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平成26年 『大東新報』7月号


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大東新報

高潔
 日本野近現代史の中には、血腥い事件が存在する。
 その中でも、血盟団事件、五・一五事件や二・二六事件が起った経緯を追うと、高潔とか潔白であるという正義論が猛威を揮っていた。
 そして「高潔」という事だけに照準が合わされた場合、その倫理においてデモクラシーは死ぬ事になる。デモクラシーにおける代表者は、いわば国民の御用聞きである。

 御用聞きには御用聞きの事情がある。ときには話し合いもあり、一杯飲むこともやむを得ないだろう。これがダメとなると、正義の名を振りかざした道徳の規範となる原理のみが優先する事になる。潔白第一となる。小さな不正すら、指弾する監視の眼が強まる。
 こうした状況下で登場したのが清潔と思われていた貴族政治家の近衛文麿だったのである。
 何しろ近衛文麿だったら、生まれながらにして、天皇の次に「偉い」からである。
 また、貴族出身である以上、別に、金銭に誘惑されて、汚職に手を染める必要はない。こうした近衛文麿公爵が、嫌々首相になったのである。

 近衛内閣をよく見ると、首相も閣僚もその殆どは、金銭に対しては、みな清潔だった。そして、この政権が歩んだ道は、言語に絶する、あの戦争ではなかったか。
 この戦争への道は、日本人はつい最近まで抱いていた、「水と安全はタダ」という発想だった。したがって、「民主主義もタダ」でなければならなかった。「タダの発想」が、一億国民を戦争へ引き摺り込んでいったとも言える。
 立憲政治、更に進んで、近代デモクラシーが生き続ける為の条件は何か。

 それは議会政治が機能する事である。国民の選んだ代議士が、議会において、十分に討議し、国策が決定される事である。
 したがって、議会において法律が作られると言う政治システムが、つまり「民主主義・デモクラシー」と言う事になる。
 ところが、この政治システムが機能しなくなる場合がある。それは国家の運営が著しく官僚化され、代議士の総てに高潔が課せられた時である。

 だが、高潔、高潔……と清い事ばかりを馬鹿の一つ覚えのように繰り返していると、やがては役者の一枚上の手合いに絡めとられ、抜き差しならぬ、誘導、つまり国民の愚昧化が側面から興ってくるだろう。そうなると独裁委任という形態が生まれるかも知れない。歴史を振り返れば、聖書に登場したサドカイ派とパリサイ派の人間が、二者で国家の派を競うような保守派と革新派の闘争のように、いずれ劣らぬ偽善者ぶりを象徴するような勢力が擡頭するだろう。こうしたことは時代的な現象と言える。それが、昭和期の初頭に興ったのではなかったか。(本文より)

時事報談

ご利益
 現世ご利益……。
 これは幻想に過ぎない。
 そして現代人を悩ます霊的磁場の影響を誰もが大きく受けて、正常なる霊的中枢を狂わせている側面がある。
 新興宗教に入信したり、霊山や霊場に出掛けて行って、無知のために結界の張られた注連縄の境界線を無視して霊域に踏み込み、その禁を冒して統合失調症に罹る霊的未熟者も居る。体調だけでなく、心まで崩す者が居る。
 それに“肉喰った報い”が絡めば,不幸の二重奏だ。心身を崩し、やがては絶望の淵に立たされる。
 そして以降、廃人の人生を送る。

 一旦この病気に認定されると、日本では一生涯精神病の薬を飲み続け、死ぬまで薬から解放されることはない。精神衛生福祉法は、そうした患者のためにある。
 今こうした人が殖え続けている。こうした若者が殖え続けている。若者の未来は前途洋々ではない。昏い翳りがある。冥い暗示がある。神に障る現象が起きている。
 心の病んだ、神を冒された、そういう異常者が殖え続けている。
 本来は、こういう人は稀だった。少なくとも、半世紀前は何処の精神病院も、精神科も閑散としていた。人間の罹る病気に精神病はなかった。そう断言する医者も居る。

 「本来、人間の病気には精神病はないんだよ」そう断言する医者も居る。
 ところが、その言は覆されている。居ないどころか大勢居る。何処の精神病院も、何処の精神科神経科クリニックも、朝から診察の順番待ちで、番号札を貰って待たなければ行けないほど大繁盛している。

 本来、人間には精神病はなかった。
 ところが此処に来て、急増した。人間にはなかった病気が蔓延している。
 元凶は、仕掛人に煽られたからだ。霊場巡りをしたからだ。
 その結果、霊場から持ち帰った霊障を被った。それを行って持って帰って来た。
 何を持ち帰ったのか。

 人の落とした“念”である。他人の願を懸けた“念”である。成就されなかった“念”である。
 霊的スポットとかパワースポットなどは、かつてそこを訪れた“人の念”が一杯落ちている。その落ちたものを、後の人が、分からずに、無意識のまま拾って帰って来る。人の落とした念を拾ってしまうのである。その念の多くは、生霊や死霊が落としたものだった。恨みつらみだった。
 本来、霊場は静かであるべきところだ。静寂を旨とする。騒がしいところではない。これが近年騒がしくなった。

 一部の心ない仕掛人によって“町興し”とか、“村興し”とかで、騒がしくなった。霊場を土足で踏み込む観光地にしてしまった。
 そもそも、そこにいた自然霊が起こるのは無理もないだろう。今や霊場は、絶好の行楽スポットにされてしまった。霊場が、景勝地代わりに遣われ、面白半分に“パワースポット”などと持て囃されている。
 あたかも、礼儀知らずの来訪者が先祖の墓の上を踏みつけるように。祖霊の頭を踏みつけるように……。
 これは恐ろしいことであり、無礼なことである。

 来訪者は観光客の一人に成り下がって、かつての日本人の先祖の頭の上を踏みならして歩いている。その光景は、また、怒りを買う光景でもある。祖霊が怒る構図である。憤懣が起こる光景でもある。
 更に、これに新たな動物霊が絡み付く。怒った祖霊に絡み付く。霊的同調である。意識体の同調である。絡み付いた同志が、更に来訪者に障りを為す。意識が低く、品位のない野蛮な低級霊が絡み付く。最悪の構図だ。畸形であるだけにその姿も異様である。

 現代人はこの構図の恐ろしさを知らない。
 霊障が、いま猛威を揮っている。霊障を仕込んだものに、人は、コントロールされている。操られ、自らは人格を失う。犯罪まで関与する。何処も此処も憑衣で溢れている。誰でもが大なり小なり憑衣されている。こうした世が、狂っているとは言えないだろうか……。
 昨今では、無知が無知を呼んで、奇妙な事件ばかりが起こる。
 霊に絡む不可解な異常事件が多い。(本文より)


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平成26年 『大東新報』6月号



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大東新報

代議士という御用聞き
 日本においてのジャーナリズムおよび大多数の国民は、デモクラシーとは何か、全く理解していないからである。
 そもそもデモクラシーが何かを理解していないのだから、民主政治体制が敷ける訳が無い。
 デモクラシーとは何か。民主主義とは何か。それを明確に回答できる日本人は殆ど居ないのではあるまいか。また、これが分からない以上、田中角栄の評価など定まりようが無いのである。

 昨今の現代日本人に「デモクラシーとは何か」「民主主義とは何か」と問うた場合、これに改革な回答を下せない人が殆どであろう。逆に、「デモクラシー民主主義の反対は何か」と訊いたら、大半の日本人は「独裁政治」などと愚かなる回答を出すであろう。

 ところが独裁という政治体制は元はと言えば民主主義から発生したもので、実際には「民主独裁」という政治形態だってあるのである。これの顕著な例はギリシャやローマが「委任独裁なる形態を採用し、国が危急存亡に瀕しているときは、有能な人に独裁権を与え、国を亡国から救ってもらおうとしたのである。桐者でもローマでも、委任独裁によって度々国を救ってもらっているのである。更には、委任独裁はデモクラシーと矛盾しないのである。委任独裁だって国民の総意によって決定されるのだから、これもまた民主主義なのである。したがって民主主義は独裁主義と矛盾しない。そうすると、民主主義に反対なる政治体系は何か。

 そうなると「軍国主義」や「ファシズム」と答える人も多く居るだろう。
 あまり金がかからず、清潔で腐敗せず、スキャンダルなどで墜落しなければ、これでいいと考える。しかし、これには重大な落し穴がある。

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナ新政権に「ファシスト」の汚名を着せようとしている。
 政治の指導者が過去を書き換え始めたら、将来について心配をすべきである。ロシア、ハンガリー、日本、そして中国で最近見られた、歴史教科書を変えようという政治家主導の取り組みは、ナショナリズムの台頭を知らせる危険信号だった。

 表面的にはデモクラシー民主主義を装い、しかしデモクラシーは独裁制と矛盾しないから民主独裁という政治形態すらあるのである。多くの日本人は、この事を知らない。民主独裁とは、委任独裁という形態で存在し、国家が危急存亡の危機に陥った時や、有能な権力主義者によって国家が運営されようとする場合、この政治形態が生まれる。(本文より)

時事報談

人間は矛盾した生き物
 今や科学振興は凄まじい。老いも若きも現代人は、それを選択したようだ。科学万能主義は、「万能」の名に値し、猛威を揮い続けている。

 「科学的」を信仰して、科学以外何も考えない信心は、得たものより失ったものの方が多い。いまの便利さと快適さと、そして物質的に豊かであることを需めた結果によるものだった。
 しかしその一方で奇妙な現象もある。一方で科学万能を謳いながら、他方で霊的現象を信じる側面もある。何と矛盾した事か。

 そもそも現世とは、矛盾に満ちた世の中なのである。
 現世ご利益の時代とも言える。
 昨今は、人の遣ることに習って「右へ倣え」をする時代である。
 人と同じことをしていれば、安全と錯覚するのだが、しかしこれがまさに危ういのだ。
 現代は「危うい」ことが多過ぎる世の中なのである。
 誰かが、何かそれをすると、その真似をする。

 また「最近流行の……××……」というような、「尻追い」である。あるいは「便乗」である。まさに「バスに乗り遅れる」という感覚である。時流に遅れ、好機を逸するという「早る心」である。
 流行もその一つだろう。
 流行は、仕掛人の画策によって起こる。企みによって起こる。生活の中に変化を常に求めている人間は、仕掛人や扇動者の画策に乗り易い。時代遅れ……と揶揄される強迫観念が、意識の中に常にあるのだろう。

 かつて扇動者と言えば、暴力革命を目論んだ革命家だった。
 革命家は当時の若者を、暴力をすることは「世直し」だと煽った。暴力を肯定し、暴力こそ正義と定義した。まったくおかしな理屈だった。
 秩序を破壊するためには、暴力以外ないと煽った。大資本を粉砕するには暴力以外ないと煽った。この中の実行者の中には殺人未遂など犯行をを犯しながら、証拠不十分で不問にされた学生や労働者も居た。扇動者に煽られての犯行だった。

 こうして時代は流れ行く。
 あるいは時代は、堆積物のように積み重ねられるかも知れない。
 古い地層の上に、新しい地層が積もり、更にその上に新しいものが載って行く。そのようにして、沈積した幾つもの層状のものが、あたかも年輪の表皮のような形成を見せて降り積もっている。時代というのは、こうしたものかも知れない。

 個性の座はないから「右へ倣え」をするのではないか。
 一方で個性が強調され、その反動として脱個性が囁かれ、そもそも個性とは一体なんだったのか。
 流行を見れば、そしてファッションを見れば、それに奔走する行動を見れば、一目瞭然となる。これを時代の流れと一蹴すればそれまでだが、しかし一蹴に付せば、そこには奇妙な「何か」が起こるだろう。
 この「何か」は、大衆を引き摺りながら、大衆の幸不幸に関係なく変化しなければならない。そうした悲しい側面を宿したものだ。(本文より)


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平成26年 『大東新報』5月号



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大東新報

デモクラシーの正体
 現今日の日本国家の形態は、民主主義を標榜しながらも、その実は社会主義である。一握りのエリート官僚たちによって牛耳られている。僅か四百名程度の高級官僚により国家の舵取りの運営が任されているのである。
 この舵取りをしているのは日本国民が選挙で選んだ政治家たちではない。政治家風情が日本の舵取りが出来るほど、頭も良くなく、更にはその能力も皆無。

 タレント議員如きの芸能界の切り盛りで、日本の国家運営は遣れる訳も無く、また地元の有志如きの田舎代議士レベルの頭脳では、到底今日の難局を抱えたた世界規模の諸問題は解決できる由も無い。一個人の正義感では手に負えない状況になっているのである。
 そして現代には、高級官僚というエリートの 手腕に依存する社会が出現したと言う事である。官僚主義は顕著な例。

 複雑な社会では、物事が(正しい方向に、とは言わないまでも)恐ろしいほど間違った方向に進まないようにする仕事がエリートに託されている。だがエリートは全知全能の神ではない。唯の人間である。
 したがってエリートが失敗すれば、かつて第一次世界大戦の敗戦国で見られた現実が起こるかも知れない。その顕著な歴史的証拠が、ヒトラーの擡頭だった。そうなると、その国では独裁体制が敷かれやすく、政治秩序が崩壊する可能性が高くなる。当時のロシア、ドイツ、オーストリアでは帝国が消滅し、その非力な後継者たちは専制政治体制に取って代わられた。

 今日の日本は民主国家を標榜している。そして国民の多くも日本は民主主義の国である。誰もがそう思い込んでいる。
 しかし日本はデモクラシー民主主義の国か。
 今日の日本は、もう民主主義は敷かれる国家形態をなしていない。民主主義は消えている。
 そして日本人に、民主主義とは何かと訊けば、これに明快に回答を出せる人が殆ど居ない。
 自由と平等のみが民主主義と思い、基本的人権が守られているからそうした国の社会携帯や政治形態が民主主義と思い込んでいるだけである。
 そして更に不可解なのは、民主主義の正反対の国家形態とは何かと訊けば、十人中九人までもが軍国主義という愚かな答えが跳ね返ってくる。

 民主主義に対峙しているのは軍国主義でない。ファシズムでない。ファシズムすら、実は民主という数直線上を反対に極右方向に動いただけの、民主主義線上にある政治形態である。ファシズムすら民主主義から起こった国家全体主義であった。

 民主主義の数直線上では、極右化すれば軍国主義になり、極左化すれば共産主義や社会主義にもなるのである。これはデモクラシーの政治システムに少しも逸脱しない。単に極端化して変化しただけだが、本質はデモクラシーの数直線上の政治システムには変わりない。したがって民主の正反対はファシズムではない。
 デモクラシーは民主主義であるが民主主義者はデモクラットである。人であり民衆である。
 では、人に対峙する者は何か。

 神である。
 民主の反対は「神主」なのである。民主主義はこの対峙の政治形態として、神主主義の答えるのがデモクラシーの反対語になるのである。したがって、デモクラシーと独裁制は矛盾しないのである。(本文より)

時事報談

人真似人生を模索する現代
 現代人はあまり考えなくなった。
 他人の人真似をする者が多くなった。考える事と言えば自分と、自分の家族や周囲の事ばかりである。それ以外について余り深くは考えない。特に、社会や自分の住む国家については殆ど無関心である。関心があるのは、こうした国家的ビジョンなどではなく、目先の金儲けとかスポーツや芸能情報であり、この手の情報においては敏感であるが人間社会に対しての改善策は殆ど無関心で、かつ考えようとしない。

 彼は彼なりに考え、悩み抜いた末に戦う方を選んだのである。その結果、戦う方を選択したのである。苦渋の決断をしたのである。
 更に彼は、思うに任せぬ予想とは反した現実に、切歯扼腕して苦しみ、悶え、迷ったのかも知れない。世の理不尽を呪ったかも知れない。そして考え抜こうとする行動を最後まで貫き通したのである。それが一〇〇人中、僅かに一人だった。苦渋の決断をしたのは一人だった。

 これだけでも現代の世は、考えない人間が急増しているといえるだろう。
 本来は人間は考える葦であったのだ。考えて、幾らの生き物だった。
 だがどうだろう、現実はそこまで脳漿を搾り出すように人間は、現代の世に果たして何人居るだろうか。
 軽薄にも、物信仰に奔った。物質至上主義に舞い上がった。
 科学信仰の現代の世で、「真剣に考える」という人は、極めて少なくなった。
 世の大半は、安直で安易で○×式の短絡的なものにさえ、何れかを安易に選んでしまう。深く考えもせずにである。

 そして答えのあるものしか答えが出せない。答えの無いものに脳漿を搾り出し、真剣に考えることはない。そういう物は相手にしなくなった。答えのあるものに対し、正解が出せるだけである。未だに左脳偏重型の考え方が横行し、暗記を特異とした者だけが優位に立っている。

 科学万能信仰を信じているからである。過去の前例をベースに組み立てられた社会の方が便利であるからだ。そしてこうした社会背景には唯物論と無神論が横行しているからである。その猛威は未だに健在である。
 昨今の青少年が考えることといえば、青少年は自分が何処の大学を受験し、卒業後は何処の優良企業に就職するかくらいのことである。それ以上のことは殆ど考えない。そして無事、就職先が決まり就業すると、そのまま組織に流される体質が出来上がる。働き盛りの壮年を見れば一目瞭然だろう。

 また働き盛りの壮年は、自分が如何に社会の流れと妥協して、その何れを選べば得するかということだけを念頭に置く。上手く立回って日和見的に人生を観てしまうのである。多くのサラリーマンの壮年層は、彼等の考えることといったら、社会の流れと妥協して、どうすれば得をするかである。また、どちらが楽かである。妥協が先行すると、安楽、安楽の方に流れて行く。それは退職して、老後になっても続くだろう。難解なことには取り組まなくなる。難解なことを毛嫌いするようになる。

 そして年寄りはというと、如何に老後を楽しみ、如何に長生きをして、死ぬ時は如何に楽に死ぬかということを考えるしかないのである。誰もがポックリ信者となる。中途半端な無神論者は、晩年期ポックリ信仰での死を望むようになる。安楽死であり、苦しまずに済むボックリ信仰に拠り所を求めるのである。この愚かさを気付かずに死んで行く年寄りの、何と多いことか。

 だが昨今は、老後の生活が長くなった。昔に比べると日本人の寿命は延びた。しかし、延びたのはいいが、この延びた時間が余りにも長過ぎるために、単に長寿では済まされない奇怪な現象が起こり始めた。老人の世界にも快楽主義は蔓延るようになったのである。

 老いも若きもといっていいほど、合理主義と科学万能に耽り、一方で、人間のあるべき姿を失い始めているのである。それは便利さと快適さと、そして豊かさとを引き換えに、もっと大事なものを失ってしまったのである。あるべき姿を失ったために、それに代わって失望と絶望が襲ったのである。

 かつて縄文人は、総てにおいて闇を見通す力があったのではないか?……と思うのだ。
 それは今日で言う霊感であったり霊能力を指すのかも知れない。その時代に人達は、現代人に見えない何かを見ていたのではないか、そう思うのである。(本文より)


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平成26年 『大東新報』4月号



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大東新報

時代の暗礁
 現実は庶民が思う異常に強大な、恐ろしい力学で動かされているのである。庶民は気付かないだけである。エリートとしての自負は、一市民などではなく、何処までも一握りのエリートなのである。高級官僚を見れば一目瞭然であろう。
 富みの分配、そして富は平等に分配されない。これが現実である。富は常に、権力の座にある者に握られている。
 資本主義市場経済というのは、歴史を振り返れば常に、商人と武人が交互に現れ、その政権交代を繰り返してきた。資本主義の世から、ファシズムfascismo/イタリア語・fascism/英語)が生まれるのもそのためであり、私たちは歴史を振り返って、民主主義デモクラシーから、ファシズムが生まれたということを忘れてはなるまい。

 その顕著な現れが、ナチスドイツのアドルフ・ヒトラーだった。ヒトラーは、何も最初から軍事独裁を狙って暗躍したのではなかった。民主主義のルールに従い、その背景下で、ナチス等はド打つ第一頭に躍り出たのであった。それを選んだのは、当時でも賢明と言われたドイツ国民であり、独裁政治の只中にこうしたファシズムが登場したのではなかった。民主主義の「委任代行」という手続きを踏んで政権を手にしている。
 つまり、これが「民主独裁」という政治形態である。民主主義の標榜が、やがては独裁政治に化けるのである。

 したがってヒトラーが権力の座を強引に力ずくで勝ち取ったのではない。民主主義の手続きを踏んだのである。民主主義の手続きとルールを分でのナチス党が擡頭したのであった。
 政治形態上、新奇性を発露できない点においては、感情が、国粋主義的愛国論と同調すると虚言するマルクスやエンゲルスの思想体系も同じジレンマに陥り、階級社会で展開される階級闘争は、ある意味での植民地ならびに従属国の被圧迫民族解放理論と裏腹となり、国家を階級支配の道具と見る国家論が、プロレタリア独裁と共通の虚構となり、一党独裁は、軍国主義的独裁と共通の支配からなることが分かるであろう。現代はそのように動いているのである。
 そして現代はどうか。

 経済成長の果実が限られた層にしか分配されていないことも、この傾向にさらに拍車をかけている。これでは、民主主義体制と言うより、金権政治体制であり、金権に焦点が合わされた政策が推し進められている。
 確かに、民主主義体制は資本主義市場経済の基盤の上に築かれなければならないため、ある程度の金権政治は避けられない。しかし、それはあくまで「程度」の話である。程度を超すと、市場経済は金権政治の体制下に組み込まれ、金権一辺倒の形で政策が始動し始める。(本文より)

時事報談

隙だらけの現代日本人
 緊張はストレスの元といって、緊張はよくないという。つまり緊張感のない、咄嗟の不意打ちに対処出来ない隙だらけの日常を現代人は送っているのである。平素から、いつ如何なるとき手裏剣が飛んできて、それを躱す術を心得ないのだ。
 そしてそうした鍛錬の無い者は手裏剣に打ち抜かれて即死するか、驚愕して逃げ惑うしかないのである。日頃の鍛錬の怠りは、無慙に殺される結末で幕を閉じることになる。

 この元凶に横たわっているのは、本質を見抜かないという怠慢である。本質を見抜かない根底には大局観を見ず、枝葉末節に捉われて、本質を見ようとしてないからである。つまり、考えないからだ。
 一切を考えなくなってしまった現代日本人は、考えるのではなく、他人と同じことをしてそれに準ずるだけなのである。これでは能がない。ただ生きているだけの動物に過ぎない。あるいは戦後、日本人はユダヤ教一派の『タルムード』が言う、「ゴイム」に成り下がってしまった観が強い。

 ゴイムとは「ぶた」である。あの“豚”である。飼育され、最後は人間に啖われる豚である。
 啖われないためには、安易な生き方を選択してはなるまい。
 戦後教育は、ある意図によって始まった。それに加担したのは日教組である。
 それは日本人が不利益になり、半島の旧日本植民地の出身者の三国人や、他国人が得をするような仕組みで展開された。戦後教育は、日本人は懺悔しろと言う教育だった。外国の思想が日本人の脳味噌に培養された。日本は悪い国だと。

 背景に国際コミンテルンの力が働いていた。またこれが日本を占領したGHQGeneral Headquarters/日本を占領した連合国軍総司令部)の狙いだった。日本人を自虐的立場に追い込んで、思想工作し改造することが目的だった。
 日本国旗は帝国主旨者ならびに軍国主義者の象徴だと。
 そして日本は、いまでの隣国から「日帝」という憎悪で言い捨てられている。
 戦後教育の指針は、日本人に物事を深く考えさせない教育であった。

 また洞察力を巧みにして深読みすることは、よくないと教える教育だった。哲学を放棄させた教育だった。また平素から考えず、また考える習慣のない生活の中に閉じ込めた。お陰で日本人の脳構造は、島国育ちのため世界観が狭く、思考が平面的なのである。井戸の中の蛙、大海を知らず、である。ミクロ的で全体像を見てないのである。

 これはアナログ的というより、とにかく平面的に物事を考え、それが立体になっていて裏や表があり、高さがある、奥行きがあるなどを教えなかったのである。そして戦後は、更に鈍麻な人間が殖えた。何かに麻痺した人間が殖えた。このマヒ状態で、思考して戦えというのは無理なのかも知れない。
 しかし現実に生きている以上、そう言う訳には行くまい。
 突然、向こうから手裏剣が飛んで来る。そう言う咄嗟の出来事はよくあることだ。(本文より)


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平成26年 『大東新報』3月号



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大東新報

民主主義が長期的に崩壊していく時代
 ハイパーインフレに、いつ移行しても訝しくないのである。
 これにもう一つ加えて、第五の問題を提示すれば、中国の繁栄の恩恵を授かってきたのは、多くは漢民族が殆どだった。不満を抱えているのはチベット民族だけではない。ウイグル族、モンゴル族、朝鮮族なども同様である。これをどうするか?……である。

 少数民族を放置すれば、政治的にも経済的にも不安材料の種になり、この種子はやがて発芽して、怨みの芽を葺くだろう。その時が危ないと言える。
 中国では一日平均500件以上のデモが起こっていると言う。そこで官民衝突が起きていると言う。
 これまでは、こうしたデモが起こっても、何とかやっていけたのは、側面に、経済成長率八%という数値が維持出来て来たからである。この数値が少しでもマイナスになると、中国政府は頭を抱えたまま抑制策を持たず、大暴動に発展するだろう。

 中国は数値だけで検ると、世界第二位のGDPを誇りながらも、一人当たりに換算すれば、わずか4300ドル(日本円で約33万円程度)に過ぎない。世界は、この程度のGDPの国に頼ったのである。蓋を開けてみれば、非常にお粗末だったことだ。そもそも間違いは、此処にあった。
 そして不安材料は、まだある。

 もし、このままの状態で貿易黒字が伸びていけば、世界中の貿易黒字が総て中国に集中する。これはどういうことかと言うと、不均衡が大きくなり、世界経済が維持出来なくなると言うことだ。
 肥大化した中国経済ほど恐ろしいものはないが、しかし、もはや制御不能の状態にある。何びとも止めることは出来ないだろう。

 やがて、金に奔走した金が、全世界を呑み込み、人間の愚かさを嘲笑うことになるかも知れない。
 あるいは、そうなるように世界の一握りのエリート層が、仕込んだのかも知れない。
 ユダヤの、国際ユダヤ金融資本の毒牙に搦め捕られ、このままワンワールドの新秩序に移行する現状が表出するかも知れない。もしそうだとすると、人工的に仕組まれたのだから、その惨状は、これまで予想して来た事象を、遥かに上回る現実が起こるであろう。

 これを歴史的に検ていけば、これから起こる事の筋書きが見えてくるだろう。
 第一次世界大戦は、自由貿易と金本位制という十九世紀の経済の基盤をも破壊した。これを復活させる試みは、欧州はもとより、米国においてもエリートたちの新たな失敗を招くことになった。また大恐慌は第二次世界大戦に向かう政治状況を作り出す大きな要因になり、その後には、第一次世界大戦が生み出した独裁国家と民主主義国家による冷戦が続くことになった。

 エリートの失敗が大変な惨事をもたらすことに、特に意外な感じはない。エリートと一般の国民との間には、一つの暗黙の契約が存在している。前者は権力と財産という特権や特典を手にし、後者はその見返りとして安全保障を。そして、現代においては適度な繁栄もなども手に入れるという契約だった。

 エリートは、失敗すればその座を追われる可能性がある。経済界、官僚機構、そして知識階層の失敗したエリートたちの交代は、不安を伴うのが常だ。しかし民主主義国家では、少なくとも政界のエリートの交代は迅速かつクリーンに行われる。一方の専制国家では、政界のエリートの交代はゆっくりと行われるのが普通だろうし、ほぼ常に流血の事態を伴う。
 これは遠い昔の話ではなく、今日でもこの通りだと言える。(本文より)

時事報談

終戦直後の日本の実情
 占領後の日本のマスコミは、昭和二十七年四月の独立回復後も、ユダヤ欧米の強いる廃止事項を執拗に繰り返し、自らが滅ぶ事に興じていったのである。そしてユダヤ欧米が仕組んだ霊的呪縛に掛り、だらだらと今日まできてしまったのである。

 また、マスメディアがかくもこのように売国行為を働き、日本人を操縦し、不能状態にしてしまったのは、小沢一郎や大前研一のような、一見してそれと解るペテン師を救世主のように持ち上げてしまったのである。
 昨今の日本では、欺瞞的権威が大手を振って日本国民の上にのさばっている。史の欺瞞的権威の最たるものが、朝日新聞でありNHKであり、また岩波書店である。この欺瞞的権威は、これまでにも多くの進歩的文化人を排出した。日本の国賊マスコミは米国ワシントンやロサンジェルスに駐在し、そこからの指令を受けて彼ら自身がユダヤ化され、マインド・コンロトールされてしまったのである。あたかも、先の大戦当時の、その中でも特に有名なのが、レイテ沖で敵前逃亡した第二艦隊司令長官の栗田健男海軍中将である。

 この提督は、イギリスのMI6Military Intelligence section 6/エムアイシックス、 軍情報部第六課)に吹き込まれてインスパイアされていたのである。
 栗田中将が戦艦「榛名」麾下艦隊を、謎の“北への反転”を命令を出した理由は、これで明確になろう。
 また、海軍上層部だけでなく陸軍上層部も、外国の思想に討ち取られてしまっていた。服部卓四郎、辻正信、瀬島龍三らの陸軍偕行社の連中だ。ユッタ衆に操られ、思想洗脳されたグループである。

 海軍がアメリカの思想に染められたなら、陸軍はソ連の思想に染められていた。否、軍のみならず、政界もソ連の思想に染められていた。
 終戦間際に、陸海軍や政府中枢が、「ソ連による和平仲介」という甘い幻想を抱いたのは、大正時代からのソ連の宣伝工作活動が相当に効いていたからであろう。白人スパイ組織の手口に、まんまと引っ掛かったのが、戦前の日本である。
 日本人はちょろい。

 海外から日本人は、このように検られている。融通の利かない生真面目さが仇になっている。
 そうした見方は、戦前からあった。そして海外の情報要員からすれば、一番ちょろいのは独断的正義を降り舞わず政治家か、軍人や官僚だった。
そしてこうした構造を作り出したのが、国際ユダヤと称する欧米の富豪と目されたユダヤ勢力だった。

 日本では幕末以来、マインド・コントロールされてきた。幕末期、アメリカに渡り、また同値に滞在し、そこで受けた日本人培養システムはフリーメーソン化するための成分培養であり、その毒牙に次々に絡めとられていった。

 爾来、深層部のアメリカの実態は日本では伝えられる事も無く、上辺だけの理想国家アメリカがあたかもユートピアのように宣伝された。その宣伝の結果日本人は、アメリカ=ユートピアという呪縛に掛かった。ユダヤ欧米の誘導により、その捏造に日本人はまんまと掛けられてしまったのである。
 それ以来の幻想が日本人の頭上をすっぽりと覆ってしなっているのである。この幻想に取り憑かれたのは日本国民ばかりではなかった。日本のジャーナリストも例外ではなかった。日本人ジャーナリストの中で、アメリカの実体を見極め、また真相を見つめ、日本民族にこれらのことを系統的に正しく伝えた「アメリカ問題」の専門家が、唯の一人でも居たであろうか。(本文より)


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