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勇気とは何か

 人間、金が無いと不機嫌になる。
 愚痴、不平不満、更には運命まで呪い、その限りの羅列を並べる。更に、食べ物が無い状態に至ると、不機嫌で収まらず、事態はいっそう深刻になる。
 歴史を紐解けば、放浪中の孔子を思えばいい。孔子は弟子たちを連れて、放浪中、陳の国に赴くことがあった。その途中、兵乱に遭(あ)い食糧が欠乏したことがあった。門人達は病み疲れていた。大半は極めて困難な状況に陥っていたのである。
 そのとき子路(しろ)がいった。
 「先生。道を行なおうとする君子でも困窮することがあるのですか。これじゃあ、天道さまの是非が疑われます」
 そこで、孔子曰(いわ)く。
 「窮するとは、道に窮するのではない。私はいま仁義の道を抱き、乱世の愚に遭(あ)っている。お前は何を以て窮すると言うのか。もし、それは喰い足らず、躰が瘁(つか)るるを以て窮すとなさば、君子、固(もと)より窮す。但(ただ)、小人は窮すれば、ここに濫(みだ)る」
 孔子が言わんとすることは、小人は窮すると、自暴自棄になり、いい加減なことを遣るが、君子は泰然とし、然(しか)も自若であり、己を喪(うしな)わない。
 ちっとも普段と変わらぬ平常心で、落ち着きを喪わず、慌てもしない。小人と君子は、そこが違うと言うことなのである。
 これを聴いた子路は思わず、貌(かお)を赧(あか)らめた。自身の卑小さをズバリ指摘されたからである。そして、窮するもまた、命(めい)なることを知り、大難に臨んで少しも心を乱さない孔子に、身をもって勇気の何たるかを教えられたのである。


厚遇

 人を動かすには、大義名分だけでは動かない。また、幾らいい理想を掲げても、譬(たと)えそれに同調したとしても、それだけでは動かない。人を動かすには、厚遇という礼を以て動かさねば、動かないのである。


悟りの境地

 仏道の教えに「花は咲き咲きて成就。葉は散り散りて成就」というのがある。悟りの境地を顕した言葉である。
 道元の著した『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』には「花は愛惜(あいじゃく)に散る」という一語がある。


勇気のある人とない人

 人は批判されること、詰られること、耳に痛いことを聴かされるのを怖れる人が多い。そこで、勇気の有無が判断される。勇気のある人は、こうした怖れにも謙虚に耳を傾け、親身に聴こうとする。
 一方、勇気のない人は、これらに蓋をし、耳を塞ぎ、耳障りの悪いことを聴こうとしない。
 明治時代のある勇者が言った。
 「人間、調子のいいことばかりを聴かされれば、いくら賢人でも、三年も経てばバカになる」と。
 この勇者は、批判を怖れる人間の晩年を予言したのである。


希望の在処

 人生で最大に良いことは未来に控えている。希望は今になく、未来にある。


運は体型に顕われる

 日本でも屈指な観相家・水野南北は、人間の体型と『運』の善し悪しを、そこに観た。


貸借関係のけじめ

 借りは返さねばならない。世話になりっぱなしではいけない。放置すると、そのツケはやがて巡って来て、運命に借りを作ることになる。


ほどほど

 需(もと)め過ぎると、麻薬症状を起こす。ほどほどがちょうど良い。これを聞き分けるか否かで、その人の未来が決まる。


聴く耳

 悟りを得た人を感得者という。
 感得者は今の現状を素直に受け止める。あるがままに受け止め、自分がどう観察するかを心得ている。
 一方、未熟者は今の評価や指摘されたことにむかつく。そこで今の現状について、聴く耳をもたなくなる。忠告などの耳障りの悪いことを嫌い、避けるようになる。未熟とはこういうものであり、感得者とは掛け離れている。問題は「聴く耳」が有るか無いかである、無い場合は短絡的な結末を最終結論とする。
 これを第三者として、側面から観察している支援者はこういうところにも目を離さない。
 未熟者に目上の引き立てが無いのは、未熟であるばかりでなく聴く耳をもたないからである。
 人は、他人(ひと)からだけでなく、運命からも験(ため)されているのである。


好きなこと

 自分の時間を切り売りしない人は、自ら時間に縛られる労働者を遣らない。この種の人は、自分が働くのは、生きることは好きになることにおいてのみ、働くのである。
 好きで働くことは、時間に縛られ嫌々ながら働くこととは違う。好きだから、時間を忘れて働くからである。こういう人は、人を雇うときも、有能な人間や経済的不自由に陥っていない人を厚遇して迎える。そして、迎えた以上、その人に好きなように働いてもらう。
 それは、自らは控えることを知っているからである。口出しをしない。自分が直接、現場で動かないと言うのはこういうことである。