■ 西郷派大東流道場歌『五輪の魂』 ■
(さいごうはだいとうりゅうどうじょうか・ごりんのたましい)
●西郷派大東流合気武術・道場歌について
西郷派大東流合気武術・道場歌『五輪の魂』は、道場生の道標とならん事を願い、昭和五十年に現宗家・曽川和翁先生によって作詞・作曲され、近年、歌詞の一部が改正されて新しいものになった。そして今も、道場生に歌い継がれている。
しかし、メロディー譜があったものの、約三十年間、放置されたまま、今日に至っていたが、この度、著名な音楽家の佐孝康夫氏の協力を得て、編曲がなされ、立派な演奏曲が出来上がった。
※ファイル形式はMP3です。
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なお、本メロディー伴奏の編曲は、佐孝康夫氏によるものです。
演奏時間は3分51秒です。
現代は激動の時代であり、単にこれは「激動」というばかりでなく、これに加えて、何か世情騒がしく、ある意味で「争乱」を暗示する時代である。
西郷派大東流の掲げる武術思想は、宇宙エネルギーの根本である「五行」であり、木・金・土・金・水の宇宙のエレメントならびに、地・水・火・風・風の「五輪」である。この宇宙のエレメントと一体になったとき、人間は無心の強さを得ることが出来る。
だからこそ、わが流はこれを人の持つ身体行動と一致させ、宇宙の生命力と一体になる伝統武技を技術面に生かし、また、これを鼓舞してきた。そのこぶの象徴が、わが流の道場歌である『五輪の魂』 であった。人倫が乱れ、世の中が混沌とする現代だからこそ、人は世情の動きに翻弄(ほんろう)されることなく、毅然(きぜん)とした人としての姿を保ち、中心に帰一する必要があるのである。
しかし、一方でこうした争乱を暗示する世の中の危急存亡の時機(とき)でありながら、昨今の若い男女は、街角で、あるいは公衆の面前で、恥じらいもなく抱き合い、あるいは抱き合ったまま口づけをし、それを恥じようとしないばかりか、自分達は、世の中の政治や経済や軍事より、あるいは日本という国家より、自分達のかりそめの恋愛ゲームが大事と言わんばかりに、飽くなき情慾や肉欲に浸り、欧米人が見ても目を背けたくなるような、かつて欧米にもこんな習慣や包容はなかったと思われるような、そんな無態(ぶざま)な恋愛ゲームの醜態にうつつを抜かしている。
若い男女の考え方や、彼等の考える恋愛ゲームに、とやかく言うつもりはない。また、流行に翻弄され続ける若い男女の個人主義的行動に嘴(くちばし)を挟むつもりはない。
だが、危急存亡の時機に、街角で、公衆の面前で、若い男女が抱き合い、愛憎の世界に明け暮れ、自分たちは、互いに愛する権利があると言わんばかりに、こうした恋愛ゲームに耽り狂い、こうした快楽遊戯こそが恋愛の根本であるとする考えは、いかがなものか。
また、人生を快楽と享楽に摺(す)り替えてしまったと言うばかりでなく、その結果、国の将来に、昏い暗示を投げかけるものであると思料される。
その他、小説にしても、歌謡曲やそれに附随する和製ポップスやソフトロックにしても、単に男女の未練や、愛憎や、恋愛遊戯の快楽や享楽のみに焦点を合せ、いかがわしい性風俗のみが流行し、これこそが人生の中心と言わんばかりの墮落のしようは、一体どう考えればよいのか。
果たして、人が口ずさむ詩(うた)というものは、愛憎モノばかりでよいのか。
今日の日本民主主義は、本来の民主主義とは異なる悪しき個人主義への方向を露(あらわ)にしている。自分たちさえよければ、それでよいという考え方が罷(まか)り通っている。こうした悪しき個人主義が、種々の犯罪を生み出していることは事実である。大人も子供も、日本人の美徳であった礼儀正しさを失っている。礼儀正しさを忘れるということは、理不尽な世の中が出現するということである。
果たして、これから先きの日本はこれでよいのか。
あるいはこれから先きの日本の未来に、希望の燈火(ともしび)は灯されているのか、こうした事が、今の世の中を見ていると、実に疑わしくなってくる。
一方、憂国の情は、男女の肉愛の官能ばかりを語るのではなく、違った角度から、若者を指導する、古来からの伝統を引き継いで、これを国民の共通の文化資産と考え、これを心ある青少年に指導する武士道集団がある。これが現代に、武士道を実践する西郷派大東流である。
そして西郷派大東流には、未来展望の思想を、武士道の中に回帰する。
肉欲や、情慾や、未練や、男女間の惚(ほ)れた腫(は)れたの愚痴ばかりが渦巻く世の中で、崇高な、高度な次元から、人間と言う、生きとし生けるもの実態を見つめ、これに教訓を残そうとする武士道実践こそ、わが西郷派大東流の目指す理想郷とするところである。
こうした時代であるからこそ、その一方で、現代に生きる武士道の実践に共感を覚え、曽川和翁宗家の作詩・作曲の『五輪の魂』に、編曲をお手伝い下さったのが、佐孝康夫氏である。佐孝氏は著名な音楽家であるから、ここでは多くは語らないが、氏は誠実な、至誠を貫く人であり、また尊敬に値する人である。
さて、昨今はスポーツ格闘技の強弱論が持て囃(はや)され、多くの武術家や武道家と自称する一部の愛好者は、試合に勝つ強弱論の日本武術を考え、それをアメリカ・ナイズすると言う西洋式のスポーツ理論で捉え、新興武道の多くは、この域から抜け出していない観が少なくない。
また、武士道を掲げながらも、その一方において、その精神性は貧弱であり、その貧弱さは武道愛好家の礼儀を見れば、一目瞭然(いちもくりょうぜん)となる。
礼儀に始まり、礼儀に終わる武の精神は、単に挨拶やお辞儀程度の希薄なものになり、また、当然その背後に備わってならないはずの思想が、殆ど抜け落ちている。
いわゆる貧困な精神の希薄さだけが表面化して、精神性は実に貧しい限りである。
古来より連綿と続いた日本武術の精神性は、その技術面だけが解釈されて、明治以降は西洋スポーツと合体して、その修行法も日本独特のものであるとは言い難いものになっている。表面は日本武術を旨く偽装しているが、中身は西洋スポーツのそれであり、勝敗にこだわる風潮が生まれ、勝者のみが英雄視される現実を生んだ。こうしたものは、今日、競技武道に見る事が出来る。
では、真の武士道精神を背景とする日本武術の姿とは如何なるものか。
それは精神的豊かさを指す。
かつての武人達は、日本武術を通じて、単に技法を修練するだけではなく、人倫の道に則って、その精神性にも磨きをかけた。したがって、その精神性は非常に豊かであり、人間心理の洞察力に富んでいた。そして、最もよく学びとった人間は、物質主義や肉体主義の一神教に溺れる事はなかった。
求道者は、必ずしも経済的に豊かである必要はない。有り余る物財に身と纏(まと)い、取り巻に傅(かしず)かれる必要はない。今日一日を一生懸命に生き、その日の糧(かて)があればそれでよく、明日を憂うる事はない。
西郷派大東流は、精神的貴族あるいは精神的上級武士を目指して修行するものである。
真の貴族は金持ちでもなく、また真の上級武士は殺伐とした闘争の中に身を置くものでもない。
立派な家に住まなくても、そこに毅然(きぜん)とした誇りがあれば、その人は既に精神的貴族であり、精神的上級武士である。貧しい服装をしていても清潔であれば、既に武士道を全うしている事になる。貧しい家に住んだ修行者であっても、物事をよく学び、友文尚武の道に邁進している者であれば、この人こそ、日本における精神的な貴族であり、また、上級武士なのである。
沢山の物財に囲まれ、財産を殖(ふ)やし、理財を貯える姿は、貴族や上級武士の真の姿ではない。
昨今は沢山の物財と沢山の金を集める事が英雄視される時代であるが、その空虚な空白を埋める為に、「金持ちである」ということが一つの宗教になってしまっている。そんな空虚な心が燻(くすぶ)るからこそ、大勢の女性に囲まれ、性関係を持つような、墮落したスキャンダルが、スポーツ・タレント等の間に流行するのである。そしてそうした考え方に陥ると、若い多くの女性を集め、沢山のセックス経験を持つ事が、より人生を豊かにすると言う、間違った観念が蔓延(まんえん)してしまうのである。
日本は明治維新以降、西欧社会で行われている処世術を取り入れ、また物質主義を直輸入して、それを鵜呑みにし、消化不良に陥った現実を作り上げてしまった。そしてこうした現実は、日常茶飯事となり、各界の、各階層に蔓延している。こうした現実を踏まえて、今日の日本人は、古来の日本武術が非常に素朴な精神性から出発している事を、再認識しなければならない。また、その根本には深い人間性の洞察力があった事を知らなければならない。
しかし西郷派大東流の根底に流れる武術的思想は、決して物質主義を否定している訳ではない。また、金銭的に豊かになり、成功すると言う価値観を否定している訳ではない。
沢山の財産をい持つ事と、沢山の金銭を貯蓄する事と、武士道を全うする事は全くの別問題であり、これを目くじら立てて否定している訳ではない。
金銭を集める事が罪悪の行為であり、また、金持ちが地獄へ落とされる罪になうと言う考え方は、むしろ日本的な考えではなく、明治維新以降日本に蔓延ったキリスト教に基づく金銭蔑視の思想であり、日本古来の光明思想とは全く無関係なものである。
人間が進化を遂げ、より多くの智慧(ちえ)を貯える事が出来るならば、金銭を貯え、財産を持つと言う定義が、その第一の目的となり、最優先される考え方ではないと言う事だけなのである。
しかし絶対に忘れてはならない事は、金銭は人間がコントロールするべきもので、人間が金銭に支配されてはならないという事である。また、人間は多くの金銭を求める為に生きているのではなく、自由に、上手に、無駄なく、金銭をコントロールして、よりよい人生を送る為に金銭を遣うのであって、単に金儲けの為に、金銭を遣うと言う思考に陥ってはならないという事である。
金銭を、如何に有効に遣うかと言う事は、その中に「よく金銭について学ぶ」という金銭哲学が息づいていなければならない。人生の於ける金銭の持つ価値観とは、金銭を建設的に、賢明に遣う事こそ、金銭を所有する人間の義務であり、その義務において、人間は責任が生じるのである。
武士道精神は、現代人にとって、最も欠落した思想である。一言で武士道と言うが、これを身を以て全うしている人は実に少ない。
また武士道を標榜していても、そこに流れる根底には、自我や自流の我田引水が働き、自流を高く置き、他流を低く置いて卑しめる姿が各流派の言に認められる。
修行者が修行者の毅然とした態度を評価できるのは、その人個人が持つ、志(こころざし)の強さと純粋さのみである。そこにあるものは、心と身体の統一であり、志を成就させんとする意識の集中である。
人間は、俗世の常識や知識では如何ともし難い現実がある。俗界生活での過去は、余りにも儚(はかな)く、脆いものである。世俗の常識や知識では、修行と言う次元は、決して乗り越える事が出来ないのである。修行に必要なものは、厳しい師が存在する事であり、この師の厳しさ如何で、修行のレベルが決定されてしまうのである。
そして、厳しい師が存在すると言う事は、挫けそうになった時の手本となり、難行苦行の末に物事の成就が待っている。
道は大きく分けて自力の道があり、また、他力の道がある。そのいずれも、斯道の道統によって切り開かれたものであり、そこには縁によって恵まれた人々が、相集い、ついに成就を見る道なのである。
わが西郷派大東流では、武術鍛練を通じて、武士道を実践すると同時に、精神的な貴族と上級武士の気風を掲げ、求道精進(ぐどうしょうじん)に道場歌『五輪の魂』を、君子の性(さが)とする次第である。
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