過去集1〜360(※Daitouryu.net)361〜370371〜380381〜390391〜400401〜410411〜420421〜430431〜440441〜450451〜460index
◎人間は困苦と欠乏によって鍛錬される。 ◎楽天的で向こう見ず。そんな生き方もいい。 ◎人間関係が難しくなった現代、この時代に生きるためには知恵が要る。 ◎真情をもって対応すれば、他人は心を動かしてくれる。 ◎老いれば孤独と寂寥に耐えなければならない。 |
古い物の中から探す新たな価値観
人がするからしない。人が選ぶから選ばない。人が行かないから行く。大穴とか、穴場が人が捨てたところに価値観を見出すことである。大勢の人が見向きもしないものを見出して、人の心を掴むことに成功した人物がいる。
ロスチャイルド家の初代であるマイヤー・アムシェルである。
中部ドイツの町ハノーバーで、銀行奉公をしていたマイヤーは故郷に戻ったとき、既に両親は亡く、二人の兄が古物商をしていた。マイヤーも兄たちに倣(なら)って食い扶持(ふち)を得るために古物商を始めたが、彼の商売は一風変わっていた。兄たち倣ったのだが、同じ古物商でも商う古物が違っていた。古いお金を蒐集する古銭商になったのである。
ふつうの人ならガラクタ同然で、既に通貨価値は失ってしまった見向きもしない古銭だが、彼はそれを安く買い取り、これまで積み上げて来た経験と智慧を駆使して、古銭の一つひとつに、由来と口上を記すという形で付加価値を付けて、手製のパンフレットを作成したのである。そして、そのパンフレットを領主や貴族たちに郵送したのである。
たちまち貴族たちの関心を惹(ひ)き、ついに領主から直々に注文を賜ることになった。ここからマイヤーが世界を動かすロスチャイルド王国に踏み出す第一歩であった。
嫉妬社会
これからの世界はその他大勢の大衆が知らないところで、恐ろしいまでに科学は歪(ゆが)められていくだろう。その歪みの顕著な例が、当今のネット社会である。此処では熾烈(しれつ)な足の引っ張り合がなされている。そこには烈しい嫉妬があるからだ。
晩年の大事
『菜根譚』はいう。「口当たりのよい珍味は、これを過ごせば胃腸を損ない、五体を傷つける毒薬になる。美食に溺(おぼ)れること無く、『程々(ほどほど)』で止めておけば害はあるまい。心を喜ばす楽しみ事は、これに耽(ふけ)れば身を誤り、人格を傷つける原因になる。楽しさに溺れること無く、『程々』で手を引けば、後悔することもあるまい」
大事なことは、「喜ぶ」と「楽しむ」を同時に貪ると、結末は哀れだということである。それは偏るからである。
本来、楽しむだけで終わらせておけばいいものを、これに「喜ぶ」を加えて、両方を貪ると最後は悲しむべき最後、あるいは晩年が俟(ま)っていることだ。
更に『菜根譚』はいう。
「声妓(せいき)も晩景に良に従えば、一世のエン花(エン花の「えん」の字がないので作字。月(にくづき)に因で、エンと読む)、碍(さまたげ)なし。貞婦も白頭の守りを失えば、半生の清苦、倶(とも)に非なり。語に言う。『人を看(み)るにはただ後の半截(はんせつ)を看よ』と。真(まこと)に名言なり」
つまり『菜根譚』の著者・洪自誠は、若い頃、あばずれで浮き草暮らしをしていた娼婦のような女でも、歳を取ってから身を正してよい夫を見付け晩婚であっても、これまでの過去の悪行や浮気の数々は帳消しになる。
人生というものは老後にあるからだ。齢(よわい)六十を過ぎ、七十になり八十になれば、一瞬のうちに時が過ぎ去っていくのが分かろう。これまでを振り返って、五十年、六十年の人生が苦しんだか、いい思いをしたか贅沢をしたかはたいした問題ではない。
しかし、六十を過ぎ七十に差し掛かった頃から、この老齢期の一時間とか一日と言うのは、若い頃に比べてもの凄く大事ないのである。その大事な一日において、享楽や快楽にうつつをぬかす暇はなく、かの佐藤一斎が『言志四録』でいうように「老いて学べば、死しても朽ちず」の境地に至るか、そうでないかが、その人の人生の幸・不幸の明暗を分けるのである。
則ち、真当の「愉しみ」は、この時期に「ああ、ほんとうによかった」と思って暮らせるかどうかである。少なくとも物見遊山に遊び呆(ほう)けることをすることではあるまい。学んだかどうかである。それが、理性を絡ませた愉(たの)しみなのである。
一方、若い頃、純潔を守り通し、如何に身を慎み、身を清潔に徹した貞淑な才女でも、五十、六十の歳に至って、若作りをして男漁りを始めたり、愛だ恋だに現(うつつ)を抜かせば、晩節を穢(けが)すことになり、これまで折角守って来た貞操は、この愚かな一事で総て台無しになり、若い頃の悪態の限りを尽くした“あばずれ女”以下になってしまう。その愚を指摘しているのである。
ゆえに、古語には「人を看るには、その晩年を看よ」というのは、まさに名言であり、大正解と言っているのである。
もし、あなたが現在、五十の折り返し点に到達した人として、平均寿命年で言えば、男が死にまでに26年弱、女が死ぬまでに32年弱となるのだが、果たしてこの期間に何をして、何を考えて生きるのだろうか。
この残された期間は、生まれてから50年間という時間とは根本的に違うのだが、この違いが克明に認識出来るだろうか。
五十に達したある男は、俺は死ぬまでに26年もある。またある女は死ぬまでに32年もある。
ところが、この死にまでに残されたこの時間は、死ぬまで五体(五臓六腑の一切を含む)が健康で、健全な頭脳で物事を識別出来るということが前提となるが、おそらく残された時間の半分以上を病魔との戦いに費やされ、濃縮な時間の実働時間は、この半分以下ではあるまいか。実働時間とは「健康・健全時間」に置き換えられる。つまり、その時間は半分以下なのだ。
いま健康な男は濃縮時間の実働が13年以下、健康な女としてその実働時間は16年以下となる。
さて、この時間をどう使うか、そこに、あなたの人生の総てが掛かっているのである。
現代の廃人の製造システム
ほんのひととき、ちやほやされ、天狗になっているPCエンジニアも結局はスキル芸者。遣われて、酷使され、遣うだけ使いまわされて気付いたらボロボロ。人間性まで失っている。意気に感じたり、理想に燃えることはない。義憤(ぎふん)に滾(たぎ)る精神すら失っている。しかし気付く者はまだ良い。
多くは気付かぬまま、自覚症状も感じないまま廃人になっていく。ネット世界の幻影を見たまま、半永久的にこの世界の幻影につきまとわれる。現代の廃人の製造システムの現実である。
目に誑かされる
予想不可能な時代は、何でも真実になる。偶像を勝手に造っても、出来がよければ真実として映される。映像世界とは目に誑(たぶら)かされる時代を派生させた。
「汝(なんじ)、目に誑かされる」
鎌倉初期の禅僧・道元禅師の言葉である。当今こそ、この言葉がピッタリ当て嵌まる時代はあるまい。
理想郷
改竄(かいざん)と失望のあるとことからは去る……。賢明な判断だろう。そこには幻影しかないからだ。かわって真実と希望のあるところには足を向けて進む。そこには理想郷があるからだ。
滅びの暗示
当今はマスコミ誘導によって老若男女が、殆どロボトミー化された。日本はこの縮図の中に置かれた。急激な変化の裏には、当今猛威を揮っているネット社会が背景にある。
この社会は一見、便利で快適で、豊かさすら感じさせる。しかし、それは仮想の上に作られたバーチャル世界の幻影に過ぎない。それゆえ、この幻影に滅びの暗示が漂うのである。
志と理想
人の世の理想は現実の中で迫害される。また、個人の掲げる志も同じである。人間の感じる挫折とは、そうした側面に転がっている。しかし、これに抗(あらが)って挫けないことこそ、志であり、理想である。それを棄てない。これこそ勇者の証(あかし)である。
文明の崩壊
富んでも愚者は居るし、貧しても賢者が居る。しかし前者は圧倒的多数で、後者は一握りの少数に過ぎない。少数の貧窮する賢者が起(た)つよき、世の中には光明に光が顕われる。だが、富んだ愚者の霊的神性が曇らされている時間が長ければ、文明は亡びに向う。密告社会
恐怖心から有ること無いこと、みな密告する。こういう社会は「まとも」であるまい。管理され監督される社会とは、強大な軍隊と内部警察機構により、国民が階級化され、機能化され、家畜になる世の中をいう。