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平成28年 『大東新報』6月号



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大東新報

現代の世の蠱
 夕刻の薄暗い一日の陽の終わりは、やがて昼が夜に取って代わる支配時間の始まりなのである。かつて人々はこの時間帯を恐れた。黄昏時から夜の帳が降りんとする時刻を非常に恐れたのである。それは「大凶時」という時刻であったからだ。
 この時刻に達すると「蠱」が忍び寄る。蠱惑に人間が誑かされる時間帯であるからだ。
(中略)
 大凶時は、また「逢魔が時」ともいい、また「大禍時」の字を用いることもある。この時刻は、禍いの起こる時刻とされる。そして、夕方の薄暗い宵闇時をいい、これを「たそがれ」「おまんがとき」「おうまどき」ともいう。そして現代に現れた、奇妙な社会現象。現代の世にも蠱が横行する。
それが顕著になり始めたのは平成初頭のバブル期であった。平成三年(一九九一)の秋以降から保守と革新の境目が曖昧になった。

 バブル景気は昭和六十一年十二月頃から平成三年二月まで続き、これを「平成バブル景気」と言う。そして崩壊した直後、暫くは好景気の余韻は引いていたが、既にこの時から資産などの持たざる者と、多大な恩恵に及んでいた者との分離が始まり、日本には深刻な経済問題が起こって、格差の時代に突入した。「暗雲」の暗示か掛かった時代でもあった。

 それ以前は経済バブルの暗雲だったが、バブルが弾けると、時代そのものがスッポリと暗雲に包み込まれ不穏が呈し始めた。
 東南アジアの近隣諸国から、まず当時の日本人はエコノミックアニマルと揶揄され、次に先の大戦に反省の色を見せない「憎き日本人」像というものが捏造し始められたことである。左翼系新聞などの報道記事を通じて、進歩的文化人の罵声に併せて徐々にエスカレートして行く。日本人が日本人を悪く言う現象である。
(本文より)


時事報談

(前回の続きより)
 夜襲直前、老人部隊は司令官の許に集められ、「白襷隊」と命名されました。白襷隊とは名前だけは勇ましいですが、茶番の儀式です。
 わたしたちは鉢巻きに白襷をして整列し、武装は小隊長であるわたしが、下士官用のボロ軍刀一振りと、旧式の南部拳銃一梃、それに手榴弾一個。これは万一の場合の自決用です。また部隊構成は、大正期半ばに教練を受け、満期除隊した古参の五〇歳初めの上等兵三名が荷なう三八式歩兵銃三梃に銃剣【註】牛蒡剣と呼称)三本。

 他は兵役免除【註】役所官吏、理工系技術者、巡査、大学教員など)の教練皆無の老兵が十二名。彼らは小銃の代わりに竹槍と腰に差した手製の木刀でした。更に部下十五名にも、それぞれ手榴弾一個ずつ。同じく自決用です。この部隊は決死隊ではなく、必死隊だったのです。負けが込むと、「滅びの美学」として、こう言う発想が起こるのでしょうか。冷静に考えれば、実に馬鹿らしいことです。わが部隊の武装は、武装と言う武装は殆どなく、防禦としては、鉄帽【註】通称、鉄兜)は、わたし一人分しかありませんでした。わたし以外は頭上防弾無しの戦闘帽でした。

 それにですよ。
 官品で配られる筈の軍靴もないのです。不足していることからでしょうか、軍靴の代わりに全員が地下足袋です。小隊長のわたしも地下足袋でした。それだけに、捨て石に遣われていることを全員が悟っていたようです。夜襲とは聞こえがいいですが、つまり退路を開くための露払いをして生贄となり、そこで潰える運命でした。そのために水筒の代わりに瓢箪を腰にしていました。もう部隊員全員が死ぬと悟っていましたよ。言わば無銘の、死んでも名すら出て来ない特攻隊員でした。軍籍簿にもその記録は残っていないのではありますまいか。
 この部隊を「白襷隊」と呼称すれば、実に勇ましく、凛々く映りますが、夜襲を行うのに、夜目にも目立つ「白鉢巻」に「白襷」とは何とも滑稽です。最初から標的ですよ。
 部下には、鉢巻きに「夢」の一文字を書かせて、それを「旗印」にするよう命じました。司令所の前で整列した老兵隊は、幹部将校や下士官連は「夢」の一文字を見て嗤いました。
 「年寄りに、夢でもあるまいに」というのです。そして夜襲は、彼らの嗤いの渦の中で出発しました。
(本文より)


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平成28年 『大東新報』5月号



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大東新報

礼とはいかなるものか
 儀があってこそ、礼は「礼」になる。
 儀は、また人間の行動を示す場合、そこに具わる言葉が「体」と「言」としての意味を持つ。この体と言が「行為」なのである。 そこに意志的動作が加わる。目的観念が生まれる。
 故に行いに社会的習慣である形式が整うのである。この整ったものを「儀礼」と言う。礼意を表す起居である。その式が「作法」と言うものである。

 しかし作法は儀礼の中に存在するもので、呪の目的と邪智が混じれば、礼は単にお行儀のよい畏まったものから、あたかも病的に変質して、媚を遣うような妖しいものへと変化することもある。また、黒魔術的なものにもなり得る。そうなるとただ妖しいだけでなく、野蛮で生贄などを必要とし、人身御供の肉と血を鬼神の捧げるというのも、また儀礼である。咒が畸形化すると「魔」を帯びるのである。そして、儀礼が一旦黒魔術的な様相を呈し、祭祀参加者の血気を一度沸騰させたならば、異様な狂気と猟奇を帯び、遂には、死に至るようなその臨終寸前までの臨死状態の陶酔に浸り、もはや正常とは程遠い、怪奇異常なものへと堕ちて行くのである。

 牛や豚や羊を屠殺し屠解する。あるいは古代においては幼児の血を啜り、肉を喰らったとある。あるいは他部族や他民族の人間を誘拐して殺し、血抜きしたあと、肛門または会陰部から槍を突き刺して頭蓋の天辺まで貫き、これを天日に干して生乾きの状態にし、その肉を火で炙り喰らったとある。
 また、他部族や他民族の女は、複数の強姦者で散々姦淫した挙げ句、最後は嬲り殺し、その血と肉を喰らったとある。猟奇世界での儀礼は、常に生贄を必要とした。

 祭祀に参加する者は猟奇なるが故に、その鮮やかなる血で刺戟から自らの脳は灼かれ、激情に突き動かされるまま女を犯し、あるいは少年少女を犯し、他部族間での古代の礼は、今日のように規制するものは何一つ無く、それだけに兇暴なまでに解放感を持っていたのである。
 更に儀礼を際立たせるのは「火」である。「焔」である。この焔に、あたかも放火魔がその燃え盛る火を視て興奮する。興奮して狂っている自分の姿が像像出来なくなるまで興奮する。生贄の儀礼には、こうした無分別な興奮が伴う。そして無規範である。

 ところが、この古代の礼に、規範を持たせ、学問として学ぶべきものとしたのが、かの孔子であった。兇暴と化した鬼神に節度を持たせ、秩序に遵わせ、規範を持たせたことにより、則るべき判断基準が生まれたのである。また、行為における拠るべき評価を定めたのである。
 今日で言えば、経験科学に対し、対象がいかにあるべきかという当為を問題とし、またその基準として価値・規範を思考する『規範学』(normative sciences)とでも言おうか。

 これにより、礼は「礼学」となり、学問の対象となり得て行くのである。こうして人間のみに知ることの出来る世界を「礼」に拠って秩序立て、そこに倫理と道徳を構築して異常者を排除し、礼を妖しきものから人間道徳への「道」へと導いたのである。しかし、礼が礼学になり得たからと言って、古代の猟奇的な儀礼が完全に馳駆されたと言う訳でなかった。黒魔術的な儀礼は水面下を暗躍しつつ、今日までしぶとく生き残った。
(本文より)


時事報談

心に残る忘れられない話
 今から二十五年以上も前の話しである。平成三年三月末の、当時習志野公園での桜が満開の時期だったと思う。

 この日は天気もよかったし、家内を連れて花見のために昼食時、数回訪れた事がある。そこで不思議な老人にあったのである。この人は仙人然と思わせる人であった。風貌があたかも福禄寿と言った感じの人で、見るからに老荘的であった。生き方もそのような人に見受けられた。
 そこで心に染み入る話しを家内とともに聞いたのである。

 大戦末期の事である。
 この老人は三十九歳で徴兵されたヒットであった。若い頃の兵隊検査では丙種合格で長らく軍隊には起用されず調練の経験もない人であったが、突如三十九歳のときに召集され、東京造形美専を出ているという事で当時は大学予科、旧制高等学校、高等専門学校などの学生や生徒は幹部要員不足の為に幹部候補生という制度があり、ここに半ば叩き込まれたという事であった。幹部要員として速習指導された臨時の将校のことである。

 老人は先の大戦期、見習少尉ということから末端の下級将校であったらしい。
 この御仁がなぜ兵隊検査が丙種合格の最下位だったか。
 身長が低かったからである。
 身長は四尺八寸。今流で言えば一四五・四センチと言うことになる。非常に小柄で一五〇センチに満たなかったのである。かの西郷四郎が陸軍士官に憧れて士官学校を受験した最新長が合格基準に満たず不合格になった話は有名である。この御仁も身長が低く軍隊までも相手にしなかったのである。
 ところが大戦末期は戦死者が増えたために補欠要員が不足した。そのため昭和十九年の三十九歳の時に召集されたという。
(本文より)


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平成28年 『大東新報』4月号



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大東新報

狂わされた現代の人生観
 昨今は肉体年齢のみならず精神年齢も幼児化しているから、いい歳をしたオヤジでも五十も六十もなって「若気に至り」を遣らかしているようである。そこに悔いが派生する。
 だが、その悔いを残して死んで行く人は、ゴマンと居る。
 実際には悔いを残している人が多いように思う。それなのに、自分の死だけは遠い先にある。生きているうちの悔い消滅は心掛けず、死の直前に追い込まれて、悔いを改めるには遅過ぎ、結局自分の死は殆ど感じずに生きているのである。

 この側面には死の哲学への敬遠がある。現代人は生きているうちだけが華と感じているようである。
 斯くして死は敬遠され、生命の尊厳に関係なく、生かされるという実情を招いた。死んではいけない時代なのである。それはまた享楽を奨励汁時代に突入したと言えよう。
(中略)
 元来人間と言うものは、死ぬべき存在でありながら、不思議にも生きている。
 人間とは死するべきもの、あるいはいつか死ぬべきものと解するより、「死であるべきもの」であって、死するものが死なずに生きているから不思議なのである。これは単直に言えば、生とは人間の仮の姿であると言えよう。
(中略)
 だが、日本人が言葉を知っている頃、日々生かされていることの意味を理解していた。
 今日一日を大きな奇蹟によって生かされ、今日一日分の恩恵の意味を知っていたのである。偉大なる恩寵であった。この恩寵を「恵み」と捉えていた。
 朝、目が醒めて「今日も生かされている」と往時の日本人は、「生かされている」ことに感謝し、日々自分がその中に居ることを有難い「恵み」と捉えていた。天から生かされている恩恵と取った。ゆえに感謝した。
 生とは、奇蹟であった。太古の人たちは生きていくこと自体を、非存在なる人間にもたらされた奇蹟と考えた。
(本文より)


時事報談

資本主義は金のかかる構造
 選挙で言えば、定まった確たる政党を持たない有権者同様、そのときその場で、浮動的に如何様にも変化する階層である。最もコントロールし易い階層であり、世論操作の風に弱い。風向き次第でどちらでも向いてしまう。そして常にコントロール可能な状態にしておくには、「民主」という建前がいるのである。

 これは、この階層が一様に大学まで出た中途半端な知識階級であり、その中途半端な知識、つまり専門職的な知識は持ってはいるが、総合職的な企画や立案という指揮系統の総合知識を持たないからであり、足許は如何様にも動く浮動体であるからだ。つまり、現代社会の現実的な実情は、知識があっても常識ないと言う構図を作り出しておいて、この中途半端な浮動体をコントロールすれば、利益が簡単に転がり込むという仕組みがあることだ。足が地に着かない者をコントロールすることは容易いことだ。
(本文より)


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平成28年 『大東新報』3月号



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大東新報

浮世の話術の錯綜
 この世を「浮世」という。
 また「うきよ」は「憂き世」ともいう。つまり、無常の世、あるいは生きることの苦しい世の中を浮世と言うのである。

 一方で、「憂き世」の憂さ晴らしのために、享楽の世界が試みられている。享楽の世界には、現代的・当世風・好色の意が含まれる。故に、そこに男女は、あたかも蜜に集る蝿のように群がってくる。一時も、この苦しみから逃れようとする。苦しみを忘れようとする。快楽に耽り、享楽を人生の目的とする主義を主張し、自ら快楽主義にのめり込む。また、自由・自由と言いながら、その種の自由の中で何も見ていない。
 都会と雖も街路樹並木はあるが、その街路樹の変化すらも気付かない人は多い。結局何も見ていない。季節の変化すら知らない。日本人は変化の乏しい季節感の中に身を置き、それを正常と思い込んでいる。

 現代日本人ほど、享楽とか快楽に現を抜かす国民は居ないだろう。つまり、「死んで花実が咲くものか」であり、その考えの根底に、死んでしまっては、もうどんなにしても幸福に廻り遭えないから、今を楽しみ、命を捨てることは愚であるという快楽主義の意図がある。
 命あっての物種である。
 何事も命があっての上のことであり、死んではおしまいという考え方である。

 しかし、死んだらそれでお終いだろうか。果たしてそうであろうか。
 多くの人は、生の終わりを死と考えている。ゆえに死んだら、それでお終いと思い込んでいる。だが生と死のこの部分に一つの線を引く。また生まれた日を始点として線引きをし、それで終わった点を終点として、その線の引かれた数直線の長さをもって人生とか、生存した期間などと言っている。果たしてこれは正しいだろうか。
(本文より)


時事報談

老いが乱れる社会現象
 人は、生・老・病・死の四期を送る。
 最後は死が待っている。その前は「病」であり、ほぼ同じ時期の「老」がある。そして昨今は、老が乱れたと感じなくもない。

 では、「老が乱れる」とはどういうことか。
 老いても、若くありたいという矛盾である。この矛盾こそ、現代人の頭上に降り注ぐ大矛盾であり、老いを逆行させると言う、本来自然の摂理にはなかった逆現象を狙った行為が、今の世を席巻しているのである。
 果たして、これに反作用は働かないのか。

 更に働くとして、これに追い討ちを掛けるのが、異常なるサプリメントの飲食率の急増である。急増の背景には、テレビコマーシャルの喧伝がある。
 サプリメント食品は、形状は薬剤のようなカプセル状の恰好をしていて、これを飲用するのであるが、その表現が「飲む」と言わずに、「食べる」というのである。薬事法の制限を受けているからである。したがって、この曖昧さは、薬なのか健康食品なのが実に不明瞭なのである。その不明瞭食品は、爺さま婆さま階級を頂点にして、売りに売りまくる。あたかもマルチ商法の如きである。側面には詐欺の匂いすら感じられる。
(本文より)


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平成28年 『大東新報』2月号



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大東新報

急がれる格差是正
 世界は「弱肉強食」の原理で動かされ、強者の論理だけで運営される世界を、もっと是正していく方向に進まないと、世の中は益々混沌として、更に深刻さは深まるばかりである。このままでは金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧しくなる。持てる者と持たざる者の格差が増すばかりである。こうした経済状況は不可解である。
 その中でも最も不可解なのは、なぜ円高に転じるのか?という、米国の金利引き上げを受けて、一旦は短期的な調整の円高が進展すると予測はしたもののここまでの円高は専門のエコノミストととて予測できないものであった。経済学者でも予測不可能な奇妙な原理で世界は動かされていると世界言えよう。
(中略)
 さて、韓国経済動向について考えれば、「アジアの四龍」或いは「アジアのトラ」と言われ、奇跡の経済成長を成し遂げた韓国について、最近は、「歯の抜けたトラ」、「奇跡の化けの皮が剥がれた韓国経済」といった指摘が出てきた。

 韓国にとっては屈辱的な表現であろうが、最近ではこうした屈辱的な批判がなされていることを韓国国内のマスコミでも紹介されている。こうした中、韓国経済は米国が昨年末約十年ぶりに利上げを行ったことから、更に悪化する可能性もあるとも見られる。リーマンショックと言われる二〇〇八年の世界的な金融危機の直接的な原因となった米国経済が回復してきていることを受け、米国は市中に放出した資金を回収し、引き締めを行い始めることを宣言した格好である。これを客観的、長期的な見れば、「極めて正常な動き」と見ていいだろう。しかし、中国本土が人民元を切り下げ、欧州も景気浮揚のために追加利下げを実施している為、世界の金融市場には、方向感を失い、これにより不安感が拡大しているとも言える。これに最近では国際的なテロ活動などを背景とした社会不安も加わり、原油価格が下落傾向を示し、韓国の主要輸出市場だった中東も韓国からの輸入を手控えるかも知れないと言うことだ。こうした世界的な経済不安を乗り越えなければならない状況にあって、韓国経済の体力は目立って低下しているとも言えよう。世界は、世界経済は総て一つの輪の中で、連動して動いているのである。この連動が地球規模では、一旦狂うと同時にそれが世界の悪化として連動知れしまうこともあるということである。

 例えば韓国国内では、こうした状況をしっかりと認識しつつ、製造業と輸出が主導する韓国経済の成長モデルは終焉を迎えた。対処療法では、韓国が抱える慢性化した経済危機を乗り越えられない」と指摘する声が強まっている。世界的な景気低迷が長期化することに備えて、破綻企業の構造調整を急ぐべきであると考えている節もあるようだ。
(本文より)


時事報談

庶民の微生物視
 微生物の働き蟻のように、日々あくせく働く俗人には分る筈がないとしている。そして益々深みに嵌まり、酔い潰れ、淫蕩の中に身を没して行く。爛れた官能主義の中に、身も心も投げ棄てるのである。
 何処までも酔い潰れる。醒めれば現実に引き戻され、心の虚ろが眼を醒ますから、そのために酔う事で、また現実逃避を図ろうとする。何処までも酔い痴れていたいと思う。一種の麻薬現象である。

 しかし、一方で酔い醒めの悲しみが、身を蝕む現象が起こっている。実に悲劇的である。
 心の底で酔い醒め状態を嫌えば嫌うほど、この状態から醒めまいとして身を乱倫に躍らせるのである。
 そして最も不幸な事は、そう言う自分を、心の底で蔑んでいるのである。気風の一欠片も感じられない。現実逃避の実態である。
 不倫の背景とそれは、終焉に向かうストーリーの中には、末期症状としてこうした兆候が現れて来る。
(本文より)


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平成28年 『大東新報』1月号



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大東新報

属国化現象
 現代の世に、誘惑され、魅了され、取り込まれていく現象がある。伝統や文化まで崩壊してしまう奇妙なる現象が起こる。そこには視覚化や聴覚から入り込んでくる、知らぬ間の暗示が横たわっている。

 芸能に関する歌物は平安中期ごろ成立した饗宴用の声楽曲で、催馬楽と朗詠であり、狭義の意味では、雅楽は外来楽舞を指すとされる。そしてこれらは総じて四拍子である。強拍が四拍目ごとに繰り返される拍子で、第一拍が最強、第三拍が中強のアクセントとなるリズムである。また雅楽の場合は、楽句を数える単位となる太鼓の強打音が第一拍である。

 孔子の時代は、天子の前で舞う「八イツの舞」がこれに当たる。これは周の時代の天子の舞楽で、六十四人が八列八行に並び雅楽に合わせて舞う舞いのことで「やつらまい」とも言った。
 音としての「楽」は今日でも存在する。
 そして昨今の楽はどうなっているだろうか。
(中略)
 昨今、日本ではかつて盛んに歌われていた童謡すら、子供の世界では歌われなくなった。逸れての音楽はロック調で、聴くだけで多忙に追い捲られ、早足で歩かねばならない音である。またこの音を聴いていれば、拳を振り上げ、足を踏み鳴らさずにはいられない、そういう衝動に駆られる音である。もう、楽の次元を超越していると言えよう。

 鬼神を囃し立て、使役するような「荒ぶる神」の世界を出現させている。現代とはそう言う時代なのかも知れない。
 芸の世界に鬼神が登場してきたのである。鬼神のならす音で視聴者は総狂いする。右へ倣えして同一方向へと「総狂い」する。誰もが一様に拳を振り上げ、足を踏み鳴らすようにである。そして鬼神を使役し、楽を狂わせ、邪法が、次々に空気を震わせ、重く人々の頭上に垂れ込めるのである。音に汚染された瞬間であろう。こうして正常な楽性は狂わされ、破壊される。こうした背景には、日本が戦争に負けたという、これまでの文化否定や精神否定があるように思う。総て、日本否定へと繋がっている。音まで動物的である。
(本文より)


時事報談

年寄りに見える事は悪い事か
 現代の世は、死ぬ事が許されない時代であり、死ぬ事は悪い事になり、簡単には死ねない世の中になった。
 それと同時に「あなたは若いですね」と言われると、眥を垂れて喜ぶ。心情だろう。あるいはそれほど単細胞か。
 とにかく、そういう人が多い。
 そして内心、「そうか俺は若く見えるか」と喜々とした感情に舞い上がる。一時の有頂天に酔い痴れる。

 特にこの言葉は、飲み屋などに行って水商売の女性からこのように世辞を言われると、自分の実質年齢と、他人が見る年齢差がある事に喜々とするようだ。
 あるいは近所のご夫人達からこのように言われると、若く見られる事が実に嬉しいようである。背景には、「モテたい一心」の色気と下心があるからだろう。要するに、単細胞でありながら単細胞の危機的な自覚症状がないからである。軽薄なのである。つまり「自分の年齢より下の歳に見られた」ということが嬉しいのである。その嬉しい根底には、「もしかすると、オレに気があるのでは?……」などの、その手の感情と期待が働いているのかも知れない。

 「あなたは若いですね」
 果たしていい言葉だろうか。
(本文より)


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