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未来の実体

 人生で最大に良いことや楽しいことは未来にある。この未来は、今の苦境の中に存在する。ゆえに“苦あれば楽あり”という。
 明るい未来は、今の苦しい現実の中に内包されている。


孝志

 真の親孝行は、親が愉しみにしている願いを聞いて、それを実行し、実現させることである。そして、その志を「孝志」といい、孝行を尽くそうとする心をいう。


有限の恵み

 生の否定、そして生きることへの厭世観……。それは死からの逃亡を図ったときに、頭を擡(もた)げる。
 死を怕(こわ)いものと思い込み、死から逃げ回ってばかりいては、生きることも怕いものとなり、生すら否定してしまうのである。
 死を怕がって逃げる姿こそ、生を否定した姿勢だといえる。
 死は生きることを肯定した、ありのままの姿であり、死があるからこそ、人間は一生懸命に生きるという「有限の恵み」に感謝できるのである。それが、限りある命である。


笑う門の横には、鬼門が口を開けている

 笑いすぎると脾臓を傷(いた)める。それは「笑い過ぎ」で免疫機能のバランスが崩れ、一方で全身に緊張感がなくなり、「弛(ゆる)む」からである。
 脾臓は海綿状の血管腔(赤脾髄)とリンパ組織(白脾髄)とから成り、老廃した血球の破壊や血中の異物や細菌に対する免疫の機能をもつが、笑い過ぎにより、異の左後ろの「このあたり」が痛いというのは、既に笑い過ぎで脾臓を傷めているからである。
 笑う門には福来る……。確かに名言である。いつも笑いに満ちていると、自然と福運が遣って来る……。世間ではそう信じられている。
 しかし、笑い過ぎも限度がある。バカ笑いなどをして、笑うメルトダウンを越えると、次は身体の免疫機能のバランスを崩し、理由もなく「胃の下のあたりがきりきり痛む症状」が顕われ、ここには福運どころか、鬼門が口を開いて俟(ま)っているのである。笑う門の横には、鬼門が控えていることを忘れてはなるまい。
 笑い過ぎると腹が痛くなるということがある。実は、それなのである。
 笑うにも限度があり、これを越えると「嗤(わら)い」となる。いつしか、人を見下す嘲笑(ちょうしょう)に変わのである。
 笑うにも、「ほどほど」がいい。


心象化現象

 世の中、金持ちでも金がない。有っても数字だけである。
 誰も潤沢な資金に余裕がないが、金持ちと貧乏人の違いは、金持ちが金が無くても金のある顔とポーズをし、貧乏人はそれをストレートに現して、不平不満を漏らす。そこに精神的貧富の差が現れ、その差が、現実のものとなって現れる。無から有を産む法則である。これを心象化現象という。


最良品と粗悪品

 幾らいい物を持っていても、それが売れるとは限らない。真理である。
 一方、粗悪品を売っても、決して売れないとは限らない。売り方次第では売れることがある。これも、また事実である。その違いは、売り方と売るための流通ルートがあるか否かに懸かる。
 しかし、粗悪品は直に正体がバレて、粗悪ぶりを世間に晒(さら)されることになる。
 最後は、結局、いい物だけが生き残るのだが、いい物は買手が、金の草鞋(わらじ)で尋ねる根気があって巡り遭(あ)えるものである。


繰り返す文明

 時代はいつの時代も、携わるものが人間である以上、これは未来永劫に変わらない。
 人間の思考は有史以来、まったく変わっていない。歴史が繰り返したように映るのも、繰り返したのでなく、人間の思考が時代を超えて、同じ考えを繰り返しただけである。人間界が如何に時代は発達し、文明が進歩しようと、基本的には変わらない。変わらない以上、今の文明は、また滅び、無に帰するのである。そして再び、また新たな文明が興(おこ)る。
 人間は一時の瞬(まだた)きの中で、高々(たかだか)長生きして百年程度の一瞬を生きているだけであるから、変化が富んだように感じるが、その変化も瞬きであり、短い間に過ぎない。


希望の行方

 人間、高々長生きしても百年程度。結局、瞬きに過ぎない。しかし瞬きの中に、人の人生がある。古いものは捨て置かれ、新しいものだけが有り難がられる。その価格の先端も、やがて古くなり通用しなくなる。そういう変化を、冷静に見る人間だけが生き残る。

大器は晩成にある。今ではない。希望は、今になく未来にある。


今と未来の差

 金持ちの道を歩いているのなら、既に未来は金持ちだ。

 つまり「いま金がない」というのは、未来に大金が入ってくる。その暗示である。
 したがって、今は大事だが、今を誇っては、必ず反作用が起こる。


格言は一回限り

 大義も、一度言えば効果があるが、二度三度と繰り返すと、受ける者は嫌味に聞こえる。同じことは繰り返さぬがよい。特に賢者にあってはである。論者が、愚者を諭(さと)すように繰り返してはならない。