■ 大東流の由来 ■
(だいとうりゅうのゆらい)
大東流は、会津藩の殿中作法「御式内」と会津藩校・日新館の教科武術である「会津御留流(あいづおとめりゅう)」を複数の研究者たちが共同編纂し、幕末に完成させたものです。
「会津御留流」とは、全国各地諸藩の剣術、柔術、杖術、槍術、棒術、拳法、馬術、弓術、古式泳法、居合術、白兵戦組討躰術、等を会津藩の先駆者たちが共同研究し、まとめ上げたもので、この編纂に当たった中心人物が、会津藩国家老「西郷頼母近悳(さいごうたのもちかのり)」です。
当時の社会はまさに風雲急を告げる幕末の動乱期で、公武合体が叫ばれる時代背景の中、会津藩士が公家や幕府の要人を警護するために、頼母を中心とする研究集団が、元々会津藩校・日新館の教科武術であった会津御留流を「百十八箇条」からなる実戦的な護身術に練り上げたのです。
従って、今日他の大東流諸流派で囁かれている、一天才が創意工夫の末、明治・大正・昭和を通じて中興の祖となったとする説は、歴史的見地から見ても正確ではありません。
大東流の流名由来についても諸説ありますが、上記のような由来を支持する西郷派大東流では、やはり流名の名付け親は「西郷頼母(保科近悳)」であろうという説を採っております。
流名に含まれる「大東」の文字は、「大いなる東」であり、日の出る国、「日本」を意味しています。
西洋から見て日本は極東に位置するため、流名の名付け親である頼母は、当時の西欧列強を意識して、海外に向けて「大東流」を名乗ったのではないかと考えられるのです。 |