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平成25年 『志友会報』9月号



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一坪の中の儀法
 入身投げは「一坪の中の儀法」である。
 一坪といえば約190センチ前後の正方形の中で演ずる内接する円となる。その円の中で術者は、その円の中心に居て、左右に捌くのであるが、この捌きを行う際に敵のの中に踏み込み、そこから捌き取るのである。
 『入身投げ』は畳2枚分の横を合わせた190センチ×190センチの中で遣るである。そのように先人が長い間の研究の末作り上げた。基本は小野派一刀流である。
 小野派一刀流の『太刀捕り』の「絶妙剣」の儀法をベースにして「入身」を考案したのである。その直径の円の中で遣る。更に、その円を球体に変える。球体の半径で術者は戦う。これが入身投げなのである。

 基本的には大体、捌くとき「円」に捌く。丸く捌く。円捌きを曾ては「まるく捌く」といっていた。次に、その円を立体にして、行き詰まりを知らない球体での行動線を作り上げる。
 空手や柔道や柔道やその他のスポーツ格闘競技のように、前後の直線運動はしない。
 打って来た敵は、円に捌いて廻り込む。廻り込んで球体の行動線で捕えて敵を倒す。まさに「女郎蜘蛛が獲物を捕らえて『糸巻き』にしてしまう、あの動きである。

 そのために「女郎蜘蛛の糸巻き行動」が理解していなければならない。得物を遣って討って来た敵に対して、直線に後りしない。「まるく捌く」ことが入り身の足捌き体捌きである。後退りで攻撃をさない。行動線は直線ではなく「円」である。円を立体にして「球」とす。これが女郎蜘蛛の動きからヒントを得た古人のである。そしてこの儀法から、また「大東流蜘蛛之巣伝」が後世に伝えられた。幕末期の事である。(中略)

 「蜘蛛之巣伝」には二つの意味がある。その一つは体術的に相手を蜘蛛の糸の「糸巻き」にめ捕る。もう一つは政治的経済的情報を元に、を読み、世相を読み、時代を読む。これこそが西郷頼母が掲げた「大東思想」だった。大東亜の理念は此処に由来する。私は先師から、そう教わった。技術一辺倒ではない。全体を見るマクロの眼を教わった。したがって、わが流は、武儀とともに思想が切っても切れない関係にあるのである。それが『大東流蜘蛛之巣伝』だった。

 わが流が単に技術の追求だけでなく、極東の「東洋一優れたもの」の思想的な者を掲げるのはこのためである。この思想とともに大東流は表の方のみならず、裏を伝え、奥を伝えてきたのである。

 もともと入身投げは円運動の求心力と遠心力のよって行う業である。また、それを上下させれば、その行動線は無限の軌跡を取る球体になる。球の原点は術者の腕の長さである。その起点か肩であり、肩を上下させる事によって術が繰り出される。その円運動の半径は、一坪の中で出来るように作られているから、畳二枚の広さで全く問題が無いのである。これを問題にする方が間違いである。ただし、熟知している「」に限る。手練は「女郎蜘蛛のを知っているから、これ以上の広さを必要としない。

 大東流の業は単なる円運動ではない。円という平面上の左右に上下を加え立体化して、これを「球」とする。つまり球体運動を旨とする武術である。平面的に左右横に振り回して、それで敵を単に平面上の行動線で廻し込むのではない。上下して初めて「球」になる。上下の振幅が大きいほど、術者は重力を味方に付ける事ができる。
 西郷派大東流の業は「球体運動」であり、単に平面の左右だけでなく、「上下に揺する」ということだ。(本文より)


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平成25年 『志友会報』8月号



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軽い物を重く遣い、また重い物を軽く遣う。
 武術修行は、精神修行を積み重ねた結果、この時機、会得したものを「奥儀」と呼んで、昔から重視してきた。そしてその背景には『口伝』 なるものがある。つまり、技術だけに趨り、精神修行を積まない者に理解できないから、免許を与える際に「口伝」として伝えたのである。

 しかし、徳川中期になって、修行の足りない者に、「紙切れだけ」の免許や印可が濫発された結果、「神妙剣」とか「絶妙剣」などの術名や型が伝えられた。しかし、多くは理解されないままに先人の会得した「術名」だけが今日に残されているだけとなった。名の一人歩きである。
 かつて古人が苦心して編み出した奥儀も、精神修行が欠如していたのでは、到底理解できるものでなく、ただ技術に趨った武技はテクニックに成り下がる以外なかった。

 そもそも剱の道」とは、「死を嗜む道」である。必死三昧と表裏一体であり、この背景には精神修行を積み、生死の道を明らかにすることである。それを明らかにした上で、独立自在の境地に至ることを言う。
 つまり精神修行で積みかされられた武儀こそ、「奥儀」といえるものであり、勝機の気をもって、「行」を行うことをいう。この行こそ、何を隠そう『臨死体験』の最たる物なのだ。

 死のぎりぎりまで自分を追い込む。同時に、斬られる時機のその刹那を体験する。この刹那を示顕流などでは「猿叫」と称し、自分が斬られる悲鳴として、その悲鳴そのものを奇声に反映させ、死をもって相手に立ち向かうのである。精神的にも、生きて戻らぬ玉砕主義を貫いているのである。これこそ「捨て身懸命」でないのか。劍の道歌で謂う「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。おそらく九死に一生を得るチャンスというのは、こうした必死三昧を謂うのであろう。

 剣術の極意は「無眼」である。眼に頼らないことを「無眼」という。無眼は眼からの超越を意味する。肉の眼に頼らないことを言う。眼に頼れば、邪魔なものまで映ってしまう。肉の眼とはそんな不便なものである。
 見えているようで見えてないのが、人間の持つ「肉眼」なのだ。
 人間はそん不便なものをぶら下げ、自分では「見えている」などと豪語する。(本文より)


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平成25年 『志友会報』7月号



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太刀筋の大事
 太刀筋で言う正中線を極め、その極意とされるものは何か。
 それは術者自身の行動が、常に正中線を通り、その「正中心」を極めていることである。
 正中線で言う「正中心」とは、物事の中心を指し、その中心を極めれば宇宙の根元にも達する、まさに正中心なのである。

 四方八方に斬る太刀筋を問う四方投げは、また無手で真剣で襲うものに対峙する極意を顕したものでもある。四方投げを行う際に最も必要とされるのは、自身の太刀筋もさることながら、太刀筋が常に正中線の軌道を通り、動くと言うことである。その動きの中で敵の動きを観察する「見極め」が起こる。この見極めとは「見切り」であり、敵の動きを観察した後に、紙一重で捌く「見切り」を行うことなのである。もの見切りを行いう際にも、やはり術者自身の動きの中には正中線を極めた、紙一重で捌き、躱すと言う動作が大事となる。
 この紙一重で見切って躱すことを、わが流では古くから「太刀筋と四方八方に斬り結ぶことは同根」として伝えて来たのである。剣と、剣の技と、無手での柔術とは決してそれぞればバラバラに行動する術ではなく、同根より生まれた、それぞれに連動された術なのである。

 剣の奥義は、最終的には剣を捨て、無手で立ち向かう素手の柔術となる。この素手柔術をもって四方八方に斬り結ぶ剣技のよる躰動法は完結するのである。
 自己の動作は、動き一つ挙げても最後は自己完結をもって終了しなければならない。その一つの、躰動法に至る基本の動きこそ、四方八方に斬る太刀筋を会得する動きだったのである。その動きが、やがて「うねり」を生じさせるのである。

 また、この動きを会得するには、単に木刀素振りだけでは太刀筋は会得できない。木刀とに本当の真剣とは、そもそも性格が違うからである。
 木刀には握りにおいて真剣と共通点を共有するが、「刃筋」や「剣筋」となると、木刀と真剣とでは似ても似付かぬものになる。木刀には「刃(やいば)」がないからである。木刀は、叩くもの、打つものであり、斬るものでないからだ。

 つまり、「引き」という動作も、木刀には真似できないものであり、引きが出来るのは真剣だけであり、真剣をもって「刀之理(かたな‐の‐ことわり)」が刃筋を正し、また剣筋を正すからである。つまり真剣特有の「刀之理」が理解出来るのである。
 これを会得するには所持する刀剣が、真っ直ぐの物でなければならず、この刃筋が正されている物でなければならない。曲がった刀は会得において、自らの行動律を邪魔するものである。(本文より)


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平成25年 『志友会報』6月号



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求道者として異次元へ
 人は何かを需(もと)める。多くは道を求めて人生を模索する。そして求道者(ぐどう‐しゃ)は自身で道を探し求めなければならない。
 依(よ)って以て死ぬ何かを、自分自身で探し出さねばならないのである。
 あるいは探求することを放棄してはならないと思うのである。常に動いてアクションを起こし、求道者として、道のあるところに馳せ参じなければならないと思うのである。
 迷いは、依って以て死ぬ何かを求めずに、安易な日常を送ることから生じるのである。安易な日常では、死生観は解決できまい。
 死ぬ間際までに人間は自身の死生観を解決しておかねばならない。進むべき道をめざして、そこに進路を合わせておかなければならない。
 そして、「けじめを付ける」ことである。

 安易な日常を送り、迷いっぱなしではいけない。やりっ放しではいけない。物事の道理を知ることである。それにはけじめを大事にすることである。
 始めがあって終わりがある。世の道理である。
 迷いが生じると言う始めがあれば、迷いが滅却すると言う終わりもある。
 人間は人生を生きて、人生を経験しつつ迷いを生じさせるのであるが、やがて滅却に向かうと再び再生して生まれ変わったとき、清浄無垢に立ち返るように、
人間はけじめを付けると迷いが滅却して行くのである。

 一方、迷いぱなしで、死生観を解決することなく生涯を終える者は、再び六道(りくどう)を輪廻して迷いを繰り返すことになるのだ。これこそ、死んでは生
まれると言う終わりなき生き方であろう。
 しかし、そう言うアクションを起こすことも、人生には時間の限りがあるので、「そのうち……」とか「いずれ暇ができれば……」などと呑気なことを言ってはおれまい。(本文より)


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平成25年 『志友会報』5月号



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観察眼の大事と武運の鍛錬
 5月号では、前回号に続き観察眼の大事と、極めて稀な武運の鍛錬を挙げている。
 ふつう武運と言えば天からの授かり物のように考える。武士としての運命を武運と言い、また戦いでの勝敗の運を武運と言う。更には『武運長久』と云う言葉がある通り、武運が長く続くことを祈ったリ願ったりすることを言う。
 だが本号では、江戸中期の儒学者・室鳩巣(むろ‐きゅうそ)の『駿台雑話』を挙げ、武運は稽古するものであると論じている。武運は稽古することにより鍛錬されるのである。
 『駿台雑話』には、次のようなことが書かれている。

 鳩巣先生は、江戸の旗本や御家人の師弟で構成される若侍が集まって、何やら修養の話をしているところに出くわした。最初、鳩巣先生は黙って彼等の話を聴いていた。
 ところが、鳩巣先生は何を思ったのか、突然次のようなことを言った。
 「諸君らは、日々武術の鍛錬をしている。まことに結構なことじゃ。だが、幾ら武術の技に優れているとはいっても、武運が拙(つたな)くては何もならぬ。ところで、諸君は武運の稽古はしておられるか」と言い放ち、これを聴いた一同は唖然(あぜん)となり、これまで勢いよく、それぞれに意見を交わしていた若侍たちは急に黙ってしまった。

 そこで鳩巣先生は、再び切り出した。
 「武運を養う稽古こそが、此処で私が聖人の書を講ずる所以である。武運は徳の現れである。聖人の書に説かれているのは徳を積む修練法が書かれているのだ」
 蘊蓄(うんちく)の深いものは、表皮の解釈では分からないと言っているのである。奥の奥を汲み取るには、根底に潜む人智を超えた教えを学ばねばならないと言っているのである。(本文より)


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平成25年 『志友会報』4月号



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猛稽古
 本来武術は古来より「一子相伝」を建前にしてきた。一子相伝をもって、その流派の伝統が連綿と続いてきた。
 わが流を振り返れば、その象徴が猛稽古だった。
 その猛稽古を更に象徴したものが「掛り稽古」であった。
 では、昭和三十年代から四十年代にかけて、実際には、どのような稽古がなされていたか語ることにしよう。
 これを凄まじいというか、無謀というか、狂っているというか、命知らずというか、それは読者の体験と忍耐の度合いによろう。
 思えば善人とか、世の常人と謂うレベルでは到底解し切れまい。
 善人に始まり善人に終わるようなヤワは到底勤まらない。
 このレベルの御仁(ごじん)は地獄を見た経験がないからである。
 また、これを「大袈裟」と捉えるのも、その人の教養に及ぶところである。
 体験談は、時として教養が低ければ理解出来ないものがある。更には臨死体験である。死の覚悟を何度かすることにより、その理解力は深まる。
 鬼神(きじん)も避けて通る迫力が、その人に備わっていなければ、その人の修練はただの畳水練となる。畳水練では、老練な策は練れまい。
 わが流は、「掛り稽古」を通じての猛稽古に、他流とは異なる精神育成法があった。
 この当時の古い形体と、古式に則る伝統武術の修練は、今日では筆舌に尽くし難いほど過酷であった。徹底した猛稽古だった。地獄を見る思いだった。猛稽古に猛稽古という感じだった。それを二段にも三段にも積み重ねる稽古だった。命懸けを覚悟しなければならなかった。(本文より)

 観察眼の大事も、単に肉の眼で見るだけでなく、その心理を深く読み解く勘が要る。殺気を感じなければならない。
 つまり、見るのでなく、検るのである。未来に起こることを察するのである。
これが洞察力だ。
 一手も二手も先きを読む。それだけでは足らずにまだまだ先きを読む。遂には洞察力旺盛となる。当然心眼(しんげん)が開けることになる。こうして開いた眼を開眼という。
 昨今は観察眼の無い者が多い。盲人が多い。眼開き盲だ。この種属(スピーシーズ)は実に見逃しが多い。観察眼が疎くなっているからである。
 そこで観察眼の大事を説く。(本文より)


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