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■ 壮年ならびに高齢者のクラス■
(そうねんならびにこうれいしゃのくらす)

●人間関係と西郷派合気を通じての品格の養成

 老人病と共に、高齢者の側面に、「統合失調症」なる病気が忍び寄っている。
 この病気の発症率は、これまで「100人に1人」の割合であったが、日本もアメリカ並みに、この病気の患者が増加の一途にある。

 精神分裂病という医学用語は、差別や偏見を招きやすいという事で、日本精神神経学会が2002年6月30日に、「精神分裂病」というこれまでの呼び名を、「統合失調症」という名にあらためた。同時に、「統合失調症」に罹(かる)る人も急増した。壮年層や老年層の人も例外ではない。
 健康で、意気揚々として、自信を持って仕事をしていた立派な壮年男性が、ある日、突然、訝(おか)しくなり、狂い出すという、何とも奇妙な現象が起こっている。

 一般には馴染みの薄かった「精神分裂病」は、いまや誰にでも罹る国民病になりつつある。
 「統合失調症」などと称せば、いったい何の病気か釈然としない。しかし、精神分裂病という歴(れっ)きとした精神障害である。そして、この病気に罹れば、当然世間から蔑視される。陰で「きちがい」と後ろ指を差される。だがこの「きちがい」が、どこの精神病院でも、満杯なのだ。

 テクノロジーの時代、テクノストレスからこの病気に罹る人も増え始めている。また、定年退職して、ボケ老人とは違う形で、この病気に罹る高齢者も増加の一途にある。何処の病院の精神病棟も入院患者で満員であり、街の精神科・神経科クリニックは、番号札で順番待ちするほど、歯医者並みの混み方で、何処の医院もはやっている。

 日本もアメリカ並に、「100人に1人以上」が精神障害者という現実が到来しており、恨みや憎悪、あるいはノイローゼなどである、心理的な原因によって起る精神の機能障害から、統合失調症に進行する人が増えてきている。

 本来、神経症は器質的病変はなく、人格の崩壊もないと信じられていたが、ここにきて、神経症から分裂病初期へと転化する人も多くなった。また、遺伝しないと信じられていたが、やはり同じ血統の同族に、その兆候が見られる。親が精神分裂病であれば、子は50%の確率の陰性保菌因子を抱えることになる。そして思春期頃に発病する。
 この病気こそ、高齢化社会のアルツハイマー型痴呆症と並ぶ、現代の象徴的な病気といえよう。

 不安神経症・心気神経症・強迫神経症・離人神経症・抑鬱神経症・神経衰弱・ヒステリーなど種々の病型を持つ神経症は、初期状態には、人格の破壊は見受けられないが、これが徐々に進行し、深層心理の奥深くに巣喰うと、やがて精神障害へと発展する。
 現代は対人関係が複雑化し、人間関係は悪化する一方なので、特定の人に恨みを持つ人、あるいは人から恨みを持たれる人が増えて来ており、こうした人間関係の悪化は、いまや「生霊化現象」を見せて、現代社会を覆い尽くそうとしている。ここに憑依現象の実態がある。

 離人症(自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない異常な精神状態で、人格感喪失や有情感喪失をともなう)等にも見受けられるように、現代社会は、人間関係と言う現代市民生活の中で、複雑に絡み合う上下や、横の繋(つな)がりが断片化を見せ始めた。

 そして極度な孤立主義や個人主義、あるいはマイホーム主義や少子化構造に見られるように、物質文明に翻弄(ほんろう)されて、好みや主義主張が細分化され、それにともなう弊害が現れて来たことも起因している。
 その結果、複雑多岐化する現実社会の中で、「統合失調症」をはじめとする、精神障害や機能障害が急増している。

 では、何故こうした状態が起るのであろうか。
 それは老齢期における思考に問題があると考えられる。また、心が萎縮することに問題を孕(はら)んでいると思われる。
 人間は歳をとると、心が萎縮し始める。そこに孤立化が起る。意固地になる。頑迷になる。横着になる。こうした背景に心に柔軟性が失われる。それは、人間が歳を重ね、老齢になるにつれ、恐怖と不安を抱き始めるからである。死が、目の前にちらついているからである。死の恐怖に負けた場合、人間は頭が狂う。これが老人に現れる精神障害である。その元凶は「死の恐怖」からであろう。
 そして心ばかりでなく、肉体にも老齢期に見られる変調が顕われ始める。

 歳をとると悲しくなってくる。老醜が漂うと、自分でも我慢できなくなる。この心境は、ノーベル賞受賞作家の川端康成が、自分の老いと老醜に幻滅して、自殺したことからも窺(うかが)える。
 まず、老いは肉体に現れる。老眼になり、歯が抜け、髪が白くなるか、抜け落ちて禿げてしまい、異常な発汗が確認され、体力や性力にも翳(かげ)りが見えて来る。こうした現象を厭(いや)だと言っても、確実に、老いは襲って来る。そこで老いに幻滅して、自殺する高齢者もいる。自分で死ぬ勇気の無い者は、老いに幻滅して、気が狂うしかない。それが増加の一途にある、高齢者の精神障害である。

 現在は多くの企業が、「六十歳定年制」を実施している。重役でない限り、60歳になると定年になってしまう。厭だ、心配だ、それ以降の老後の生活に不安を覚えると言っても、一応生活の糧(かて)のあがりは、この年齢で絶たれる。後は年金暮らしをする以外ない。しかし年金受給年齢も、年々繰り上げられ、先延ばしされている。パンク寸伝であるからだ。
 果たして年金が実際に貰えるかどうか、政府を疑う高齢者もいる。そこでこうした不安から、精神的にもプレッシャーが懸(か)かる。

 そして、個人戦的な、自分一人での老化と闘う抵抗が始まる。闘って、避けられるものなら避けようと足掻(あが)く。しかし、緊張が続くので、筋肉が縮こまり、益々硬くなって行く。やはり「若くないのだ」と思い知らされる。そして若い頃の面影は、見事に失せてしまった自分に気付く。そこで、狂うか、死ぬ以外ないと思い始める。

 ここに、「死に神」が近付いて来ている現実がある。
 人間は、死に神と闘っても、勝てる筈がない。魅入られたら最後である。人間は生まれた時から、いつかは死ぬと決められているからである。「歳をとる」と言う事は、死に近付いていると言う事なのである。
 したがって、死に神と闘うにしろ、逃げるにしろ、誰かの助言や助力を期待するのであるが、せいぜいこうした場合は、数日おきに通う整形外科の医師か、柔道整復師の接骨院の先生の、肩凝りや腰痛の相談のアドバイスくらいで、それ以外に耳を傾けようとしなくなるだろう。こうした側面にも高齢者の孤独がある。

 何とか、自分だけは助かりたいと藻掻(もが)き、死を遠ざけ、格闘するのであるが、中々うまくいかない。助かりたい一心で、助言や助力してくれる人を期待し、その人を信じたいのであるが、中々信じる事が出来ない。ここに老人の頑迷さがある。

 では、新興宗教に頼ろうかと思う。しかし、これも疑いの眼で見る、騙されるのではないかと。
 では人生相談に頼ろうとするが、これも新興宗教に加担することを勧められているような疑いの眼で見てしまう。何事も、こうした色眼鏡で疑って掛かる。これが老人の悲しさだ。
 その為に、疑い深くなる。益々依怙地(いこじ)になる。意地悪になる。自説を曲げない。頑固になる。頑迷になる。この期(ご)に及んでも、死生観が解決できない。こんな自分がじれったくなる。こうした心の萎縮現象に悩まされ、次に肉体の衰えにも、決定的なものが襲って来る。それが分裂病だ。

 体力はなくなり、体質は益々悪くなる。肌はカサカサになり、潤いをなくし、ゴリゴリ強(こわ)張り、醜い老醜と共に、最悪の暗示を齎(もたら)す老朽化が始まる。そして、動脈まで硬化する。これが老人病の正体である。

 また一方、別のタイプの老人がいる。
 このタイプの人は、「死に神」に出会って、まず腰を抜かす。それは丁度、追剥(おいはぎ)か、強盗に出会った時のような表情を見せる。全身の力が抜けてしまって、ただ「アワワワ」と、意味の無い事を言う、お手上げの人である。若いとき、真面目に働いたが、心の修養や度胸を養わなかった為、小心者の自分から抜け出せなかった人である。

 このタイプは始めは、いやに柔和を感じさせる人である。顔付きも、躰(からだ)付きも莫迦(ばか)に柔らかい人である。他の人からは「最近は角が取れたね」と、円熟をほのめかすような言葉が洩らされるようになる。まさに、「好々爺」である。しかし、これが「ボケ」だ。

 そして何も反発をしない。社会悪にも憤(いきどお)りを感ぜず、反発すら覚えない。無軌道な、無頼の輩(やから)の、よき理解者である。
 しかし、よく観察すると表情が違っているのに気付く。まるで瘋癲(ふうてん)老人日記に出て来るような、主人公の老人を思わせ、恍惚(こうこつ)の人に酷似(こくじ)する。これがボケ老人である。
 しかし、これは老人だけとは限りない。いろいろな恐怖や不安が重なると、心は頑(かたく)なになる。そしてこの「心の頑な」は、精神的動脈硬化症をつくり、完全な無気力さは、老人性痴呆症をつくり出して行く。アルツハイマー型痴呆症の正体は、こうした側面に隠されている。

 また、老人性痴呆症と並行するように、分裂症が急増している。
 恐怖や不安は、精神分裂病を招き、心の萎縮と頑さは、こうした精神病へと発展させているのである。昨今は、したがって何処の精神病院でも満員であり、入院患者は、予約待ちの為に半年も一念も待たされる始末である。
 こうした老人の心因性の悪化は、昨今の混沌(こんとん)とした、不穏を思わせる世の中と並行するように激増している。殺人事件が多くなった。老人がターゲットになって直ぐに殺されてしまう。「何と理不尽な」と思いたくなる世の中である。悲観論で現代を捉えたくないが、しかし、老いは、どうしても、そこに追いやってしまう。悲しいと思う。

 老若男女を問わず、激増する精神分裂病は、人権擁護の立場から、「統合失調症」と名前が変更されたのも、激増するこうした世の中の進行状態が先取りされた結果からだった。老いが、この病気と深く絡み合い、これらが関係しているのである。
 ボケたくないとこれに注意すれば、今度は別の処で落とし穴が待ち受けている。そして、この落とし穴に落ちるのは、老醜の漂う老人である。オレオレ詐欺に掛かるのは、決まって老人ではなかったか。

 

●世の理不尽に、どう立ち向かえばよいか

 しかし一方、こうした現実下にありながら、精神構造に全く破壊を来さない、確固たる次元が存在していることも、また事実である。その次元にいて、最後のラストスパートに命を賭ける「長老としての尊敬される老人」がいることも事実である。
 それは、人と人とが相対して、真剣に何事かを為(な)すところに、済(すく)いを求める箇所が、唯一つ存在しているからだ。
 対人関係の中の「道」こそ、精神構造に破壊を来さない確固たる次元なのである。ここに「人生の拠り所」を求めるべきであろう。

 それはまず、武は「礼に始まり、礼に終わる」という、人間社会で最も大切な「礼儀」が、この中に含まれているからである。規範や作法に則(のっと)っている事こそ、社会の秩序を保つ為の生活規範となり、これを正しく全うするからこそ、人は道を尊厳して行く事が出来るのである。ここにこそ、人間が人間として、正常な精神状態を保つ為の道徳観念があるのである。
 したがって、日向ぼっこを楽しんだり、公園の片隅でゲートボール(この老人スポーツが悪いというわけではないが)に明け暮れる、若者に尊敬されない老人像を自らが作り出してはならない。
 老いたりと言えども、矍鑠(かくしゃく)として、前向きに挑むべきだ。

 しかし、この道徳観念は「心」に萎縮によって、崩壊すると、精神はやがて病み始める。現在、急増する統合失調症の元凶は、現代人が「心の次元」を低下させた為だと思われる。
 若い頃、仕事に追われて、家庭を顧みなかった仕事人間は、晩年期には心を一新して、「金を稼ぐ頭」から離れるべきであろう。会社に奉仕する頭を切り替えるべきであろう。

 一方、高い次元で精神状態を安定に保つことが出来る。それを目指して、心を進化させている高齢者がいる。そこに、老いてなお、「精進する自分」の姿を見出すことが出来る。これこそが、高齢者に与えられた最後の「誇り」と「名誉」ではないか。
 このチャンスを見逃す手はないだろう。

 そして、壮年や高齢者に相応しい武術原理は、筋トレをせず、汗をかかず、術を学んで高い境地を獲得できる“合気”であろう。
 四十路(よそじ)の初老という年齢を超え、こうした年齢の人が、容易に学べる武術は“合気”以外にありえない。初老に突入した年齢層が、柔道や剣道や空手でもないだろう。初心者がこの年齢で学ぶには、筋トレが付随されている競技武道では、肉体酷使に繋がり、寿命の尽きるのを早めるだけであろう。心臓肥大症に罹り、心筋梗塞でもなれば、それこそ「年寄りの冷や水」と嘲笑されかねない。

 初老以上は、精神力を高め、肉体的に負担のかからない武術が適当である。それには“合気”武術が最適であると断言できる。
 この武術は、年取ってからでも初められるのである。それは“合気”と言う次元で、この武術が構築されているからである。また、「道」の一面は、“合気”こそ、人間関係を良好に保つ最後の砦の様相をなしているからだ。

 それは相手に対峙(たいじ)していて、自分の身体ごと投げさせる、手頸(てくび)を捕られて捻られる、抑え込まれて経絡上の経穴(ツボ)を踏まれる、という人間の信頼関係から生まれるからである。これによって自他共に磨き合う「砥石(といし)」の人間関係をつくりだす。
 そしてこうした人間関係を通じて、磨き合う関係を積み上げて行くと、次は相手の身体の一部を触れて、意図も軽々と投げるところに帰着する。これを、わが流では「合気」と呼んでいる。“合気”とは、その奥底に人間関係を良好にする「心の交流」が含まれているからである。

 

●「道」という、心の交流の場

 合気武術は、「道場」という修行の場において、相手を投げたり、倒したりすることから始まるのであるから、人間関係の希薄になった現代社会においては、ちょっと変わった、密な人間関係の在(あ)り方かも知れない。はじめてやる人は、最初面食らうだろう。だが、時間が経つにしたがって、これこそ、密接な人間関係であると理解できるようになる。

 基本動作は木刀の素振り後に行われる、相手に技を掛けさせることから始まる。
 まずは自分が技を掛けられ、次に相手に技を掛けるのである。「砥石」の自他共に磨き合う効果は、こうした磨き合う関係の裏に隠れているが、一見大変なことだと思うだろう。
 しかし、思い切って相手の手頸を握り込み、握った瞬間に倒されている、この不思議な武術は「修行時間×術=威力」の簡単な掛け算で、高齢者と雖(いえど)も上達していくのである。これは柔道や剣道や空手が、年齢と共に威力が失われていくのとは対照的である。

 そうやって一所懸命に、心身を働かせることに、重要な意味が含まれている。
 これは現実の中で、相手と共もに、非言語的に、かなり深いところまでわかり合えるような、ちょっと変わったコミュニケーションであるからだ。
 また、そこに独特の意味があるのである。

 更に、もう一つの良いところは、これからの超高齢化社会に向かって、齢をとっても、若い人と共に楽しめる可能性が高いという点である。
 四十過ぎて、柔道の練習を始めたとして、若者と対等に、柔道の乱取ができるだろうか。また、空手をやるとして、若者と同じようにハードな組手が出来るだろうか。更には、剣道は、基本が「掛かり稽古」であるが、マラソン並みに突っ走らなければならないこの稽古を、四十過ぎてから行えるだろうか。
 仮に、行えるとして、心臓肥大症を患い、心筋梗塞で斃(たお)れないという保証は何処にもない。

 こうした事故は、四十過ぎて早朝ランニングを始めたり、マラソンを始めて、心筋梗塞で突然死する人を見ても明らかであろう。
 また、何年か前、宮家のプリンスがテニスで突然死したことは、私たちの記憶に新しい。

 社会全体が超高齢化に偏る現代、老人は置き去りにされ、また後を追う壮年層は、近未来の超高齢層であり、ここに社会の宿痾(しゅくあ)がある。これは否定しても、否定できない現実である。
 人間は生・老・病・死の四期のサイクルを順に追い、やがて死に向かう。これは何人たりとも、否定できない現実である。

 さて、西郷派合気の目標とすることは、相手に触れただけで投げ倒す事の修行にある。術をもって倒すことに、修行の目的が置かれている。それは筋トレをして、補助筋肉をつけるのではなく、裡側(うちがわ)から鍛えて、「内筋を養成する」ことが修行の目的となってる。外側の「外筋」は、幾ら鍛えても、歳をとれば落ちていくものである。
 更に、呼吸法を間違えば、心臓に負担を掛け、かえって寿命を縮めることになる。

 自他ともに追求する、真の「触れただけで倒す合気」を求めて修行が行われるわけである。そこに、何か、隠されたロマンがあるとは思わないだろうか。

 しかし、この真の合気は、なかなか得られるものではない。
 心・気・力の一致がなくてはならない。
 その為には、執着心を離れ、身を捨てることが必要になる。後生大事にしている守りの柵(しがらみ)を手放すことだ。

 つまり「無心になる」ということである。無心になったとき、人は初めて、最も合理的な行動がとれているという、一見矛盾した、心の働きを会得するのである。心身を働かすことによって、体得してゆくのが稽古であり、これが一生涯を通じての人間の修行なのである。

 その際、いろいろな邪魔が入る。怠け心だとか、気分が乗らないとか、若くないとか、時間がないとか、経済的な事情とか、ありとあらゆるものが、こじ付け的な邪魔をする。しかし、この邪魔を乗り越えたところに、一つの心の拠り所を発見するのである。ここに「無心のステップ」がある。

 武術には「四戒」というのがある。
 四戒とは「四つの戒め」ことである。驚・怯・疑・惑を去れと言うものである。
 昔の人は、驚・怯・疑・惑を、武術における四つの「心の病」と考えたようである。
 これらは皆、人の心の持っている本性に根ざしている。
 驚(きょう)とは「驚き」であり、怯(きょ)は「怖れ」あるいは「怯え」であり、疑(ぎ)は「疑い」であり、惑(わく)は「惑う」ということである。
 こうした心の病は何故か、混乱を来す「パニック障害」に似ていないだろうか。
 このパニック障害こそ、精神分裂病と言う「統合失調症」の正体である。こうした症状は、心の偏りからくるものである。

 心を何ものかに囚(とら)われて、それに固執することは誤りである。「こだわり」を捨てることだ。
 しかし現代人は、こうした固執から、なかなか解放されようと努力しない。したがって、もう一度、自分の心の中にある、愚かな「柵(しがらみ)」に向き直らなければならなくなる。こういったものと対峙(たいじ)して、「我(が)」を捨てて、わが身を捨てて、無心に稽古する事によって、生死を越えた死生観が存在するのである。
 昔の人だったら、生死を踏み越えたところに「活」あり、閉ざされた打開路が見出せるというところではなかろうか。

 西郷派合気では「自分を作らず、虚構せず、あるがままに、目的本意に行動せよ」と教えている。
 西郷派合気の最初の第一歩は、坐して互いに、一対一で向かい合い、相手の手を封じ、それを押さえ込む事にある。相手に抗(さか)らう人間関係の対峙を通じて、やがてはそれを基盤として、互いが磨き合う人間関係の構図を作り上げて行く。

 今日の社会は、資本主義の競争原理に従って奔走する社会構造になっているから、相手を生かしたり、相手を生かす事によって、自分自身も錬磨して行くと言う人間関係になっていない。
 少しでも隙(すき)があれば、相手の弱味に付け込み、押し退(の)け、蹴落とし、引きずり落とそうというのが、この社会の競争原理の働くところであるから、自他共に「相殺しあう関係」になっている。相生関係ではなく、相尅関係である。しかし、これでは人生をよりよく生きて行く事は出来ない。醜い、いがみ合いの関係になってしまう。

 繰り返えすが、「武は礼に始まり礼に終わる」関係が保ててこそ、人は、人となり、「道」を踏み行うことが出来る。礼を重んじることによって、単なる投げ合い、倒し合い、崩し合いを、人間の成長に資するように姿を変えたのが、古(いにしえ)の武術家達の智慧(ちえ)であった。
 ここからは対峙者との切磋琢磨の関係であると同時に、自分との戦いになる。

 心・気・力の一致を求めて、気を働かせ、自分の身体に具現して、滞(とどこお)った霊肉を使うわけである。その場合、魂が腐っていれば、正しく機能すいまい。
 互いに相手の弱点や急所を攻め、攻防一致を学び、身を捨てることによって、天地大自然と一致することこそが、第一義なのだ。
 ここが、「自分を作らず、虚構せず、あるがまま、目的本意に為(な)すべき事をなせ」という教えの真意である。
 これは現代だからこそ、逆に「人の和」に相通じるものがある。

 教える側は、投げられたり、押されることに始まり、同時に、投げられたり、押されることに終る。
 これは、弱いから投げられ、倒されるのではない。互いに磨き合う「砥石の人間関係」を作り上げた上で、さらに「投げられる」「倒される」「崩される」という全身運動を展開させるのである。

 多くの現代人は、年齢と共に「肩凝り」や「腰痛」を抱え込んでいる人が決して少なくない。
 理由は全身運動をせず、血流が滞るからである。肩に部分で滞れば、肩凝りになり、腰や膝で滞れば、腰痛や膝の関節痛になる。これは運動不足と言うより、普段遣(つ)わない筋肉や、内筋の鍛練を放置する事から起こる。
 忙しさや競争や奔走を理由に、自分自身を粗末に扱うと、やがて寿命を縮め、人生の本題を解決する糸口を見い出さないまま、無慙(むざん)な死に赴かなければならなくなる。あなたは、そんな死が所望なのだろうか。

 

【40歳・50歳・60歳からの新たな手習い】

 西郷派合気は年齢に関係なく、無理なく実践する事が出来ます。人生の終盤戦こそ、その気迫はラストスパートでなければなりません。ゴール直前での最後の気力を出し切って、わが人生に「有終の美」を飾らなければなりません。

 人は確実に死に向かって行進しています。生・老・病・死の四期の段階を踏みつつ、最後は必ず死が訪れます。しかし、市に向かうまでの、人生というこの時間を、単に安易に「死を待つだけの時間」として過ごしてはなりません。死を迎える為には、その前に死生観を解決せねばならず、死生観を解決するには、「歳をとる技術」「死ぬ為の技術」を学ばねばなりません。

 人間は、この世に生れ落ちてこのかた、「苦」を体験しつつ、「苦」に責められる生き方を味わいます。世間を見回すと至る所に競争原理が働いていて、暗記力や記憶力の良い者が小中高校では「出来る奴」として一目置かれ、幼少より美男美女の遺伝に生まれた少年少女は少々頭が悪くとも、それだけでちやほやされました。金持ちや資産家の子は金持ちの親の七光りに物を言わせて、それだけの血縁という事で大学入試の時にも「裏口」という特定な抜け穴が設けられていて、そこから大学に入学し、さして勉強するわけでもなく、暗愚のまま親の跡目をついで、第二世となっていきました。

 また、目先の聡い者や、狡猾な者は他人をペテンにかけたり、新たないかがわしい商売を始め、似非実力者として成功を納めていきました。こうした者達を振り返り、多くの人は「羨ましい」という羨望の目を向けました。

 しかし、暗記力や記憶力の良かった人達は、今はどうなったでしょうか。小さい時から神童と持て囃(はや)され、学閥を自慢して権力者や支配側に立った者達の、「今」はどうでしょうか。また、美男美女の誉れ高く、人からちやほやされた、この人達の「今」はどうでしょうか。
 小屋名七光りで、さして苦労もなく第二世として世に出た資産家二世の「今」はどうでしょうか。目先の聡い者や、狡猾な者の「今」はどうでしょうか。
 一時的な儲けを掴みましたが、それはあくまでも一時的なことであって、その後、浮上してくる者は、ほんの一握りでした。

 そして、こうした「団塊の世代」を前後して生きた、高齢者や壮年者は、昔を振り返れば、当時羨望の眼差しで見ていたこれらの人達は、結局、死ねば何も残らない人達ちであるということに気付かされます。彼等は、みな物質的な豊かさだけの中にいて、それ以外の精神活動は殆どやらなかったということに気付かされます。
 果たして、彼等がやがて死ぬという事実を踏まえ、「歳をとる技術」や「死の為の技術」に専念しているでしょうか。

 長い人生を生きてきて、過去を振り返れば、「歳をとる」ということは、不幸の数と戦う技術でした。また、かような不幸は、どうあろうとも、一生涯の終わりを幸福の次元に押し上げる技術ではなかったのでしょうか。

 物質主義、唯物論の立場から考えると、「自分の不幸と戦う」あるいは「自分の肉体的な不幸と戦う」という状況の置かれている際、果たしてこれらを克服することが可能だったでしょうか。
 例えば、老年期に達するという現象を見た場合、これは生理的な過程であって、私たちはこの現象を不可避なものとして捉える以外、道はないと見送ることしか出来なかった筈です。

 それはちょうど、春に木の芽が一斉に吹き出し、夏に溢れんばかりに葉を茂らせ、秋にはそれを見事に紅葉に変えるこの紅葉が、冬を前にして葉の凋落の兆しと比較されるのではないでしょうか。
 人間の意識でこれを考えた場合、「いつまでも美しい葉を落とさずにいたい」と考えても、自然の摂理からすると、無理な話である。
 木は、いくら紅葉を結び付けようとしても、あるいは糊付けしようとしても、縫い付けておこうとしても、これが徒労に終わる結末であることを知っているのです。だから、落とすべきときは潔く葉を落とし、冬の時期を、「殖(ふ)ゆ」と捉え、次の春の来るのを待って、大自然の摂理に素直に随(したが)うのです。
 こうした意味で、私たち現代人は、謙虚に、真摯に大自然の眼を向け、まだまだ学ばねばならないことが、沢山あると気付かされるのです。

秋には美しい紅葉を満開にさせる木々の紅も、やがて冬の到来に向けて、その葉を散らす時機が来ることを知っている。

 「定めの時機(とき)がくれば、美しく葉をつけた紅葉の木々も、吹きすさぶ冬の風が、近くにある樹木もろとも吹き飛ばします。それは、黒い骸骨にしてしまわないまでも、それに近い状態に持っていってしまうのです。
 人間も、歳をとり、死期が近まれば、死へ誘(いざな)う風が吹き始めます。その時に、慌てない為にも普段から、死について考えておく必要があります。死生観を解決する境地に至る必要狩ります。壮年期から晩年期にかけて、この作業を安易に行ってはなりません。ぜひ、仕上げの時期に突入したということを考えて欲しいのです。

 フランスのモラリストのラ・ロシュフコーは、「老人たることを知る者は甚だ稀である」といっています。多くの人は、自分が歳をとるということについて、無関心であり、これを不思議なことと捉えないと述べているのです。
 老年期というものがいつ始まり、どういう状態になるか、多くは無関心のまま、何の準備もせず、安易な老後の人生を送っています。歳をとるとは、これまでの履いていた靴が、鉛でも入っているかのような靴の重さになるということだけに止(とど)まりません。重そうに歩くのが年寄りに課せられた仕打ちではなく、重そうに歩かせる老化現象がこの正体なのです。歳をとるということと、老化現象を混同してはなりません。

 人間が高齢に至ったとき、若い頃の自分と比較して、「あの坂道は、若い頃、随分と登って歩いたものだが、いまも同じ速さで、同じ足取りで、同じ息遣いで、のぼれるだろうか……」と考えてしまいます。こうした思考が老化現象であり、また、自分が老いているという意識の確認を等閑にすることが、実は本当の老化現象だったのです。

 高齢者は自分が「老人たることを知る者」でなければなりません。知ることにより、「歳をとる技術」「死ぬ為の技術」が確立されるのであって、これを知らなければ、無能な老人として、断末魔の苦しみを味わい、世を去らなければなりません。

 人の人生は誇り高くあるべきです。円熟した年齢こそそうあるべきです。
 どんなに困窮していても、その精神的気構えは、精神的貴族であり、西郷頼母が表した精神的上級武士【註】かつて会津藩では、五百石以上の上級武士に限り、大東流の前身である会津御留流が指導された)でなければなりません。誇り高く生きようと御考えの方は、是非一度、西郷派大東流合気武術の門を叩いてみて下さい。

 私たち日本人は、己(おの)が魂を磨く為に、心の中に刃を忍ばせ、老年期に至れば、立派に歳をとり、静寂の中に身を置いて「死ぬ為の技術」を学んでいかなければなりません。人生の「美しい結び」を完成しなければなりません。
 フランスの哲学者であり、数学者であり、物理学者であったパスカルは「人の一生が愛に始まり野心に終わったら、なんと幸福だろう」と云いましたが、更にこの上に付け加えて、人の一生が、あらゆる野心を満たした後、これを超越して、風一つ吹かない静寂の中で、この世と訣別できたら、もっと大きな幸福であるに違いありません。

 もう自分のものではなくなる、一つの時代を、無私無欲な態度で眺め、「こだわり」「固執」がわが身から離れたら、それがどんなにか幸福で、澄み渡っていて、これまでの物欲主義や快楽主義が、実は幻想であったと気付かされる筈です。
 こうした澄み切った、静かな世界にわが身を置いて、眠るような自然死を迎えることが出来れば、これこそ実に美しい、「結び」であるといえるのではないでしょうか。

 壮年ならびに高齢者のクラスは、総本部尚道館のみならず、西郷派の各道場で、あなたのお越しを心よりお待ちしております。


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