間界は「憂き世」であり、そこでは苦労が絶えない。天下は自分の思い通り運ばないものである。人生航路の舵取りの難しさである。しかし、よくよく考えれば、この難しさの中に人生の喜びと愉しみが横たわっている。
  一方、流行に乗せられ、安易に時めいていると、思わぬ失望や悲しみが襲ってくる。
  人生航路の舵取りは難しいだけに、油断は禁物であり、人間は生涯休めないようになっている。
  だが、緊張し放しでは問題だが、「無意識の緊張の術」くらいは心得ておきたいものである。

  気軽にご参加下さい。





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【平成30年】11月24日(土) 開催決定!
18:0021:00迄  参加無料
会場:北九州市小倉南区志井6丁目11-13
   尚道館 二階の囲炉裏の部屋

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   2018年10月12日更新 





過去集1〜1011〜2021〜3031〜4041〜50index

奢る者は亡ぶ噺

 格言にいう。
 侈傲(しごう)の者は亡ぶ……。
 これは貴賤を問わず「亡」に見舞われる。「亡」の決定は百発百中である。「亡」は外れることはない。
 ふつう如何なる家も、先祖の遺徳で守られている。先祖の鬼神は、鬼となり神となって子孫を守る。
 その「守り」に、先祖は子孫の家訓を残した。子孫は家訓により、先祖の教えを学んだ。家訓は先祖の智慧のエッセンスである。
 家柄を驕(おご)り、己の心の鍛錬を怠り、驕ったままに生きる者は、やがて亡ぶ。そういう家は三代も続かず没落する。
 強面(こわもて)に幅を利かし、傲慢(ごうまん)に物を言う。傍若無人に横柄に振る舞う。そして、他人(ひと)の話に聴く耳もたず……。
 こういう因縁を抱えた者は、いずれ亡ぶ。譲ることを知らず、慎みを知らないからだ。
 忘れてはならないのは、この世には作用と反作用が働いているからである。


多忙人の噺

 現代は目の赤い人が多い。六大関節が亜脱臼を起こすと、白目の部分に充血が顕われ、目全体が赤くなる。これは疲れ目が慢性化した状態であり、その一方で仕事の多忙がある。こういう人を「多忙人」と言う。
 多忙人の多くは六大関節を亜脱臼させた人である。
 六大関節……。
 上から順に、首の頸椎及び頭骨縫合(1)より始まり、左右両肩(2)、左右両肘(3)、左右両腰(4)、左右股関節(5)、左右両膝(6)の六ヶ所の部位である。その発信源は腰骨であり、腰椎と仙腸骨の「外れ」と「開き」にある。これが腰痛の許であり、この病因によりその痛みは脊柱を昇り、猫背・亀背を伴いながら両肩に至って此処で「肩凝り」となり、「肘痛」となる。更に脊柱を昇った腰痛の痛みは頸骨を歪め、そこより更に頭部に昇って頭骨の各縫合を外して頭痛となって顕われる。生体のリズムが狂ったからだ。
 では、この元凶は何か。
 夜遅い食事。夜の巷の徘徊……。そして、現代の太陽と共に起き、太陽と共に寝る生体リズムが崩壊したためである。それが多忙を産み出し、その帳尻合わせてとして、ひとときの慰安が行なわれる。自然の流れに逆行する人種こそ、多忙人の特徴である。


自他離別と自他同根の噺

 人間は誰しも賢者でもないし、まして聖者でもない。しかし、人が聖賢の域にあれば、争いは著しく極小化するだろう。
 争いの元凶は嫉妬、羨望、猜疑、嫌悪、憎愛、侮蔑、屈辱などである。そして、そこに働く意識は「自他離別」である。これが争いを起こし、戦いへと駆り立てる。
 一方、他人を譲ることが出来る謙譲の礼を知れば、そこに自他同根の意識が生まれる。自分を後回しにして、他人に譲る行いである。


徳は本(もと)なり、財は末なり

 財を好みて学ばざれば、その弊(へい)は賊。徳を積まずして、財を求めれば、その弊は乱。
 金儲けばかりがやたら好きで、学問の心得がなければ「暴虎馮河(ぼうこ‐ひょうが)」の愚を犯す。懼(おそ)れて、謀(はかり‐ごと)を知らないからだ。


善悪伝達の相違の噺

 善いことをしても、その善は遅々として広まらないが、悪いことは一夜にして千里を駆ける。善が伝わり難い所以である。
 一方、悪事はその悪事に十重二十重の輪が掛かるため、面白半分に揶揄されて一人歩きするからである。伝達には、必ず第三者の介入があるため、最終的には正確に伝わることはない。
 人の心には善行より悪行を好む性癖があるようだ。


愚弄の噺

 憎悪を斂(おさ)める得策と言うものがある。ふつう愚弄(ぐろう)されて怒らない人は少ない。たいてい愚弄されたら、怒るのが常人の心情だろう。
 ただ問題なのは愚弄の捕らえ方である。
 もし、愚弄されて笑みを哺(ふく)み、相手が愚弄したら、こちらは揶揄(やゆ)で遣り返すことが出来たら、その怒りは相手の愚弄の一枚上をいったことになる。


過剰になれば溺れる噺

 人は知識に限らず、過剰になれば溺れることがある。溺れないためには「足るを知ること」である。足るを知れば、満ち足りないことを知っているから、溺れることはない。男女が異性を愛することも、その一つである。過剰になれば溺れるのである。
 何事も、不足を知っておくことが賢明である。


油断なき用心の噺

 用心に用心を重ねることを無駄だと思わず、用心することに越したことはない。俚諺にも「用心はして悔やめ」とあるではないか。


幸・不幸の噺

 運命は自分の中に内蔵されている。幸・不幸もある。そして、何れを選ぶかの選択肢も自分の中にある。その選択肢の中で志を高くすれば、苦難に遭遇する確率も高くなる。その場合、難儀が、これでもかこれでもかと襲って来て、苦悶の中で悶絶せねばならない。それは、一見不幸のように映る。死にかけることも、しばしだだ。
 ところが本来、幸福は不幸の中に在(あ)り、不幸は幸福の中にあるものだ。


受任者の生き方

 難儀の中に身を挺して、非難と無理解の渦の中に立たされるのが受任者である。
 天が大任を授けようとするとき、まず艱難辛苦で、その人を苦しめ、次に大任が与えられるというのが受任者である。苦難の黒幕に閉ざされている。
 だが、苦難の黒幕がひとたび開かれれば、その奥は明るい幸福の舞台が俟っている。


宝の山の噺

 灯台もと暗しという俚諺がある。
 世の中には宝の山に入りながら、手ぶらで引き返す人がなんと多いことか。隣の花が赤く見えて、そこが幸福の天地であることを気付かないからである。


すべては自分の中にある

 運命を切り拓くのは自分である。環境や境遇を創るのも自分である。一切は自分の内にある。外にはない。


人の世の噺

 人を改心させようと思うなら、自らが改心しなければならない。人を変えようと思えば、自らが変わらねばならない。人の世は自分の鏡であるからだ。