■ 曽川和翁宗家の談話より ■
(そがわかずおきそうけのだんわより)
私の説く武術は、予(あらかじ)め設定された平面上の線引きがされた、観客が観戦する試合に勝つ為の「スポーツ武道」ではない。また「大が小を叩く」あるいは「剛よく柔を制す」格闘武術でもない。更には「手の早き者が、手の遅き者を下す」傲慢武道でもない。
ただ窮地に至って、多勢に無勢の、絶体絶命の危機一髪の遭遇にあっても、「絶対に負けない為の武術」を指導するのである。
更に、これを率直に云えば「古来より先人の研鑽として、連綿として受け継がれた『人殺し』の為に使われて来た術」であり、「人殺の域」に至って、人間ははじめて、生命の大事さがここで初めて浮上するのである。
「人殺之術」は、ありとあらゆる方法がある。この術を持っていれば、どんな強靭な巨漢でも、やすやすと殺す事が出来る。しかしこの格闘は、決して「素手」とは限らない。したがって多種多様の隠し武器が使われ、相手を弱らせて合気を掛け、そこから死に至らしめる事が出来る。
私はこれまで飛び道具を含む武器を研究し、あるいはトリカブトなどの毒草を用いて人を殺す術を学んだ。
また僅か15センチ足らずの紙紐一本で、人間を死に至たらしめたり、1メートルほどの釣糸のテグスで頸動脈を絞めたり、素手で真綿で頸を絞めるように敵を窒息死させる「人殺之術」を学んだ。その結果がどうだったか。
私は「人殺之術」を学んで、人殺しを実践してみようと思ったことは一度もない。
「人殺之術」の術を学んで、人間の生命が如何に尊いことかということを、逆に思い知らされたのである。
そして「人殺之術」なるが故に、これを絶対に用いてはならないと指導するのである。
つまり習った術を人前で公開せず、あるいはこうしたものを習っている事を他言せず、黙って自分の胸の裡に納め、人生でたった一度の「万一の為」だけにこれを遣えと教えるのである。
したがってこうしたものは当然非公開であるべきだ、と信ずるのである。
だからこれは「秘伝」であり、秘密が保たれるものでなければならない。
「秘伝」とは、一種の「切り札」である。
「切り札」であるからこそ、遣わずに持っていれば、それはいつ迄も自分自身に内蔵された切り札であり、簡単に何処かで遣ってしまえば、切り札は切り札でなくなる。
昨日迄は切り札であっても、一旦公開すれば、直ちに敵から研究され、返し技が編み出されてしまう。合気を含む、私の会得した「人殺之術」はそうしたものである。
かつて私の門を叩いた門人は多い。
二十年前、あるいは十年前の門人達で、彼等はテレビに出演したり、スポーツ新聞に大きく取材されて有頂天に舞い上がったり、『合気ニュース』『秘伝武術』等のマイナーな武道誌に取り上げられて浮き上がっているかつての門人を、私は哀れで悲しいと思う。彼等は一様に造反者である。
彼等は、表皮の部分を私の許で学び、それで完成した、あるいは他に鞍替えして、総支部長などの名前に酔い痴れる輩である。また英雄視されることを好む人種である。
しかし私の指導する西郷派大東流合気武術は、こういう世間票の「英雄視される見返り」は一切ない。期待せず、ただ日常生活を日々の修行と捉え、外形的には武術家・武道家らしからぬ慎んだ体躯で、自分が西郷派大東流をしているということすら宣伝しないのだ。私自身も悟られる事なく、また門人には「悟られるな」と指導する。
それはあたかも、寝た切り老人や、痴呆症や、精神分裂病患者の大小便や身の周りを世話し、更に親身に看病して、こうした行為の一切が認められないのとよく似ている。評価もされず、感謝もされず、まして英雄扱いすらされることすらないのである。
その上、患者本人は愚か、社会的にも、あるいは地域的にも、何の評価を下されることもなく、患者本人からも全く感謝されないという、冷たい現実を甘受することを覚悟しての修行なのである。地味なのである。地味こそ、武術家の本分としなければならない。
よく世間では柔道をしている、剣道をしている、合気道をしている、空手をしていると自慢し、有段者ともなれば段位を自己顕示欲の一貫として、自分のプロフィルに得意満面に書き添える人が少なくない。
しかしこうした人は、命を狙われた場合、マイナスであり、また試合形式でしか練習をしたことのない人は、試合のルール外の攻撃法(吹矢、アイスピック、ドライバー、バット、日本刀、コンバットナイフ、手裏剣、ビール罎の欠片、ボーガン等)で攻撃された場合、これを防ぐ手立てがない。
特に傲慢なポーズを取り続け、その傲慢が試合場を離れた日常生活にあっても、こうしたポーズを取り続ければ、背後から命を狙われることになる。毎晩の、匿名者の嫌がらせの電話にも悩まされることになる。
捨てるものが何もない、裸であればいいが、捨てることが惜しい、家族やマイホームを持ち、地位や名誉を抱えた人は、こうした自分以外の家族に脅しがかかれば、ノイローゼに陥ることも少なくないのだ。
したがって自己顕示欲を、自己主張の一貫として表現することは、特に世の中が混沌としている時代、マイナス面は大きくなるのである。
だから「悟られ」「売名行為に趨る」ことは、愚者のすることである。
大衆に混じり、一般大衆の恰好で、日々を慎ましく生き、己を空しゅうして、日夜、負けないための努力と、備えをすることこそ、武術家の本分としなければならないのである。
西郷派大東流とはこうした流派であり、自慢したり、得意絶頂の有頂天の世界に舞い上がる類のものではない。そしてその裡側には、「負けない境地」を得るのであるから、当然、それを支える思想が必要になってくる。
その思想こそ、武士道であり、その思想は宇宙永遠なるものでなければならない。
(武士道の思想については、『宇宙永遠なる武士道』をご参照ください) |