■ 御式内礼法・武門の心得 ■
(おしきうちれいほう・ぶもんのこころえ)
●礼儀を糺し、言霊の過ちを軌道修正する
人間と言うのは、いつの時代も迷い続けている存在である。
したがって迷いが過ちを誘導することは明白であり、迷いが狂いを誘発し、狂いが過ちを招き寄せるのである。ここに人間の「迷い続ける生き物」としての現実がある。
しかし実社会において、こうした過ちは、避け難い対象物となる。そしてこうした事態が発生した場合、問題はその過ちの種類と、その時とその場合の「詫び方」となるであろう。
「詫びる」とは、自らの使った言霊を修正する目的がある。言霊の間違いを正しく修正してこそ、その先に未来が広がっているのであって、言霊の間違いを放棄すれば、放置した人間に未来などない。こうした人間について廻るのは、永遠に閉ざされた「迷いの迷宮」のみが、その将来に亙って続くであろう。
今日、人間の犯す過ちは各種の領域に至り、時として人格論や品格論にまでその火種を誘発することがある。そして人格や品格に応じて、過ちを償う詫び方も色々であるが、大きく分けてこれには三種の詫び方のランクが存在する。
人間の出来が悪く、下賎(げせん)である場合、一切の自分の非を認めない人間は何処の世界にもいるようだ。
また、過ちに気付いても、居直ったままで、膨れ面(づら)して、頭一つ、その下げ方も知らない者も少なくない。自分が過失を犯していながら、その責任を他人に押し付けて、責任転嫁に長(た)けている人間がいる。知能程度や知識認識に関わらず、また知力とは一切関係なしに、こうしたタイプの割り合いは、全体集合の中で一定数存在する。これを「下」の人間と言う。
「下」の人間の犯罪的な要素は、自分の過失に気付きながら、これを全く改めない事である。過失を知り、これを改めないと言うほど、大きな過失はなく、もうこれは既に犯罪の領域のものである。凶悪な犯罪に加担するタイプの人間は総てこれに入る。
次に、ごく普通の平凡な人間が、何等かの過失を犯し、その過ちを認めても、必ず何か一言二言加えて自分自身を弁明し、自己弁護旺盛に、言い訳がましい弁解を付け加えるタイプである。こうしたタイプの人間は、過ちを認め、過失責任を感じつつも、その過ちを取り繕(つくろ)って、美化工作をする特性を持っている。
裁判で起訴されたり、過失責任を追求された場合、この種のタイプは、必ず何か一言付け加え、弁護士の先回りをして情状酌量の、自身への美化工作を意図的に弄(ろう)することである。この種は「下」の人間と違って、一応の過ちは認めるものの、美化工作を弄すると言うところに、このタイプの人間の意図が働いている。
起訴され、裁判を受けて立つ法令下の「中」の人間であり、「中」にランクされるものの、一度間違えば、「下」以下の小悪党に成り下がる危険性も持っている。全体集合の中で、このタイプの人間が占める割り合いは、全体の過半数以上を占めていると思われる。
この種の人間が、一度小悪党に成り下がると、その危険は社会全体を狂わす現実を誘発する。そもそも小悪党と言うものは、「下」の人間以上に市民生活のルールを大切にし、十二分に法律を認識し、ある程度の社会常識を持っている。法律の意識下で市民生活を大事にし、その枠の中だけで、自分だけ旨く遣(や)ろうと奔走する。
懸命に新技術を駆使したり、なけなしの知恵を絞り、何処か隙間は無いかと、自分の入り込む余地を検討する。車の運転一つにしても、交通ルールは大勢の見ている前では、その違反は犯さないが、人目の無い所では、侵入禁止を無視して逆走したり、違法駐停車をして憚らない。表面は、きちんと背広を着、ネクタイを結んでいても、人目の無い所ではこのザマなのである。そして、いっぱしの紳士面(しんしづら)したホワイトカラー族と云われる人達である。
「中」の人間は、「下」の人間が、法の規制や市民生活の社会的倫理を端(はな)から無視して掛かるのと対照的に、ある種のスマートさを求め、マナーやルールを表面に打ち出し、体裁をつけて立ち回ろうとする。世間風の常識と、市民生活のルールを守ろうとする意識を持っているから、一概に小悪党と決めつける手立てが無いところが、非常に厄介である。そしてその仮面は、何処までも善人面(ぜんにんづら)のそれであり、最後の最後まで、中程度の善人の仮面をとろうとしない。
特に、裁判所の定義する「善良な市民」(裁判所では、特に、性質が正直で温順な人間をこう定義する)と言う位置付けにランクされ、ごく普通の人間に多く、善人の仮面を被っているので、「下」か「中」か、甲乙つけ難い。
しかしこうした普通の仮面を被った小悪党が、一度狂うと大悪党以上の事をやってのけるのであるから、実に始末の悪い事もある。日本の経済犯罪者の多くは、この位置にランクされる者達である。
一方、サラリーマンにもこのタイプは多い。
戦後の民主主義体制下で解体されたはずの、かつての全体主義的な、強制的かつ抑圧的な社会規範は、現代では「企業」という組織集団の中で息づいている。
現代では大企業を中心とする企業体が、かつての財閥企業の規模を縮小し、穩やかな仮面を被って偽装(ぎそう)し、再現する形で生き残っているが、その実態は、命令調の全体主義的な体質が依然生き続けているという事である。
近代資本主義が高度化し、金融経済の発達で、利潤を追求する最近の管理された企業体は、企業論理や組織集団と言う関連性の中で、益々、個としての一社員の存在は無視され、主体が個人に置かれるよりも全体に置かれると言う実情がある。個人の主体性を見た場合、個としての、個人の人間的な主体性は殆ど顧みられることがなく、個は阻害される対象物に成り下がっているのではあるまいか。
そして企業集団による独特のエゴイズムによって、企業独占のエゴイズムが罷(まか)り通り、やがてはそれが重役達の私物化へと繋(つな)がって行く。昨今の某巨大銀行の副頭取らが関与した不正経理ならびに、検察庁捜査の妨害工作や証拠隠滅事件などは、これを如実に顕わした事件ではあるまいか。
また、都道府県の警察機構の中で不正経理が、次々に発覚する現実は、要するに、大企業の重役同様、警察官僚にもこの種のエゴイズムが蔓延(はび)こっている実情を明白に物語っている。
そして不詳事の手先にさせられるのが、いわゆる「会社人間」とか「下級官吏」という会社や省庁のホワイトカラー族と云われる人種である。
会社人間は企業家の一社員であるが、この一社員が、「管理職の立場に立って、経営者の気持ちで物事を考えよ」と上司から命令された場合、例えば公害問題などでは「公害を出しているのはウチだけではない」とか、「公害対策をいちいち行っていては、会社が潰れてしまう」というような結論に至った場合、もう、こうこれは立派な犯罪に加担したことになる。
日本人サラリーマンの企業と言う組織体に対する帰属意識は、非常に強いものがあり、企業と雇用関係を結び付けていなければ生きて行けないと言う現実がある。組織体の枠組の中で、自分の帰属する部署は濃密な結びつきで繋がっていなければ、安心して生活をする事も出来ず、したがって、多くのサラリーマンは企業と運命共同体の形を選択する。
「会社主義」とか「愛社精神」などという言葉は、既に使い古された言葉であるが、日本のサラリーマンの多くは構造的に、こうした意識が未だに強いのではあるまいか。
農密度が企業と一体であればあるが程、会社人間の要素は濃厚になり、また愛社精神も旺盛になる。やがて自社のみの利潤追求が臨界点を迎えると、これまで普通の市民の一員として通っていた善良なサラリーマンが、大悪党以上の大それたことをやってのけるのである。
こうした大悪党顔向けの犯罪を犯す犯罪を「ホワイトカラー犯罪」という。この名前は、アメリカの犯罪学者エドウィン・H・サザランドが1939年に命名したもので、地位も名誉もあり、経済的にも恵まれているはずの経営首脳が、その利潤追求の経済活動の中で、刑法に違反する犯罪行為を働くというのが、これに入るのだ。
そもそも犯罪学(criminology)と云われるものは、犯罪の原因やその遂行過程についての法則性の発見、犯罪抑止についての施策を対象とする学問であるが、精神医学・犯罪心理学・犯罪社会学・刑罰学などから成る学問である。しかしこれ以外に、近代企業活動に結びついた犯罪は、これまでの犯罪意識と大きく異なっている。
犯罪学からすれば、近代企業が犯す企業犯罪は、これまで犯罪の原点と思われていた「貧困」からは実に程遠いものとなっている。いっぱしの経済的上位階層でありながら、貧困とか環境の悪さとも無縁であり、それでいて、高い地位を占めている実業家や政界の名士と謳(うた)われる政治家が、上流の階級にありながら、刑事訴追をされるような犯罪を犯すという事である。
一般的に見て、犯罪は貧困と環境悪化によって、犯罪が引き起こされると考えられて来た。
ところがサザランドは、こうした従来云われてきた犯罪人口の大部分の、経済的困窮者が起こすと言う、下層階級の環境悪化を原因とする犯罪心理を覆して、善良なサラリーマンの仮面を被った、中流以上の階級の人間も、時として犯罪に身を染めると指摘した。
某巨大企業の株式不正売買事件は、この上流階級に位置するワンマン経営者自身、貧困や環境悪化から起る経済的困窮者とは無縁の人であった。ところが地位もあり、名誉もあり、様々なスポーツ団体や、日本オリンピック連盟の役員も勤めた経歴を持ちながら、刑事訴追をされるような犯罪を起こしたのである。
また、東京都選出の某国会議員は飲食街で若い女性に強制猥褻(きょうせいわいせつ)を働き、議員の職を棒に振った。彼もまた、貧困とは無縁であった。
並みの人間、普通と表される人間、善良な市民の一員などと、裁判所の定義事項にランクされるこうした「善良な市民」は、時として、箍(たが)を外して荒れ狂い、人間の欲望原理を逸脱した、「常識」を超える不可解な行動をとることがあるのだ。
「中」の人間にランクされるホワイトカラー族の特異性や意外性は、したがって、大悪党のそれを大きく上回る犯罪を、何食わぬ顔で平然とやらかしてしまうのである。
株式交換における時間外取引や不正操作、巨大銀行の経理報告における虚偽記載、高級官僚の贈収賄事件、商取引における不正買収、背任横領や信託財産の不正流用、粉飾決算の詐欺事件、偽装倒産など様々な不正が、合法的恐喝の名において水面下で実行されているのである。
そしてこうしたワンマン経営者の走狗(そうく)となって奔走するのが、ホワイトカラー族と称される会社人間のサラリーマン達であり、普段は凶悪犯罪とは無縁な人達である。
この階層は、直接犯罪行為の実行者として現場で行動する暴力団に比べると、間接的で、如何にも普通を思わせる穩やかな階層であるが、縦型社会の構造を持つ日本のサラリーマンは、上層部からの命令には逆らえないヒエラルキーが出来上がっている。もし、上層部に逆らいでもすれば、「業務命令違反」という処罰が待っているからだ。
だからサラリーマンならば、誰でもこの命令に逆らえない精神構造が出来上がっているのである。勿論、会社組織と云うのは、犯罪親和集団でないから、企業を挙げて犯罪に加担していると云うことは一概に言えないが、時として犯罪シンジケート顔負けの、企業ぐるみの犯罪は、いつの時代も、ある一定の割り合いで発生している。
だからこそ、普通の人間の仮面を被った裏側には、大悪党顔負けの小悪党の仮面が隠れているという、素顔の裏側も知らなければならないのである。
更に、「中」にランクされるサラリーマンらがやらかす、個人的な犯行であるチカン行為などの痴情犯罪事件も、貧困とは無縁なホワイトカラー族の仕業(しわざ)が大半を占め、彼等は貧困とは無縁の人達である。
東大出のNHKの高級職員が電車の中でチカンを働いた事件は今でも我々の記憶に新しく、また早稲田大学のテレビにも出演する某教授が階段の下で鏡を使い、強制猥褻を働いた事は、こうした職業にある人間の品位を落しめたということで、その記憶も生々しい。そして九大助教授がマリファナを吸い続け、有識者の品位を落しめた事件も、現代の犯罪とは無関係に思える、現代人の恥部を曝け出したと言えよう。
世界中の先進国の中で、あるいは北半球に位置する文明国の中で、「チカンを犯罪と戒め、チカン防止を促すアナウス」が、JRの電車や地下鉄の中で流れているのは日本だけであり、飽食に飽きたホワイトカラー族は、今度は痴情に狂い出すと言う元凶を抱えているようだ。更には、不倫もセクハラもこの階層が中心だ。
要するに、その裡側には、どこか弱い者苛めをする幼児的な行動が残っていて、無抵抗な弱い者に対して、反撃を許さない一方的な攻撃を加える弱い格闘技家の態度と同様、女に対し、腕力を行使して強姦を働くと言う愧(は)ずべき行為であり、その心理状態は、紛れもなく「弱い者苛め」なのだ。
一般に不倫と云えば、「ならぬ恋」と解釈するようであるが、セクハラや不倫は決して「ならぬ恋」から始まるものではない。か弱き婦女子を強姦するのと同様の、一方的な迫りで、女性に近付き、やがて抜き差しならぬ状態に追い込んで、言葉巧みに言い寄り、「犯す」という実情が不倫やセクハラの実態であり、この実行者は紛れもなく企業や省庁に勤めるホワイトカラーと云われる階層の仕業である。
携帯電話のマナーの悪さも、この階層がダントツで、「電源を切れ」「マナーモードにせよ」という鉄道会社のアナウス放送の警告にもかかわらず、平気で電話を掛けているホワイトカラー族の図々しさを見ると、実は「善良な市民」と裁判所から定義されるこの階層は、一皮剥くと、それなりの「大卒者」「院卒者」と云う学歴と経歴を持ち、それでいてこの「ザマ」なのである。
また戦後民主主義教育下で、最高学府までの教育を受けた、一応良識?あるホワイトカラー族がこの程度の常識しか持ち合わせないのであるから、海外出張などで破廉恥にも、現地の女性を買い漁ったりするこの種の階層は、近隣諸国や東南アジアの人々から蔑まれるのも当然であろう。
そして彼等は、「中」にランクされる、貧困とは無縁の人間である人々であることを忘れてはならない。
さて、最後に登場するのは、過ちを犯した場合、その態度に、克明に人としての品格が顕われるタイプである。人としての品格は、窮地に立たされ、絶体絶命に追い込まれて、進退(しんたい)谷(きわ)まった時機(とき)に顕われるものである。
このタイプは、死が目前に迫ったとしても、恐れるでもなく、嘆くのでもなく、毅然(きぜん)と立ち向かう信念を持っている。また、「死」と言う現実や、「窮地」という現実を素直に感じ取る事が出来る。狼狽(うろた)えることを知らない。したがって詫び方も立派である。人間の品格の差は、こういう時機に顕われる。
態度が立派な人間は、概して「詫び方」や「謝り方」が立派であり、また実に見事で、言い訳がましいことを一切口にしないものである。
出来の良い人間と言うものは、その過失の意味や、事態をよく理解しているから、その理解度に応じた謝罪が出来、詫び方にも誠実さが込められている。
しかし、これが「中」にランクされる人間になると、その九割方が、内心では「何もあんなに責めなくても……」とか、「あんなに言わなくてもよさそうだが……」という、「悪いのは自分だけではない」という自己弁護の思いが働くものである。
これが「下」の人間になると、叱責されたり、抗議された内容の把握に疎いから、「こんな時は、まあ、とにかく頭を下げておくか」などと、不誠意な、心の裡(うち)ではぺろりと舌を出している。知性より感情でこれを受け流すと言うのも、「下」にランクされる人間の特徴だ。
人は各々に、過ちを修正する機会が与えられている。
しかし、それを試煉(しれん)と考えずに、感情で捉えてしまえば、せっかく巡ってきた修正のチャンスもみすみす逃してしまうことになる。運の良し悪しは、この「巡り」をチャンスと捉えるか、ピンチと捉えるかで、その人の幸・不幸は明暗を分け、これを活かすも殺すも、自分の裡側(うちがわ)に存在することに気付かなければならない。
|