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【平成30年】9月22日(土) 開催決定!
18:0021:00迄  参加無料
会場:北九州市小倉南区志井6丁目11-13
   尚道館 二階の囲炉裏の部屋

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   2018年7月8日更新 





無恥の噺

 当今、知識と知性は別物になり、似ても似つかぬようになった。
 かつて知性といえば、そこに品格が漂っていたものである。
 だが当今は知識はあっても知性がない。おまけに常識までない。
 当今のインテリは無知であるが、また無恥でもある。


氾濫する評価合戦

 現代の世は、自分を評価してもらいたい者で溢れかえっている。自分を高く評価してもらいたい……。そういう人間で、現代社会は氾濫(はんらん)状態にある。自分の功績を功績として、世に高く評価されたいと思っているのは、換言すれば人情だろうか。
 しかしである。
 自分の行なった結果を評価されたいと考えるのは、確かに自分の進歩にとっては大切であるが、これは自分の善いことを世に示す気持ちと、悪いことを隠す気持ちとは、実は同じことなのである。


人生を諦めたときの噺

 諦めるとき……。それは老け込んだときである。
 「老いる」と、「老け込む」のは違う。老いるのは自然の摂理であり、老け込むのは人生を諦めたときである。


即決力の噺

 成功の秘訣。健康維持の秘訣……。それは、「いま何をするべきか」を的確に判断できる中に、それぞれの秘訣の糸口が隠されている。
 気付いたら同時に行なう。すぐに行なう。この即決力である。


無関心の噺

 いつの時代も、多くの人は他人についても、自国のことについても無関心に生活している。
 無関心……。
 それはそれなりに幸福であると言えるかも知れない。しかし、この種の幸福は、自覚しない幸福であり、厳密に言えば、本来の幸福とは程遠い。それだけに、未来には大きな不幸が待ち構えていると言えるかも知れない。


日々精進の噺

 若い頃、あれもしようこれもしようと思う。しかし、そう思いながらも気付いたら五十を過ぎ、過去を振り返れば、何もしてこなかったことに気付く。
 職人にも下手な職人と言う者がいる。下手な職人でも、下手は下手なりに、毎日コツコツと、職人の生業として同じ仕事を精進してきたのである。ここに「日々精進」の大事がある。
 『徒然草』の第百八十七段には、職人の話が出ている。いろいろな道の職人は、たとえ下手であっても素人の上手よりは優れているとある。生業としてその道に励む職人は、日々油断無く、慎んで仕事を軽率に遣らないからだ。その意味では、素人の勝手気侭な行いとは全く違うからである。
 これは芸道における職人の道だけでなく、生業としてその斯道に励む者は、一般的な振る舞いや、気配りなども用心深く、じっくり取り組むからである。それが上達に繋がるのである。単に器用で、勝手気侭に、気が向いたら遣る素人の気紛れが、そもそもが失敗の元凶といわねばならない。「日々精進」の戒めから考えれば、全くその通りである。


逆境の噺

 順境や順風満帆な運びは、人を殺し、逆境は人を活かす。苦労をして、それに耐えることにより、活かされていることが見えてくる。


窮すれば通ずの噺

 人は「窮すれば通ずる道」がある。窮して困り果てた時、何処かに変化が生じ、その変化の中に通じる道がある。
 困窮に立たされ窮地に置かれても、あるいは怒声の嵐の中で罵詈雑言の無理難題の揶揄(やゆ)が飛んだとしても、一切弁解せず、黙々と始末をつければ、必ず解決の糸口が見つかる筈である。


どちらが人間的か

 金のない人は暇もない。したがって、毎日が多忙にならざるを得ない。
 一方、金のある人は閑(ひま)もある。したがって閑から、ゆとりが生まれ、その余裕の中で自分の時間を充分に満喫し、人生を謳歌(おうか)することが出来る。


唇の噺

 馨(かお)るような言葉。汚らしい言葉。怒気を含んだ言葉。澄んだ美しい言葉。心が洗われる言葉。人間の唇の先からは様々な言葉が発せられる。
 言葉は必ず知らぬ間に、泥水や香水を振りまいて、他人の晴れ着や袖を穢(よご)しているかも知れない。


若気の潔さ

 青雲の志や理想を掲げて生きる人は「若気の潔さ」を生涯通じて保っていなければならない。
 人間は年齢とともに感情の圭角(けいかく)がとれ、夢が凋(しぼ)み、円満となって刺々(とげとげ)しさが無くなっていく。それは同時に、人の世の清濁併せ呑み、善悪綯(な)い交ぜの世界に適合した器量が出来上がったことを「圭角がとれる」という褒(ほ)め言葉で讃えるようだ。「青くない」という意味だ。近年には「あの人は大人ですね」などの褒め言葉が飛び交っているようだ。
 つまり、「あの人は大人」という形容詞には、裏を返せば、理想を追い求め、正義感を貫く心の姿を喪った姿なのである。少年の心が死んだ姿なのである。


手の噺

 人間の手ほど不思議なものはない。
 手が触れたもの、染めたものを思い出してみるがいい。
 それを思い起こせば、顔を赧(あか)らめるものもあれば、心を清々しくするものもある。あるとき、神聖なるものに触れたかと思えば、その同じ手で穢いものに手を染めている。
 手は千差万別に種々のものに触れ、様々な道具を使い、次々に新たなものに染まり、遊戯自在で、それでいて手自体は清濁もなければ善悪もなく、依然として手は手である。


正直の正体

 人間は「正直」でなければならぬというが、それは正直であった方が信用もされるし、立身出世の近道と考えているからである。商売繁盛も正直であった方が得をするというタテマエがあるからだ。
 考えてみれば、正直は信用や出世や商売繁盛の道具にされている観が否めない。最良の、一種の政策に過ぎないことが明確になる。
 したがって裏を返せば、「正直者は損をする世の中」となれば、正直は守るだけ無用の長物となる。
 更に、正直者は正直であるということは何も真から正直であるわけではなく、ただ世渡りにおいて賢いだけなのである。総て損得勘定から正直現象が起こっているとしたら、功利、利害、打算などが人間の生き方を律する基本であるからだ。
 しかし、これが社会の為来(しきた)りとしたら、そこに身を投ずる自己は自縛されていることになる。猫被りの正直が横行している。今こそ正直を再点検する必要があろう。


成功するかしないかの噺

 成功するかしないか、それは既に自らの中に用意されている。
 本来の成功とは遥か彼方に存在するのでなく、その因子は自らのなかに内蔵されている。
 「功は舎(お)かざるに在(あ)り」という言葉がある。
 「舎ざる」とは、捨てないということで、簡単に諦めないということである。「継続する」とか「持続する」とかの意味である。捨てない以上、成功する可能性は蹤(つ)いて回るのである。
 成功を描いてそれに賭(か)けたのであれば、それをどこまでも持続させ続けなければならない。その継続において、成功する未来があるかないかの現象が起こる。


人は好運も不運も内臓している噺

 運が悪かった。運がなかったという人は多い。
 運が悪いか否か、運の有る無し。ただその一言で片付けられる「運」の一字。運とは果たしてそういうものだろうか。
 そもそも人間には、運も不運も、その人の中に内蔵されている。
 のちに顕われた結果が、好運なのか不運なのかは、自らが紡ぎ出した現象に過ぎぬ。
 現象に好運が齎されれば、自身に内臓された好運の部分が紡ぎ出されたのであり、不運に見舞われたのであれば、自身が内蔵する不運の部分が顕われたに過ぎない。


不気味な平凡の噺

 「この人はたいしたことがあるまい」そう一瞥(いちべつ)される人の多くは、体貌に鋭気が見え過ぎる人が多い。斯(か)くも、眼光の鋭さを直感できる人は、そういう欠点を持っている。
 本来の達人というのは、見るからに平凡なのである。心身の力みを感じさせないのである。肩に力が入っていない。他人(ひと)に「達人」と悟らせないのである。つまり、これが不気味な平凡である。
 対すれば、平凡か非凡か分かったときには、対戦相手は斃(たお)れているのである。
 人には隠顕(いんけん)があるのなら、達人には顕がなく、永遠に隠のままに臥して、人生を生きていく人なのである。達人の境地は、相手の才能を認め合うことのない世界なのである。
 相手がその達人の才能を認めたときは斃されている。既に死んでいる。何と恐ろしい世界か。


ひと回り大きくなる噺

 現代は人権の擁護や男女間の差別に対して、「差別はいけない」と喧(やかま)しくいうが、特に喧しいのは「傷付ける」という行為に対してである。
 差別しないというのは、果たして傷付けないことに繋がるのだろうか。
 確かに、人を暴言などの言葉や、無視するなどの仕種で傷付けるのはよくないことだろう。しかし、むやみに傷付く方もよくないことを知らねばならない。
 傷付けられて傷付くよりも、傷付けられて人間がひと回り大きくなるように心掛けるのが筋だろう。


死ぬことで活かされる死の噺

 生きる者は必ず死ぬ。多くの生命にとって、自らの死は自らの終わりに均(ひと)しいであろう。自分のこれまでの努力や仕事によって営為を齎したものは、死とともに潰えては虚しい。
 むしろ、自分が生きたという証(あかし)が、死によって活かされるような死に方をしたいものである。


一幕物の現代版「人生劇場」の噺

 時代が複雑になる一方で、現代人の人生劇場は虚無と空白で締め括る一幕物が多くなった。テーマも人間の希望と絶望。その役者は観客であり、役者と観客がひとりで二役をこなず多忙ぶり。現代版「人生劇場」では善玉と悪玉が、ひとりで二役をこなすという多忙に追い捲(まく)られる忙(せわ)しない一幕物である。


盲点を衝く噺

「人の行く裏に道あり山桜」という格言がある。
 この格言は、多くの人が見逃してしまう盲点を挙げている。盲点とは人が見落としがちなところなどと辞書類には挙がっているが、それは単に表皮的なことであり、盲点はそういう表皮にあるのではない。うっかりして見逃すような不注意から起こるものでない。物事を見詰めて観察すれば、ミクロ的には正しいが、マクロ的には間違っているというものが沢山ある。戦術のような小局的な局部においては役に立つが、戦略の酔うに大局的に見て間違った方向に展開しているというものは山ほどあるのである。
 見方によって、焦点の合わせ方によって、正しくなったり、間違ってしまうようなものは沢山あり、その間違ったところが「盲点だ」と指摘しているのである。
 表から検(み)ればよく見えるが、裏から検れば悪くてよく見えない。美醜も観る焦点によって、あるいは時間によって異なるのである。


物を考える噺

 物で幸せは買えない。物で作った幸せは長続きしない。しかし、人間は物無しでは生きていけない。
 人間には物欲がある。物欲があってこそ人間であり、もし物欲がなければ問題である。しかし、物は持ち過ぎてはならない。
 自分の身の回りの物を整理して、三百点ほどにしてみる。そうすると、どんなに生活が簡素化されたかよく分かる。更に五十点ほどにしてみる。もうここまで来ると自由人の世界である。物から解放されたと得心するだろう。人間として別の生き方があることが分かって来る。


禍論

 世に「何もしてないのに」という疑いとともに、禍(わざわい)に巻込まれた人の嘆きがある。
 何もしてないのに……。よく耳にする言葉である。何の落度もなく、無垢で純真で、そういう人が、なぜ禍の巻込まれるのであろうか。災難が頭上に降り注ぐのであろうか。
 果たして、何もしてないのに、禍が偶然に、突発的に起こるのだろうか。起こる前に、禍の前兆を感じることが出来なければ、無防備では手遅れとなる。
 これは病気でもそうであろう。
 人間がある病気を罹病する場合、その人が至誠であったり、一生懸命に道義を守って真面目を貫いていたりする人でも病気をする。はっきり言えば「悪いことは何もしていないのに」である。
 では、なぜ罹病するのか。
 そもそも、禍は希望的観測に縋った時点で、そこに禍の種子が発芽したのである。則(すなわ)ち、「何もしていない」とは「悪いことはしていない」と想った時点で、その禍は発芽したのである。
 その種の「想い」が、現象界に作用するからである。


宝の山の噺

 「宝の山に入りながら、手を空しくして帰る」
 『正法念処経』には、そうある。
 気付いたとき……。それは事を処理する最高のチャンスである。手を空しくさせてはなるまい。
 しかし、鈍感な人は宝の山に気付かない。鈍いから気付きもしないのである。ただ頑迷で、強情を張っているだけである。こういう人は折角のチャンスもアドバイスも無駄になる。
 世の中に、宝の山に入りながら素手で引き返して来る人の、何と多いことか。
 コロンブスの卵というのがある。あとで分かってみると何でもないものである。
 しかし注意散漫で、人の意見に聴く耳を持たなければ、分かる筈のことも簡単には分からない。


迷子の羊の噺

 羊の中にも、羊飼いの角笛に背き、野に咲く艶やかな花に騙されて、その蜜につられて、つい、うっかりと危ない茨の藪(やぶ)に迷い込む羊がいる。そんなとき、よき羊飼いはその迷子(まいご)になった一頭を救うために、危ない道を物ともせず、捜索に出掛けると言う。


箭、射らねば的に当らず

 目前に見える到着点でも、そこまで行かねば到着しない。小事と雖(いえど)も、遣らねば成就しない。
 物事、為(な)さざれば成らんのである。
 箭(や)、射らねば的に当らず。肝に命ずるべき箴言である。
 世人は理想や志に向って奮闘する行為が貴いのである。


怕いもの知らずの噺

 人間、時として傍若無人になる。驕(おご)り昂(たかぶ)ることがある。こういう情況は、自分に怕(こわ)いものが無くなったときである。畏れるものが無くなったときである。
 世の中、まともに、真摯に生きていこうと思えば、独りだけ怕い人を作っておくことである。自分に怕い人が居れば、道を踏み外すことはなく、その益は計り知れない。


溜飲が下る

 教師らしい教師、威張らない教師、身の程を知る教師、知ったかぶりをしない教師。立派ではないか。
 父親らしい父親、親爺らしい大黒柱としての親爺。頼りになるではないか。
 母親らしい母親、良妻賢母的な母親。安らぎの心のふるさとではないか。
 何れも溜飲(りゅういん)が下る。
 だが現代はどうか。
 それぞれがそれぞれらしい行いと姿を放棄して、個人主義に奔(は)ったことから混乱が生じたのではなかったか。


下駄を預ける噺

 信じ、心より信頼する……。これは、何でもないことである。下駄を預けて、ちょいと一歩足を踏み入れるだけで事が足りる。


単純明快な噺

 働き過ぎて過労に苛(さい)まされているのなら、働くのをやめればいい。厭(いや)な労働をガツガツする必要はない。無理もしなくてすむし、自由も奪われない。そうすれば健康法も必要ないし、ましてサプリメントなど無用である。ストレス解消法も、あれこれと試す必要がない。
 贅沢しなければ、喰っていけるだけの経済的自由を身に付ければいいことである。金持ちになりたいなどと思わないことだ。あとは好きなことをして暮らせばいい。


朽ちない人生の噺

 いい学校を出て、いい会社に就職し、人よりいい生活をしている……。果たして、それがいい人生といえるのだろうか。
 いい人生とは、意味のある人生のことであり、生き甲斐のある人生というのが本意である。幾多の苦難を乗り越え、粉骨砕身した後が振り返られる人生のことで、死しても朽ちない人生のことである。


足手纏いになる疫病神の噺

 世の中には、人の後を蹤(つ)いてこれない足の鈍(のろ)い者がいる。足手纏いである。纏わり付いて、身の自由を妨げる人間である。こういう人間は邪魔になるだけでなく、こういうのを傍に置いておくと、置いた者の身の破滅をもたらす疫病神である。
 疫病神は消極策しか打ち出せず、建設的な意見は皆無である。更に「足で稼ぐ」という概念が無い。行動力が皆無なのである。こういうのは関わりを持たず、退(しりぞ)けるに限る。それを我慢して、成長を俟(ま)つなどの悠長な愚行に出れば、結局、わが身の命取りのなる。人としての大事な、自らの名誉や誇りを喪わしめ、己が生命まで潰えることになる。


衆座の寂寥

 奇妙なことだが、人は大勢の衆座(しゅうざ)の中に居ると、却(かえ)って孤独感を深める。大勢の中では傍に自らの悲心を慰めて、相手をしてくれる者が居なければ寂寥感に苛(さいな)まされる。そして、更に不思議なのは衆座から離れれば、孤独感が薄らぐ。


忖度の噺

 優しさとは、喧嘩しないこととか、温和(おとな)しいということではない。況(ま)して、親切を売物にすることでもない。相手を忖度(そんたく)することである。これが本当の優しさである。


図太さの噺

 人は時に、図太さが要る。世の中を逞(たくま)しく生きていくためである。人はそれぞれで、優しさが通用しない者も居るのである。そういう者から、打ちのめされることもある。そのためには、繊細な傷付き易い感性よりも、鈍感に答え得る図太さが要るのである。
 鋭鈍併せ呑み、綯い交ぜにして受入れる寛大さである。これを「図太さ」と置き換えてもいいのである。