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西郷派大東流と武士道

御式内礼法・武門の心得
(おしきうちれいほう・ぶもんのこころえ)

●礼儀のなさが心の貧しさを作る

 十八世紀の後半、封建制度に現れ、産業革命によって確立した生産様式の資本主義(capitalism)は、金融経済と共に大きな発展をみた。その結果、金持ちは金を求めて奔走し、人生は総て金であるかのような錯覚を作った。そしてという存在のある事を忘れてしまった。

 金持ちは一層金持ちになる事を求め、心は貧困になるが、一方貧乏人は、金持ちが心だけが貧しかったのに対し、貧乏人は理財だけでなく、競争原理の中で疲れ果て、金持ち以上に心まで貧しくなった。
 貧乏人が貧しいのは理財に乏しいだけで貧しいのではない。同時に心も貧しいのだ。

 今日は、心が貧困の時代と言う。
 では、この貧困は何処から来るのであろうか。
 心に満たされるものを失うと、そこには空虚が生まれる。空虚は内容のないことであり、物事の内容や心の内部が空っぽで、空しい事を言う。努力する事を厭い、現状に諦めを観じるから人間は身も心も貧しくなるのだ。
 こうした貧しさは、身装(みな)りだけを貧しくするのではなく、その人の持つ品位までも貧しくするのである。

 かつての武人達が高い品位と風格を保ち得たのは、単に技だけの上達を目指して練習に励んだからではない。同時に苦悶修養に励み、名誉と恥辱に対する感覚を研ぎすましていたから、高い品位と風格が養えたのである。

 幕末の剣客・平山平原は「剣術とは人を殺伐する事也」と言い捨てた実戦武当派の人物であったが、この彼にして、一大事に際しては我が身を微塵(みじん)にして「怯(ひる)まないような意気」の持ち主でなければ役に立つものではなく、結局、品位とは「心意気」の高さの「格」を言うのである。

 人間の所有する最も大事なものは、単に自分の身の周りを飾る理財のみではなく、また自分を装おう高級な衣服を指すものでもない。内側に秘めた「気位」であり、これは品位と風格を高めるのである。
 この内側に備わる「気位」の形としては、容儀であり、容儀とは礼儀に適(かな)った身の熟(こな)しを言う。またこれを称して、「容儀帯佩」(ようぎたいはい)とも言う。これは身装りと共に起居振る舞いを指すのである。

 容儀で肝心な事は、質素、清潔、機能美が備わっていなければならない。そして服装に於ては、時と場合と場所についての感覚を養う必要があり、だらしのない姿勢に慣れるような事があってはならないのである。立ち姿や、椅子に座っての椅子の遣い方や、座敷での坐り方に至るまで機能美を追求する必要があり、また身の熟しも毅然かつ流れる機能美を備えていなければならない。

 そして機能美を追求する以上、上眼遣い、横眼、覗き見は厳禁であり、周囲の気配は相手に悟られないように「八方目」(はっぽうもく/眼を前に向けたまま、後方までの左右間の270度を観る秘術)で観(み)る事が肝心であり、他人の顔や服装ならびに所持品をジロジロ観たり、こうした物と自分の物を比較するのは、自身の心が貧しい証拠であり、質素と清潔に徹していればこれに振り回される事はなく、また礼儀は正しく維持できるのである。

●内在する魂の覚醒と礼法の道

 礼法の根元は、肉体の動かし方だけではなく、心の心的表現や、それでいて知的かつ霊的な魂の表現にまで発展する。
 とりわけ礼法として意識する作法の実践は、換言すれば、自己現実と霊的現実の両者を取り合わせた魂の流麗さの表現型で、そこには二重の目的を持っている。

 一つは世俗生活との調和であり、もう一つは礼法を通じて心の在(あ)り方を養成し、生活様式の中に摩擦を少なくし、ついには変応自在に障害物を躱(かわ)霊的反射神経を養うと共に、魂の育成を図るのである。人間は肉体のみで存在する、単なる動物ではない。人間が他の動物と異なる点は、人間性の中心部に核(物や現象の中心となるもの)を要し、その核が魂の発露となって行動を起こすという事である。魂の力は統一力を持ち、調和力を持って、他と和する協調性がある。そしてその協調性こそ、肉的に、動物の性質部を神聖化させる力を持っているのである。

 神聖化しきった魂は、ついに形骸的な形を不要とし、小さな自我を霊的訓練に変えて、心に余裕ある不動心を創造する。そしてこの創造は、最高目標である神との合一に向かうのである。これを「神人合一」と云う。
 此処へ向かう道は唯一つであり、これ以外に道はない。
 礼法を実践するとは、一つの人間に課せられた行動パターンの儀法(ぎほう)であり、行動律的方法論であって、「礼を致す」ことは如何なる武術思想の形而上(無形概念または形を離れたもの)的信念や、倫理的戒律を阻(はば)むものではない。

 試合や乱取り、あるいは強弱論に終始する競技を掲げるスポーツ武道や、武技格闘ゲームに重きを置く西洋式格闘スポーツは、勝敗にこだわるあまり、礼法の意義と役割を大きく無視してきた。今もその延長上にある。その結果、スポーツ格闘技は、体育として不本意に認められた教理や俗的なゲームと化した観が否めない。そして礼法と言う語が、西洋のスポーツに未知ではなかったにもかかわらず、その真の意味は最も高い教育を受けた、スポーツ科学の世界でも理解されていない。

 礼法の一番重要なところは、他と摩擦を生じて、これを争い、競う事ではない。人間の持つ行動律に於いて、これを修めたいと求道(ぐどう)する人々に、霊的覚醒を齎(もたら)し、自己実現の為に、その防禦(ぼうぎょ)の基本形を教える事を目的とする。その為に、礼法を会得する事は、強力な基礎的な防禦体験を知る事になる。この防禦体験は、論説的でも分析的でもなく、直感的かつ統合的に働く霊的反射神経を養うのである。

 礼法を通じて、我々は己(おの)が魂を燃焼させる事が出来るか、あるいは長きに亙(わた)って存続させる事が出来るかと云う事を考えた場合、単にスポーツ科学と、物理的体重以降の数学計算だけで、これを安逸(あんいつ)な分類的な遣(や)り方で、可視的科学の概念で従属させ得ようか。
 人間の持つ魂は、科学の測定外の不可視世界の実在であり、然も直感的で、更に統合的な方法のみによって感知する意識体験であり、この体験者のみに自覚を齎すのである。

 礼法の持つ魂の意識は、自我と云う意識を自覚して、覚醒させ、我をして宇宙の中心に据えるものであり、これが原点として創造エネルギと同調せしめ、これが最初に定義されれば、宇宙の中心はまさに自己と言う事になる。己が主人公的な役割を演じ、他は自分の脇役に過ぎない事に気付く。そしてその中に内在する自分は、極めて幅広い意味を持った、内側の自分を知覚する事が出来る。
 この知覚は、顕在(げんざい)意識下でも、無意識下でも、自発的にも、非自発的にも起こり得る危機に対し、一切の摩擦を生じさせない境地に自己を置く事が出来るのである。

 しかしこれを体系的あるいは方法論的のみの小さな競技に捉えれば、礼法の持つ、摩擦を避ける、あるいは敵の動きを躱すと言う行動律は、偶発的で、然(しか)も曖昧(あいまい)になる。したがって礼法会得の行動律は、正確には、霊的領域に対する自己の曖昧な同調を作る事に遣う事は出来ない。

 礼法を解するには、まず人間の構造を知らなければならない。不可視世界の実体にまで迫り、単に人間を可視的な肉の目だけで捉えてはならない。人間は他の動物と異なり、霊的なものを所有する霊界に属する霊体と、自然界に属する肉体からなり、両者を結び付けているのが心である。
 人間の心の本性とは、心そのものの内面的なもののうち、昏倒の意味の智慧、理性、知性、内心の要求と云ったものが、その人の行動律の根元を為(な)し、これを動かすものは「魂」である。

 魂は霊と結びついて「霊魂」となり、これが一切の行動律を制御している。換言すれば、総ては霊魂が為せる技なのである。
 これに対し、肉体は勿論五官にあるような、眼、耳、鼻、舌、躰の感覚と云った肉体的かつ表面的感覚は、総て物質界ならびに自然界の棲家(すみか)としての形骸を持っている。
 しかしこの形骸はその殆どが、外部的感覚の残りカスであったり、外部的記憶の残骸であったりしている事が少なくなく、実に真実とは程遠い、現世の俗事にしか過ぎない。この俗事に振り廻され、こうした世間風の常識の染まって物事や事象を見つめれば、次第に魂の霊的神性は曇らされ、心はエゴイズムと争いの方向に傾斜していくのである。

 人間は現世にあるうちは、道徳や法律、マナーや他人への顧慮(こりょ/考えに入れて心づかいする事あるいは気にかける事)、習慣や打算等の、網の目のような外面的な俗事に縛られ、あるいは知識のような表面的な記憶に災いの影響を受けている。

 しかし霊魂の本質にとって、こうした俗事の常識と思える習慣は、日常には通用しても、非日常ともなれば全く役に立たず、不要物の最たるものに成り下がる。内在する魂の渇(かわ)きは、教条化された俗事の為来(しきた)りには渇きを憶(おぼ)えるのである。
 内在する魂の渇きを潤すには、俗事の不純物を洗い流す心の落ち着きが必要であり、静寂を求める環境が必要なのである。

●茶の湯の心得

 事の始めに当たり、茶を飲むと気合が入ると云う。この事は戦国期の武将達が証明している。
 作法を心得る武将達が出陣前、茶を立てて、これを飲み干してから戦場に向かったのは、自身の裡側(うちがわ)に気合を入れる為であった。
 茶を飲むと言う事は、まず、一口で咽喉(のど)の乾きを潤し、二口で孤独感をなくし、三口で勇気を再認識する為であった。

 また嫩葉(わかば)を採取した茶の成分に含まれるビタミンCは、心から不安を取り除き、精神を安定させて、心に安定を与える作用がある。かつて戦国期の武将達は、こうした事を知っていて、家庭教育の中で、親から必然的に学んでいたのであろう。
 こうした事を基盤に、茶の湯によって精神を修養し、礼法を極める方法として茶の世界が生まれた。

 さて、茶の湯の世界には「三音」(さんおん)と云われるものがある。
 三音とは、釜の蓋(ふた)を切る音、茶筅(ちゃせん)通しの音、茶碗に茶杓(ちゃさじ)をあてる音を云い、また湯の滾(たぎ)る音などを云う。
 こうした音は微細な音であり、また俗界にあっては微妙な音で、ややともすればうっかりと聞き逃してしまう音なのである。

 和敬静寂(わけいせいじゃく/心を和らげて敬うこと)を旨とする茶の湯の世界では、こうした俗界では聞き逃してしまう音も、客に対しては御馳走であり、持て成しとなるのである。湛然(たんぜん/水などを充分に湛(たた)えたさま。また、静かで、動かないさまを云う)と坐って、一言も発せず、水の音や風の音を聴き、結局こうした妙趣(大そう優れた趣き等を指し、妙致を云う)を味わっていられると云うのは、その人の内面的な精神世界の広がりがあるからである。

 人間は精神性が低い程、がさつになり、暴力を好み、好戦的な性格になって弱者をいたぶる事を自分の生きざまとして崩壊への道を進もうとする。したがって長く維持できない一時の勝負にこだわり、強弱論のみに終始する。こうした理論に振り回される人間は一様に、内面的な精神性を持たない人間に限られるようだ。

 また、言葉と云うものは、基本的には相手を勇気づけたり、気分を和やかにしたり、社会を明るくするものでなければならない。したがって発する言葉も、宇宙の中心に通ずるような、濁(にご)りのない澄み渡った「光透波」(ことば/光に似た、透明な、澄み渡った波動を云う)でなければならない。

 この和(なご)やかさを構成に伝えた人物が良寛(りょうかん/江戸後期の禅僧で歌人で、諸国を行脚の後、帰郷して国上山(くがみやま)の五合庵などに住し、村童を友とする脱俗生活を送る)であった。良寛は光透波を捉え、これを「和顔愛語」(わげんあいご)と称した。
 したがって相手の気持ちを逆撫(さかな)でしたり、僻(ひが)ませたり、意気消沈させるような気力を奪うものは、出来るだけ発せない方がよいのである。良寛の偉業を讃えるものに、弟子貞心尼編の歌集『蓮(はちす)の露』などがある。

 しかし一生のうちで、時と場合により、あえて相手の心が致命的に傷付くような言葉でも、言うべき時には言う必要があり、これを言わずに胸に仕舞って消極的に振る舞うのは武門の恥となる。
 言葉が軽薄になった今日、「武門の恥」等と云う意識は遠い昔の事に思うようであるが、自分の口から出た言葉には最後まで責任を持つべきであり、これを後日、覆すべきでない。
 人は言葉を軽んずる事によって自らを卑しめ、品位を下げてしまうのである。こういう、言葉を軽んずる人間は、決まって「人情」とか「信義」という語句をやたら口にしたがるが、彼等の吐く言葉には、所詮それだけの価値しか持たないのである。言葉には、「言霊」(ことだま)が宿っている事を忘れてはならない。

 礼法を知らない者は、また言葉も知らないのである。言葉を知らないと言うのは、自然の音に対し、耳を傾けたり、他人の言う事を素直に聞く耳を持たない者が「言葉を知らない」と言うのであって、俗界に染まり、物質的な価値観に振り廻され、微細で微妙な音を安易に聞き逃しているからである。また言霊を蔑ろにしているのである。

 自然界が発する音に響きには、重要な人間へのメッセージが含まれている。しかし、心に余裕がなければ、俗界では聞き逃してしまう三音すら聽く事が出来ず、更には神風の囁きすら聞き逃してしまうのである。

●不撓不屈

 武士道実践者には、一本気で、一途(いちず)で、清々しい態(さま)が求められる。したがってそれを実践するには、困難に直面しても、怯(ひ)るまず、挫(くじ)けない精神が必要である。外圧によって心がたわまず、強迫や困難に屈しない事が大切である。この境地を「不撓不屈」(ふとうふくつ)と云う。

 人間は外圧による脅しに屈し易い。特に刃物や拳銃等の武器で脅された場合、多くはその映像を肉の目で捉え、見ただけで脅しに屈してしまう。

 では何故屈するのか。
 それは自分の命が惜しいからである。しかし「惜しい」という我意識(がいしき)は錯覚に過ぎず、不撓を発揮できない場合には、結局、自分が惜しいと思った命は失う事になる。
 故事の喩(たと)えからすると、生を望んだ者は命を失い、死を恐れなかった者は命を取り留めると言う実話が五万とあり、人の生死は、結果的にみて、命を拾おうとした者は命を落とし、命を捨てて掛かる者は、命を拾うという逆の現象が顕(あら)われている。

 したがって困難に直面しても怯るまず、逃げない事が肝心なのである。逃げずに踏み止まれば、やがては耐えた事で打開策が生まれ、粘り勝ちする事実は、人生に起りうる確固たる事実であり、不撓不屈の精神はやがて活路へと転ずる入口に至るのである。不撓不屈こそ、武士道実践者の基盤とならねばならないのである。

 これはまた、困難にあっても志を貫く事を言う。
 人間の価値は、困難に対し諦めずにこれに挑戦する事であり、失敗を重ねつつも、繰り返し純粋な気持ちに立ち戻って、これに何度挑戦するかという事で定まるものである。
 一度でも「もう駄目だ」と諦めてしまえば、その志は挫折し、困難からの打開の門扉は永遠に開かれる事はない。
 すなわち純粋かつ純情さを失わず、横着にならず、常に初心に立ち返る事である。初心を忘れた者に、不撓不屈の精神は宿らないのである。


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