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■ 試刀衣裳・紋付袴販売 ■
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▲試刀衣裳
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●試刀術の衣裳について
試し斬りに於ては紋付袴を着用する。紋付袴は、一般の道衣と異なり、動き易いのが特徴である。
また精神的には、心の佇(たたずま)いがあった。それゆえ正装する。
かつて、武士は死生観を自分の人生の中で解決しなければならない課題として、このテーマに取り組んだ。死生観を超越すれば、死など、わが身を捨てることで、何も怖くないと思われていた。しかし、作法通りに切腹して、果てて死ねば、見事だとか、死の美学だとか、こうした次元を「死を致す」というのではない。
では、この「死を致す」とは、一体どういうことか。
それは、 どうしても死ななければならない時機(とき)には、その場所と、死を決断する覚悟は必要であると説く。しかし、死ぬ時機の場所や決断を逸したとき、それは「犬死」でしかなかった。この考え方は、君臣という主従関係が絶対的な関係であった封建時代でも、これを誤れば「犬死」とされた。この死は、非常に評価の低いものであった。
無闇(むやみ)に命を粗末にして、死に急ぐことは「犬死」とされ、軽蔑されたのである。
また、乱世の戦国期においても、義の為に死を選ぶにしても、その時機と、場所を考えないと、死の効果は上がらず、愚かな犬死とされた。ここに武士の「死」を選択する苦悶(くもん)があった。
したがって、「死を致す」とは、単に心構え的なものでなく、更には日常を「非日常」に置き換えて、わが心に死を充(あ)てる事であった。非常に、高次元で崇高(すうこう)な「心の持ち方」と、「覚悟」を説いた言葉である。
まさに、「死を致す」とは、死に急ぐことではなく、命を無闇(むやみ)に粗末にしないということであった。むしろ、命を大切にし、最後の最後まで、決して安売りをしないということであった。最早(もはや)これまでと諦めて、自刃(じじん)をしないことを云った。
また、「死を充てる」とは、日常が非日常に変化すると、そこには「命の輝き」があるという事を、自らの行動で示すということであった。普段の日常生活では、曇った、輝かない命が、非日常に至ると輝くということである。
これは万人に云える事であろう。
もし、自分の命の寿命が、明日までと宣告され、今という時点から、死ぬ明日の時点まで、この間の自分の命の燃焼のさせ方は、今まで以上に大切なものとなる。この死を迎えるまでの時間、多くの人は、残された時間を非常に大切に使う筈(はず)である。
どうせ死ぬから、生のあるその一時(ひととき)に、好き勝手なことをして、し放題で時間を費やすという御仁(ごじん)は少なかろう。やはり、生ある限り、懸命に、有意義に生きるのではあるまいか。
そして、この瞬間こそ、人生で「命が一番輝く時機」ではなかったか。
「心は体を為(な)す」という。また体は、そのまま心に反映すると言う。心と体に反映し、それが試刀術における、身を引き締め、武の道を歩くと言う「道」にも通じるのである。ゆえに正装する目的があると言える。
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