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平成26年 『志友会報』2月号



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危険に関する感度
 それぞれは「吾が道を行く」という感じで、間違いだらけの、護身の場合は効果を殆ど発揮しない徒労なるとトレーニングを稽古と思って、知ったかぶりに稽古を行っているのである。
 吾が道を行くのはよいけれど、それは修行とはほど遠いものである。人生の徒労であろう。
 分からないものは習わねばならぬ。師から教わらねばならぬ。これを西洋スポーツの外筋を鍛えてこれを習得しようとしても不可能である。何しろ外筋では、力と力のぶつかり合いになってしまうからである。そうなった場合、力の強い方、つまり外筋の筋肉の着いている方が勝つのは当たり前である。

 本来柔術は、名の通り「柔よく剛を制する」ものであった。小よく大を倒すものであった。ところが今やこれが、死語となった。学ばないから分からず、教えを請わないから知らないのである。知らないでは、それは本物ではない。

 大衆化の有害性。
 この事をよく考えてみなければならない。決して少なからずの害がある。有資格者以外を大衆化して、ブームを起こしてしまうと、ここには多くの弊害が出てくる。思い上がった人間も出てくる。この有害は、大東亜戦争末期の日本軍の補給船にも見られたし、また戦後は日本の金融行政にも見られた。自由競争をさせないから、底辺には都合がいいが、上部には、遊ばせて腐らせる心理状態が生まれた。結局百害あって一利無しだった。

 わが流では、平成の頃から、こうした現象が顕著となり、その中でも「うろ覚え」による害が目立ち始めた。知らないくせに、十分の熟知したようなポーズをとる者が出始めたのである。厳格な意味からすれば、同じ行為をする場所であっても、道場は道場であり、スポーツジムでもないし、学校の教室でもなかった。
 神が居ます、霊的神性なる場所であった。神人合一の場所であった。よって、この場を道場と呼ぶ。単なる体育館ではないのである。

 だが趣味人には、霊的神性なる場所を道場とは映らなかったようである。スポーツジムと変わりないか、学校のスクールと言う意味だったかも知れず、その程度の認識しかなかったようだ。
 この欠陥を脇目に見ながら、虚しく時間を浪費して今日に至ったが、それは確かに秘密部分が伝授できないばかりでなく、「うろ覚え状態で他人に転写された」という間違いを生じさせたのである。それが後年に、禍になって顕われようとは。
 さて、人間が展開する「
戦い」には、裏と表がある。表は正攻法を以て戦い、裏は奇手法を以て戦う。
 奇手法とは、臨機応変に敵の意表を衝くような奇襲戦法である。正攻法は体験によって理解する事が出来るが、奇手法は体験だけでは駄目で、これは到底体験や経験と言った範疇のものではない。

 一般に、人生は戦いに準えられる。
 戦いと言うのは、戦争だけではなく、政治にも経済にも、またスポーツや男女関係においても、ギャンブルでも、更には個人の生きざまにおいても、総て戦いであり、この世の森羅万象には、兵法の原理が罷り通っている。しかしこうした「戦い」において、同一の展開は何一つないと言っても過言ではない。よって、単なる戦術書は、こうした戦いにおいては何一つ役立つものはない。(本文より)


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平成26年 『志友会報』1月号



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伝統武術の特異性
 武術は、そもそも大衆化を拒むものだった。一部の特殊な武術修行者に向けられてものであり、大衆化を拒んで、柳生新陰流などは、特定の限られた、かつ選ばれた人に対し入門を許し、武人の特異として誇り高く遣ってきた歴史と伝統を持っている。現で江戸初期から生まれた古流の多くは、この伝統と伝承法に基づいて、各段階を踏みながら伝えてきたものである。

 ところが江戸後期の幕末に至っては、この概念が覆され、大衆化が図られ、一種の商法的な武術が登場するようになった。その最たるものが、剣術では北辰一刀流であり、また柔術では明治期に至って、講道館柔道が出てきた。これら二つの剣術や柔術は「道」という名を用いて大衆化に成功したスポーツ競技武道になったのである。
 一刀流(中西派一刀流)は、剣聖・高野佐三郎を生み、以後の剣道発展の裾野広げに大いに貢献したし、柔道では『姿三四郎』をモデルにした西郷四郎が活躍して、柔道の名声を大いに高めた。
 また防具は、北辰一刀流形式を採用して、町家の旦那衆が学べたとするセフティー武道の形式をとり、誰にでも親しんで楽しめる者に作り替えていった。

 本来の命を張って戦う武術を競技武道に作り替えてしまった事であった。
 こうして一気に大衆化が進み、日本武術は「武道」という名に改められて、大衆化し、西洋スポーツ並みにゲームとして、また闘争格闘技として大衆化に成功したのである。それに倣って、以降、空手などが道をつけるなどして、空手道といい改めて大衆化に成功している。

 しかし、大衆化したからといって日本武術が伝承という面において成功した訳でない。また伝承と伝統も曖昧になり、古伝が性格に、然も段階別に伝えられなくなってしまったのである。要するに秘伝が消えたのである。危険な箇所が省かれ、格闘するに安全な面だけが取り上げ、危険は危険という理由で、一番、護身術としては有効な、箇所を取り除いてしまったのである。こうして、秘伝が失われ、日本武術は武道にいい改め、変形した畸形なる西洋スポツに成り下がってしまったのである。

 そのために、まず武術で重要視した「呼吸法」が失われ、西洋スポーツの筋トレを採用して、古来からの伝承分野は「型」として反復トレーニングし、また肝心なる呼吸法や秘伝としての「術」の分野は無視したまま、武術という日本的なものを借りつつ、一方で筋力面を西洋スポツのトレーニング形式に畸形させてしまったのである。
 こうして一番肝心要な部分を捨て去り、大衆化に精を出し、それはあたかも「商人」のそれであった。外国の影響は、こうして筋トレに頼る試合形式へと変貌し、本来の武術の伝統や伝承は、今は殆ど存在しないと言っていいものになってしまった。

 筆者が昭和三十年代から指導していた大東流合気武術は、こうした大衆化の禁を犯していなかった。古伝の伝承形式に則り、厳格な稽古が行われていた。この稽古の背景には、人間は年齢と共に変化し、また体力も衰え、その年齢に応じて、柔術から合気柔術へと変化してランクを上げ、更には合気柔術から合気之術へと変化していく階級別かる段階別の修行法を学んだものである。若いうちは体力で術をこなせるが、老いればそれは不可能になっていく。そこで「合気」が出てくるのである。
 合気に至るために柔術を真摯に稽古するのであるが、この真摯なる稽古も昨今では多忙のために、ろくに稽古せず、表面だけの形による鍛錬で終わっている。この鍛錬は鍛錬といっても、単刀直入に言えば、武道の名を借りた西洋式スポーツトレーニング法である。(本文より)


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平成25年 『志友会報』12月号


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武術で言う四次元空間
 霊とか霊体とか言うと、これを科学的でないとして頭を捻る人が多いだろう。また、この見解を信じない世の中の科学的と云う言葉を連発する御仁は多い。こうした見解に対して否定的であり、半信半疑の意見を持つ人は多く、本紙の読者の半分以上はそう言う人達で占められているだろう。そのことを私は百も承知している。

 今日の「科学信仰」と言うべき科学一辺倒主義は、世に科学的と云う言葉を連発する人を方々にまき散らし、かつ眼に見えないもの、手で触らないもの、皮膚を通じてその感触を確かめられないものに対して、「非科学的」という烙印を押し、実証出来ないものは一切迷信と決め付けた。非科学の最たるものと一蹴した。

 またそれが知識人の資格であり、誇りであると思い込んで胸を張る人も多い。
 そして「非科学」の烙印をあたかも侮蔑とともに押し付け、同時に無視、黙殺、嘲笑、軽蔑的批判、更には見下しや詰る言葉の限りを尽くして、「波動」という言葉一つ耳にしただけで、その貌には冷笑が漂っている。まるで夏の納涼大会の怪談話か、起こりもしない怪奇現象に冷やかな侮蔑の笑みをたたえながら、そんなことはこの世では起こる筈も無いと言うような貌をして観念的に聞き流してしまうのである。

 彼等の間違いは、自身は科学者と自負しながらも、波動的なアプローチについては重要な要素であるにも拘らず、非科学的な事案と片付けていて、眼に見えないものを早々と切り捨てているのである。これは本来の科学者の態度ではあるまい。

 科学する心には、未科学分野に対して究明する研究心が大事である。それが欠けていたのでは、科学者魂が廃ろう。
 一見科学が発達した世でも、未科学の領域は非常に多く残されているのである。
 物理学における量子力学は「見えない心」の糸口を掴んでいるらしいが、医学界では「見えない心」を科学する意識が希薄である。そして医学者の多くは、未科学の分野をオカルトや神秘主義で一蹴している。

 本来はあらゆる現象に対し、真摯に解明する姿勢こそ大事なのであるが、尊大な態度をとることが多い医学者は波動的な未科学分野のアプローチを怠っているようである。
 特に精神科学と霊の関係については、実に否定的である。
 現在に現象化する幸・不幸の果報は、果たして過去の「原因」が、現在の業に応じて、未来に果報を生ずるという「結果」を生み出しているのであろうか。

 そして、多くの人は安易に考える、原因があるから、それに応じて結果が生ずると、自然科学から導かれる弁証法的公式に当て嵌めて、以上の考えを結論付けようとする。
 しかしこれは、早計でないだろうか。
 秘密は、秘密として保たれてこそ秘密である。
(本文より)


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平成25年 『志友会報』11月号



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極意「四次元空間に沈める」
 四次元霊界は反物質の世界なのである。三次元の顕界では解明できず、また手に触れられない世界なのである。
 さて、再び繰り返すが、人間の躰は「生体」と「命体」からなる。二つで構成する。
 生体は可視世界の者であり、物質である限り、存続して行くためには別の生命を犠牲にしなければならない。そのためにエントロピー増大の法則を壊さねばならぬが、その手段が「生命」である。

 この場合、動的平衡にある系が必要になる。準静的に加えられた熱量をその系の絶対温度で割った値をエントロピーの増加分と定義する。可逆変化ならエントロピーは一定、また不可逆変化では必ず増大するのである。これを「熱力学第二法則」と言う。

 生命を定義するなら、生命は「動的平衡」の上に成り立っている。それは時間と共にあり、時間と共に変化している。そして何かが足りなければ、その補いとして何かで埋め合わせする。その結果、新たな動的平衡が作られる。これが生体の「しなやかさ」で、また一方で命体の「したたかさ」なのである。これこそが生命なのである。
 故に、生命は「生体」と「命体」から成り立っていると言える。

 その構造は生体は物質であり、命体は波動である。
 また武人において必要不可欠なる体得課題は「武運」である。武運が無ければ、腕力だけでは勝つ事とはできない。この武運も、単に筋トレで要請できるものではない。徳の一種であるからだ。高い徳が無ければ、武運は養う事ができない。

 武の道を志す者の精神は、単に「噛ませ犬」であったり、人殺しの「屠殺人」のそれでない。
 武の道は、あくまで「依って以て死を致す道」だった。それ以外にない。
 それを致すには、人格と品格が備わっていなければならない。つまり「徳」である。「徳」の存在を識り、逸早くそれを行動に移し、礼儀としたのが武門だった。これに作法を従わせた。
 また、この徳を別名「武運」とも云う。背景に「仁」がある。

 戦機の運である。
 同時に、不当で不正な暴力の戈を止めて制さなければならない。武人は暴力否定論者である。好戦論者でない。
 噛ませ犬のように処構わず噛み付きまくり、交戦を好む喧嘩師ではない。強持てでは人心を失う。頭の中身を疑われる。決して尊敬されない。愚者と蔑視される。単に暴力であるからだ。

 そのためには霊的にも優れた感覚を研ぎ澄まし、あの世(霊界、霊幽界、精霊域など)とこの世(顕界)について、充分な理解者とならなければならない。霊的世界についての勉強もしておかなければならない。霊統の意義も知らなければならない。人は血統だけで親子関係を連綿と続けて来た訳でなく、霊統も脈々と伝えたのである。
(本文より)


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平成25年 『志友会報』10月号



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合気一如
 儀法には「虚」があり、また「肉の目で確認できる「実」がある。そして陰陽がある。陰は影に隠れ、陽は肉の眼に現れる。
 道元禅師の言葉に、「汝、眼に誑かされる」というのがあるが、現代人は肉の眼に見えるものだけを相手にしているようだ。肉眼の身を追って、それを真実とする。また、科学の根拠とする。

 いわば眼に見える「技術」の追い掛けのみで、肝心な起勢からはじまる「陰」と、動きが起ころうとする「起」の部分の「虚」が完全に抜け落ちているのである。これは指導者が技術だけを追い掛け、眼に見える部分のみを相手にしているということになる。

 そのために、今まさに動きが起ころうとする「起」が抜け落ち、また陽があり、陽という「実」を経て、業が終熄に向かえば、陰に帰り動きは隠れて「虚」を作る。実は形ある物であり、虚は形ないものである。動は、終えれば静に戻るのである。動静は表裏一体である。その一体の片割れが抜け落ちているのである。そして動だけを相手にすると言う勝手な解釈が起こったのである。静がないのだから「虚」もないのである。(中略)

 眼力は、奥の奥の精神性やその先に眠る刀工作者の人間性まで見て取らなければならない。そこから人柄までを見抜き、同時にその人柄に備わっていた霊的なものまで見抜かねばならない。この場合に単に日本刀を物体として検てはならず、霊器として恭しく見なければならない。そこには魂が横たわっているからである。
 魂を読む。霊的なものを見抜く。見えない次元を感得する。これが眼力の持つ威力である。
 これが出来て、刀は“物”の次元から“魂”の次元へと移行する。武士に相応しい魂の所持が可能になる。この移行によって、はじめて十分条件を満たすのである。

 このことをしっかりと腑に落とし込まねばならない。
 ところで、必要条件。十分条件。必要かつ十分な条件。
 こうした条件を刀剣に需め、それば満たすに足りる条件が揃えば、その刀は「霊剣」になり得る素質を得ると言うことになる。以降、創造として何を自身の心の裡に築き上げて行くかの「先見の明」であろう。

 この明を即座に見抜く能力を、見識者には求められるのである。見識。これをつまり「眼力」と言うのである。肉の眼で見れば、例えば波を検た場合、波は波だけ、風は風だけ、水は水だけに囚われるから、そこには大海はあり、大気があることを知らぬ。
 また、生の全面を掴んでいないから、生の本質が分からない。本質が分からぬために死の世界が見えぬ。四次元の霊的世界は見えない。この世界は多重なる複合世界である。物質体と半物質体がダブって映ってのである。
(本文より)


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