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平成29年 『志友会報』6月号



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志友会報

真陰
 「陽」は易でも「剛」である。剛は、力を使う積極を顕し、能動の道具である。自力であり、「自我」の最たるものとなる。
 (中略)
 相手の動きに応じて自由自在に業が出る。これが「他力一乗」である。この自在の動きこそ「柔」である。「やわら」である。「やわら」は耶和良の文字を書く。これは「陰」の流れを顕している。この本当の意味は、敵と対峙した場合、当方は「表」に立って、主とならず、敵に主なる立場を譲って、自分は「陰」に引っ込むことをいう。

 つまり、戸口に立つならば、表口に立たず、「裏口」に、控えめに立ち、主は敵に譲ってしまうのである。そして自分は「従」となり、「陰」となるのである。この考え方は、「陰流柔術」にも観ることが出来る。剣技に「振り向き態」というのがある。
 起勢は陰より陽へと移る境目の意識の中に、剣を握る手の裡の起勢があり、今襲い掛からんとするその刹那に剣が抜かれていなければならない。意識の中に存在する刹那は、極めて短い時間のことであり、一説には、一弾指(指ではじく短い時間)の間にも、六十五の刹那あるといわれている。

 これに対して、間の長さを顕わすものに「劫」というものがある。劫とは極めて長い時間の事であり、多くの場合は宇宙の消滅に関する時間の長さで用いられる事もある。永劫などは、こうした時間の長さを指す。
 しかし劫の間の長さは、一方に於いて、心の裡側の「怯え」を齎すものである。
(本文より)

裏 面

有機的生命体の輪
 一丸。これを通じさせるには、やはり「一」を除いてはあり得ず、それは根底にあるものの「統一されたもの」への貫通であろうか。
 そうなると、貫通には一心に天理を志向する「一」があったことになり、この一は理と言うことになろう。
 つまり対処すべき事が起こったときには、それを一心に逐い掛け、想いを貫通させるように行為し、また事が無いときには「空」に帰すると言うことであろうか。だが、事が起ころうと起こるまいと、一心に天理に向けて功夫(工夫)する。ただそれだけのことを説いている。

 陽明学のテーゼで考えれば、その要約は「事上磨煉」(磨錬)であろう。事に及び臨むことで克服の成就がある。これを実践し経験・体験して、事に当たることを説く。具体的事例を一つ一つ即して、良知を発揮する功夫を行う。これが天理に「一」として貫通するということだろう。
 あるいは、念を一つにするということであろうか。
 「動中に静有り、静中に動有り」であり、また「動であって無動、静であって無静」へと移行するのだろうか。この循環を逐えば「一円融合」の姿が泛び上がってくる。
 一円融合によれば、その動く局面に陽が生じ、これは太極が動いて陽を生ずると言うことであろう。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』5月号



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志友会報

捨てる剣法
 人生の根源、あるいは現象人間界のこの世界は、何事も「捨てて行く」ところに物事のとの真理がある。溜め込まずに、捨てるのである。損したところを散り返すという考え方は、現世の一番見苦しい「こだわり」である。
 何事も「こだわって」はならない。「こだわらず」に、さらりと捨てていく中に、本当の物事の真理がある。

 したがって、小局面の「一事」にこだわってはならない。小局面にこだわれば、この被害は全心に及ぶ。心が、全心に及んでしまえば、総合的な全体の働きは実に小さなものになる。動きも、ぎこちなくなる。自由自在に動くことが制限され、縦横無尽に駆け抜けることが出来ない。
 したがって「下手をやった箇所」は、取替えそうなどと思わないことである。失ったもの、損したものは取り返すよりも、残っている部分を有効に使うことを考えた方が賢明なのである。だから、西郷派の剣は「捨てる剣」であり、残っている部分を総結集して智慧を絞り、これを大局的に応用させていくのである。

 このようにして、「捨てる剣」の極意が会得できれば、剣を使わない剣によって、新たなる剣術を展開できるのである。この剣術の展開こそ、「無刀捕り」であり、ここに剣を持たない剣術が誕生するのである。
(本文より)

裏 面

有機的想念
 生物から発せられる想念は有機的な繋がりを持っている。その制御すら出来なかった。また、霊的世界の有機体が持ち得る「隠れた部分」は、遂に肉の眼では確認できなかった。斯くもあろう。人間の思考や考察は常に、近視眼的になり易いからである。したがって結局は不完全のままで中途半端に終わることになる。近代科学の発端を開いた西洋科学は、現代に至って、やたら複雑化し、専門化ならにに細分化に向かうこの方向性は、古代人の「哲学をしない哲学」と百八十度異なった逆方向へと突き進んでいる。

 かつて古代人は、太陽を仰ぎ、夜には月や星を眺め、大地に伏して寝て、大地の鼓動を子守唄にしていた。そして、その後の人類も太陽の光と大地の土との共存共栄を目指し、慈雨の恵みによって水に育てられ、それによって人間は生かされることを知り、天地に感謝し、その狭間で人となり得た。ところが時代が下るに従い、人為的な科学と言う知識が入り込み、昨今ではこれが微に至り、細部にわたって小難しい説明を弄して非科学者の無知をいい事に煙に捲く。科学者は自らの優位説を唱える。科学は否定されず、否定されない現実の中で、独善的な科学が展開されている。文明崩壊の一つの悪夢は、こうしたところにも起因している。効率的で合理的で、然も体系立っていれば、有機的結合を無視して、これを”科学的”と称した。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』4月号



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清浄無垢
 本来無敵とは、こうした無私なる自己を謂うのであって、敵対できる者のないことや、力の及ぶ相手がないことを自称して豪語する言葉ではない。つまり、私がない「無私」であるからこそ、それは「無敵」なのだ。
 宮本武蔵の著わした『五輪書』の「水の巻」には、次のようにある。
 「物毎の善悪を知り、よろずの芸能、其の道、其の道をわたり、世間の人にすこしもだまされざるやうにして後、兵法の智恵となる心也」とある。

 これは道を志す者は、心の裡が濁らず、清くて、潔く、弘く、こうした点にこそ心を砕くべきだと論じている。それには、まず小知恵を働かせないことであろう。小手先ばかりの技能に長けていても仕方がないことである。
 心を磨くとは、こうした俗世の世俗的習慣を離れて、無垢なる心を磨くことで、これに不純物を交えてはならない。
 その為には、無垢と無私により、集めた智慧をもって、智慧を研ぎ、天下の理非を弁え、物事の善悪を悟り、よろずの芸道を探究することである。真摯にこの道を探究すれば、世間の噂や中傷誹謗に、少しも騙される事なく、無垢で無私の智慧が兵法の智慧となって、これを成就させるのである。
(本文より)

裏 面

習・破・離れるの「離」
 坂道を登る場合も、単に二足歩行の直立姿勢で登るのではなく、両手を遣ってこれを足と看做し、四本足で坂道を上って行けば実に自力動力は半分のエネルギーで済む。これは降るときも同じで、四本足で下って行けば直立二足歩行より遥かに効率がよく、そのうえ顛倒防止にもなり安全面も向上する。
 (中略)
したがって、両手両足を使った四本足歩行は安全で、しかも効率がよく、エネルギー消費量も半分程度で済むのである。これは二足歩行だけで考えれば雲泥の差であろう。しかし、問題は此処で終了するのでない。

 二刀流を会得した術者は、二刀のまま修行を終わらせはしない。
 二刀より、一刀へと還る。
 元の姿に戻ろうとする。
 拡散・膨張して行ったものが、再び収縮を始め、求心的に中心に戻ろうとするのである。
 斯くして二刀流を体得した術者は、一刀流に還り、一刀をもって術を行おうとする。だが術者も一刀をもって終了するのではない。更にその先に進もうとする。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』3月号



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志友会報

金翅鳥王剣なる
 もともと剣術の起こりは、上泉伊勢守から柳生宗巌(戦国時代の土豪。柳生新陰流剣術の祖。石舟斎と号。大和国柳生荘に住。上泉秀綱に新陰流を学ぶ。松永久秀らに属し、のち徳川氏に仕えた。一五二七〜一六〇六年に新陰流が伝えられた時には、「基本業八本」であった。
 しかしその子、柳生宗矩の頃になると、「序」……上段三本、中段三本、下段三本となり、「破」……上、中、下段併せて九本となり、「急」……上、中、下段併せて九本となって合計二十七本の型が生まれ、その他に神妙剣などを加えて総合計は六十七本となった。

 また、小野派一刀流でも七十三本となり、剣の型より複雑となり、もともと構えは上、中、下の三つしかないものが、少し左右に構えて左上段、右上段を加えて三本殖え、最初は静かに掛かる「序」や、「急」に掛かるこれを「破」と呼び、太刀の型数ばかりが殖えて行った。一刀流では、上段から打ち下ろして、下から突き上げるのを「金翅鳥王剣」と名付け、これを最大の極意としている。
 金翅鳥王剣なる儀法は、鷲が山頂から急降下して獲物を狙う態に喩えている。そして獲物を狙い、猟した後は、急に舞い上がり、その態を型によって固定した。

 しかし残念ながら、固定した型は、千変万化する自然の動きに対応出来ない欠点も、同時に併せもっているのである。変応自在の動きが失われ、固定された欠点が、型からも起り、一部の細切れにした一コマを、「○○剣」などと称する型が、実は命取りになる事もある。
(本文より)

裏 面

一つの理
 中心帰一という考え方がある。
 それは最初「片付いていたもの」の状態を言う。最初は整然として片付き、スッキリ統一されていた。
 ところが、原初の過去から未来に向かうに従い、最初「片付いていたもの」は拡散分散してバラバラになった。それは、現代の多種多様性を検れば明白だろう。
 これは剣術で言えば、そもそも何も持たない無手の人間が、効率よく敵を殺すために刀剣なるものを編み出した。刀剣の用い方にも種々の方法があって、そこから流派が興った。
 その流派は、流派ごとに、殺し方の違いが生じた。
 人の殺し方と言うのは、如何に効率よく、合理的に大量に殺せるかであった。最初の動機は、これから始まった。単に、殺人剣のみに力を注ぎ、殺すことだけを目的にした。ひたすら叩き、打てばよかった。

 殺し方においても、どう剣を斬り結ぶかで効率の違いが出るようになり、最初の直刀剣は、反りを付けることにより、刀剣自体に生じる摩擦力を如何に小さくし、早く切り抜けるかの研究がなされ、やがて反りを伴った、これまでの直刀剣とは異なる形態の刀が生まれた。
 この刀をもって、種々の剣術流派の刀法は特長を見出し、その特徴をもって武技を競うようになった。何れが優れているか興味の的となった。無手から一刀流で、一刀の剣を持って斬り結ぶ。一刀流の起源である。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』2月号



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志友会報

文武二道
 大義の劔は、「心正しからざれば、劔また正しからず」といい、礼儀を守り、士道に外れた悪事や卑怯な振る舞いをしてはならないことを教えている。これが精神の錬磨から得られる修行で、物事の陰・陽を弁え、その理を知ることが大事である。
 (中略)
 「吾に勝つ行」を納めれば、己に克つことができる。これこそが「武の心構え」であり、まず武人は、文武二道と言って、「二つの道」を嗜むことである。文武は不二であり、文武をもって生死を知るのである。文武が不二であるように、また生死も不二である。生と死は同根であり、人間はこの「生死の世界」に身を投じて、現象人間界の人間を行っているのである。

 つまり、死する道の於ては、武人に限らず、何びともこの道を嗜んでいるのであって、それは老若男女の差なく、身分や階級の差もなく、根本は義理を重んじ、恥を知り、死するところに於いて、一切の差はないのである。如何なる階級も、如何なる身分も、人間の軽重も、死するところに於ては、何ら隔たりはなく、差別はないのである。文武の目指すところは、一切の不二であり、同根を見抜けば、生も死も、また同根から発していることを知り、「巌の身、動ずることなし」を知るのである。
(本文より)

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自分の裡側
 自身の内側をを掘り下げ、自己を探求しなければならない。しかし、それには一つ注意を要することがある。
 「道」を求道する者は、孤独とともに悲しみを抱えている。人の悲哀を知っている。人情の機微もこうした背景にあり、それを知らぬ存ぜぬでは、人後に落ちることになる。

 また、物事の真髄に迫り、その成就を得るには、「自分ひとりで……」と考えるのは早計である。その愚に陥らないためには、心友を得ることである。
 心友は、何も親しい間柄の表面的な親しさを言うのではない。軽い付き合いの友を言うのではない。また、表面上の顔見知りなどとも違う。
 心から交わることの出来る、心が許せる友のことである。したがって心友は、単なる友達と言うのではなく、言わば「幕賓」という存在で、人生示唆の指南番のような友で、あるいは軍師的な存在である。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』1月号



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志友会報

こだわり無用
 平生無事の時に、何かと争いごとに関与し、肩で風を切る態度は愚かなことだ。それでは、泰平の世に、毎日を鎧兜を着て生活するようなものではないか。日常をただ猛々しく、表面だけの勇猛を繕って、武芸を学びそれだけに固執することと、軍法を学ぶことは別問題である」と厳しく批判しているのである。
 更に、「猛々しく威張り腐り、肩で風を切るような、腕力に頼る武士は、例外なく他人や、他の命を軽蔑・蔑視し、命を軽く考えているため、闘争心が激しく好戦的である。
 (中略)
 藤樹の言葉を思い出す度に、喧嘩三昧に明け暮れ、喧嘩師を気取りで好戦的に喧嘩をする人間は、所詮喧嘩に強いといったところで、あるいは相手をこてんぱんにやっつけたからといって、それは人間でなく、「噛み合いに強い犬」とかわりないと思うのである。

 現代の世間の人間は、格闘などと言うと、これを興味半分、おもしろ半分、更には娯楽半分で捉え、両者を戦わせて、その勝ち負けを占って観戦を楽しむが、要するに心が暗いから、猛々しい人が武辺をすれば、武辺とは猛々しいことと考え、文芸なき者が、武辺をすれば、武辺とは無芸文盲だと早呑み込みしてしまうのである。藤樹の、「噛み合いに強い犬」というのは実に面白い表現だ。
 ネット上の掲示板などを見ると、そのレベルの「噛み合いに強い犬」の程度のものがオンパレードだが、才徳が感じられるものは殆どなく、どれも猛々しい腕力沙汰に終始している。弱肉強食を売り物にしているが、それ以上のものでない。

 中江藤樹は三百六十年以上も前の人であるが、この“噛み合いに強い犬”という表現は、今日でも充分に通用する厳しい指摘である。一般に、武士と言えば武勇を尊ぶと解釈されてしまう。ところが中江藤樹は、武将であり武士である、武人を中国の武人に譬えて、「かの中国を見てみるがよい」と言い放ち、「かの地では、武将に無学文盲の将は百人に一人、千人に一人もいないのである」と論じていることだ。
(本文より)

裏 面

真の勇気
 「格物の学に従事する者の中にも、未だに口や耳のみの表面的な知識に流される物が多い。況や、口や耳の学しか知らぬ者が、本物の格物の本意に迫ることが出来よう。格物に迫るには不断から心を鍛錬し、自己を内省し、自己を克服しておかねばならない。その努力をしないで、どうして格物が自覚できよう。

 また、口説にふけっているばかりいるのに、どうしてそれが自覚できよう。知っているばかりで、行うことは不在ならば、それは無意味なものになってしまうのである。
 熱心に天理を論じても、自己のおけるそれが放置したままで、また実践することもなく、それが一体何故の格物致知か、どうしてそういうことを言うことが出来よう」と。
 不実践者を徹底的に詰るのである。不言実行。口に出した事は実行する。約束は果たす。違えない。
 こうすることによって、真の勇気は発露する。また、その真の勇気はある意味で責任感であるから、その責任をもって人生を待ったうすること事態が、人生の生き甲斐になるのである。
(本文より)


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