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●解説(本分より抜粋) 古流武術の世界ではいつの時代も、時空を超えた「秘伝」が秘かに一子相伝の形式で伝授されてきた。秘伝は大衆化されることなく、秘密が秘密として陰に隠され、その全貌は決して明かされることはなかった。此処に「秘伝」の「秘伝」たる所以がある。 武術の基本理念は大東流に集約され、大東流はその中枢を為すものが「合気」である。大東流の合気理念は単刀直入に述べれば「実戦護身術」である。護身術の根本理念は抑「人殺しの術」であり、人を殺す為のみにその業が編み出されてきた。まさに諸流派総合の真髄は此処にあるといってよいであろう。 今日の国際問題一つ揚げて見ても、人類は不幸にして「武力を使わずに国際問題を解決する」糸口を見い出していない。旧態依然として武力の中心は武器であり、組織化された軍隊である。その何たるかを理解せずして、軍縮を説き、核兵器廃絶を唱えて見ても、直ちに世界が平和になるという事はない。未だに世界各地で戦争の火種は燻っている。先ず平和を実現する為には、そして世界全体を理想郷に近づける為には、その攻撃対象をしっかり見据えて「武」を理解する事が大切である。また現実の世界は、理想の世界に比べて極めて冷厳である。その実体から眼を反らせて見ても、真の平和と自由は得られないのではなかろうか。 さて、大東流は弱肉強食の理論によって構築された武術ではない。徹底的に力を否定し、肉体トレーニングを否定する事が、その真髄の根底にある合気理念である。今日の武道を見る限り、その多くはスポーツ理論に身を寄せたトレーニング法を用いている。殊にその最たるものが、柔剣道を始めとして、空手、拳法、合気道、居合剣道、相撲等であり、スポーツとしては欧米柔術、レスリング、拳闘等である。 一般人が格闘技を想像する場合、そのトレーニング法は旧態依然の、マラソン等のランニング、縄飛び、ウェイトトレイニング、兎飛び、スクワット等の筋力とスピードを養成する鍛練法を想像するであろうが、武術にとってこれ等は決して上質の鍛練法とは言い難い。これ等は筋力的な「力」の養成を目指しているからだ。 昨今は「柔能(よ)く剛を制す」は殆ど死語に近い状態になってしまった。現実には筋力トレーニングで鍛え揚げ、磨き上げた俊敏で精妙な技術を持ち、エネルギッシュで体躯の大きい巨漢が、理論抜きで粉砕し、勝ちを納める事が多くなった。総て体力主義である。だがこれは試合というリングを設け、試合場が設定された場合であり、現実に於ける実戦は、これ等の試合場とは大きく異なり、必ずしもリングの上での試合上手が総ての闘いに勝てるとう訳でもないのが、また一方で事実としてある。 【解説】 古流武術の世界ではいつの時代も、時空を超えた「秘伝」が存在した。秘かに一子相伝(いっしそうでん)の形式で伝授されてきたのである。 現在、普及している多くのスポーツ武道を見てみると、大衆化路線をひたすら走り、競技的にスポーツ化し、観戦客を意識して、アメリカナイズする事を普及の第一の目的とし、次に老若男女にも親しめるものというイメージを前面に強く打ち出し、その宣伝に余念がないようである。 誰にも親しめ、スポーツ的にゲームを楽しんだり、アメリカナイズされて、お揃のユニホームでファッショナブルに統一された運動着や道衣を着る事は、一見スマートであり、最も大衆が好むファッションであるが、その武技一つ一つを見た場合、その技術構成はスピードと筋力に頼り、体力で押し捲って基本のぶつけ合いに終始し、最短距離を通る直線の運動軌跡をとるスポーツ的な武道が殆どとなってしまった。 だが、今日それを振り返ると、「秘伝」はアメリカナイズの変貌の裏側で消滅し、そして名目上「秘伝」と云う言葉は、表向きには使われてはいるが、本当の意味では、最早死語に近い状態になってしまっている。 その大きな原因は、明治維新以降、日本古来の武術を、武道に置き換えた処にあり、これはただ名前や、名称を置き換えただけではなく、その武技を大衆化する為に複雑なものを簡化し、危険なもの省略して、広く親しめるように、武技の外郭のみの秘密情報を公開した為である。尊厳すべき秘密情報を一般に公開し、秘密が秘密でなくなってしまった今日、武道は、欧米のスポーツ式トレーニング法を模倣し、アメリカナイズの道を選択してしまった観が強い。 ある意味で一般公開は、多くの研究者から研究され、暴かれる運命を辿るのは必然的である。研究され、詳細な部分まで暴かれてしまえば、それは相手に「封じ手」を研究される事となり、秘密情報として隠されていたものが広く知られてしまうという実情を招いたのである。だがこれで秘密情報が全部出揃った訳ではない。 「密」なる秘密情報は、その複雑さから簡化された為、その要締(真諦)を外してしまい、「要」の部分を放棄したという形になった。つまり総てが俗諦(表向きの方便)になってしまい、その奥儀として存在した呼吸法や、修練に必要な行法を無視したという訳である。この結果、武道は武術に非常によく類似しているが、その根本は全く異質のものである。
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