■ 吉田松陰について ■
(よしだしょういんについて)
●吉田松陰について
イオンド大学教授 哲学博士 曽川和翁
吉田松陰は安政六年(1859)十月二十七日朝、評定所への呼出があり、松陰はもとより覚悟していた死刑が宣告された。
断罪書(罪状書)を読むと、「……公儀を憚(はばか)らざる不適の至り、殊に右体蟄居(みぎていちっきょ)中の身分、梅田源次郎への面会等いたす段、旁々(かたがた)不届に付き死罪申し付くる」となっている。
意外な判決であった。
しかし不服に猛然と反抗する松陰は、口角(こうかく)泡(あわ)を飛ばす態度より一変する。己の、あるが儘(まま)に受け入れたのだ。
そして松陰の選んだ道は殉教者であった。
門弟・高杉晋作に、「男子はどこで死ぬるべきですか」と、男子の本懐(ほんかい)を問われた際、松陰は直ぐに確答できなかったことがあった。
しかし「不朽の見込み」があるならば、という条件付きで、その答えを手繰(たぐ)り寄せる。
そして至った結論はこうであった。
「死は恐れるものではない。また憎むものでもない。生きて大業(たいぎょう)を為(な)す見込みがあるのなら、いつまでも生きたら宜しかろう。死して不朽の見込みがあるのなら、いつどこで死んでも宜しい。要するに、死を度外視して、為すべき事が大事である」と説く。
以降、こうした死に態(ざま)の示唆(しさ)は、高杉にとって、大きな運命を決する方向性を与えた。
「潔(いさぎよ)く死ぬ」という武士道観に加えて、単に死ぬ事だけが美学とするこれまでの武士の固定観念は、「犬死」を避けて、「不朽の見込み」のある場所に限りと限定が付いた。
こうした松陰の遺志を最高に実現させ、見事の維新迄引き摺(ず)って行った橋頭堡(きょうとうほ)を築いたのは、高杉晋作であったが、その晋作の死に態(ざま)を支えたのは処刑寸前の松陰であり、「死して不朽の見込み」ありとその行動原理の原点を示したのは松陰自身であった。
松陰は獄中にあって、刻々と近付く死との対決に臨んだ。生そのものへの未練と、執着を断ち切るものがあるとするならば、その救いの手は概ねは、「宗教」であろう。
今日でも、死刑囚が教誨師(きょうかい‐し)の言葉に厳粛に耳を傾け、今迄に見た事のないような真摯(しんし)な態度で神佛に祈りを捧げる姿は、こうした宗教によって、己の罪が許され、死を以て購えば、その一切は許されると言う、自己成就の祈願に、宗教を拠(よ)り所とする行動が見られる。
しかし、それはただそれだけの事であり、罪の酬(むく)いに対して己が死に向かう、その恐怖心を宗教に紛(まぎ)らしたとも言える。ある意味で、もっとも卑劣であり、卑怯な、自分勝手な宗教観であった。
ところが松陰は違った。神佛に祈らなかった。
かれはひたすら、その知性と意志力のみで、死を克服し、それを見事に超越するのである。
松陰は死の前日、詩を吟じた。
吾、今、国の為に死す
死して君親にそむかず
悠々天地の事
鑑照明神にあり |
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牢獄の中では囚人同士の会話は禁じられれいたので、松陰は別れの挨拶としてこの一詩を大声で朗読した。
これを獄内で聞いた同囚の鮎沢伊太夫(あゆざわ‐いだゆう)は「従容(しょうよう)として潔く、人々実に感じける」と書き遺し、また、長州藩公用人として判決に立ち会った小幡高政(おばた‐たかまさ)は、評定所で詩を吟じる松陰に対し「粛然、襟を正して、肺肝をえぐられる思い有り……」と語った。
門弟、高杉晋作に、その道を説いた松陰は「死して不朽の見込みあらば、いつにても死すべし」という死生観を超越したその境地を以て、三十年の生涯を閉じた。まさに“不朽の死”であった。
山田流宗家で、当時の首切り役人の山田浅右衛門は、「……いよいよ首を斬る刹那(せつな)の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩を運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『ご苦労様』と言って端座(たんざ)した。そに一糸乱れざる、堂々たる態度は、幕吏(ばくり)にも深く感嘆した」と回想する。
松陰は、「死して不朽の見込みあり」と説いた、悲痛な叫び声は、まさに処刑されて「死んで見せる」という決断で、生涯宿命的な教師であり続けた松陰にとって、最後の垂訓であった。松陰はまた、地方の“一介の教師”と言う立場を執(と)りながら、実は熱烈たる「日本への思い」かつ、「郷土の人々に思い」へ慕情を寄せる、純然たる日本人であった。決して、西欧に身を売り、また魂を売る“売国奴”ではなかった。
あくまで日本に、身を殉じたのである。何処までも一途(いちず)であった。
この一途な思いを投げつけることにより、時代の先駆者として、松陰の死に態(ざま)は、此処に見事に完結するのである。
そして松陰は殉教者となった。「死んで見せた」のである。わが身を以て、その“壮烈なる最期”を、手本として示したのである。それにより、松下村塾の塾生達は、後に続いた。
幕府はこれによって自ら墓穴を掘り、また松下村塾の塾生達は松陰の死によって奮い立ち、覚悟も新たに激動の時代に向き直り討幕へと、その意志を新たにしたのである。
○吉田松陰(1830〜1859)
幕末の志士で、もと長州藩士。杉百合之助の次男。名は矩方(のりかた)、字は義卿、通称、寅次郎。別号、二十一回猛士(にじゅういっかい‐もうし)。
兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山(さくま‐しょうざん)に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用い、1854年(安政1)米艦渡来の際に、下田で密航を企てて投獄。これを「下田踏海(しもだ‐とうかい)事件」と言う。
のち萩の松下村塾で子弟を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死。著書に『西遊日記』『講孟余話(もうこうよわ)』『留魂録(ざんこんろく)』などがある。
○講孟余話の内容より
経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おも)ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生国を離れて、他国に事へ給ふこと済まぬことなり。凡(おおよそ)そ君と父とは其(その)義一なり。
我君を愚なり昏(おろか)なりとして、生国を去て他に往き君を求るは、我父を頑愚(がんぐう)として家を出て隣家の翁を父とするに斉し。孔孟(もうし)此(これ)義を失ひ給ふこと、如何にも弁ずべき様なし。或曰孔孟の道大なり、兼て天下を善くせんと欲す、何ぞ自国を必ずとせん。
且つ明君賢主を得、我道を行ふ時は、天下共に其沢を蒙るべければ、我生国も固より其外に在らず。(下略)
〈岩波文庫〉より。 |
○吉田松陰の書簡より
北山安世宛 (安政六年四月七日)
幽囚中懸料の論なれば隔靴(かっか)の所多からん。去ながら天下の大勢は大略知れたる者、実に神州の陸沈可憂の至りなり。幕府遂に人なし、瑣屑(さくず)の事は可なりに弁じも致すべけれども、宇宙を達観して大略を展(の)ぶるの人なし。外夷(がいい)控馭(くうぎょ)最も其(その)宜(よろしき)を失ひ着々人に制せられること計り、癸丑(みずのと‐うし)・甲寅(きのえ‐とら)より已に六七年に及べども今に航海の事なし。
華盛頓(ワシントン)がどこにあるやら、竜動(ロンドン)が如何なる処やら、画すらごとにて何の控馭を能(よく)なさんや。
然(しかれ)ども幕府の吏皆肉食の鄙夫(ひふ)とシロギヌ袴(白い練り絹の贅沢な袴)の子弟のみなれば、就中一二の傑物(けつぶつ)ありとも、衆楚(しゅうそ)の囂々(ごうごう)、一斉人の能(よ)く克つべきに非(あら)ず。
因(よっ)て思ふ、東晋・南朝及び趙宋などの中原(ちゅうげん)を恢復(かいふく)得(え)せぬも勢なり。況(まして)や今の徳川をや。徳川存する内は遂に墨・魯・暗・払に制せらるゝことどれ程に立行べくも難計、実に長大息なり。幸に上に明天子あり。
深く爰(ここ)に叡慮(えいりょ)を悩されたれどもシン紳衣魚の陋習(ろうしゅう)は幕府より更に甚しく、但(ただし)外夷(がいい)を近ては神の汚(けが)れと申事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召出されず、事の成らぬも固より其所なり。列藩の諸侯に至ては征夷(せいい)の鼻息(びそく)を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其後に従て降参する外に手段なし。独立不覊(ふき)三千年来の大日本、一朝人の覊縛(きばく)を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起してフレーヘードを唱(となえ)ねば腹悶(ふくしん)医(いや)し難し。僕(ぼく)固(もと)より其(その)成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身(ふんこつ‐すいしん)すれど一も裨益(ひえき)なし。
徒(いたずら)に岸獄に坐(ざ)するを得るのみ。此(これ)余の所置妄言すれば則(すなわ)ち族せられん矣なれども、今の幕府も諸侯も最早(もはや)酔人なれば扶持(ふじ)の術(すべ)なし。草莽崛起(そうもう‐くっき)の人を望む外頼なし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは何如にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を輔佐し奉(たてまつ)れば、匹夫の諒(まこと)に負くが如なれど、神州に大功ある人と云ふべし。此人要するに管仲已下には立ざるなり。(下略)
〈日本思想大系54〉より。
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●松陰から授けられた死生観
小伝馬町に入れられた松陰の為に、最も奔走したのは高杉晋作であった。
晋作の奔走のお陰で、松陰は金子(きんす)を取り寄せることができた。この金子を牢名主に贈り、「牢名主」の次の役に当る「添役(そえやく)」にしてもらっている。しかし、こうした金子の金策に奔走しているのは、最初、松陰は高杉晋作だとは知らなかった。長州藩士の誰かだと思っていた。
晋作は、松陰に“負い目”があった。
それは老中・間部詮勝(まなべ‐あきかつ)邀撃計画に、加わらなかった事だ。松陰から晋作は、計画に加わらなかった事への失望や怒りを並べ立てた手紙を貰っていたからである。晋作には負い目があった。師匠に背(そ)いた罪の意識は少なからぬものがあった。
したがって晋作としては、せめて松陰の為に、隠れて金策などの奔走をし、牢名主に賄賂(わいろ)を送る事で、自分の罪を償おうとしていたのである。しかし晋作の金策奔走は、直に長州藩政府に気付かれ、睨(にら)まれて帰国命令が出されてしまった。これは松陰が処刑される直前の事であった。
松陰は晋作に宛てて、以前このような手紙を獄中から送った事があった。それは松下村塾時代、晋作が松陰に対して、次のような質問をしたからであった。
「男子は何処で死ぬべきですか?」
これは晋作の最も聴きたかった事柄の一つであった。しかし松陰はこれに、確答出来なかった。返事に窮(きゅう)した。その事を松陰は、ずっと憶えていたのである。
しかし処刑されて死んで行く、今のわが身には、この事がしっかりと回答出来るのであった。それは死を目前に控えた松陰自身の、悟りを得た「死生観」からだった。松陰はこの死生観(しじょう‐かん)を見事に解決し、もう既に、松陰には生も死もなかった。悟り切った自分があるだけであった。総ては「任せればいいのだ」と謂(い)う、禅の老師の悟りにも似た、清々しさだった。生にも死にも執着しない、ただあるが儘(まま)の境地に到達したのである。それは自分の肉体にすら執着しないのである。
松陰は今、確答を得て、高杉晋作に手紙を送ったのである。
この手紙は「獄にあって、“死”の一字につき、発見した事があるので、いつか君のした質問に対して答えておく」という書き出しで始まる。
それは松陰の死に対する考え方であった。
松陰曰(いわ)く、「死は怖れるものでもなく、また憎むものでもない。だから生きて大業をなす見込みがあれば、いつまでも生きたらよいであろうし、死して不朽(ふきゅう)の見込みがあると思うならば、いつ何処で死んでもよい。要するに、死を度外視して為(な)すべき事を為すのが大事なのだ」と答えた。
死した後も、朽(く)ち果てずに後世まで長く残れば、いつ何処で死んでもいいというのだ。「死に態(ざま)」をといたのである。
松陰はこの時、生も死も超越して、死生観を解決したのだった。「生」に固執する事も、「死」から逃げ回る事も、荘厳(そうごん)なる死を迎えるには、一切が無用だと悟ったのである。
世に、死生観を解決出来ずに死んで行く人は多い。
「生」に執着する人も多いが、「死」から逃げ回ることに執念を燃やす人も多い。“若返り”も“若作り”もこうした執念の顕われだろう。しかし、生も死も超越する事が出来なければ、いつまでも生きていたいと「生」に固執する。愚かな事だ。
現実には死を目前に、末期ガンなどの死病と闘っている闘病者の多くは、生に固執する余りに「死」と格闘する。そして何とか「生」に縋(すが)り付こうとする。「死」を忌み嫌う。「死」を憎む。その分だけ「死」に囚(とら)われて、その事だけに思い悩む。
だからその「生」も中途半端になり、「死」すらも藻掻(も‐が)き苦しんで、断末魔(だんまつま)のような死を迎えなければならなくなる。断末魔の「末魔」は、仏道の梵語では「marman」といい、支節とか死穴と訳す。これは体の中にある特殊の急所で、他のものが触れれば劇痛を起して必ず死ぬというものだが、多くは生きを引き取る時の間際に顕われる「激痛」と考えられている。こうした概念が、「死」イコール「大変な苦痛」という妄想を作り出した。
多く人は「死」から逃げ回るのではなく、死ぬ間際の激痛と言う「妄想」から逃げ回ろうとしているのである。
人間の死に、特別な死に方があるわけではない。また特別な生き方すらもない。生きる時は精一杯生きて、死ぬ時は死ねばよいのだ。死ぬ事に、エネルギーを使い、ただ任せればよいのである。
禅の僧侶のように、悟り澄ました死に方をする必要はない。ただ任せて、その事が解ればいいのである。これが解れば、人間から悩みの根本である、死生観から解放される。思い悩む事はないのだ。
しかし、これが解らぬ人は多い。頑迷で、こだわる人が多い。こだわりから離れられない人が多い。こうした人の死は最悪だろう。まさに断末魔だろう。苦痛が襲うのだ。肉裂け、骨折れる阿鼻叫喚(あび‐きょうかん)の生地獄へと誘(いざな)われるだろう。これらは自我の執着によって起る“迷い”である。これらを集約して“苦”という。
本来、「わが這裏(しゃり)に、死生は存在しない」のだ。
「死生の問題をどう解決するか」これに悩む人は多い。死から逃げ回り、結局死生を解決する事なく、人生を終える人は、仏道の謂(い)うような再び六道(りくどう)を輪廻(りんね)して、迷いを繰り返す事になるのである。これこそ、終りなき生き方と言えよう。よく生きる事が出来ない人は、よく死ぬ事も出来ないのである。
物事には“初め”があり、“終り”はあるのだが、終りを認めない人は、初めも認めない人であり、再び“迷い”を繰り返すのである。
松陰は晋作に、「死して不朽の見込みがあるならば」と条件付きで、「死ぬ時には、死ぬ」という、生き方を決定する重要な示唆を与えている。
これは武士道の美学で謂(い)う、「潔(いさぎよ)く死ぬ」という事ではない。死に場所が定まるまでは、逃げる事も、また武士にとっては恥辱(ちじょく)とはならないのである。
幕末にも、あるいは先と大戦の末期にも、逃げる事を恥辱と思う人は多かった。これにより、可惜(あたら)多くの人材は消滅した。国民皆兵で、皆そう言う教育を受けた。逃げて捕囚の身を恥とした。
しかし高杉晋作の場合は違っていた。晋作は、よく逃げた。逃げる事を決して恥辱とは思わず、逃げに逃げた。また一方で「神出鬼没(しんしゅつ‐きぼつ)」と噂されるほどの変幻自在な逃げ方もした。晋作に逃げ方は、「死して不朽の見込みがあるならば」の、松陰の条件付きの言葉を墨守(ぼくしゅ)し、「犬死」にを避けて、「不朽の見込みがある場所」を探していたとも思える。
松下村塾の塾生の中で、松陰の遺志を継いで、これを最高に実現させてみたのは高杉晋作だった。
そして晋作がこうした行動を執(と)る為の支えになったのは、処刑寸前の松陰から授(さず)けられた死生観だった。
吉田松陰と当時の時代背景の詳細は、DAITOURYU.net 『松下村塾と吉田松陰』を参照下さい。
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