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●五輪の魂・解説(本サイトより) 武士道精神は、現代人にとって、最も欠落した思想である。一言で武士道と言うが、これを身を以て全うしている人は実に少ない。 修行者が修行者の毅然とした態度を評価できるのは、その人個人が持つ、志(こころざし)の強さと純粋さのみである。そこにあるものは、心と身体の統一であり、志を成就させんとする意識の集中である。 道は大きく分けて自力の道があり、また、他力の道がある。そのいずれも、斯道の道統によって切り開かれたものであり、そこには縁によって恵まれた人々が、相集い、ついに成就を見る道なのである。
●臥竜・解説(本サイトより) 『三国志』の物語の中には、英雄や豪傑が星の数ほど登場し、そしてやがては消えて行った。しかし諸葛亮孔明だけは、こうした登場人物の中でも、群を抜いて輝いた存在であった。 また、孔明が三国時代に登場して、奇略を縦横に用い、神懸り的な知謀家に仕立て上げたのは、のちの中国史明代においての大衆小説となった『三国志演義』である。『三国志演義』こそ、中国人民に支持された書物はないであろう。また、中国大衆人民が求めた歴史上の人物の中で、諸葛亮孔明ほど、大衆が最も贔屓(ひいき)した人物は他に居ないであろう。 それは孔明が、「天下三分の計」を構想し、これを創り出す政治的思想が、実は、孔明自身に「臥竜(がりょう)」と称される、野に臥した時代からの温めに温めた計略あったからだ。臥竜孔明は天下に躍(おど)り出る時機(とき)を、自らの描いた計略とともに待ち続け、気宇壮大な夢を抱いて野に臥した時期があった。そして時は乱世である。乱世こそ、計略を自分の意の儘(まま)に駆使して、同じ土俵に上げ易い時代はないからである。 「臥竜」という言葉は、時機(とき)を得れば、力を発揮する人物を評して、中国では古くから使われた言葉である。天に昇り上がった竜よりも、まだ頭角を顕わさず、野に臥した竜を畏怖と尊敬の念で、人は彼を「臥竜」と呼ぶのである。 それは、時機を得れば恐るべき実力を発揮して、天に掛け昇る竜であるからだ。これこそが、野に臥して実力を蓄え、世に躍り出る時機を窺(うかが)う恐るべき存在であった。 筆者が自ら作詞・作曲した『臥竜』は、こうした孔明に重ね合わせて、天に舞い昇る時機を待つ、夕嵐(ゆうあらし)の中に潜む竜をイメージしたものである。
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