■ 武術進化論 ■
(ぶじゅつしんかろん)
●近代武術論
スポーツ武道やスポーツ格闘技は、試合を行いそれを多くの観客に観戦させる事で興行収益を得る仕組になっている。
金を払った観客を退屈させたり、試合展開が遅かったり、あるいは早かったりすれば観客離れが起こる。こうした興行収入に響く事を懸念して、相撲の世界では江戸時代中期、「土俵」と言うものを発明し、「四十八手」の、素人でも分かるシステムとルールが開発された。
これに習って、昨今では格闘技の様々なプロモーターが出現し、弱肉強食論が格闘技の世界で持て囃されている。
この弱肉強食論によれば、勝者は英雄であり、この論理に従えば、弱い者が強い者の餌食(えじき)となり、弱者の犠牲の上に強者が栄える事を指す。
そしてこれは勝者が英雄視され、タレント同様に扱われて有頂天に舞い上がる世界が、同時にそこには存在するのである。スポーツ新聞に自分の名前と写真が掲載されるから肉体を酷使して頑張るのであり、テレビのスポーツニュースに自分の格闘の様子が放映されるから闘うのである。試合に参加する目的は勝つ為であり、相手より多く叩けばいい、突けばいい、蹴ればいいと、こうした、手の遅き者を、手の早き者が下すところに勝者の理屈がある。プロ・スポーツは総てそうであり、野球でも、相撲でも、サッカーでも、プロボクシングでも、プロレスでも、K1でも、みな勝って英雄になる為の売名行為であり、大勢からちやほやされて、タレント視される事が目的なのだ。
勝った者だけが英雄。これは近代オリンピックに見られる。
オリンピックは、古代ギリシア人がオリンピア祭に催した運動、詩(うた)、音楽などの優劣を競い合った競技で、紀元前776年から紀元393年まで催され、四年ごとに開催された競技大会で、この当時のものを古代オリンピックという。
また1894年に、フランス人教育家のクーベルタン(Pierre de Coubertin/男爵。フランス系ユダヤ人。1863〜1937)が国際オリンピック委員会(IOC)を組織し、後に会長となった。
96年アテネに第一回オリンピックを開催し、のち同会の終身名誉会長となった。以後四年目ごとに行う国際的スポーツ競技大会となり、1924年以降、別に冬季競技も行われるようになった。この国際オリンピック大会を総称して、近代オリンピックと呼ぶのである。
「オリンピックはスポーツの祭典。参加する事に意義がある」という。しかし「参加する」とは、背後に政治目的と、これに絡む大きな利権が存在し、裏では国際ユダヤ金融資本がその背後を操っている。
金メダルの獲得数がその国家の国力そのものを表わし、数が多いほどその国家は大国となる。
したがってこれに参加する選手は、国家の威信に賭けて奮闘し、何が何でも「勝たねばならぬ」という意識を持つ。金メダルが首に掛けられた瞬間からその選手は、国家の英雄となる。
所謂これが西洋スポーツ理論である。したがって人格や人間性は一切問題にされず、試合の勝者のみが英雄視されるのである。
では人格や人間性が問題にされず、何が何でも勝たなければという意識が先行した場合、どうなるか。
何が何でも……という意識を抱いた場合、ルールすれすれの事が罷り通るようになる。所謂、駆け引きであり、こうした遣り取りにおいて、復讐擬いの遺恨戦が展開される。
人類の有史以来の歴史の足跡は、人間の欲望である。勝者という支配者と、敗者という被支配者に分けられる。勝者はその地位を保ち続ける事で、その欲望を他の誰よりも満足させる事が出来る。有頂天に舞い上がり、ちやほやされる事の独占である。
一方、敗者はその立場を逆転させる事に執念を燃やす。そしてその原動力も、やはり欲望である。かくて両者は取りつ取られつの遺恨戦を繰り広げる事になる。
勝つ事、あるいは勝ちを目指して格闘を演ずる事は、そこに格闘技の進化が生ずるという一論があるが、しかしこうした事は復讐を招くばかりで、以降、遺恨戦が展開される。そしてこれこそ、まさに愚行ではないか。
さて、近代兵法学の基礎を築いたカール・クラウゼヴィッツ(1780〜1831)は、その著書『戦争論』の中で、「政治は軍事に優先する事」と述べている。これを単刀直入に述べれば、「戦争は政治目的を達成するために行うのであるから、目的をはっきりする為に目標を定め、目的が達成されたら、速やかに引き揚げるべし」と記しているのである。
この事から何が窺われるか。即ち、カール・クラウゼヴィッツは「敵に遺恨を残すな」「勝利しても相手国が恨みを残したら復讐戦争が再発する」と念を押しているのである。
われわれはこの復讐戦争を、近代史の中で見る事が出来る。
それは喩えば第一次世界大戦後の「ベルサイユ条約」である。このベルサイユ条約はドイツの苛酷を強いた。この苛酷な体制からヒトラーが登場した事は絶対に否定できない。
また戦国期の戦略的な武将として知られた武田信玄は、常に「六分の勝ち」を徹底した。十のうち、六分の勝ちだけを収めて、勝てば直ぐさま退却するのである。こうする事によって、相手に復讐心を起こさせない。
われわれ日本人は先の大戦で、数え切れないくらいの教訓を授かった。その教訓の中でも、差し詰め「東京裁判」は日本人にとって大きな教訓ではなかったか。
●敗戦国が戦勝国の軍門に降った東京裁判
あの、勝者は敗者を裁くという愚行……。
これが近代史に名だたる「東京裁判」である。正式には極東国際軍事裁判といい、東京裁判は通称である。
さて、東京裁判によって作り出された「A級戦犯」とはどんなものだったか。
もし、太平洋を隔てたこの戦争で、勝者と敗者が逆転していたらどうなったろうか。
立場を変えて、日本が英・米・ソ・中を裁く、模擬裁判を遣って見れば一目瞭然である。
当時、植民地化された国々から検事を出し、日本主導型で裁判が行われた場合、これを「ワシントン裁判」あるいは「モスクワ裁判」と称して審理がされた事であろう。
東京裁判では、満州事変以降の歴史が公判審理の対象にされたのであるから、ワシントン裁判では米西戦争(フィリピンと太平洋諸島)以後のアメリカの侵略の事が審議されることになる。アメリカはこの侵略で何を行ったか。
自国の船であるメイン号を自分の手で爆沈しておいて、スペインの仕業だと宣伝し、「メイン号を忘れるな」というスローガンをデッチ上、その隙にフィリピンと太平洋諸島を一挙に占領したではなかったか。
また一九二一年のワシントン会議では、日本に対して保有艦数を5・5・3に割り当てて、日本の軍事力を抑えにかかったではなかったか。
そして支那事変が勃発すると、フリーメーソンの高級メンバーであった中華民国政府の蒋介石に直ぐさま支援を行い、アジアの撹乱を目論んだではなかったか。その上、A・B・C・D包囲網を作り上げ、日本に対して石油やその他に資源の輸入を封鎖したではなかったか。
太平洋を挟んだ日米戦においては、捕虜となった日本兵や軍属、あるいは一般民間人を大量殺戮したではなかったか。
そして最も卑劣なのは、広島と長崎に人類初の原子爆弾を投下し、民間人や婦女子を含む多くの人間の大量殺戮を行ったではなかったか。これは人道に対する大罪ではないのか。
彼等の行った蛮行を、東京裁判方式で公判審理すれば次の通りになる。
一、アジアを撹乱し、真珠湾攻撃を嗾(けし)かけ、自らの権益を拡大保持せんとして共同某議を図った「平和に対する犯罪」である。
二、原爆による無差別攻撃は戦争法規に大きく違反し、また非戦闘員に加えられた殺人は「人道に対する犯罪」である。
三、日本本土ににおいて大空襲を計画し、東京・名古屋・福岡の大都市を焦土と化し、大量殺戮と奴隷的虐待を行った「非人道的犯罪」である。
と以上のようになり、A・B・C級の戦争犯罪人を大別すると、差し詰めルーズベルトは戦争を仕掛けた開戦犯罪者で罪状は「超A級戦犯」、東京都内引き回しの上、獄門張り付け。トルーマンは原爆投下を命じた罪で罪状は「超A級戦犯」、東京都内引き回しの上、獄門張り付け。
国務長官のコーデル・ハルは宣戦布告の突きつけた罪で「A級戦犯」、獄門張り付け。また日本本土爆撃に当たって無差別攻撃を強行したカーチス・ルメー少将は「A級戦犯」で獄門張り付け。
蒋介石を支援したクレア・シェンノート少将も同罪の「A級戦犯」で獄門張り付け。
またソビエトの蛮行を裁く「モスクワ裁判」では、まずスターリンが「超A級戦犯」に挙げられ、「A級戦犯」では満洲、樺太、北方四島を大侵略した極東司令官のワシレフスキー元帥が挙げられる。
そしてソビエトの民間人への銃撃や射殺、婦女暴行などの蛮行は目に余るものがあり、火事場泥棒も同然であった。満洲の曠野や、北朝鮮、樺太では四十万人を越える婦女子が命を落としたのである。
また戦後は、ポツダム宣言に違反して六十万人の日本軍将兵が捕虜になり、シベリアに抑留されて苛酷な強制労働に従事し、更には旧満洲、北朝鮮の日本人の工場などから設備や家財の六割を強奪した。勝者は敗者を徹底的に服従させるのである。
こうした勝者が敗者を裁く非常識は、単に笑い話だけではすまされず、敗者を熱(いき)り立たせ、間違いなく遺恨が生まれて復讐戦争に発展するものである。
しかし多くの日本人は、勝敗の行方だけではなく、勝敗が決した後の、軍事裁判の結果も厳粛に受け止め、その判決をそのまま信じ込んだり、逆に自虐的になって歴史を螺子曲げ、後世の子孫に歪曲した近代史を与えようとしているのである。
●低次元な殺人鬼を英雄と崇める弱肉強食論
日本では、最大の剣豪といえば誰もが宮本武蔵を想像する。
しかし武蔵の足跡を探ると、常に真剣勝負を通じて殺戮を繰り返し、武芸者としては一流であったかもしれないが、武士としての立派な面は何処にも存在しない。
つまり「人殺し」の側面ばかりが大きく露出し、ただ人殺し兵法に明け暮れ、その人殺しにおいて、人を殺すのにはどうしたら簡単に、大量に殺せるか、ということを纏め上げたものが『五輪書』であり、ただ多くの真剣勝負を通じて、人殺しだけに我が生涯を賭けたといえよう。
武蔵の生涯を、骨董品的価値観で、白兵戦的に狭義の立場から凝視すれば、確かにそこには武芸者としての人殺しの側面は一流であったが、武士道を本懐とする武士としての、広義的な立場から見た場合、必ずしも一流であったとは言い難い。一言で言えば、常に殺し合いに明け暮れる殺人鬼でしか過ぎなかった。
武蔵が精神的変貌によって、変化しはじめるのは佐々木小次郎との「巌流島の決闘」以降の事である。これ以降の僅かな余生においてのみ、武蔵は「一切の迷いを捨て去った心境こそ、兵法の真髄」と気付く。そして同時に、人間としての最大限の修練を積む事において、はじめて人知を超越する、「空」の境地に至る事を知る。
つまり武芸者とて、武芸者である前に、まずは「人間である」と言う事に気付くのである。
武蔵の悟った「空」とは、心に善のみが存在して、悪は存在しないという「人間」を媒介して、兵法の智慧が生まれ、兵法の道理が生まれ、兵法の精神が生まれるものである、という境地に到達するのである。
武蔵のこうした境地は「人殺し」を極め尽くした「武芸格闘」から、心に「空」を齎してこそ、そこには一切の雑念が拭い去られ、そして敵に対して「備え」が備わり、「負けない境地」に至るという武芸武術の進化を見たに過ぎなかった。
しかし既に時遅しであり、野蛮と蛮行と人殺しを繰り返した後の武蔵の死に態(ざま)は必ずしも後味の良いものではなかった。したがって吉川英治の描く、宮本武蔵的大衆チャンバラ時代小説『宮本武蔵』は、単に大衆的日本人の代行的優越感の満足のみに終始し、痛快度と満足度は潤す事が出来ても、剣術的哲学の真髄には程遠いものがある。これは時代錯誤か、あるいは骨董品的武芸において、狭義の「勝ち」だけを扱ったものである。
また大東流中興の祖として名高い武田惣角の達人的偉業は、津本陽の小説『鬼の冠』にも書かれ、その超人的な武勇伝は多くの大東流愛好者の憧れの的となった。
今でも「惣角神話」を信奉する愛好者は少なくない。至る所に、「小が大を倒す」痛快場面が存在し、福島県白川の宿では武士崩れの人足と口争いの、些細(ささい)な事で喧嘩し、日本刀を抜いて斬り合いをした。
八光流柔術の初代宗家・奥山龍峰(惣角の講習会での門人)著の『奥山龍峰旅日記』には、この白川での出来事が克明に書かれ「惣角、斬るに斬ったり三十六人」と書かれている。この時に三人が死亡している。これは惣角にとって武蔵同様、後味のよいわけはなく、その子孫には人殺しの血が流れている事になる。
この事件に、元会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が特別弁護人として法廷に出廷し、容保の嘆願で、惣角は死刑だけは免れたが、やがて長い刑期も終えず、直ぐに出てきて諸国を放浪している。そうした惣角の時代遅れの生き方(表面上の武士を気取り、大小二本を帯刀して武者修行する態)を憂えた元会津藩家老・西郷頼母は、霊山神社宮司の時代(明治三十一年)、諸国武者修行の途上に同社を訪ねた惣角に対し、「しるや人、川の流れを打てばとて、水に跡あるがものならなくに」の和歌の一首を与え、「直心影流(小野派一刀流忠也派とも)の剣術の時代は焉(おわ)った。剣を捨てて柔術(無手・無刀)で身を立てよ」と示唆したのである。
そして源家伝説やこの伝説から発する清和天皇伝説を架空に書き添え、新羅三郎義光を祖とする武田家伝説まで墨書きし、女郎蜘蛛が巧みに虫を捉える態(さま)を模して、合気術とし、これを「大東流柔術と名乗れ」と指示したのであった。
したがって惣角は頼母との約束を生涯破ることはなく、大東流宗家とか、家元のような長としての役職は名乗らず、一等下がって「大東流柔術総務長」とか「本部長」を自称していたのである。
惣角は連戦連勝であったと、大東流愛好者の中では信じられている。しかし負けた事は書かれず、勝った事だけが書かれている為である。
勝者にはこうした一面があり、「絶対に負けない境地を会得した者」と、負ける事を嫌って、教訓から何も得ず、勝ち続けた者との差は、こうした人間修行、人生修行の側面に如実に現われるのである。それは武器を持って、命の遣り取りをする世界も同様だ。
先祖血縁者のやった事は、必ずコピーされて何代目かに再び人殺しをやるものが出るものだ。
惣角は、こうした血縁因果の法則に気付かなかった為、ヤクザの丸茂組との対決において、以降も何人か人殺しをしている。勿論、正統防衛として事件は処理されているが……。
われわれは、まず殺人鬼的武芸者である前に、人間でありたい。
仮に受難に遭遇し、その難を回避するために使った武技が正統防衛であったとしても、人の命に止めを刺す事は、何が何でも避けなければならない。人間である以上、相手がヤクザでも……。
その為には正しい見識をもって人間社会を凝視する必要がある。
人間である以上、人生という実践の道を通じて、一芸だけではなく、広く多芸に触れ、「人間」という現象面に現われる社会構造と、また不可視現象である「勘」の世界の霊的神性を研ぎ澄まして、目に見えない部分の深層部を感知する感覚を養いたいものである。
さて、幕末の剣聖と謳われた山岡鉄舟は、一刀流の奥儀を極めた達人であったが、後に無刀流を編み出し、一刀正伝無刀流の開祖となった。
鉄舟の著書『無刀流剣術大意』によれば、「無刀とは何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対するとき、刀によらずして心を以て心を打つ、これを無刀と謂ふ」と書き記している。そして鉄舟は殺伐な幕末期に生きながら、唯の一人の人間も斬った事が無かったのである。
この点は、惣角と同時代を生きながらも、雲泥の差があるのではあるまいか。
鉄舟の思想は、剣が争いの為に用いられてはならないとしたのである。
即ち、これこそが剣術が進化した形であり、北辰一刀流の千葉周作が考えた、剣術の大衆化の為に、あるいは安全の為に防具を考案し、剣の変わりに竹刀を持たせて、今日の剣道の原形を創った大衆剣術とは大いに異なる。
前者は剣を捨てる事によって剣術は進化すると唱え、後者は剣を竹刀に置き換えて大衆化する事で剣術は進化するとしている。しかし後者の考え方は、剣が竹刀に変わっただけであり、結論においては日本刀を竹刀に持ち代えて、模擬真剣勝負を競うだけの事だ。
この競技は、ある程度の基礎が身に着けば、誰が行ってもスポーツとして剣道は楽しむ事が出来るが、決して剣の進化した姿とは言い難い。
そして今や、剣道はスポーツ剣道に成り下がり、オリンピック種目に取り入れられようとする剣道の実態は、その勝抜戦で頂点に至った者を英雄とする考え方から未だに解脱していない。常に闘いの輪廻の輪の中にあり、単に奢る、十六世紀の乱世の武芸に逆も取りさせただけではなかったか。それは剣道選手が、相手を打ち負かしたときの試合場内を一回りするガッツポーズに現われている。 |