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書籍を通した技法の公開

大東流秘伝大鑑
(だいとうりゅうひでんたいかん)

大東流秘伝大鑑  

著者 曽川和翁

様式 B5/550ページ
豪華クロス装丁 ハードカバー

発行日 平成11年11月19日


定価 12,600円(税込)

 
本書籍はすべて完売いたしました!

 

本書籍の網武出版配給分は、すべて完売いたしました。出版元の、八幡書店においては、若干数の在庫を所有している模様です。本書籍、ご希望の方は、八幡書店にアクセスの上、ご注文ください。

 株式会社・八幡書店

 http://www.hachiman.com/books/89350-198-4.html

●解説(本分より抜粋)

 古流武術の世界ではいつの時代も、時空を超えた「秘伝」が秘かに一子相伝の形式で伝授されてきた。秘伝は大衆化されることなく、秘密が秘密として陰に隠され、その全貌は決して明かされることはなかった。此処に「秘伝」の「秘伝」たる所以がある。
 本書は、大東流の霊的な技法すべてを集大成した必見の武道書である。
 550ページに及ぶ、膨大な技法を紹介し、論理篇、行法・秘法篇、柔術篇、合気柔術篇、合気の術篇、術理篇、活法篇のすべてにいたる秘伝を大鑑として総編纂したものである。

 武術の基本理念は大東流に集約され、大東流はその中枢を為すものが「合気」である。大東流の合気理念は単刀直入に述べれば「実戦護身術」である。護身術の根本理念は抑「人殺しの術」であり、人を殺す為のみにその業が編み出されてきた。まさに諸流派総合の真髄は此処にあるといってよいであろう。
 武道で言う倫理や儒教的考え方は、安全圏に居る者達の詭弁であり、戯言であり、人の命の尊さ、平和の有難さはこの人殺しの術を通してのみ理解が出来、机上の空論で平和を説いて見たところで、それは絵に描いた餅に等しい。人殺しの術と武器と遠避け、戦い方を教えない事だけが平和を維持できる方法ではない。現世は体験的学習を通じてのみ、それが理解できる仕組になっている。

 今日の国際問題一つ揚げて見ても、人類は不幸にして「武力を使わずに国際問題を解決する」糸口を見い出していない。旧態依然として武力の中心は武器であり、組織化された軍隊である。その何たるかを理解せずして、軍縮を説き、核兵器廃絶を唱えて見ても、直ちに世界が平和になるという事はない。未だに世界各地で戦争の火種は燻っている。先ず平和を実現する為には、そして世界全体を理想郷に近づける為には、その攻撃対象をしっかり見据えて「武」を理解する事が大切である。また現実の世界は、理想の世界に比べて極めて冷厳である。その実体から眼を反らせて見ても、真の平和と自由は得られないのではなかろうか。
 そして急がれる事は、歴史を振り返り、その中に記されている戦争からの教訓を学ぶべきである。

 さて、大東流は弱肉強食の理論によって構築された武術ではない。徹底的に力を否定し、肉体トレーニングを否定する事が、その真髄の根底にある合気理念である。今日の武道を見る限り、その多くはスポーツ理論に身を寄せたトレーニング法を用いている。殊にその最たるものが、柔剣道を始めとして、空手、拳法、合気道、居合剣道、相撲等であり、スポーツとしては欧米柔術、レスリング、拳闘等である。

 一般人が格闘技を想像する場合、そのトレーニング法は旧態依然の、マラソン等のランニング、縄飛び、ウェイトトレイニング、兎飛び、スクワット等の筋力とスピードを養成する鍛練法を想像するであろうが、武術にとってこれ等は決して上質の鍛練法とは言い難い。これ等は筋力的な「力」の養成を目指しているからだ。
 大東流はこれ等の力を無効とする。それは力は「業の中にあってこそ、真当の力」であり、鍛練法自体に力の在るのは真当の意味で役に立たない事を示すのである。

 昨今は「柔能(よ)く剛を制す」は殆ど死語に近い状態になってしまった。現実には筋力トレーニングで鍛え揚げ、磨き上げた俊敏で精妙な技術を持ち、エネルギッシュで体躯の大きい巨漢が、理論抜きで粉砕し、勝ちを納める事が多くなった。総て体力主義である。だがこれは試合というリングを設け、試合場が設定された場合であり、現実に於ける実戦は、これ等の試合場とは大きく異なり、必ずしもリングの上での試合上手が総ての闘いに勝てるとう訳でもないのが、また一方で事実としてある。

【解説】
 十六世紀より擡頭した武術は、戦国時代の実戦的な武技を包含し、江戸初期から中期のかけて様々な流派を生む出した。日本武術はこの時代において、大いに発展を遂げる。一般には《武芸十八般》という総合武術的なものであった。そして各流派には、武芸十八般のうち、少なくとも六種類の武技をこなすことが出来た。
 しかし、明治期に至り、単種目的な武技が登場することになる。同時にこれは、秘伝の放棄とも取れる事態を招いた。

 古流武術の世界ではいつの時代も、時空を超えた秘伝が存在した。秘かに一子相伝(いっしそうでん)の形式で伝授されてきたのである。
 したがって秘伝は大衆化される事なく、秘密が秘密として陰に隠され、その全貌は決して明かされる事はなかった。此処に「秘伝」の「秘伝」たる所以がある。

 現在、普及している多くのスポーツ武道を見てみると、大衆化路線をひたすら走り、競技的にスポーツ化し、観戦客を意識して、アメリカナイズする事を普及の第一の目的とし、次に老若男女にも親しめるものというイメージを前面に強く打ち出し、その宣伝に余念がないようである。
 ここに古来より秘密情報として伝承された、日本武術の「秘伝」の崩壊の一面がある。

 誰にも親しめ、スポーツ的にゲームを楽しんだり、アメリカナイズされて、お揃のユニホームでファッショナブルに統一された運動着や道衣を着る事は、一見スマートであり、最も大衆が好むファッションであるが、その武技一つ一つを見た場合、その技術構成はスピードと筋力に頼り、体力で押し捲って基本のぶつけ合いに終始し、最短距離を通る直線の運動軌跡をとるスポーツ的な武道が殆どとなってしまった。
 そして戦前の、あるいは昭和の初期までには恐らく存在していたであろうと思われる、本当の意味での「秘伝」が消え去ってしまった観が否めない。

 だが、今日それを振り返ると、「秘伝」はアメリカナイズの変貌の裏側で消滅し、そして名目上「秘伝」と云う言葉は、表向きには使われてはいるが、本当の意味では、最早死語に近い状態になってしまっている。
 したがって、「小が大を倒す」という秘法が無くなり、専(もっぱ)ら手の早い者が、遅い者を叩き、力のある者が力なき者を倒しているだけの事であり、柔道の専売特許のように盛んに使われた「柔能剛を制す」の言葉も、今日では死語同然になっている。

 その大きな原因は、明治維新以降、日本古来の武術を、武道に置き換えた処にあり、これはただ名前や、名称を置き換えただけではなく、その武技を大衆化する為に複雑なものを簡化し、危険なもの省略して、広く親しめるように、武技の外郭のみの秘密情報を公開した為である。尊厳すべき秘密情報を一般に公開し、秘密が秘密でなくなってしまった今日、武道は、欧米のスポーツ式トレーニング法を模倣し、アメリカナイズの道を選択してしまった観が強い。

 ある意味で一般公開は、多くの研究者から研究され、暴かれる運命を辿るのは必然的である。研究され、詳細な部分まで暴かれてしまえば、それは相手に「封じ手」を研究される事となり、秘密情報として隠されていたものが広く知られてしまうという実情を招いたのである。だがこれで秘密情報が全部出揃った訳ではない。

 「密」なる秘密情報は、その複雑さから簡化された為、その要締(真諦)を外してしまい、「要」の部分を放棄したという形になった。つまり総てが俗諦(表向きの方便)になってしまい、その奥儀として存在した呼吸法や、修練に必要な行法を無視したという訳である。この結果、武道は武術に非常によく類似しているが、その根本は全く異質のものである。


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