■ 御式内礼法・武門の心得 ■
(おしきうちれいほう・ぶもんのこころえ)
●武道競技の試合は、武術で言う太刀合ではない
武術と武道の大きな違いは、命の遣(や)り取りを行う太刀合(たちあい)をするか、しないかである。
武術で言う太刀合は、殺し合いの事であり、これはまさに死合(しあい)である。したがって、人間を生死の極限にまで自分自身を追い込み、此処から生還の道を探ると言うのが武術に課せられた命題なのである。
本来、武術の真剣勝負と言うものは、相手を恐れず、侮らず、見下さず、時間いっぱいに力と伎倆(ぎりょう)の総てを出し切って戦うものであり、こうした総てを出し切って戦うと言う事が、相手に対する礼儀であると教える。
今日でも武道は、「礼に始まり礼に終わる」と言われる。しかしそれは、試合の始めと終わりにお辞儀をするのを言うのではない。持てる伎倆の総べてを出し切って精一杯戦い、敗れた後は、素直に我が身の未熟を認め、勝てばその勝因を吟味したものである。
古来、こうした所に武人の心の清々しさがあった。
ところが現代では、こうした清々しさは失われ、勝負にこだわる風潮が生まれ、まるで十六世紀の乱世の兵法のように、「勝てばよい」と云うふうな悪しき習慣が蘇って来たのである。
こうした乱世の兵法に逆戻りした現象の一つに、判定勝ちで躍(おど)り上がって喜ぶ、みっともなさが、競技武道の各種目で見られるようになった。「武道」と云う言葉を用いるには、余りにもおぞましい光景である。
よく時代が変わったと言う。それが現代武道の常識だと言う。
だがしかし、時代が変わり、新たな常識は派生したのであれば、競技格闘術も、「武道」と云う言葉は遣わず、ストレートに剣道は「竹刀競技」と称し、柔道は「畳競技」と名前を変えればよい。何も種目名の末尾に「道」と云う文字は用いず、ストレートな格闘スポーツで大衆化した方が、真剣に武術を志す無名の修行者に対しても、誤解を招かなくて済む。
かつては武門において、太刀合は稽古の延長であった。幕末の剣客(けんかく)達は、太刀合といえども稽古の延長と考え、目先の勝負にこだわる浅ましさは何処にもなかった。
しかし今は違う。試合に臨む選手の態度が勝ちを取る為に一変し、非礼な場面が多く目につくようになった。また人間的な品位も著しく損なうような興醒(きょうざ)めを覚える光景も目立つようになった。
また近年の見苦しさの一つに、ガッツ・ポーズがある。しかし最近では、ガッツ・ポーズについては賛否両論に意見が分かれている。ガッツ・ポーズは、「はしたない」とする意見と、勝った事を素直に喜びに現す表現法は、外国人のスポーツ観戦者にとっても非常にわかり易くて良いという意見である。
後者の意見の支持者の多くは、自然な感情の発露として、ガッツ・ポーズはむしろ好ましいものであり、堅苦しく作法に則るまでもなく、一般的には共感を呼ぶもので、「自然な喜びこそ、人々の共感を呼んで美しい」とする考え方が生まれた。近代オリンピックの主旨も、こうした意見を支持しているし、観客もこれが当たり前であると考えている。
一方、前者の意見を支持する側は、昔から日本人は喜怒哀楽を率直に表現する動作を、「慎み深さ」と考えている為、この動作こそ、日本人の美徳であると言う支持者も、未だ少なくない。
かつての武士社会はその傾向が強く、奥床しさがあり、こうした意識の延長は今日でも武道の多くに、名残りを留めているとする意見である。したがって勝ったとしても、躍り上がって喜ぶ等は、以ての外で、慎み深くあるべきだとする意見がある。
その賛否両論の中で、後者の支持者は「大相撲」を掛け合いに出す。
例えば、勝った力士が、ガッツ・ポーズをしたらどうなるだろうか。恐らく、相撲人気は半減してしまうはずだ。
今日の相撲界は、勝った力士がガッツ・ポーズをしない事で、自称国技として、辛うじてその危機を逃れているが、欧米流の意識に流されて、西洋が日本文化の中にも深く浸透すれば、相撲界と言えども、その波に押し流されてしまうであろう。
感情を押し殺して仏頂面(ぶっちょうづら)する事の後者の批判は、前者の美徳意識に対峙して、無表情こそ武門の嗜(たしな)みとする考え方と、喜怒哀楽を素直に表現すると言う意見の両者に分かれたまま、平行線を辿っていると言うのが今日の実情のようだ。
では、こうした意見に対し、武門の礼法である御式内ではどのように考えるのか。
後者の意見は、感情を押し殺して無表情に装う事こそ武門の嗜みとする意見であるが、ここには、まず大きな誤解がある。
徳川中期に編纂(へんさん)された武士道の考え方では、自己抑圧を美徳とする思想が既に根付いたのであるが、日本民族の生活ならびに行動様式は、必ずしも、当時の官学であった儒教的教義に毒されたものではなかった。官学としての朱子学を排して、陽明学が武士階級に受け入れられたからだ。もともと朱子学は権力者側の学問であり、権力者が下級層を押さえるのに都合の良い学問であった。徳川二百六十年と云う、永きに亘って徳川幕府が体制下として独占し、これが実行出来たのは朱子学を官学にし、これによるところが多い。
しかし幕末ともなれば、尊王攘夷思想とともに、日本陽明学派の中江藤樹から始まる陽明学は、時代とともに変応し、この革新的な学問は「知行合一」や「事上磨練」によって、次の時代をリードしていく事になる。
これは幕末から明治初頭にかけて、陽明学が明治維新の門扉を叩き、革新の要素になっていくからである。その代表格が、吉田松陰ではなかったか。
また、この事は、十六世紀の戦国時代や十九世紀の明治維新の時のように、本卦還り(ほんけがえり/八卦で言う、2回算木(さんぎ)を置いて占う時の初めの卦のことで、すなわち数え年で六十一歳になること)を果たした時代に焦点を合わせ、これを観察すれば一目瞭然となる。
当時の武門の流れを引いた武人達が、その信条としたのは「本心の思う儘(まま)に行動をする」ということであり、心にもない事を口にしたり、不本意や理不尽な事をするのを恥としたのである。こういう時にこそ、武人達は、嬉しい時に嬉しい顔をしたり、悲しい時に淋しい顔をしたりする事はなかった。決して彼等は、一時的な喜怒哀楽の仮初(かりそめ)の側面に振り回される事がなかったのである。
喜怒哀楽の命ずる儘に、表情を示さぬ態度が悪とする考え方は、相手の配慮への心遣いが欠けている面があり、武の道を本当に極めようとしている者は、自分の目標が高ければ高い程、自らの態度やその評価には厳しいものがあり、当然の如く、自己採点には辛くなるのである。したがって喜怒哀楽の命ずる儘に、無邪気に喜んだりする気にはなれないのが本当の処であるはずだ。
そして、むしろ内心では「つまらない勝負をしてしまったものだ」と云う、自責の念が趨り、素直に喜べなかったはずである。
また、これはごく自然な表情であった。
昨今はオリンピックの影響で、コーチ陣の間でも、しきりに「観客アピール」という言葉を使い始めるようになった。しかしこれは、観客受けを狙ったものであれば、その心根は観客に媚びを売る態度であり、本来的にはスポーツの世界のものですらない、芸能の世界のそれである。
スポーツの歴史を紐解くと、スポーツはヨーロッパの貴族階級の間で発生し、これが貴族社会に流行したものであるが、格調高い意識を持つスポーツの実践者が、果たして観客にアピールするかどうか、あるいは低い次元の尺度で物事を考えていたかどうか、甚だ疑問である。
また、審判員が居て、勝負の判定を受ける時の態度として、貴族達は果たして、その勝者はガッツ・ポーズで躍り上がったかどうか、これも疑わしくなって来る。
格調高く名誉を重んじる貴族階級にあって、試合者の志は、このような判定に一喜一憂する軽薄な態度ではなかったであろう。
昨今は、スポーツ界はおろか、武道界にも、武道界特有の価値観や自覚が失われつつある。そしてこの世界を凝視すると、観客を意識した一般スポーツや格闘技が、実は芸能の世界と地続きになっている事に気付かされる。
また、有名を馳せたスポーツ選手が現役を引退すれば、芸能界がその受け皿となり、引退者を解説者や司会者に使ったり、クイズ番組やお笑い番組等でタレントとして起用すると言う現実があり、武道や格闘技の世界もこれに準ずる形をとっている。そして資本主義市場経済社会の芸能部門の、歯車の一つになり、ちゃんと収められているのであるから、何とも、あいた口が塞がらない限りである。
ここには理財の才の無い者は、喰う為に河原乞食に成り下がると言う現実がある。
本来、引退は「隠退」であるはずで、社会的活動の第一線から退く事を指す。隠退とは社会的な活動の第一線から退く事であり、以降、「隠れる」という事である。それが再び大衆の目の触れる処に出て来ては、お話にならない。それとも、過去の栄光の日々が未練として、後ろ髪を引くのであろうか。
ともあれ、古来より、我が国の武術と云われるものは、武門の嗜みとして、名誉と気高い誇りをもっていた。ところが欧米の商業主義が輸入され、金持ちとしての資本家が英雄視されると、欧米流の処世術に肖(あやか)り、日本人がこの毒に汚染された。これまでの気高い誇りは失墜し、武人の個々が持っていた「敬意」や「慎み」という態度の立派さは一挙に崩壊し、外国を真似る事が素晴らしい価値観でもあるかのような錯覚が生まれた。
かつて武術の世界では、勝負を判定する事すら「非礼」であるとして、あえて審判員を置かなかった時代があった。相応に「分際」という尺度を知り、神聖な真剣勝負の世界で、個人に敬意を表する事が日本精神の伝統でもあったのである。
分際などというと、現代人には抵抗があるかも知れないが、立場としての感覚や、筋目としての意識を考えれば、これは人間として非常に大切な事であり、そこには礼法としての節度があった。
しかし今日では、武術や武道の愛好者、スポーツ格闘技家、種々のスポーツ選手の間では、ものの言い方や、態度としての不作法が甚だ目につき、武術や武道の修練と、礼儀作法を切り離して考える思考が最優先されるようになった。勝てばそれだけで英雄であり、したがってこうした有頂天に舞い上がる人間に、態度の立派な人間はそれほど多くないのは周知の通りである。
そもそも武術や武道の修練と云うのは、自らのとった行動と態度を反省し、その時の言葉遣いを吟味する事ではなかったか。
反省や修行の成果を抜きにして、「武術だ」「武道だ」と自称している愛好者は、一体人生において何を修練しようとするのであろうか。
また近年、特に目立っている武道関係の試合や演武会において、必ずメインテーマの謳(うた)う、「青少年育成」とか「青少年の健全性」とかをテーマに掲げ、「社会教育」の参加を謳っているが、では、こうした武道関係団体の各種目競技が、具体的には、一体何を意味するのであろうか。
終戦後、新たに蘇った武道の掲げる原則的な典章の第一義は、「礼節」に焦点を合わせていると言うが、では、礼節とは具体的には、人間の生活や行動の中で、何を指すのか、そうした事は必ずしも明確にされていない。
「礼節」とは、今日、日常茶飯事に行われている単に「挨拶」や「お辞儀」を指すのであろうか。
しかしこうした感覚で、武術や武道を捉えている愛好者も少なくない。したがって試合の前後に行う、互いの「お辞儀」を礼節と捉える愛好者も少なくないのだ。
あくまで礼儀作法は、こうした「お辞儀運動」の側面だけを言っているのではない。
日本武術や武道等のその本質を深く洞察すると、「武」というのは、槍や刀に対峙して、その対処法だけを、思想の原点に置いているだけではないということが解る。
これを御式内流に言うならば、その原点には礼法が存在していなければならず、相手の戦意や士気を挫(くじ)いたり、討ち気を呼び起こしたり、出鼻を封じたり、あるいは左右上下を転じたり、抜刀に及ぶ等の行為は、何も刀や槍だけで行うものではなく、また拳や蹴りだけで行うものでもない。
御式内の「配之位」(はいのくらい/自他の間隔を設定し配置する間取りを言う)によれば、目付きならびにその対峙する威風堂々とした態度、言葉遣い、位(くらい)の取り方、八方目(はっぽうもく)、足捌きや摺り足の有無でその対峙した相手の腕前が如何程の者か、戦う前から決定されていると言う。
傲慢な者は目付きが卑しく、見下した目付きになり、臆病者は足捌きに浮き足立つ浮薄(ふはく)な足取りになり、礼儀を知る者は態度が堂々としている。そして礼儀を心得ている者は、そこには涼(すずや)やかな清々しさがあると言う。流れるような流麗美があると言う。
だからこそ相手との「格闘」や「摩擦」が生まれないのだ。
●武術の修練と節度ある礼法の作法は表裏一体
武術の意識は、殺法として、他と対峙するだけではなく、人をして、人間関係の在(あ)り方を説き、他人との上手な付き合い方も教示している。そこに礼儀や諸作法の原則があり、これが武技と同じ価値観で吟味の目を向けさせているのである。
武人の礼儀作法は、武技の修練と同じものであり、これは各々が個別に存在するものではない。
これは武術の修練が、そのまま人間の修練と、固く結びついている事を現す。
だからこそ、今日流行している武道の振興は青少年の育成や健全化に繋がると、誰もが期待し、社会にとって有益であると信じて疑わないのである。
ところが現実問題として、スポーツ武道選手の目付きや、言葉遣いや、態度や、諸動作の起居(たちい)振る舞いを見てみると、一般に信じられていた事は、見事に裏切られてしまう。
首から下のみが頑丈で、強健で、生まれながらに天性の素質に恵まれているが、ただそれだけである。下半身のみが才能や素質に恵まれ、ただ、人を殴ったり、蹴ったり、投げたり、倒したりする事しか知らない人間を、幾ら大量に作ってみたところで、社会や個人にとって、それが最終的には一体何になるのか?と言う疑問が生まれてくる。
オリンピック一つを挙げてみても、一般大衆はマスコミに誘導される帰来があり、金メダル選手の数を増やす事が、果たして国益にどれほど繋がるか、これを真剣にそう思っている日本国内の知識人は本当にいるのだろうか?という疑いが浮上する。
オリンピックでの選手の活躍は、観戦者に「勇気を与える」と言う妄想を、誰もがマスコミによって培養され、そのような思考で誘導された節が否めない。そして頭の中は、武道やスポーツとは全く無関係なマスコミ人によって画策された「流行」で、一般大衆が誘導され、思考回路がこれに一巡する考え方が培養された。
こうした現象を客観的に見てみると、間違いなく、肉眼で見える事のみを相手にし、人民は誤った方向に誘導されている事が分かる。肉体の五官以外の深層部に潜む、心と言う実体や、心を司る魂と言う実体に対し、決して目を向けようとしない事だ。
現代は、「スクリーン」と云う可視世界のみに煽られる傾向がある。そして3Sと云う、スポーツ、セックス、スクリーンと云われて、それも久しい。
武術や武道愛好者が、生涯を通じて武術や武道に携わると云う執着を示すのは、有(あ)り体(てい)に言えば、単に「武術が好き」「武道が好き」と云うだけの動機であり、これが愛好者の殆どの理由であって、「好き」という次元の、それ以上でも、それ以下でもない。そして多くの愛好者は、この範疇を逸脱したり、超越したりする者は、殆どいない。
昨今の武術界や武道界の実情を見てみると、武術や武道を通じて、人格の向上とか社会的意義というのは、社会から武術や武道に寄せられた在(あ)りもしない幻想であり、単なる希望的観測あるいは錯誤した期待であり、実質的には社会に何等よき循環を齎(もたら)してないと言うのが実情である。
世間の迷妄する、世間通りの期待感とスローガンから抜け出す事は出来ず、実体はいつまで経っても内容の伴わない架空の建前論が、一般大衆の思い過ごしを余所目(よそめ)に、遣(や)り取りされているだけの事である。そして愛好者間にあっては、我が身を反求するという態度は、最後まで見られないままである。
本来ならば、人間は年齢と共に円熟すれば、その意識は自分個人の事より、社会に対して何かを還元したいと云う公共的な気持ちを起こすものである。個人第一主義やエゴイズム等の自分本位の自己中心的な考え方の間違いに気付き、社会に対して、有益な事をしてみたいと云う気持ちが起って来るはずである。
またこうした、「社会への還元」という気持ちが起る事こそ、人間として、壮年や晩年の時代の過ごし方の正しい態度のあり方であり、壮年期や晩年期に至っても、なお、自分中心的な考え方を捨てきらない人間は、精神的未熟さから脱(ぬ)け切れない、未完成な人間と言わざるを得ない。頑迷で、自他離別の考え方で、自分と他人の間に境界線を引いていては駄目なのである。
自他同格、自他同等と云う思想の中には、「和」の精神が含まれ、これは最終的には大きく和する事を云う。人間は他と和するから、その和を以て全体との一体感が生まれるのである。自分一人が独走していては、全体に奉仕する事が出来ない。
社会に、我が身一身を役に立てたいと願うのは、何もボランティアだけとは限らない。ボランティア団体に入り、ボランティア活動をしている人だけが本当のボランティアではなく、真の奉仕者とは、自らが奉仕者である事を微塵(みじん)も感じさせないのである。
例えば、無闇(むやみ)のゴミを捨てない事を呼び掛け、ゴミ拾ろいをするのが公共美化運動のボランティアのように思われているが、ゴミを捨てるか否かは、ゴミを所有する人間の品位に問題があり、自分にとって邪魔だからこれを捨てる、あるいは邪魔でも人間としての品格がこれを許さないから持ち帰ると言った、個人の「格」に品位の源があり、捨てるか捨てないかは、ボランティアの「ゴミを捨てないようにしましょう」という呼び掛けにあるのではない。
最初から、個々の人間に品位としての礼儀が備わっていれば、街はゴミで溢れかええる事はなく、また、ゴミ拾いのボランティアの活動の場はなくなるであろう。
問題は、ゴミを拾う為のボランティアを養成するのではなく、ゴミを捨てない、礼儀を知る人間を養成する事の方が急務なのである。
そして見逃してはならない事は、世間一般では、武術や武道をしている者は、全般的に礼儀正しいと信じられているが、これは真っ赤なウソであり、こうした愛好者の中にも、ゴミを捨てたり、弱い者苛めをしたり、武技を知っている事で優越感を持ち他を脅したり、刃傷沙汰に及んで犯罪に片脚を突っ込んで、「青少年育成」や「青少年の健全性」等をスローガンに掲げ、世間を騙している指導者も、決して少なくないという事である。
武術や武道の愛好者は、「好き」で歩いて来た道であると言うけれども、本気で武術や武道を世の中に役に立てたいと願っているのなら、まず、奉仕者の原点に振り返り、謙虚に我が身を反省する事から始めなければいけないのである。そしてその原点にあるものは礼儀正しさであり、この方向性を示すものが礼法なのである。
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