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●解説(本分より抜粋)そもそも「合気」とは何であろうか。 合気の表現は、各々の指導者によって異なる。 「気が総て」と謂ったところで、そもそも「気とは何か」と謂うことになり、それは眼に見える物でもなく、「気の力」だけでは説得力に欠ける。 ある人は、更には合気を基督教的な宗教観で捕え、合気の「合」を「愛」と称したり、老荘思想の「宇宙森羅万象論」を持ち出して、万物の融和や調和を強調して、既に「戦闘」する事を忘れたり、人類社会構造の要に「融通無礙」や「調和円満」を早々と持ち出して、これをそ人類の進むべき真の平和の道と、宗教的な色彩を強め、それを豪語して憚らない人もいる。第一、武道の中心課題である「戈を止める」という意味は、人間が欲望を原動力として、他を威圧し、制圧する事に対峙して生まれた言葉である。口先ばかりの平和論を唱えていても、現実問題としての暴力は治まらないが、如何なものであろうか。 またある人は、神秘主義を持ち出したり、触れられた瞬間に手が痺れ、力が抜けて動けなくなるという「硬直合気」や、一瞬にして大勢の敵を潰したり、倒したり、重ねたりする「重合気」を得意とする人も居るが、概ねは武田惣角や植芝盛平の武勇伝に、あわよくば便乗しようとしている人達であり、これ等の人達が、自らの技法を実演して、大相撲の力士やプロレスラーや柔道無差別級の巨漢選手を「触合気」(=躰の一部を触れただけで倒してしまうという伝説上の合気)で倒したという話は一度も聞いた事がない。この現実から考えると、凡その指導者は、武田惣角や植芝盛平の武勇伝にちゃっかりと便乗しているのが、大東流や合気道の修行者の実情であると謂ってもよい。 だからと言って、「筋力トレーニング」と「それによって鍛えた腕力」と「スピード」が総てだと謂う分けではない。人間は動物である以上、しっかりとした骨格の上に鍛えられた筋肉を身に付ける事は大切である。しかしそればかりに囚われて、ボディービル・コンテストのような肉体造りばかりに専念しても駄目である。武術家の体躯は、欧米人とは異なる、身軽で、機敏な体格が必要である。 先ず武術修行者は、単に筋力と筋トレ的な反復練習に陥ること無く、「修行」という観点から、もう一度自分自身を見つめ直し、心を静粛にして「武」の何たるかを考え、本当の意味での「秘伝」に触れる事が望ましい。
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