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猟られる現象

 無料が好きで、有料が嫌いなのは当今の日本人である。金を払って有意義なものを求めようとしない。したがって、多くは無料の罠に掛かる。要するに、猟られるのである。
 しかし、価値のあるものは無料の中になく、それ相当の有料の中に存在する。結局、タダより高いものはないからである。


価値ある物

 価値あるものは、あたかも柿の木の尖端(せんたん)に実っている熟柿である。この柿を食べようと思えば、それなりの危険を冒さねばならない。しかし、これは下からは見えない。高所に登ってはじめて分かる。
 価値ある物は、常に価格の尖端にあるからである。


優劣

 健脚を極めた著名な登山家でも、地元の山好きの子供の脚よりは劣る。


粕の実体

 白米は喰っても喰っても喰い足りない。白米は栄養価が精穀で抜け落ちたカスであるからだ。カスは幾ら食べて空腹感を納めることが出来ない。
 白米という字の前後を入れ替えれば「粕」という字になる。精白した白米は「泥腐る」のである。
 しかし白米は、玄米に比べて口当たりがいい。食べても美味しい。幾らでも入る。だが、落し穴もある。
 『菜根譚』はいう。
 「口当たりのよい珍味は、これを過ごせば胃腸を損ない、五体を傷つける毒薬になる。美食に溺(おぼ)れること無く、『程々(ほどほど)』で止めておけば害はあるまい。心を喜ばす楽しみ事は、これに耽(ふけ)れば身を誤り、人格を傷つける原因になる。楽しさに溺れること無く、『程々』で手を引けば、後悔することもあるまい」
 いま日本人に必要な心構えは、『程々』である。「ほどほど」に満足する心である。物質的欲望を剥(む)き出しにする、拡張拡散主義は身を滅ぼす元凶である。頃合いで止めるのが身を保つ処世なのである。
 更に『菜根譚』はいう。
 「増やす」ことではなく、「減らす」ことを考えよ、そして「捨てる」ことをと!……。
 我々の日常生活も、この延長上にあると考えていい。したがって老後に備えて「増やす」ことではなく、「減らす」ことを真剣に考えることが、将来の自分自身の「生き方」を決定するといっても過言ではない。欲を捨て、無私になり無我となり、無欲に徹することである。金品は結局あの世まで持って行かれないからだ。それは死に態(ざま)と酷似しているようだ。


甘さ

 暇があり過ぎると弛みが生じる。弛みは緊張感を喪わさせ、思考に甘さを招く。一旦、甘さの陥穽に落ちると、ここからなかなか抜け出せない。甘さとは微温湯であるからだ。


退屈しないことと程よい緊張

 世に持病持ちの人は多いであろうが、病気を抱えた人でも、自分が病気であると考える閑がなければ退屈することはない。退屈しないということは、自分の持病も感じる閑がないから忘れてしまう。病人にとって、時間を持て余す退屈が一番いけない。
 始終閑なしで躰を動かし続け、程よい緊張があれば、自分が持病を抱えていることすら、脳裡には忍び込まないのである。そして、程よい緊張の中に自らを置いて、ときどき痛みを感じるならば、その痛みは生きている証拠である。


人生の満喫

 人間は喜怒哀楽の感情がなくなれば、その人の人生は終わっていると言えよう。
 人生は喜怒哀楽の中にある。
 怒るときには怒り、喜ぶときには喜ぶ。また、哀しみの中にあるときは哀しみ、愉しみの中にあるときは楽しむ。それでこそ人間である。
 しかし、哀しみの中にあるときに涙さえ落さず、怒りたいときに怒れないような乾いた表情をしていては人生を満喫していることにはならない。


家宝

 伝える物がない。当今はそう言う家が殖えた。
 親が子に、わが家の謂(いわ)れを伝える家宝がない家は、二代か三代で没落している。
 自分の幸せだけと、考えている人は少なくないが、自分だけが幸せであればいいという考える個人主義は、後世の子孫に伝える伝統や文化がないため、やがては没落する暗示がある。
 伝える物がない……。それは老いれば、寂しい老後だった。


滅亡の暗示

 自分の名誉が傷付けられても、何も感ぜず、自分の評価だけにこだわる人は鈍感だけでなく、自分の名誉に対する危機意識が抜け落ちているからである。この欠落が、強(し)いては日本人の誇りまでもを蝕んでいるのである。国民一人ひとりが、その意識がなくなったら、もはや亡国だろう。亡国は人としての尊厳を、その国の国民が感じなくなれば、やがて滅亡の暗示がある。


尊厳の危機

 自分の親でも師匠でも、これらの人の尊厳が傷付けられても、無表情でいる人は、これまでの自らの生きた証(あかし)を否定することである。それは、自らの存在まで打ち消すことになる。また、語るに落ちたということである。