいのか。 「息子と良人を失って以来、彼女は自分が何も意味も目的も持たない、偶然この世に置き忘れられた人間であるかのように感じられるのだった。物は食べてはいた。物を飲んではいた。眠ってはいた。歳をとってはいた。しかし、生きてはいなかった。何一つ生きている感じをを残してはいなかった。彼女が生活に求めていたものは、ただ静かにしていることだけだった。それを死に見出すほかなかった。しかし、死にまでは生きなければならなかった。生きていく力を費やさねばならなかった。……(中略)……彼女は食わねばならなかった。眠らねばならなかった。考えねばならなかった。泣かねばならなかった。話をせねばならなかった。働かねばならなかった。それというのも、ただただ、胃があり、脳髄があり、筋肉があり、神経があり、肝臓があるからだけのことであった」 こんな寂しい描写があった一節を、読者諸氏は覚えているだろうか。 現代は、多難な時代に生活基盤が築かれている。しかし、「多難」を頭から被らねばならないのは、今から死んでいく、老人ではなく、むしろ若者や、次世代の子供達である。 とはいっても、年甲斐にもなく、異性に猛り狂う馬鹿もいようし、金や物に固執する業(ごう)突く張りもいるにはいよう。 晩年期は、一応に与えられた楽しみが若干減って、それを名残惜しく思わなくても、少しも苦にならず、残されているだけの楽しみを、身に染みて味わう人達こそ、自らの「死生観」に決着をつける真の姿であり、老いて残されている「最後の人生の課題」に取り組むのが、つまり高齢者の人生の生き方といえるのではあるまいか。
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