●戦場に散った乙女達
「戦争は欺瞞
(ぎまん)である」とは、既に使い古された言葉である。そして戦争にこそ、大いなる矛盾が存在していた。
矛盾多き戦争に、「正義」や「聖戦」を持ち出す人種が居る。日本とて、例外ではなかった。
日本では、先の大戦を『大東亜戦争』と称した。アメリカ側からの、この戦争は『太平洋戦争』と称された。太平洋海域における、南方資源をどれだけ多く略奪するかの戦争であり、太平洋の島々の、争奪戦であったからだ。
明治維新以降、日本も欧米列強に習い、帝国主義や植民地主義を実行した。ペリー
(Matthew Calbraith Perry/1853年7月(嘉永6年6月)日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出)の砲艦外交を見習ったからだ。
植民地主義の実行の為に、朝鮮半島から中国大陸へと利益拡大を目指し、これに奔走した。この奔走の裏には、自国の国体の増大を図る為に、他国の富を、武力によって自らのものにすると言う意図が含まれていた。
先の大戦を『大東亜戦争』と呼称する。これは大陸や東南アジアから欧米を排除して、地域民族を解放し、「聖戦」の意味を含む。また太平洋戦争期に、日本が掲げたアジア支配正当化のためのスローガンだった。
アジア及び東南アジアから、欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満州・中国および、東南アジア諸民族の共存共栄を説く、聖戦的戦争論であった。この戦争論は、1840年代の外務大臣であった松岡洋右の談話に由来する。
松岡はアメリカで苦学をした後、外交官を目指し、やがて満鉄副総裁にまで伸
(の)し上がり、近衛内閣発足時には外務大臣になった人物である。また、「日独伊三国同盟」
(1940年9月、第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリアの三国が締結した防共的な軍事同盟。日本はこれを機に、ファシストとしての道を選択する)や「日ソ中立条約」
(1941年4月、日本とソ連との間に締結された中立条約で、有効期間は5年であったが、45年4月ソ連は不延長を通告し、8月の対日参戦により失効した)を結んだ当時の外相でもあった。
そして日本が選択した道は、中国大陸とその周囲の東南アジア諸国に居座るイギリス、アメリカ、フランス、ソ連らとも激しく戦いが強いられる苦難の道だった。
その上に、清や中国とも全面的な戦争を展開すると言う、愚かしいばかりの「徒労の道」であった。
その方向性は正しかったのか否か、それは歴史が明白に証明している。
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▲従軍看護婦は、正しくは「日本赤十字救護班看護婦」と言われ、前線へ送られた。しかし日本が敗戦するや、彼女達は前線の残されたままで、特に満州に派遣された従軍看護婦達は、その後、ソ連兵に捉えられ、強姦され、輪姦され、陵辱されて挙げ句の果てに性病を移され、自害して行った。そしてその多くは、生きて日本の土を、再び踏む事はなかった。 |
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大東亜戦争後の日本は、天皇をはじめとする帝国主義や植民地主義、あるいは軍国主義を放棄した。徹底的に否定した。先の大戦の罪深きに懺悔
(ざんげ)し、今日でもなお、一貫して自虐的な立場を取り続けている。
そしてこれに代わり、アメリカ主導型の民主主義が政治や社会の中心に据えられた。
敗戦後の日本には、心に傷を負った日本人しか残らなかった。誰もが戦争を否定し、戦争を憎んだ。感情的に戦争を憎み、これを徹底的に否定して、シュプレヒコールを挙げる事が世界平和の道であると誰もが信じた。戦後の民主主義教育下では、そう教えられた。
日本人は戦争の心の傷痕を忘れる為に、勤勉に働いた。勤勉に働く以外、敗戦の痛手を忘れる為には、他に方法はなかった。この意味で、日本と日本人は本来の姿を取り戻したと言えよう。これは世界に冠たる経済大国に伸し上がった事からも窺
(うかが)える。
しかし、戦後より半世紀以上を経て、日本人の労働力を眺
(なが)めた時、果たして日本人は勤勉な国民気質を持ち合わせているか、疑わしくなる。
人間の持つ勤勉さとは、資本主義の構造メカニズムである、他に何等かの生産手段をもたない個人が、一生をかけて、自己のもつ労働力を売り込み、生存を確保する行為であるからだ。この意味で、経済大国まで伸し上がった日本人は、世界で最も熾烈
(しれつ)な競争社会の原理を築き上げたと言えよう。
戦後の日本人が勤勉だったのは、競争に勝つ為に勤勉だったのであり、勤勉と言う国民気質が、自ら好んで、働き好きを呼び込んだのではなかった。競争の主体は、自分自身であり、自分の所属する組織である。終身雇用を約束した会社である。また、個人主義を貫く為に、自分と自分の家族の為に働くのである。これは終戦直後と少しも変わらない。
そして「勤勉とは何か」を問うた時、個人が個人として、他人より、よりよい生活をする為の、競争社会の中で、個人と組織が生き延びる為の、単に、方便的な方法論であったと言う事が分かるであろう。
今、この方法論をもって、日本人は中国大陸や東南アジア諸国からエコノミック・アニマルと蔑
(さげす)まれながら、商魂逞しく商いを展開している。商魂の逞しさをフルに発揮する為には、自由主義諸国や社会主義諸国であっても構わない。北京政府にまで貢
(みつ)ぎ物を貢いで、商取引を展開しようとする。それはまるで、曾
(かつ)ての旧日本陸海軍が、他国の富を手に入れる為に、橋頭堡
(きょうとうほ)を築かないまま、大陸や東南アジア諸国に乗り込んで行った、あの侵略のように……。
そして戦争の悲劇は、日本の場合、単に当時の大日本帝国が、アメリカと戦う太平洋戦争を演じただけではなかった。アメリカと戦う羽目になったのは、中国大陸の利権を巡る、欧米列強との国益の対立があったからだ。
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▲あじあ号/大連と長春を8時間30分で結んだ、当時世界最高速度を誇った満鉄(南満州鉄道株式会社)ご自慢の蒸気機関車だった。そして満鉄にはもう一つの中国大陸支配の役割があった。それは満鉄調査部である。満鉄調査部は満鉄が設置した調査研究機関であり、1907年(明治40)発足した。ここでは中国・ソ連などの総合的調査・研究、満州国・華北の経済開発計画の立案などを行なった。日中戦争時には2千人を超える調査員が居たが、太平洋戦争時の左翼グループ検挙で打撃をうけ、敗戦により解体した。また、満鉄調査部には多くの疑惑と謎が残っている。 |
この対立が、実は「満州事変」を生む。
満州国建国は、武力行使による中国大陸への侵略であった。そして満州国建国により、中国における「門扉開放」と「機会均等」がアメリカの国是である戦略と、日本の戦略なき軍拡は真っ向から対立する。この対立が、やがて国際連盟から脱退すると言う、外相・松岡洋右の行動を裏付けている。これにより、日本は「世界の孤児」としての道を選択する。
大東亜戦争の理想としたところは、「王道楽土」と「五族協和」であった。しかしこの精神は全く理解されず、戦略上のプロパガンダ
(propaganda/主義主張あるいは思想の宣伝)あった「民族の道統意識」は、儚
(はかな)くも費えた。
そして一方、日本国内の軍閥に於ては、陸軍の「統制派」と「行動派」が対立し、海軍に於ては「艦隊派」と「条約派」が二派に分かれて、共に鎬
(しのぎ)を削っていた。
また陸海軍の際限の無い軍事予算の拡大は、編成組織的に、対立の様相を益々深めて行った。
陸軍は「北進論」を唱え、海軍は「南進論」を唱えた。この論争は、大きく対立し、妥協点は日本敗戦まで全く見出せないままだった。
明治維新以来、陸海軍は対立した。
「長州の陸軍」「薩摩の海軍」と呼ばれた黎明期の日本陸海軍は、長州勢力が国家の中枢に据えられ、薩摩勢力は冷遇されていた。明治22年には、陸軍の軍令機関が参謀本部として独立し、海軍を一歩リードした。
また、明治26年には「海軍省官制改正」が発布され、海軍省から海軍参謀本部が「海軍訓令部」として独立し、海軍もようやく陸軍と肩を並べる事が出来た。以後も、こうした鼬
(いたち)ゴッコが陸海軍の間で繰り返された。
陸海軍を巡るイデオロギーは、時には「陸主海従」を作り上げ、また時には「海主陸従」を画策した。こうしたイデオロギー問題を抱えつつ、両者は妥協点を見い出さないまま対立し、太平洋戦争へと突入して行く。太平洋戦争の悲劇は、此処に由来すると言っても過言ではない。
両者は日本国内にあって、陸軍の日本、海軍の日本を標榜した。ここに、国民も天皇も不在だった。両軍が人員や軍需物資を奪い合い、前線にあっても、両者は協力しあう事はなく、独自の作戦を立て、滅びの道へとひた走って行った。
これは現代でも、省庁間の愚かな縄張り意識や、権利争いに見る事が出来る。その愚かしさは、当時の軍隊官僚と少しも変わっていない。一国の興亡を左右し、一国の国運を決定する存亡においても、なおも縄張り意識を主張し、ひいては国民の人命を左右する状況下において、日本は最後の最後まで、ひと握りのエリートのエゴイズムに振り回された歴史を持つ。そしてそれが今なお繰り替えされる事は、何とも言い難い、悲惨の極みではあるまいか。
半世紀以上を経て、先の大戦は終わったと言う。戦争は、半世紀以上も遠い昔の事だと言う。
しかし終焉
(しゅうえん)を告げたはずの戦争の裏側に、未
(いま)だに悲劇の一抹
(いちまつ)の影を引き摺る、悲惨な死に方をした乙女達がいる。軍籍簿は勿論の事、軍属にも属さずに、戦場に空しく散って行った乙女達がいる。
竜造寺丹羽の「不思議な軍服の絵の世界」は、こうして無名戦士として戦い、無慙
(むざん)に死んで行った乙女達への鎮魂歌である。
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▲陸軍篤志看護婦/女子挺身隊。高等女学校の彼女達は、最初、後方支援であったが、やがて前線に配置され、小銃を持って戦わねばならなかった。
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▲いよいよ本土決戦です。緊張を露にする女子陸戦部隊員。
本土決戦を予期して、17歳から25歳までの婦女子は、一様に武装が命じられた。
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▲アメリカ陸軍B29の空襲下に晒される女子挺身隊救護班。日本本土空襲が激しくなると、各新聞や雑誌等は「簡単な防空頭巾の作り方」と題する記事が盛んに登場するようになった。防空頭巾は、正しくは「国防頭巾」と言い、江戸時代の火消装束(ひけし‐しょうぞく)の綿入れ頭巾が参考にされ、真綿を厚く入れて少し大きめに作るのがコツとされた。
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▲戦地からの戦地へ移動するマニラ方面女子挺身隊。外地の女子挺身隊や野戦病院の従軍看護婦の多くは、左肩から右下に袈裟がけして、毛布を防弾用に掛けていた。これは分厚い毛布が、心臓を護り、流れ弾等も防ぐと信じられていた為である。外地の女子挺身隊の戦場の移動は、日本本土に向けての当て所(ど)もない空しい行軍だった。
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▲沖縄決戦篤志(特別志望)女子学徒隊「白百合隊」。沖縄戦では日本軍の兵力不足をカバーする為に、沖縄の中等学校や女学校の生徒が学徒隊として戦場に動員された。その中でも、女学生のよって組織・編成された学徒隊が「白百合隊」であり、多くの戦死者を出した。
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▲日赤救護班従軍看護婦。従軍看護婦と言う立場は、自他共に戦場のナイチンゲールとして誇りにしていた初期に比べ、戦争後半に入ると、半ば強制的にかく女学校から志願者指名が行なわれた。こうした指名によって従軍させられる臨時看護婦を「篤志看護婦」と言った。
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