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志高く、より良く生きるために

■ 臥竜 ■
(がりょう)

臥竜/譜面

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臥竜/歌詞

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『臥竜』の編曲は佐孝康夫氏によるものです。演奏時間は3分25秒です。

『臥竜』(カラオケバージョン ムービー)


 

●『臥竜』について

 『三国志』の物語の中には、英雄や豪傑が星の数ほど登場し、そしてやがては消えて行った。しかし諸葛亮孔明だけは、こうした登場人物の中でも、群を抜いて輝いた存在であった。
 『三国志』で、孔明にまつわる故事は多い。喩(たと)えば、「水魚の交わり」とか、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」とか、「死せる諸葛(しょかつ)、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」などであり、ここに孔明の偉人ぶりが偲(しの)ばれる。

 また、孔明が三国時代に登場して、奇略を縦横に用い、神懸り的な知謀家に仕立て上げたのは、のちの中国史明代においての大衆小説となった『三国志演義』である。『三国志演義』こそ、中国人民に支持された書物はないであろう。また、中国大衆人民が求めた歴史上の人物の中で、諸葛亮孔明ほど、大衆が最も贔屓(ひいき)した人物は他に居ないであろう。
 では、何故に孔明は、大衆からこのように判官(ほうがん)贔屓され、親しまれたのであろうか。

 それは孔明が、「天下三分の計」を構想し、これを創り出す政治的思想が、実は、孔明自身に「臥竜(がりょう)」と称される、野に臥した時代からの温めに温めた計略あったからだ。臥竜孔明は天下に躍(おど)り出る時機(とき)を、自らの描いた計略とともに待ち続け、気宇壮大な夢を抱いて野に臥した時期があった。そして時は乱世である。乱世こそ、計略を自分の意の儘(まま)に駆使して、同じ土俵に上げ易い時代はないからである。

 「乱世」とは、まず、天の理(ことわり)が崩壊し、平時が戦時に変わり、その結果として武が擡頭(たいとう)して来る世の中である。

 またそれに伴い、「利」も、文から武に移行しはじめる。
 武への移行とは、大方が、乱世をうまく渡り歩く為に奔走する、「利」に群がる人間の習性が表面化することである。双方を取り上げて、天秤(てんびん)に掛け、その値踏みをするのである。
 その為には、まず多くの勢力を見回して、最も強いと思われる力に依存し、行動する事が世渡りの基本になるからだ。乱世では、これが世間風の常識となる。
 だが、孔明を見た場合、青年孔明は、最も常識と思われる生き方を、敢えて選択せず、孔明の選んだ勢力は、何と、弱少に属する劉備玄徳(りゅうびげんとく)であった。劉備はその当時、非力であった。

 その非力の劉備に、孔明はわが人生の総(すべ)てを賭けたのである。当時の弱小勢力に、敢えて賭けたのであった。その当時、劉備に賭けることは、不確定要素の強い危険性を孕(はら)んでいたが、孔明は、敢えてこれに賭けたのである。
 では、なぜ劉備に賭けたのか。

 それは劉備玄徳と言う愚直なほどの人間性と、虚心で素直な長者風の風格に惹(ひ)かれたであろう。また、劉備はどこか漢王室を開いた劉邦(りゅうほう)を彷佛(ほうふつ)とさせるところがあり、百敗しても、その百敗の上に、更に百一敗を重ねて、挑み掛かるしぶとさを持っていた。
 劉邦は、前漢の初代皇帝で、高祖(こうそ)といわれた。劉邦は農民から出て、泗水(しすい)の亭長となり、秦末に兵を挙げて、項梁(こうりょう)・項羽(こうう)らと合流して、楚(そ)の懐王(かいおう)を擁立し、巴蜀・漢中を与えられて漢王となった人物である。後に項羽と争い、前202年これを垓下(がいか)に破って天下を統一を果たす。そして、長安(ちょうあん)を都として、漢朝を創立する。
 劉備玄徳は、自ら漢王室の末裔(まつえい)だと自称していたが、おそらくでまかせであろう。しかし、それにしても、どこか劉邦を彷佛とさせるのである。それは何故か。

 劉備には、劉邦同様、百敗を重ねても、更に百一敗を重ねて、傷付いても、立ち上がる気魄(きはく)を持っていた。
 傷付いて、何もやらないか、あるいはやるか。それは、その本人の持つ、個性からくる「したたかさ」であろう。
 傷付いて、何もやらなければ、それまでである。それから先は、何も見えてこない。しかし劉備は、百敗に百一敗重ねても、起き上がって来る「したたかさ」があった。これが劉備の魅力であったと言っても過言ではない。したがって、孔明は劉備のこうしたところに魅了されたに違いない。

 しかし、それを更に決定的にしたのは、孔明自身の持つ、熟慮であり、胆力であった。
 しかしながら、常識的判断ばかりに囚(とら)われていると、不可能を可能にする発想は生まれて来ない。優劣や強弱に捕われれば、創造的は活力は生まれてくることはなく、弱肉強食の論理しか派生しない。孔明の場合、むしろ強敵に積極的に抗(あらが)い、立ち向かうのが孔明の思想的態度であった。弱肉強食の論理を覆(くつがえ)し、あくまでこれを否定し、その間隙(かんげき)を縫って、逆転を狙うところに孔明の掲げる特異な哲学があった。

 この意味に於て、孔明は権威に与(くみ)せず、強大な勢力に依存しようとはしなかった。自らの熟慮と胆力をもって、劉備に賭け、わが生きていく道を、自らで切り拓(ひら)くと同時に、己(おの)が可能性にわが命を賭けたのである。またこれは、孔明の個性が、乱世の常識を破ったのである。
 つまりこの事は、「有から有を生み出す」個性の選択が、孔明の生き方をも決定したのであった。

 そして、劉備との「水魚の交わり」を得る前は、荊州(けいしゅう)の地・隆中(りゅうちゅう)において、晴耕雨読(せいこううどく)の生活を続けていたのである。大志を抱いた竜は、この時、野に臥して晴耕雨読の生活を続け、その姿はまさに「臥竜(がりょう)」だったのである。

 「臥竜」という言葉は、時機(とき)を得れば、力を発揮する人物を評して、中国では古くから使われた言葉である。天に昇り上がった竜よりも、まだ頭角を顕わさず、野に臥した竜を畏怖と尊敬の念で、人は彼を「臥竜」と呼ぶのである。

 それは、時機を得れば恐るべき実力を発揮して、天に掛け昇る竜であるからだ。これこそが、野に臥して実力を蓄え、世に躍り出る時機を窺(うかが)う恐るべき存在であった。
 孔明は大志を秘め、隆中時代は、いつの日か、世に躍り出る時機をひたすら待ち続けた、まさに恐るべき臥竜であったのである。

 時は、後漢の政治が壟断(ろうだん)した時代であった。まさに乱世へと移行しようとした過度期であった。風雲急を告げるこの時代は、霊帝(れいてい)の光和(こうわ)七年(184)であった。そして、奇(く)しくも甲子(きのえね)の歳にあたっていた。甲子の歳は、昔から革命の起る歳とされていた。
 事実、太平道の首領・八門(パーモン)先生こと、張角(ちょうかく)は、「蒼天(そうてん)(すで)に死し、黄天(こうてん)(まさ)に立つべし。歳は甲子に在(あ)り、天下太平とならん」と、太平道の農民信者に檄(げき)を飛ばし、革命蹶起(けっき)を促した時であった。

 この号令に遵(したが)い、中国全土で約四十万の農民革命軍が応呼し、新しい国造りを目指して武器と手に取り、蜂起したのであった。彼等は街から村へ、村から街へと、燎原(りょうげん)火の如く悉々(ことごと)くを掠(かす)め去ったのである。そしてこれを機に、本格的な乱世の世が到来するのである。

 その頃、野に臥した、臥竜孔明が荊州(けいしゅう)の地・隆中(りゅうちゅう)に居たのである。
 後漢末の献帝朝の建安初年(196)からほぼ十年間は、荊州地方は平和な別天地であり、その繁華第一である襄陽(じょうよう)一帯には、後漢末の清流派知識人の骨格を守り続けた毅然(きぜん)たる人物が居た。その中でも、水鏡(すいきょう)先生こと、司馬徽(しばき)らを中心に、崔州平(さいしゅうへい)、徐庶(じょしょう)、石韜(せきとう)、孟建(もうけん)といった孔明の師友が居て、その中で見識と器量を買われた孔明は、周囲から臥竜と称されていた。

 孔明は青年期、晴耕雨読の生活を続け、極めて恵まれた人間環境の中で育ち、叡智を蓄えつつ、人間を磨き、臥竜の如く、野に臥した時代があった。
 臥竜と云う言葉は、一種独特の響きがある。野に隠れて、世に知られていない大人物を指す。そして心包強く、天に躍り出る時機を、ひたすら待つのである。

 筆者が自ら作詞・作曲した『臥竜』は、こうした孔明に重ね合わせて、天に舞い昇る時機を待つ、夕嵐(ゆうあらし)の中に潜む竜をイメージしたものである。

 夕嵐。それは嵐を呼ぶ前兆である。また、夕方に強く吹く風のことを、こう呼ぶ。
 黄昏時(たそがれどき)の、夕闇(ゆうやみ)が迫る頃を前後して、時折、強い風が吹くことがある。西の空から、冬を感じさせる冷ややかな風が渡り込むと、そうした時に、ふと、心に微(かす)かな胸騒(むなさわ)ぎを覚える……そんな強い風が、音をたてて断続的に吹き荒れる。まさにこれこそが、夕嵐なのだ。
 人はそうした時、何かしら、得体の知れない胸騒ぎを覚えるのである。夕嵐は、こうしたものを連想させる。それは吉凶に限らず、である。
 諸葛亮孔明とは、こうした時代の変化の嵐を呼ぶ人物であった。

 「士は己(おのれ)を知る者の為に死す」という言葉がある。
 「己を知る者のために」、死力を尽くし、才知を傾ける人物こそ、諸葛亮孔明であった。

  さて、『臥竜』の歌詩の内容を解釈すると、運否天賦(うんぷてんぷ)は、人為に非(あら)ず、天の意によるものである。また、人の運・不運も天意によるものである。人に与えられた運と言うものは、万人に等しく与えられているものである。しかし、それをいつ、運が巡り、その巡りを読み、それに乗って、自分を生かす事が出来るかは、個人の伎倆(ぎりょう)と力量による。そして運・不運を決定するのは、その時代時代に応じた風である。風はいつの時代にも吹いている。

 その風を巧みに読み、これを捕らえる事こそがその人の運命を決定する生き方となる。また、幾重にも分かれる分岐点に、人は常に立たされていると言える。そして、一度、道を決定し、斯道(しどう)に邁進する覚悟が出来たなら、迷う事なく、その道に命を賭(と)して邁進しなければならない。道は、わが前にあるのである。その道を、真直ぐ進めばよいのである。自分の足を信じればよいのである。

 その、邁進する乾坤一擲(けんこんいってき)の時機を逃がしては、自らの生命など、燃やしようがないのである。
 一方、わが斯道に邁進する原動力は、「まごころ」である。陽明学が説かんとする「まごころ」こそ、人が命を賭(と)して進むべき道なのである。その道は、臥竜として、わが身を瞶(みつ)め直しながら、自分自身を奮い立たせる激励であり、また、己(おの)が霊魂(たましい)と格闘する闘魂である。

 孔明も、こうした心境で、「天下三分の計」に臨み、巴蜀(はしょく)の経営に乗り出したに違いない。そして孔明は、劉備と劉禅(りゅうぜん)と言う父子二代に仕え、ついに五丈原(ごじょうげん)で五十四歳の生涯を終えた。
 孔明の生涯を振り返ると、隆中の草廬(そうろ)を出てから、既に二十七年の歳月が流れていた。また、蜀の宰相としてその地位に就いて、実に十三年の事であった。

 『晋陽秋(しんようしゅう)』によれば、孔明が死んだ時、東北より西南に向かい赤い芒角(かど)のある流星が流れたと記載している。これが蜀漢の陣営に落ち、二度までは空中に舞い戻ったが、三度目にはついに舞い戻らず、地に落ちて帰らなかったと言う。
 この流星にまつわる話を聞くと、流星の落下する態(さま)は、大志を抱いてそれを果たすことが出来ず、五十四歳で陣中に病没する、孔明自身の無念さをこの流星が象徴するかのようであった。しかし、この未完成には気宇壮大な男のロマンがあり、それは永久(とこしえ)に広がっているように思える。

 後主・劉禅は、孔明の死を悼(いた)み、直ちに特使を下原の丞相府(じょうしょうふ)に派遣した。そして孔明に、丞相武郷侯の印綬(いんじゅ)を贈り、忠武侯(ちゅうぶこう)と諡(おくりな)し、天下に大赦(たいしゃ)の詔(みことのり)を発した。孔明の亡骸(なきがら)は、かねてより願い出ていた、かつて劉備と「水魚の交わり」を結んだ古戦場・漢中の定軍山に葬られた。ここは魏と戦って、勝利を収めた思い出深い古戦場であったからだ。

 孔明の墳墓は、山その儘(まま)が用いられ、棺を入れるだけの広さの冢(つか)が掘られ、副葬品は、普段孔明が着ていた平服を納めるに過ぎなかった。これは一国の宰相としては、あまりにも簡素を極めたものだった。
 また、それに見合うかのように、孔明の財産と言えば、成都(三国の蜀の都)に桑を八百株ほどと、痩せた土地の纔(わずか)に15頃けい/中国の地積の単位で、1頃は100畝(ほ)で、1畝は100歩であり、今日の面積で言えば約15分の1ヘクタール(0.67アール)のこと)、を所有するだけだった。その上に、余分な財産は蓄えていなかった。

 孔明は、自分の死んだ後も、家族の衣・食・住はこれだけあれば充分であると考えたのであろう。
 「児孫のために美田を買わず」という言葉がある。これは西郷隆盛の言葉である。
 西郷隆盛は、子孫の為に財産を残すと、かえってよい結果にならないから、そうしない事を、敢えて実行した人であった。この意味に於て、孔明の清潔さと酷似(こくじ)する。

 世の中には、一旦権力の座に上り詰めると、その地位を悪用して、人民の膏血(こうけつ)を搾(しぼ)り、我田引水を図って、賄賂(わいろ)を取り、巨万の富を築き上げる我利我利(がりがり)亡者(もうじゃ)がいる。その上、国家人民や、県民の運命には何の関心も示さず、ひたすら吾(わ)が身一身の利害を図る官僚や政治家が、決して少なくない。不正や談合で、私腹を肥やす輩(やから)は少なくない。

 しかし、孔明はこうした吾が身一身の利害には、露(つゆ)程も関心を示さなかった。その証拠が、桑を八百株ほどと、痩せた土地の15頃(けい)であった。私財は、清々しいほど、纔(わずか)なものであった。これこそ「身を殺して仁を為(な)す」ではないか。また、「家の為にせず、国と為にす」ではないか。

 かつて孔明は、劉備に「三顧(さんこ)の礼」をもって迎えられた。そして「天下三分の計」を実現に移す。
 更に精進努力して、再び漢の王国を中原(ちゅうげん)に建設する為に粉骨砕身し、蜀と言う国家の運命に殉じる覚悟をする。その、自らの持てる全力を国家建設の為に傾け、燃焼するのである。これこそが、無から有を生み出す、孔明の掲げた哲学ではなかったか。
 そこには凡夫(ぼんぷ)が決して想い描けない、途方もない戦略構想に賭けた、壮大な男のロマンがあった。
 そして、一片(いっぺん)の私心もなく、憂国の情に燃え尽きた臥竜孔明の壮烈なロマンがあり、それは今なお、歴史の中で語り継がれている。


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