■ 綱武館の歴史 ■
(こうぶかんのれきし)
古人は武術修行の中で、人間としてやって善い事と、悪い事を区別する能力があり、その禁を絶対に犯さなかった。しかし今日、こうした事は無視され、かつての師匠に「後足で砂を掛ける輩」が増えている。
修行事で、諸事情から退会するという事が起こるのは、致し方ない事である。
こうして辞めていく時、問題なのは、師への批判と中傷をあらわにして、かつての師の悪口三昧を言って、それを他武道・他武術あるいは他流派に移籍した以降も、ますます感情的に言いふらす事である。これは武術家として非常に恥ずかしい行為である。
退会するという行為は、道場や指導者への疑問や批判から、他の道場に移籍したり、そのまま情熱がなくなって、道場を辞めるという行動に出るのであるが、特に他道場に移籍した場合、かつて所属した団体についての、批判がましい言動は慎まなければならない。
これは古来からの武術家の世界では「鉄則」であり、こうした鉄則を破ったものは、移籍しても、そこで人間としては高い評価は受けなかった。
こうした退会して行く者の中に、特に不心得と思われるものは、かつての師範や自らの師匠であった恩人に対し、悪しきざまにこれを公言し、また、かつての仲間や先輩たちを尻目に、他派や別流派で稽古を平然と始める者がいる。
また、こうした者の中で、上位にある場合、後輩たちを率き連れて他派に移籍したり、自分自らが師範や会長や総支部長を名乗り、自分がこの世界で第一人者のような顔をして、テレビに出演したり、マイナーな武道雑誌にこれを公表したり、かつての師匠や先輩たちを、足蹴りにする高慢な輩がいる。
極めて目障りな態度であり、こうした事を「造反」というが、これは人間として、もっとも恥ずかしい態度であり、いわゆるこれが「後足で砂を掛ける」という振舞である。
古来より、武術の世界で種々の紛争が生じるのはこうした事が火種となり、これによって他派をなじったり、誹謗・中傷という、人間の最も醜い部分が表面化している為である。
こうした事に対し、進龍一皆伝師範は『大東流合気武術3』(愛隆堂・曽川和翁監修、進龍一著/この書は現在は『大東流合気之術』に纏められ、装いも新たに出版されている)の「あとがき」で、こう述べている。
「私はかつて、習志野の地において北海道大東流宗家・武田時宗先生と対談し、大東流合気武道の千葉支部長をやってみないか、との御誘いを受けた事がある。
しかし私はこの道を選択しなかった。
今日の世の中は、ある意味で乱世の世と同じである。乱世をうまく渡り歩くためには、その情勢をうまく見極め、最も強いと思われる力に依存していく事が、世渡りであり、世間の常識というものであるが、私は、これを選択しなかった。
それは何故か。
西郷派大東流合気武術宗家・曽川和翁先生の生きざまに、深い感銘を覚えるからだ。
挺身古武術界の開拓者たらんとして、己一身の利害も顧みず、座して強者の軍門に降り、尻尾を振って吸収されるよりは、少しでも強者に乗ずる隙があれば、その可能性に賭けて、苦悶の中に飛び込み、敢えて困窮する人生を選択して、先代山下翁より受け継いだ西郷派大東流の普及に努力する、わが師・曽川和翁先生の前向きな姿に、深い尊敬と畏敬の念を抱いているからだ。
私はその、わが師の生きざまに、いつしか触発されて、今日まで西郷派大東流合気武術をやってこれたのである。
私が大東流復興に心血を注ぐのは、わが師の説く、日本太古の『かんながらの精神』に基づく、民族の中心帰一と、人を導く『奉仕の精神』に共感するにほかならない。
これが武道家に与えられた天命であると思っている。一身一命をなげうって、全体の利益のために貢身する『奉仕の精神』に武道家として立脚点を感じるからだ。
武道家が世に立脚する『立命の一灯』は、即ち『奉仕』の一語に尽きるのではあるまいか」
以上を読むと、進龍一師範は「武道・武術」を、体系的に優れているか否か、また、自らの学ぶ武技が、単に人を斬り、人を刺し、人を蹴り、人を殴り、人を投げ、人を絞め、人を極め、人を固め、人を抑え、ただそれだけに習熟する事を目的としていなかった。単にそれだけでは「屠殺人(とさつにん)」である。
こうした類の武技を練習して、せいぜい出来がよくても、暗殺請負人どまりであろう。
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▲曽川宗家と進龍一皆伝師範
(平成九年六月、某TV局の録画撮影当時)
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古来の武術実践者並びに、武士道実践者たちが、高い品位と風格を保ちえたのは、ただ人から恐れられ、狂暴の徒として、撃刺の凶器としての技を磨いた事によるものではない。
この日々の修練の背後には、文武両道の道を志し、名誉と恥辱に対する感性とその感度を磨いていたからである。
これが磨かなければ、人殺しの技を、傲慢と売名にすり替えなければならなくなる。
また昨今は、武道や武術を、商業の一種と考え、流名を商標登録する指導者が出て来た。
商標(trade mark)とは、営業者が自己の商品・サービスである事を示す為に、使用する標識であり、サービスについて使用される商標はサービス・マークと称されるのであるが、驚きにも「大東流」を商標登録した武道家がいる。
全く、呆れるばかりだ。
この人は、武道を何と心得ているのであろうか。
ちなみに、商標権と商標法を述べておくが、商標権は工業所有権の一で、商標法に基づく権利である。これは特許庁に登録された商標を、その指定商品について排他的・独占的に使用しうる権利であり、その権利の存続期間は、設定登録の日から10年間であるが、更新する事ができる。
また商標法は、商標について特許庁への登録により、独占権を付与し、これによって競業秩序を維持する為の法律であり、現行法は1959年制定された。
この武道家は、既に大東流という武道を商行為と看做し、それは対価の対象であると見ているようだ。要するに、自分一人が独占する商行為に、大東流の指導があり、その指導は「競業秩序を維持する」という名目を以て、それが商売上の行為であると認め、また古人の培った日本武術を「金儲け」と定めているようだ。
既に述べたが、「月謝は対価でない」ことは明らかだ。
武術や武道関係に限らず、一般の習い事である、日本舞踊や邦楽、茶道や生け花といった関係のものは、その本来の姿が、賞品取引の際の対価でない事は一目瞭然である。したがって領収書の類の発行もない。
しかしこれが商売として「競業秩序を維持する」という名目であるならば、弟子は商店の顧客となり、商店主は顧客に媚びを売るサービス・マンに成り下がってしまう。
果たして、子弟関係における、師と弟子の関係は、こうした商店主と顧客の関係なのだろうか。そうなれば修行の世界の子弟関係は崩壊してしまうが、これをどう思われるだろうか。
現代は、日本の良き伝統であった、求道の士が究極とする「謝」の意味が失われた時代である。したがって「謝礼」と「対価」を区別できる良識者は稀である。その為、表面は武道家を気取っていても、中味は軽薄であり、「謝礼」と「対価」の区別がつかなかったり、「届け」や「願い」の区別が出来なかったりして、礼節と謙譲に欠ける輩がひしめいている。
今日の日本が、アメリカのように訴訟社会になり、武術武道の世界にも法が入り込んできて、何でも法を盾にとって、崇高な武術・武道の精神を、こうした商標権にすり替えて「武道イコール商売」と考えるのは、如何なものであろうか。
本来ならば、武術家というのは、商売人のそれでなかったが、いつから武術・武道家の名乗る人が、商売人に成り下がったのだろうか。
こうした事が起こる原因は、武道を愛好する愛好家の、彼等が置かれている世界の違いから起こるものであろう。武道家といっても、本来は仕事の余暇にそれを愛好している程度の事であり、日夜精進を重ねてそれに邁進する「修行」を行っていない為に、こうした区別の錯誤が起こっているのである。
しかし武術の世界は修行の世界であって、一般に愛好者の集いとして催されている、アメリカ式のスポーツジムや、リクレーションや商取引の世界とは違うという事を認識することが先決であろう。
さて、再び綱武館に戻ろう。
初期の綱武館の稽古は毎週月曜と土曜であり、週二回であった。ここの責任者として道場を任された進龍一師範も奮闘努力したが、それにもまして、岡本邦介皆伝師範の奮闘は物凄いものであった。
この頃、岡本皆伝師範は、JRA日本中央競馬会に勤めていたが、仕事場が千葉県船橋市から、茨城県稲敷郡美浦村の美浦トレーニングセンターに転勤になり、住居もそこへ移転していた。しかし、岡本皆伝師範は美浦から習志野まで(二時間強の距離)90ccのバイクで毎週二回、一日も欠かさず通い詰め、後進の指導に当った。雨の日も、風の日も約十年近く通い続けた。
その後、美浦トレーニングセンターでも厚生会館が出来、その中に道場が出来て、曽川宗家が、福永陽一騎手の落馬事件を切っ掛けに、厩務員や騎手の為(落馬寸前に躰を丸めて受身をする事を目的)に、JRA日本中央競馬会の特別講師に招かれ、美浦道場を毎年一回指導するようになった。
岡本皆伝師範は美浦道場の顧問をしつつ、また習志野まで指導に当っていたのである。
綱武館の現在までの発展は、こうした岡本皆伝師範の陰の協力と援助があったからである。
しかし現在、岡本皆伝師範は七十四歳の高齢であり、指導は後進に任せ、同師範は茨城支部の美浦道場においてのみ教伝を行っている。
そして綱武館は平成2年10月から平成3年12月まで、曽川宗家がその指導と運営に梃入れをした事があり、綱武館の「綱武」という名前の由来に因み、「綱武出版」の初期を設立し、これが株式会社・綱武出版として現在に至っている。
また現在の綱武館は、岡谷信彦六段が道場長としてこの後を引き継いでいる。 |