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古人の叡智が集約する護身武術

■ 蜘蛛之巣伝について ■
(くものすでんについて)

 今日、大東流を「新羅三郎義光」や「大東の館」等を持ちだし、「大東流合気武道は、今から八百有余年前の清和天皇の末孫である新羅三郎義光を始祖として「大東の館」で修練したことに因み、《大東流》と称され…」と説明する団体もあるが、多くは武田惣角を中興の祖としている為である。

 武田惣角は字学のない人であったが、近代希にみる武術の達人で、特に剣は直新陰流を学び剣客の域に達していた。明治の世になっても、羽織袴に刀の大小を帯刀し、時代遅れの武者修行をして、日本全国を巡回した武芸者であった。

 西郷頼母はこのような武田惣角を哀れに思い、武芸(剣を捨てて無手の柔術で)で自立出来るようにと、彼の為に架空の伝書の形式(原本)を作成して与え、「会津藩御留流は清和天皇に源を発し、代々源氏古伝の武芸として伝わり、新羅三郎義光に至っては大東の館で一段と工夫を加えた。

 即ち戦死した兵卒の死体を解剖して、人体の骨格を研究した上で、女郎蜘蛛が獲物を雁字絡めにする方法を観察して、合気柔術の極意を究めた…」(牧野登著『史伝・西郷四郎』より)という甲斐・武田家伝説を付け加え、新たに「源正義」の名前迄を授けたのである。

 それにより惣角は頼母の言を墨守し、会津藩の名を恥ずかしめないようにと御留流、後には頼母が大東亜圏構想から、大東流を名乗ると、大東流柔術を名乗り、更に大東流合気柔術本部長と名乗り、生涯を通じて宗家とか、何代目とかは一切名乗ったことがなかった。

 この事からみても大東流の流名由来が、大日本武徳会創立時(明治三十一年)に、当時の大東亜圏構想に因んで、頼母によって命名された事は明らかであり、この命名によって、当時大陸問題に関わっていた西郷四郎の思想が、何らかの形で流名由来に投影されていたであろう事は容易に推測出来る。あるいは、最終的な命名者は頼母であったにしても、実質的な流名由来の立案者は、むしろ四郎によるところが大きかったかも知れない。


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