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書籍を通した技法の公開

■ 五輪の魂/臥竜 ■
(ごりんのたましい/がりょう)

 
 

作詞・作曲  曽川 和翁

編 曲  佐孝 康夫

発 売  綱武出版

様式 オーディオCD
 1.五輪の魂(3分51秒)
 2.臥竜(3分25秒)
 3.五輪の魂 -カラオケバージョン-
 4.臥竜 -カラオケバージョン-

価格 2,100 円(税込)

 
数量 :

 

●五輪の魂・解説(本サイトより)

 武士道精神は、現代人にとって、最も欠落した思想である。一言で武士道と言うが、これを身を以て全うしている人は実に少ない。
 また武士道を標榜していても、そこに流れる根底には、自我や自流の我田引水が働き、自流を高く置き、他流を低く置いて卑しめる姿が各流派の言に認められる。

 修行者が修行者の毅然とした態度を評価できるのは、その人個人が持つ、志(こころざし)の強さと純粋さのみである。そこにあるものは、心と身体の統一であり、志を成就させんとする意識の集中である。
 人間は、俗世の常識や知識では如何ともし難い現実がある。俗界生活での過去は、余りにも儚(はかな)く、脆いものである。世俗の常識や知識では、修行と言う次元は、決して乗り越える事が出来ないのである。修行に必要なものは、厳しい師が存在する事であり、この師の厳しさ如何で、修行のレベルが決定されてしまうのである。
 そして、厳しい師が存在すると言う事は、挫けそうになった時の手本となり、難行苦行の末に物事の成就が待っている。

 道は大きく分けて自力の道があり、また、他力の道がある。そのいずれも、斯道の道統によって切り開かれたものであり、そこには縁によって恵まれた人々が、相集い、ついに成就を見る道なのである。
 わが西郷派大東流では、武術鍛練を通じて、武士道を実践すると同時に、精神的な貴族と上級武士の気風を掲げ、求道精進(ぐどうしょうじん)に道場歌『五輪の魂』を、君子の性(さが)とする次第である。

 

●臥竜・解説(本サイトより)

 『三国志』の物語の中には、英雄や豪傑が星の数ほど登場し、そしてやがては消えて行った。しかし諸葛亮孔明だけは、こうした登場人物の中でも、群を抜いて輝いた存在であった。
 『三国志』で、孔明にまつわる故事は多い。喩(たと)えば、「水魚の交わり」とか、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」とか、「死せる諸葛(しょかつ)、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」などであり、ここに孔明の偉人ぶりが偲(しの)ばれる。

 また、孔明が三国時代に登場して、奇略を縦横に用い、神懸り的な知謀家に仕立て上げたのは、のちの中国史明代においての大衆小説となった『三国志演義』である。『三国志演義』こそ、中国人民に支持された書物はないであろう。また、中国大衆人民が求めた歴史上の人物の中で、諸葛亮孔明ほど、大衆が最も贔屓(ひいき)した人物は他に居ないであろう。
 では、何故に孔明は、大衆からこのように判官(ほうがん)贔屓され、親しまれたのであろうか。

 それは孔明が、「天下三分の計」を構想し、これを創り出す政治的思想が、実は、孔明自身に「臥竜(がりょう)」と称される、野に臥した時代からの温めに温めた計略あったからだ。臥竜孔明は天下に躍(おど)り出る時機(とき)を、自らの描いた計略とともに待ち続け、気宇壮大な夢を抱いて野に臥した時期があった。そして時は乱世である。乱世こそ、計略を自分の意の儘(まま)に駆使して、同じ土俵に上げ易い時代はないからである。

 「臥竜」という言葉は、時機(とき)を得れば、力を発揮する人物を評して、中国では古くから使われた言葉である。天に昇り上がった竜よりも、まだ頭角を顕わさず、野に臥した竜を畏怖と尊敬の念で、人は彼を「臥竜」と呼ぶのである。

 それは、時機を得れば恐るべき実力を発揮して、天に掛け昇る竜であるからだ。これこそが、野に臥して実力を蓄え、世に躍り出る時機を窺(うかが)う恐るべき存在であった。
 孔明は大志を秘め、隆中時代は、いつの日か、世に躍り出る時機をひたすら待ち続けた、まさに恐るべき臥竜であったのである。

 筆者が自ら作詞・作曲した『臥竜』は、こうした孔明に重ね合わせて、天に舞い昇る時機を待つ、夕嵐(ゆうあらし)の中に潜む竜をイメージしたものである。


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