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志高く、より良く生きるために

■ 壮年、高齢者のクラス ■
(そうねん、こうれいしゃのくらす)

●人間関係と西郷派合気を通じての品格の養成

 精神分裂病という医学用語が、日本精神神経学会が2002年6月30日に、差別や偏見を招きやすい「精神分裂病」という呼び名を、「統合失調症」に改められた現代社会は、人と人とが相対して、真剣に何事かを為(な)すというところに、済(すく)いを求める箇所が、唯一つ存在しています。
 それはまず、武は「礼に始まり、礼に終わる」という、人間社会で最も大切な「礼儀」がこの中に含まれているからです。

 現在、社会に生きていて、滅多にない状態を合気と言う武術は作るからです。それは相手に対峙(たいじ)していて、自分の身体ごと投げさせる、手頸(てくび)を捕られて捻られる、抑え込まれて経絡上の経穴(ツボ)を踏まれる、という関係から生まれます。これによって自他共に磨きあう「砥石」(といし)の人間関係が生まれます。そしてこうした人間関係を通じて、磨きあう関係を積み上げて行きますと、次は相手の身体の一部を触れて、意図も軽々と投げるところに帰着します。これを我が流では「合気」と呼んでいます。

 「道場」という修行の場において、相手を投げたり、倒したりすることから始まるのですから、人間関係の希薄になった現代社会においては、ちょっと変わった、密な人間関係の在(あ)り方かも知れません。
 基本動作は木刀の素振り後に行われる、相手に技を掛けさせることから始まります。
 まずは自分が技を掛けられ、次に相手に技を掛けるのです。「砥石」の自他共に磨き合う效果は、こうした磨きあう関係の裏に隠れていますが、一見大変なことだと思います。思い切って相手の手頸を握り込み、握った瞬間に倒されているのです。
 そうやって一所懸命に心身を働かせることに、重要な意味が含まれています。

 これは現実の中で、相手と伴に、非言語的に、かなり深いところまでわかり合えるような、ちょっと変わったコミュニケーションなのではないでしょうか。
 また、そこに独特の意味があるのです。

 更に、もう一つの良いところは、これからの超高齢化社会に向かって、齢をとっても、若い人と共に楽しめる可能性が高いという点です。社会全体が超高齢化に偏る現代、老人は置き去りにされ、また後を追う壮年層は、近未来の超高齢層であり、ここに社会の宿痾(しゅくあ)があります。これは否定しても、否定できない現実です。
 人間は生・老・病・死の四期のサイクルを順に追い、やがて死に向かいます。これは何人たりとも、否定できない現実です。

 さて、西郷派合気の目標とすることは、相手に触れただけで投げ倒す事の修行にあります。
 自他ともに追求する真の「触れただけで倒す合気」を求めて修行が行われるわけです。
 この真の合気は、なかなか得られるものではありません。
 心・気・力の一致がなくてはなりません。
 そのためには執着を離れ、身を捨てることが必要になります。

●誇り高く生きる人生の選択

 尚道館の武術指導は、強いか弱いかの強弱論ではなく、人間として、自分を大事にする生き方を教えます。
 世の中を見回してみますと、「自分を大事」にしている人を殆ど見かけません。そして多くの人は、「自分を大事にする」ということを、「自分を甘えさせる」と誤解しているようです。
 他人に厳しく、自分に甘いという人が多く、結局この考え方は、最終的に自分を駄目にしていく結果を招きます。

 かつて徳川家康が少年の頃、竹千代(松平広忠の長子)と言われる時代、今川義元(戦国時代の武将で、氏親の子。駿河・遠江・三河地方に勢力を振うも、織田信長と戦って桶狭間おけはざまに討死。1519〜1560)の人質となって少年時代を過ごしました。そしてそこで竹千代を襲ったのは数々の、自分を駄目にしていく事柄ばかりでした。

 義元は、松平家の人質竹千代を家臣に命じて、「竹千代を惨(むご)く育てよ」と厳命します。
 義元の言った「惨く育てよ」とは、早くからから美食にふけらせて、美女をあてがえば、その人間は、麻薬に溺れるように、次第に崩れて行くと言う事を意味していたのでした。
 人間は、まず美食で崩れ、次に美女によって崩れます。十二・三前後の少年時代に、贅(ぜい)を凝らした美食の味を知り、こうした年齢に色に溺れ、女を抱くようになるとどうなるでしょうか。

 これは言わなくても結果は見えています。
 「美食」と「色」と言うものは、人間の三大欲求本能の各々ですから、一度こうしたものに溺れると、麻薬と同じで、ズルズルと崩壊の虎口に向かって引きずられて行きます。
 「惨く育てよ」とは、竹千代少年に重労働を化したり、質素倹約をさせて、極貧に追いやる事ではなかったのです。
 ところがこうした現実を、現代に振り返って考えて見ますと、多くの人は、美食に舌鼓を打ち、女漁(おんなあさ)りの為に、あるいは異性を求めて、同性(現代社会はストレス過重の為、性バランスが崩れ、ホモやレズが激増する要素を持つ。現代の奇病と言われるエイズも、実は此処から起因した)を求めて、週末ごとの性情報に眼を輝かせているではありませんか。

 何処かに、旨い物を食べさせる店があると聞けば、どんなことをしても、この店の料理を食べたいと思い、押し掛け、長い行列をつくります。
 また何処かのクラブやスナックに可愛い娘がいると聞けば、万難を排いしても出かけて行って、口説き落とそうとします。そしてこうしている事が、やがて自身の不摂生へと繋がって行き、自分を探す事が出来ないまま、哀れな晩年の人生を迎える事になります。

 あなたは、美食の原料とそのレシピが、如何なるものか御存じでしょうか。
 人間が料理を舌に転がして美味しいと感じるのは、動物性蛋白質が第一に挙げられます。次にレシピですが、それはふんだんな香辛料と甘味料が挙げられます。
 特に大量に使われている白砂糖は、料理の隠し味として使われ、目先三尺と舌先三寸を麻痺(まひ)させ、こうした味は、次第に自身を虜(とりこ)にし、魅了して行きます。糖尿病の多くの患者は、こうしたものが病因でした。
 目を失い、壊疽(えそ)から脚を失い、人工透析を繰り返している患者の多くは、過去、こうした美食に魅了された人達でした。脳の満腹中枢が狂っているばかりでなく、基本的な食生活が間違っていたのです。

 ところで白砂糖、白パン(現代は白米がこれに加わる)、精白精製塩を「三白ガン」というのを御存じでしょうか。「白い食品」はガン体質を作り上げる、最たる元凶なのです。
 それに食肉や乳製品の動蛋白が加わりますと、内臓機能の老化を早めて、肉の分解によって生じた強酸類は血液を酸毒化し、代謝機能を根底から狂わせる結果、性的な病的興奮や深刻な排泄障害を起こします。

 食肉をすれば、性的な興奮が増強されて、極度に異性や同性が欲しくなります。また排泄障害にも支障を来すようになります。前立腺肥大症や前立腺癌、睾丸癌、陰茎癌などがこれにあたります。女性では子宮癌や子宮筋腫(十代半ばの、早くからセックスをする女性に多い疾患で、男の恥垢が原因である場合が多い)などです。

 血液中に肉成分の過剰な酸類が取り込まれますと、性腺を刺激して、異常な性的興奮が高まります。これは早熟や老化を招くばかりでなく、性犯罪(強姦、強制猥褻、幼児誘拐、幼児セックス、ロリコン趣味など)へと移行して行きます。
 昨今の青少年の性犯罪多発は、こうした食肉や、食肉に附随する白パンや白米に原因があり、これを味付けする調理法の段階で、大量な白砂糖が裏味・隠し味として使われている事です。

 しかしこうした食生活や、異常性興奮と言う現実の恐ろしさも知らず、自分を粗末に扱っている人は少なくありません。

 自分を大事にするとは、自分に甘い自分を作る事ではありません。自分自身を正しく律し、厳格に自分を見つめ直す事こそ、自分を大事にし、自分自身の内側にある、新たな自分を発見する事なのです。

 つまり無心になるということです。無心になったとき初めて最も合理的な行動がとれているという、一見矛盾した、心の働きを、心身を働かすことによって体得してゆくのが稽古であり、これが一生涯を通じての人間の修行なのです。

 その際、いろいろな邪魔が入ります。怠け心ですとか、気分が乗らないとか、時間がないとか、経済的な事情とか、ありとあらゆるものが邪魔をします。しかしこの邪魔を乗り越えたところに、一つの修行のステップがあります。

 武術には「四戒」というのがあります。四戒とは「四つの戒め」です。驚・怯・疑・惑を去れと言うものです。
 昔の人は、驚・怯・疑・惑を武術における四つの「心の病」と考えたようです。
 これらは皆、人の心の持っている本性に根ざしています。
 驚とは「驚き」であり、怯は「怖れ」あるいは「怯え」であり、疑は「疑い」であり、惑は「惑う」ということです。
 こうした心の病は何故か、混乱を来す「パニック障害」に似ていませんか。
 そうです、精神分裂病と言う統合失調症です。こうした症状は、心の偏りからくるものです。

 心を何ものかに囚われて、それに固執する事は誤りです。しかし現代人は、こうした固執から、なかなか解放されようとしません。したがって、もう一度、自分の心の中にある「柵」に向き直らなければなりません。こういったものと対峙して、我を捨てて、わが身を捨てて、無心に稽古する事によって、生死を越えた死生観が存在するのです。
 昔の人でしたら、生死を踏み越えたところに「活」あり、閉ざされた打開路が見出せるというところでしょうか。

 西郷派合気では「自分を作らず、虚構せず、あるがままに、目的本意に行動せよ」と教えています。
 西郷派合気の最初の第一歩は、坐して互いに、一対一で向かい合い、相手の手を封じ、それを押さえ込む事にあります。相手に抗(さか)らう人間関係の対峙を通じて、やがてはそれを基盤として、互いが磨きあう人間関係の構図を作り上げて行きます。

 今日の社会は、資本主義の競争原理に従って奔走する社会構造になっていますから、相手を生かしたり、相手を生かす事によって、自分自身も錬磨して行くと言う人間関係になっていません。少しでも隙(すき)があれば、相手の弱味に付け込み、押し退け、引きずり落とそうというのが、この社会の競争原理の働くところですから、自他共に相殺しあう関係になっています。相生関係ではなく、相尅関係です。しかしこれでは人生をよりよく生きて行く事は出来ません。

 繰り返しますが、武は礼に始まり礼に終わります。礼を重んじることによって単なる投げ合い、倒し合い、崩し合いを、人間の成長に資するように姿を変えたのが、古(いにしえ)の武術家達の智慧(ちえ)でした。
 ここからは相手との切磋琢磨であると同時に、自分との戦いになります。

 心・気・力の一致を求めて、気を働かせ、自分の身体に具現して、滞った霊肉を使うわけです。
 互いに相手の弱点や急所を攻め、攻防一致を学び、身を捨て打つことによって、天地自然と一致することを学びます。
 ここが、「自分を作らず、虚構せず、あるがまま、目的本意に為すべき事をなせ」という教えの真意です。
 これは現代だからこそ、逆に「人の和」に相通じるものがあります。

 教える側は、投げられたり押されることに始まり、同時に、投げられたり押されることに終ります。
 これは、弱いから投げられ、倒されるのではありません。互いに磨きあう砥石の人間関係を作り上げた上で、さらに「投げられる」「倒される」「崩される」という全身運動を展開させます。

 多くの現代人は、年齢と共に「肩凝り」や「腰痛」を抱え込んでいる人が決して少なくありません。理由は全身運動をせず、血流が滞るからです。肩に部分で滞れば肩凝りになり、腰や膝で滞れば腰痛や膝の関節痛になります。これは運動不足と言うより、普段遣(つか)わない筋肉や、内筋の鍛練を放置する事から起こります。
 忙しさや競争や奔走を理由に、自分自身を粗末に扱うと、やがて寿命を縮め、人生の本題を解決する糸口を見い出さないまま、無慙(むざん)な死に赴かなければならなくなります。

●「こだわり」を捨てる人生の生き方

 現代人は何故、こうも「こだわり」を捨てる事をしないのでしょうか。
 最近のおかしな社会現象に「こだわる」ことは善い事だというような、おかしな風潮が生まれました。料理から芸術に至るまで、全てが「こだわり」の極みであり、「こだわり」通すことの出来る人が、人生の成功者のように言われています。
 また世間では、安易に「こだわりの○○」などと言って、こだわることを評価する風潮があります。しかしこれは大きな間違いです。

 「こだわり」の心は、「我」(が)であり、拘泥(こうでい)であり、小さい事に執着して融通がきかないことを指します。こうした気持ちに発展しますと、勝負にこだわったり、思う所に凝り固まって、人の言に従わない、「ひとりよがり」の、「おのれ」の窮屈な迷妄の世界に踏み込む結果を招きます。そして最後には、物事の道理に暗く、実体のないものを真実のように思いこむような暗い、固定観念のからに閉じこもってしまいます。また、こうしたものが神経を病み、精神を蝕む、辛い後半の人生を選択しなければならない現実を招きます。

 この世の中は、心に描いたものがそのまま反映される「心像化現象」によって動かされています。したがって、こだわればこだわるほど、自らの我の世界に閉じ込められて、その行き着く先は「精神分裂病」という出口のない迷宮です。
 こだわった挙げ句に辿り着く処は、何人と雖も、この迷宮に彷徨(さまよ)う事を免れません。こうした、晩年の仕上げの時期に、こういう処に迷い込むと、折角に人生に有終の美を飾る事は出来ません。

 「こだわり」をさらりと捨てて、心を解き放ち、「こだわり」から解放される次元に到達しなければなりません
 日本も、アメリカ並に精神分裂病や神経症が猛烈な勢いで増加する傾向にあります。どこの精神病院も満員です。「こだわり」を捨てられなかった人で溢れ返っています。あなたが、近い将来、こうした病気を発病するか否かは、あなた自身にある「こだわり」を捨てられるか否かに掛かります。

 尚道館では「こだわり」のない、何事にも囚われない自己解放の指導を行いつつ、自他共に共存共栄する精神を学び、相手を受け入れ、育み、成長を期待して行くことに「歓喜」を体感する指導を行っております。
 のびのびと身体を使えるように引き立て、老若男女が共に集い、共に楽しめる優しい稽古場を主催しているのが尚道館の実情です。
 真の合気を求めて修行して行くわけですが、その目的は、人を投げたり倒したりすることでなく、また、痛めつけることでもなく、相手をこてんぱんに負かし、勝つことでもありません。合気を求めて修行する姿は、自分自身に勝つ、克己心です。
 目的は自分自身の生き方を修めることであり、我が身を正す、修身ということでしょうか。
 こんなところが、「とらわれ」という心の偏りに悩む人の、自己解放の唯一の拠り所なのです。
 そして基本動作を学びますと、相対しての引き立て稽古になります。

 こうした状態までレベルがアップされますと、相手は動きが自由になり、それが一定のリズムを作って躍動している事に気付きます。それと併せて、自らもその動きは自由になり、やがて目が開かれ、心も開かれてのびのびとした自由な心を取り戻す事が出来ます。人間の心は、もともと自由なものでした。ところが、何事かに囚われ始めた時から、自由な心を失い、我執の「我」に籠ってしまったのです。またこうした事が、憂鬱(ゆううつ)を作り出しました。

 しかし「我」を捨てる事によって、自由が得られるのです。人間の人生修行は、常にこの現実の中に「捨てて行く」というところに本当の真理があります。これが「こだわり」からの解放です。


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