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西郷派大東流と武士道

■ 武術進化論 ■
(ぶじゅつしんかろん)

●雨降って地固まる

 日本人は近代において、人類史上では空前絶後の、大東亜戦争の受難の洗礼を受けた。
 本来戦争は、戦闘員だけが戦争戦争者として戦闘に参加していたが、第二次世界大戦になると、非戦闘員までその殺しの対象になり、多くの人命が失われた。あえてここで広島や長崎を持ち出す事はあるまい。その悲惨さと、非戦闘員が大量殺戮の意味で命を失った事は、歴史が語るところである。

 その結果、日本人には戦争を憎み、ひたすら平和を願う平和主義が日本人の頭上に飛来した。こうした気持ちは非常に貴い事であるが、一方において、自虐的な一億総懺悔に追い込んで、先の大戦の舞台裏の仕組を見逃す事は、広島・長崎の多くの犠牲者と、生贄の島になった沖縄県人に対して余りにも失礼であり、無念の思いで打ち沈む、その霊は決して浮かばれる事はない。

 問題は、大東亜戦争が何故蜂起されたかという事であり、この原因追求を見逃して、その責任が単に日本の軍国主義や大陸侵略にあるとする進歩的文化人の考え方は余りにも短見であり、近視眼的視野でしかないという事である。

 これを多角的に洞察すると、戦争の背後には必ず巨利を得、暴利を手にして、天文学的な金額を我が懐に転がり込ませる事が出来る者がいるということである。
 戦争の本質をそうしたところに向けない限り、本当の戦争責任は語る事は出来ない。

 一頃は、昭和天皇の戦争責任をめぐって世論やマスコミが沸騰した。
 一九八八年十二月、長崎の島本市長は「戦争の責任は総て天皇にある」という、天皇戦争責任発言をした。そして広島、長崎、沖縄などの大きな犠牲者が出た地域は非常に反戦感情が強い。
 戦後教育に、平和主義を逸速く導入したのはこう言う多くの犠牲者が出た地域だった。

 しかしである。こうした感情故に、先の大戦が蜂起された経緯を知らず、国軍という軍隊を組織せず、武器を遠避け、ヒステリックなシュプレヒコールの声を大にして、真の原因については探究する事なく、戦争責任のみが日本側にあり、当時の戦争指導者の頂点に大日本帝国憲法下の、陸海軍統帥権を持った昭和天皇が居たとする考え方は、多くの禍根を残す元凶となる。

 それは、大日本帝国憲法では天皇に巨大な権力を名目上与えながらも、何もさせず、その大権すら使用不能にした大きな矛盾が存在するからである。
 その結果、国家意識や国家戦略は一切存在せず、内実は行き当たりばったりの中国侵略に首までどっぷり浸かった泥沼戦争が、かの大陸で繰り返された。ひいてはこれが太平洋戦争へと発展していく。

 当時、日米開戦を踏み切る際、優柔不断な近衛内閣に対して昭和天皇は、 「四方の海みならはらからと思ふ世になど波風のたちさはぐらむ」という明治天皇の御製を示され、戦争よりは外交交渉によって打開策を探るよう指示された

 昭和十六年九月に至っても、日米関係の外交交渉は遅々として捗らず、その目途も立たないまま、内閣総理大臣近衛文麿は、アメリカ大統領ルーズベルトとの会談工作を図ったが、これも実る事なく、同月の十六日には総辞職して、第三次近衛内閣の後を承けて、東条英機が陸軍大臣を兼任して東条内閣組閣の大命が下りた。

 そして十八日に組閣した東条首相には、天皇から、「九月六日の御前会議の決定にとられる事なく、内外の情勢を更に深く検討し、慎重なる考究を加ふる事を要す」との御諚(ごじょう/お言葉)を賜わった。

 これによって東条内閣は、十月一日から二日にかけて延々十七時間にも及ぶ、白熱の討議を行った。この討議結果は、交渉期限を十一月三十日までとし、戦争決意を以て作戦準備を遂行し、これと平行しつつ、外交交渉も継続するという妥結に努力する旨を決定した。

 しかしアメリカ国務長官コーデル・ハルの突きつけた最後通牒であるハル・ノートの取扱をめぐって日本側は困窮した。当時の日本政府首脳には、ルーズベルトの思惑を見抜けず、またアメリカ人の構造分析に疎かった為である。ここに日本人政治家の外交音痴と戦略的思考の欠如がある。

 しかし当時の日本は、最大限に和平交渉に努力した。しかし水面下で行われていたルーズベルトの意図が見抜けなかった。
 ルーズベルトは国際金融資本に操られ、三選を約束されたフリーメーソンの三十三位階の高級メンバーであり、その取り巻きの代理人の蒋介石や張学良、米国務長官ハル、英首相チャーチルらのシナリオによって、日本を全面戦争に引きずり込む事を目論んでいた。

 またルーズベルトはフリーメーソンであり、フリーメーソン日本支社の日本海軍水行社(表向きは海軍士官の社交場に見せかけた友愛団体)の高級メンバーであった連合艦隊司令長官・山本五十六に働きかけ、真珠湾を叩くよう依頼し、また、日本海軍は一年も前から航空機で真珠湾攻撃をする作戦研究に入り、猛練習を積み重ね、事前にこの事は知らされていた。これはユダヤの国際金融資本である世界支配層が指令した指示であった。
 これを受けてルーズベルトは真珠湾に空母を除く、アリゾナなどのスクラップ同然の旧式艦を湾内に停泊させた。

 多くの日本人が大きな誤解を起こす事柄は、二度と戦争はご免だとする感情や平和愛好の意識と、戦争責任は別々のものであるという事を混同させていることである。

 したがってこれを冷静に洞察すれば、日本国と日本海軍によって徹底的に加えられたアメリカへの容赦の無い攻撃は、これが激しければ激しいほど、苛酷であれば苛酷であるほど、アメリカ国民はこれに応呼して燃え上がり、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉にして立ち上がり、一方こうした気持ちがまた、完膚なきまでの日本憎悪に反映して、徹底した日本叩きが行われ、それを如実に物語ったものが一般市民などの非戦闘員を巻き込んだ沖縄戦であり、また広島・長崎への原爆投下であった。

 これが極めて悲惨であり、苛酷であればあるほど、戦後の日本は反戦気運に盛り上がり、ついには心理的には、自虐的清算に発展するのである。
 日本人が軍隊を放棄し、戦争を放棄して、一億総懺悔の心境に至るのは、こうしたアメリカの徹底的な、苛酷な戦争が日本人を反戦一色に染め、ただ感情的に多大な犠牲者を出した戦争責任論へと転化されているのである。

 日本の太平洋戦争敗北の要因はハル・ノートの取り扱いの間違いから起こっている
 また元凶は日本人政治家の外交音痴に由来する。
 当時の外交官僚や政治家達が、この取り扱いを間違わねば太平洋戦争は回避された筈である。ではどうすればよかったか。

 まず、日本政府はハル・ノートを全面的に受諾すればよかったのである。その際の条件として、A(米)・B(英)・C(中)・D(蘭)包囲網の経済封鎖を直ちに解除させるという交換条件をつけ、一九四〇年に撤廃した通商航海条約を復活すれば事はスムーズに運んだ筈である。

 通商航海条約とは、二国間において、通商・航海に関する事項およびこれに付随する入国、居住、領事の交換などの事項を規定した条約である。

 ハル・ノートの要点は「日本軍の中国大陸からの全面撤退」であった。
 しかしその期日は何処にも記されていない。ここに焦点をあわせて、次に協議に入り、中国全土では百万からの大軍が戦闘状態に入っている。こうした事実を楯に取りつつ、短期撤退は不可能であるという条件をつけ、仮に撤退を承諾してもこれは人的作業の面から複雑を極め、その協議には膨大な時間がかかる。ここが引き伸ばし工作の可能なところで、ハル・ノートはあくまで日米間の取り決めであり、日中関係には拘束する権限が無かったのだ。

 そして日中間に具体的な取り決めが無い以上、日本軍は撤退する理由もなく、仮にハル・ノートを受諾しても、当時の日本には何の不都合もなかったのである。そしてここで認識しなければならない事は、当時日本と戦った中国とは、今日の共産党一党独裁の中華人民共和国でなく、蒋介石政府の中華民国であった事だ。中国共産党・八路軍が優勢になるのは大戦末期のことであり、毛沢東は日本軍と中華民国政府軍を鉢合せにして、戦わせる事で漁夫の利を得ただけのことであった。

 日中戦争において、その受け止められ方はいろいろとある。
 ある学者は支那事変を「日本による内政干渉」と見る者もいるであろうし、あるいは大陸進出論者は「阿片戦争以来、欧米の侵略に対して、腑甲斐ない中国を叱るために大東亜共栄圏構想が生まれた」とする学者もいる。どちらも各々に言い分があり、的を捉えているかのような錯覚を抱くが、当時の中国(蒋介石政府)は、今日に日本のように、「アメリカ追随型思考」で物を考えるような酷似した構図があり、蒋介石は事実、「英米の下僕になりたがる様な蒋介石政府の中華民国があった」ことは事実である。

 当時の蒋介石の中華民国政府は独立の何たるかを知らず、米英を追随する事で我が身の保身を図ろうとしたユダヤ・フリーメーソンの高級メンバーであり、国際ユダヤ勢力のエージェントであった。

 もし、蒋介石に中国人民を思う確固たる信念があり、英米追従政策を取らず、日本軍と戦わず、当時産声を上げたばかりの中共軍と戦っていたら、あるいは台湾に逃亡する事もなく、大中国がその中華思想と共にその頭上に輝いたかもしれない。

 さて、戦争に正義など存在しない。聖戦などというのは、その主体が人殺しである以上、何処にも存在しないのだ。あるのは双方の言い分の美化合戦だけである。

 戦争は国家レベルでの利害が対立し、その解決手段として武力行使が行われるのであって、この場合、両国間に正義も悪も同時に存在するのである。そして敗戦国は責任が取らされ、戦勝国は自国の理論を押し付けるだけである。

 戦争に敗れたという事は、それだけ多くの教訓を学んだという事であり、その教訓から、自分の反省すべき点を顧みて、それを生かしてこそ、教訓が教訓になりうる事であり、自虐的な立場に自らを追い込んで、某かの意図に誘導されて一億総懺悔したところで、輝かしい未来は何処にも見えてこないのである。

 われわれ日本人は、殉教の為に十字架に掛けられたイエス・キリストを知り、武士道を貫いた幕末の偉人、吉田松陰を知っている。

 イエス・キリストは三十余歳にして、ユダヤ教の信仰上の反逆者として十字架に掛けられ、悶絶しつつ命を落とした。
 しかし十字架上の死が、キリスト教の誕生を促し、瞬く間にヨーロッパ全土に布教した。

 もしイエスが死せず、白髪を頂いて老齢期まで長寿を保っていたら、あるいは殉教死などとは程遠く、平凡な死を迎えていたら、イスラエルの一人のラビとして有名を馳せたかもしれないが、今日のように世界の人々の心の中に生きる事は出来なかった筈だ。殉教者としてその死が壮絶であったればこそ、イエスは鮮やかに蘇ったのである。

 イエスの、十字架上の張り付けという苦痛にさまよった殉教死は、人々の心の中で見事に復活を遂げた。

 またイエス同様、吉田松陰は討幕運動の殉教者として、自らそれを選択していなかったら、果たして幕府は、自ら墓穴を掘る結果になったであろうか。

 松陰の殉教者に徹した、一貫した信念によって、江戸幕府は自ら墓穴を掘り、討幕に拍車を掛けたのであった。それは古今東西に見る専制政治の末路に繋がる現象を如実に表わしたもので、松陰の刑死は、維新史の転機として位置付けられる、貴重な歴史的事件であったのである。

●近代武術の真髄に置かれた「一粒の麦」の思想

 さて、人の死は、これでその人がこの世から居なくなる事ではない。人の死は、その人が「空」に至りて、寔(まこと)の生命の永遠に目覚めて、燦然(さんぜん)たる新たな一景を描く事にある。

 『ヨハネ伝』(第十二章24〜25)にはこのようにある。
 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの実を結ぶべし。己が生命を愛する者は、これを失い、この世にてその生命を憎む者は、これを保ちて、永遠の生命に至るべし」と。

 この事は、寔に生き抜いた人はその死によって、広く、高く、燦然と生き続け、逆に生を全うせず、その寔をなし得なかった者は、また、その死も、真当(ほんとう)の死ではないと言っているのだ。

 だから永遠の生命(いのち)は、その日暮らしの、今日出来なかった事を、明日の希望的観測に託す、先送り理論の信奉者には約束されないのである。果たして、人間にとって明日は存在するのか。明日という日がやってくるのを確信できるのか。
 確信でき、実感できるのは「今」というこの瞬間ではないか。この「今」を蔑ろにして、明日は永遠に訪れる事がない。

 今日はまたと巡ってこない大切な「今」なのだ。昨日は過ぎ去った今日であり、明日は近づきつつある今日である。今日以外に人生は存在しない。人の一生は今日の連続なのだ。

 さて、人間最大の欲望は、貧富の隔たりなく、生命欲であろう。死にたくないという、生への執着であろう。
 では人間は何故生に固執するのか。それは現世との断絶に、死に対する限りない悲痛の妄想を抱くからだ。

 したがって死生観を克服できない愚者は、これを、生を以て生き延びようとし、人生最大に悲痛を生に委ねて、未練がましく、それでも生に執着する。そして今日、生への未練を捨て切れない哀れな輩(やから)の何と多いことか。

 人間の死は、生まれたときに約束されていた筈ではなかったか。

 それなのに、何故その約束を破って死生観を解決せず、生に止まろうとするのか。
 かくして「死の超剋」は無慙(むざん)に破壊され、哀れな、ただ死を待つばかりの老人に成り下がる。
 死の超剋。これこそ自分の人生においての最大の一大事ではないか。今まで、これに向かって多くの人間の努力が払われたではないか。
 その結末が、その開化結実が宗教ではなかったか。

 人間は、死を前にして、宗教を信仰する事にのみ、生への執着を断ち切る事に済(すく)いを求めた。
 しかし果たして、イエスは、自分が十字架に掛けられ、悶絶と共に死なんとするとき、その救いをユダヤ教に求めたであろうか。

 否、イエスはユダヤ教に済いを求めるより、我を十字架に掛けるその罪多き、ユダヤ人の罪を天の父に祈り、彼等に対し、救済を乞うたではなかったか。この事が実は、イエスの教えを世界に流布したのではなかったか。

 イエスの殉教者としての死は、世界を震憾させ、その後も衰える事なく、人々の心の中で永遠に生き続けたではないか。

 この事はキリスト教の、創世記の「予定説」にも告げられており、「神は、予め、救われる人とそうでない人を選んだ」としている。これから察すると、神は平等に善人だけを選ぶのではなく、始めから選ばれているというのが、この「予定説」であり、明治初期の敬虔なクリスチャンであった偉大なキリスト者の内村鑑三ですら、この「予定説」には難解を示し、彼自身、この問題について答えが出せずに苦悶したのであった。

 しかしこの難解と思える「予定説」も、「一粒の麦」になり得れば、永遠の命が授かるのである。

●近代武術と深く関わった死生観

 古人は「死に方」を重んじた。立派な死に方をしたいと念願した。それは何故か。
 それは小事に対して、末(すえ)を乱す人は、大事に終りを全うできないからである。その為に悲惨な死に方をするのだ。

 立派な死に方をするには、正しき生きた人でなければ出来る事ではない。まして、生きて居る間は楽を得る事はなかったが、せめて死んだ後に楽を得ようというような、死して後の極楽浄土を祈念する輩や、自殺願望者の死は、決して美しい死に態(ざま)ではないと断言できる。

 美しい死に方の出来る人、見事な死に方の出来る人は、「今、この一瞬」という、「今」という瞬間に真剣勝負で取り組み、そして見事に一生を大切にして生き抜いた人である。

 武士道とは、一般に思われているように「死をイメージ」する類に扱われているが、実は「見事に一生を貫く秘法」を、求道者(ぐどうしゃ)となって求道する事であり、ここに何年生きたか、何十年生きたかの年齢の差は問題ではない。

 大自然には四季が存在する。そして人間の一生にも四季(四期)が存在する。大自然の四季である春・夏・秋・冬に準えて、人間にも生・老・病・死の四期がある。

 吉田松陰はこの四期に題してこう答えている。
 「今日死を決するの安心は四時(四季)の順環(循環)に於て得る所有り」と。
 つまり松陰は、穀物の狩獲に喩(たと)えて死生観を説いているのである。

 古来よりの日本の農事を見るにつけ、春に種まきをし、夏に苗を植え、秋に刈り入れをして収穫し、冬(冬とは「殖ゆる」の意)にその穀物を貯蔵するという循環である。秋冬に至れば、農民がこれまで汗を流し、穀物の成長を育み、その働いた成果として収穫という歓喜が訪れ、米から酒を作り、あるいは甘酒を作って、農村は歓喜に充ち溢れる。

 松陰は死を目前にして収穫の秋を迎え、三十年の人生を顧みる。

 「私は今年で三十歳になった。そしてまだ一事の成功を見る事もなく死んで行こうとしている。これを穀物の四季に喩えるならば、穀物は花を付けず、また実る事も知らないで死んで行くのと同じだ。これに於ては非常に残念ではあるが、しかし私自身の身の上について言うならば、『今』が花を付け、結実の秋(とき)なのだ。したがって何を悲しむ必要があろう。何故ならば、人の寿命というものは天命によって定まっているからである。穀物のように毎年繰り返し、四季を巡る必要はないのである。

 喩えば天命によって定められた人間の四期は、もしその人が、十歳で死ぬならば十歳の四季が存在し、二十歳で死ぬ運命にある者は二十歳の四季がある。三十歳、四十歳、五十歳に至っても同様である。また百歳は百歳の四季が存在する。十歳で死ぬのが短すぎるというのは時空に囚われての事であり、また百歳で長いと見るのも、やはり時空に囚われての事である。

 しかし百歳の寿命を天から授かりながら、八十歳で死ぬのは『早死』であり、この人は花を付け、結実の秋を迎えずに死んだ事になる。こうした死は寔に恐ろしく、苦悩に満ちたものに違いない。
 ところが私は今年三十歳を迎え、四季は一巡して、すっかり整っている。花も付け、結実も果たした。だが、その結んだ実が、単なるモミガラなのか、粟(あわ)なのか、あるいは麦なのかは、私の知るところでない」

 松陰の死は、まさに「一粒の麦」であり、三十年の人生で結んだ実はモミガラなどではなく、『ヨハネ伝、第十二章24〜25』に出てくる、見事な「一粒の麦」であり、この事は歴史が後世の証明している。

 松陰の貫き通した信念の武士道とは即ち、「一粒の麦」であり、万人に奉仕の限りを尽くして人に歓喜を与え、己の人生を完全燃焼させて、受難者像を確立する事で、生前の力強く生き抜いた証(あかし)が、後世の人々に強い説得力を与えるものなのである。

 松陰の死に対する最初の感情は、死を恐れるというものではなかった。死は超剋する対象ではあるけれど、さして恐れる対象ではなく、知性と意識力で簡単に克服できる玄妙な生命現象であった。

 多くの常人・凡夫は、死を以て生の終わりとし、死を以て人生一切の成果がかかっているように想像する。しかし死は、実質上の生の終焉ではない
 現世で言う、生とは「生きている」という形をとる事のみにおいて、生が継続されているかのような錯覚を抱く。したがってこの形には、成長が存在せず、変化が存在しない。
 しかしこの世で感ずる事象現象は、変化であり、万物は流転するという事実だ。

 その時間と共に変化し、朽ち果てる現世の現われは、反面恐怖心を人間に与えて、隠れた玄幽なる世界を閉じ込め、無形常住である事実を隠蔽し、不変なる一面を「形にこだわる人間」へと移行させる。

 したがって人間の本質が見えぬ、死の世界が見えぬといった、有限という、無限を無限たらしめる「あや」(物の面に表れたさまざまの線や形の模様)に過ぎない事を見落としているのである。つまり見せ掛けの薫(かおり)を生と観(かん)じ、見せ掛けの形を生と観じるまでの事である。

 しかし生という実態は、実は無に立脚した有であり、空に即した色なのだ。
 この事から察すれば、人間の死は、真当は死んでいるのではなく、仮に死んだように見える「居なくなった現象」なのである。

 勿論この場合、肉体は形を失う。こうした可視現象の寄せ集めは、一端、土に返り、水に戻り、地上の様々な元素に還元される。これは形が、形という「縛り」から解放されて、時間からも解放されて、もとあった世界に回帰されるだけの事である。

 これは寄合を行って、会合をしている各々が、時間が来たので、ここで解散するという現象であり、単に解散が一見常人・凡夫を翻弄し、居なくなったように見えるだけの事である。
 こうした事を松陰は神佛に祈るのではなく、死を超剋する事によって死生観まで到達したのである。

 松陰は四期に準えて、「私は三十歳、四期は既に終わっている。花も咲き、三十歳の実を結んだ。ただ、その実が単なるモミガラなのか、粟であるかは私の知るところでない」と結び、「私の真心に憐れみをかけて欲しい」と告げ、その種子は松下村塾塾生によって見事に志となって受け継がれ、明治維新への原動力となった。

 かつて門弟の高杉晋作に教えた「死して不朽の見込みあらば、いつにても死すべし」という松陰の死生観はついに不朽の死と遂げた。それは殺されるという刑死を一身に受ける事で、独特の受難像を作り上げ、彼の生前の雄叫びは強い説得力を付加した。

 こう言う意味で、松陰が三十歳で結んだ実は、決してモミガラなどではなく、見事な「一粒の麦」であった。

 これは松陰の山鹿流兵法が、松陰の刑死という形を辿って、見事に進化を遂げ、単に斬り合い、殺し合いの武技論を展開させるのではなく、武技の行使以外の行動を以て、世に武士道の勇をアピールした崇高な「最期」ではなかったのだろうか。

 ここに近代武術の進化の跡を見る事が出来る。


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