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西郷派大東流と武士道

拝師の礼 ■
(はいしのれい)

●拝師の礼

 昨今は武道や格闘技人口が増えているのにも関わらず、本当の礼儀と言うものを知る者が少なくなった。
 しかし一方で、こうした武道や格闘技を愛好し、これに準ずる青少年が多いと言うことは、世の中の大半の人がこの、単なるスポーツとは一味違う、武道と言うものに「期待する一面」があるから、時代が如何に変わろうともこうした武技が愛好されるのであろうと思う。
 そして武道と云えば、日本人の文化資産と誰もが連想するように、時代を超えた教育的運用がその背後にあるからだと思われる。

 一般的に武道と云えば、「礼に始まり、礼に終わる」と信じられている。しかし明治維新以降、それ以前の武術は武道と云う新しい時代の認知を受け、術から道への進化を遂げたようなイメージを抱かせる事に成功した。術が道に変わる事によって、これまでの武技が、単に殺し合いでない事を世人に認めさせるイメージを抱かせた。

 かくして武術は武道と改められ、アメリカナイズされる事で「科学的」という概念を植え付けて、躰(からだ)の仕組みを探究し、体育としてこれを捕らえる考え方が生まれた。武道科学を信奉する理論家達は、この事に重点を置き、教育における「知育」に対峙(たいじ)するもう一つの両輪の輪として「体育」を挙げた。
 そしてこの体育と言うものは、スポーツゲームのように模擬的な、命の遣り取りとは異なる試合を展開して、その優劣を競うものに変わった。

 武道や格闘技は学ぶだけではどうにもならない。相手に討たれ続ければ決して上手と言えず、あくまでも勝たなければならないのがこの種の武技である。その為に、「礼節」や「謙譲」といった、日本古来からの武士道を背景とする精神が蔑ろにされ、「勝てばいい、討てばいい、投げればいい、倒せばいい」ということが稽古の目的に第一義となり、本来の武術の背後にあった優劣を論ずる以外の崇高(すうこう)な精神までが踏みにじられてしまった。

 武道で云う礼儀と、武士道で云う礼法は根本的に異なるものである。
 世間一般では、一口に武道と云い、あるいは武術と云う。そして両者は同じようなものであると考えられている。しかしこれは厳密に云って、全く違う。

 武術と雖(いえど)も試合の価値にこだわれば、これは武士道を精神的支柱にした武技ではなく、明治維新以降に流行した武道の感覚に近いものになる。この武道の感覚で、生涯六十数回試合して、一度も負けなかったと自称する宮本武蔵の闘い方だ。
 武蔵は、初期の時代、「勝てばよい」という考え方で試合をしている。この「勝てばよい」という考え方は、一度も敗れないと言うことを自他の誇りにする為、最後は、勝つ為なら「何を行なっても構わず、どういう手を遣ってもいい」という考え方になる。

 吉岡一門との試合に於ては、わざと時刻に遅れて行って、相手側の心の焦りの隙(すき)に乗じて、一方的な試合を展開したり、あるいは流派の中心人物だけを倒して、その虚を突き、あっさりと引き上げている。有名な巌流島の決闘に至っても、佐々木小次郎の心の虚を突き、勝ちを占める等、これは武士道からすると、非常に醜いものになってしまい、以降、こうした闘いで勝っても、勝ちは勝ちだと云う考え方が広く流布されるようになる。しかしこれをよくよく考えてみると、決して万人が、拍手喝采するような、恰好の良い勝ち方ではない。そこにあるものは、「醜さ」である。
 醜さに恥じて、以降、武蔵は巌流島の決闘を最後にプッツリと辞めてしまう。武技は、その戦法や心の虚をついて勝ちを占めると言う闘い方は邪道と気付くのである。武術の礼法に叶っていないと云う事に気付いたのであろう。

 さて、時代が下り近年に至っても、世人は武道の持つ「礼」に期待して、更には武道界も某(なにがし)かの自信を持って武道振興を促している。しかし「礼」の面から逸脱し、勝つ事のみを求め、スポーツ格闘技としての立ち場をとっている武道団体も少なくない。したがって、昨今の武道や格闘技の世界に於て、礼儀を重んじる良識派の考えで、こうしたものを奨励する団体は極めて少なくなってしまった。

 また礼儀正しいと自負している団体でも、その礼儀正しさは団体内だけでしか通用しないものであって、それは単なる、恣意的な習慣であったり、また、礼儀と云っても、その実態は起立や規則と云う程度のようなもので、門人や会員の行動の自由を制限している道具に成り下がっているものも少なくない。

 そもそも「礼」というものは知性と感性によって貫かれるべきものである。更には、自発的な行動律であるから、教養としての見識と柔軟な直感力を心の支えにしなければならない。ここにこそ、人間の行動規範が存在するのである。
 これは時代が変わっても、この行動規範は同質ものを維持していくが、人間の感覚が、試合に勝つ事のみに向かってそこに目的意識を設定してしまうと、やがてはこうした行動規範も廃(すた)れてくる。かつての行動規範は無用の長物扱いされて、「古い」という理由で捨て去られる運命にある。
 かくして、後世の人間の為(な)すべき事の条件から、古人の遺産を正しく受け継ぐと言う重要課題が見捨てられることになる。

 古人は時と場所と、その状況に応じて臨機応変に立ち回る即応性を探究して、そこに「礼法」なるものを構築した。その礼法の、作法の一つ一つを躰(からだ)で体得し、その背後に秘める精神的支柱を、言葉と云う解釈を使って、これを会得した。
 ところが現代は、こうした古人の智慧に学ぶ意識が薄れ、「勝つ事」と、武人としての「態度が立派である事」は別問題とされ、ただ勝つ事のみに重点が置かれるようになった

 またこの事が、「礼」という次元の持つ、「互いに犯さず、犯されず」の、有事に対応する根本的な情況判断が軽視され、試合はマットかリングの上と云う、試合と日常を引き離し、非日常に対する大切さを失なわしめた。こうした事が、師は師、弟子は弟子と云う隔離した次元を作り上げ、両者は同じステージに立ちながらも、別々な行動をしているのである。

 かくしてこの次元的な格差が、武技に対する考え方を捩(ね)じ曲げ、両者は同じステージに同居しながらも、各々は全く正反対の方向に進んで行っているのである。
 そして非常に残念な事は、現代人は武術や武道の「武」の解釈に於いて、全く異なる見解を示しているという事である。それは武技を練るのは勝つ為であり、「態度が立派である」あるいは「毅然(きぜん)としている」という面が軽視され、「武」の持つ、本当の意味を見逃しているのである。

 そもそも武術における「武」の意味は、「戈(ほこ)を止める」と、一般的には称されているが、この「戈を止める」とは、有事にあたって己自身を如何なく全(まっと)うするものであって、その根底には情況判断なり、危険に対する直感力が働いていなければならない
 更には「礼法」を母体として、万一敵に襲われた場合、敵の討ち気の誘発を阻止したり、あるいは外したりして、これを「いなさ」なければならない。
 「礼法」を知っていれば、有事の際、刃物や拳で喧嘩・障害三昧に明け暮れる事がなく、あえて刃(やいば)を交える必要はないのである。但しその背後には、日々の絶え間ない、稽古の裏付けがなくてはならない事は云うまでもない。

 心形刀流の達人で、平戸藩主だった松浦静山(江戸後期の平戸藩第三十四代藩主。随筆家で、名は清。心形刀流剣術の免許皆伝。財政改革・藩校維新館設置など治績を挙げる)は、『常静子夜話』の中で、「礼儀の起こり、用心の所より出たること故、此(これ)栓別(せんべつ/物の穴に差し込んで、その物が動かないようにする識別の例え)を能(よ)く弁ずれば、即、剣術の旨にも通ずるなり、此言迂遠にて不分と思ふ者は真の剣術心にあらず」と、言わしめている。
 静山の言によれば、「礼儀とは用心の事であり、これをよく考えれば、そのまま剣の極意に通じる。この言に対して、回りくどく感じる者は、結局、兼の極意は解らず、本当の剣術と言うものを知らないからである」と言うのである。

 武術の「武」の中には、あらゆる心構えや、極意が含まれている。しかし「勝つ事のみにこだわる」と、結局本当の極意は見逃してしまい、目先の欲に振り回されて、一時的な勝者を英雄視する事になる。こうした英雄視された人間の中に、本当の極意を見い出した人間は極めて稀(まれ)のようだ。
 更に、英雄視され、ひとからちやほやされて、有頂天に舞い上がった人間の中に、言動や動作や態度が立派であると言う人間は殆ど皆無と言ってよかろう。
 そして現代人も、これに追随し、こうした英雄視される人間の後のみを追い掛け、あわよくば自分も此れにとって代わろうと考えている輩(やから)も少なくないようだ。

 現代に於いて、本当の武門の礼法を知る人間は非常に少なくなった。広く武道界を見渡した時、実際に武道団体等の幹部クラスに属した人の中でも、この「礼法」については知っている人は殆ど無く、ごく少数派の本格的な一部を除けば、礼法を知る武道家等全くの幻想に過ぎない。

 我が西郷派大東流の門人にしても、本当の礼法を知る者は極めて少数であり、我が門人と雖(いえど)も、「西郷派大東流合気武術」という武技を、ある者は柔道や剣道と同じスポーツと捕らえ、またある者はスポーツとしての立ち場の武道と思い込んでいる者も少なくない。人各々と言うが、求道・精進の形で我が流を捕らえ、これに価値観を見い出し、日々の日常を、非日常として考え、有事の際には己を全う出来ると考えている、指導的立場にある者ですら、この価値観は中々得難く、我がものにしているというのは稀(まれ)のようだ。

 したがって「拝師の礼」という事が理解できず、武技を武術と捉えるか、あるいはスポーツ武道と捉えるか等の、足並みの不揃いがまた、「礼法」を識(し)らない現実を生み出しているのである。故に、第一に啓蒙すべき事柄として、「拝師の礼」を挙げたのである。

 「拝師の礼」は、自らの師匠に対し、「尊敬」と「畏敬の念」を持つ事にある。これが欠ければ、子弟関係は崩壊する。しかし現代は、これを理解する人間が非常に少なくなって来ている。

 現代流の考え方は、道場と言う場所を離れ、教わると言う教授の形を取り去れば、単に平等だと言う意識が強く、したがって子弟関係は平等であると言う意識が、また「拝師の礼」を損なう結果を生み出している。時代が下がれば下がるほど、「拝師の礼」は廃れたものになっている。いわゆる、尊敬されない現実が急速に進んでいるのである。

 かつて私は、昭和五十三年当時、進龍一師範(当時は弐段で准指導員)を、北九州より千葉県習志野市の送り出した事があった。進師範も二十代半ばで、私も二十代後半だった。私も、弟子からは老若男女を問わず「先生」と呼ばれていたが、進師範も道場生からは「先生」と呼ばれていた。
 「先生」という呼称は、「自分が師事する人」に対する敬称であり、一方何事かに優れた面を持っている人に対し、こう呼称するのであって、もし、その人間が指導的立場にないのであれば、「先生」等とは呼ばれないのである。

 よく指導的立場にある者に対して「さん」付けで呼び合う武道団体を見かける。これは明らかに間違いなのであるが、指導者自身もこれに気付かず、「さん」の方が親しみがあって良い等という愚かな指導者がいる。
 また指導者としての自覚が欠け、したがって目下の者から、一切の尊敬の伴わない「さん」付けで呼ばれるのである。こうした次元に止まっている者は、武道等の愛好団体の長を勤めている者に多く、こうした団体が、如何に周囲から尊敬を受けていないか、それを如実に物語るのが、指導者に対して「さん」付けする呼称である。

●本当の習・離・破の意味を理解する

 昨今は、習・離・破という言葉すら、意味薄になった時代である。また例え、この言葉を知っていても、本当に理解するものは少ないようだ。
 私が習・離・破を実践した時は、「若冠十八歳」の時であった。最近は、習・離・破の本当の意味を知る者が少ないが、本当の習・離・破は自分の師匠から離れ、破る事だと考えているようだが、これは大きな間近いである。

 世間一般ではこれを各ランクと捕らえ、「習」から順にこなす事を想像するようだが、これは間違いである。習・離・破を「致す事」とは、道の入口に立った時から、既にこうした「行ない」は始まっていなければならない。

 西郷派大東流合気武術では「致す事」を「習・離・破」で顕(あら)わす。また、習・離・破というと、それは「習・破・離」の間違いではないのですか、と御丁寧に御注進に及ぶ者がいる。
 そもそも習・破・離は「書道の世界」で起った言葉である。
 第一段階としての「習」は師より字の形や筆遣いを習うことで、これを繰り返し行なって練習を積む事を言う。
 第二段階の「破」は、こうして教えを受けた事から一歩進んで研究を重ね、自分独自の方法を編み出して、師の教えを否定しこれを破る事を言う。
 そして第三段階の「離」は師の教えから離れ、自分独自の体系付けを行なって、師の許(もと)から離れる事を言う。

 また武道でもこれを似た言葉を用いて、守・破・離とも言う。師の教えを守り、次に創意工夫で破り、最後に一人立ちして師の許を去るという各段階を教える。
 書道の場合も、武道の場合も、最初に来る言葉は「習う」あるいは「守る」言葉であり、この点に於いては西郷派大東流とも同じである。しかし言葉は同じでも、それは行動に於いて違っている。

 本来の「習」とは、元々教える事を遣(や)らない西郷派大東流は、命賭けで師から「教えを自ら請う」ことであり、その習ったものが、正しく実践しているかどうか、ということについて、今度は自前で弟子を集め、自分の知っている、習った事が、弟子にも通用するか、これを試す事である。自前の弟子を持たなければ、いつまでも「入口」に立った状態であり、この「入口」から中に入って、「本当の教え」を請う事が出来ないのである。
 問題は第二段階の関門である、「離れる」(世間一般で云われている習・破・離は、第二段階が「破る」ことで「離れ」ることではないようだが)という事であるが、離れるとは入門時の自らの指導者から離れる事を言う。

 指導者の教えを後生大事に鵜呑みした形で、それをいつまでも守り通しているのでは、全くの進歩がない。指導者は指導者の範疇(はんちゅう)を抜け出す事が出来ず、その中で堂々回りをしているのであるから、まずここから離れる事が肝心であり、要するに「乳離れ」をするということである。指導者もまた、不完全なものとして、良いものも悪いものも同時に兼ね備えている為である。良いものだけを見詰めていれば、上達するが、悪いものだけを見詰めていると逆行して、進歩はない。一方的に師から教わるばかりでは進歩がなく、守ばかりでは上達が望めないからだ。
 自分一人で、武術の稽古は出来ず、また、兵法の極意は知り得ないからである。だから離れる必要がある。西郷派大東流では、したがって二番目に「離れる」という事柄が、第二段階の課題となる。決して「破る」のではない。

 流派の道統を伝えるのは宗家唯一人であり、各支部の指導者ではない。だから離れる必要がある。つまり「離れる」とは、高次の次元を目差して、高い次元に至る事を言う。「離れる」目的は、過去の研究を体系付け、指導者の教えを超越して独自の創意工夫を行なう段階に突入しなければ、この意味は本当には理解されない。

 また習・離・破(世間では習・破・離と言うそうだが)は「時間的な意味合い」を持ち、昔は師匠の有限時間を計算してこの設定を決定したものである。だから、多くの修行者は「自分の若い時」に弟子を取り、弟子を通じて学んだことを、師匠に一々確認しならが、次の業(わざ)を学び取っていったのである。問題は、第一段階の「習う次元」から、第二段階の「離れる次元」に至る時の非情さであり、上達に至ったと思う者は、積極的にかっての指導者から離れ、支部道場を興(おこ)し、高次元を目指さねばならない。
 いつまでも、ダラダラと、かっての指導者の腰巾着(こしぎんちゃく)をしていては、上達は臨めない。

 西郷派大東流では「宗家一親等門人」なるものがある。これこそが習・離・破の実践機関であり、最良の上達に至る道は、直接、弟子が宗家と「一親等の誓い」を結ぶ事である。最初に入門する指導者の門は、ただ目を開くだけの存在であり、それ以外を除けば、指導者と言うものは自流にとって、良いものも悪いものも同時の兼ね備え、同時に一歩外に出れば、平門人と同じ修行者の段階である事は間違いない。そしてまた、指導者と雖(いえど)も、宗家と一親等の誓いを立てたメンバーの一人に過ぎないからである。
 世間風に言えば、年齢的に生まれた年月が早いか遲いかの違いでしかない。同じ兄弟姉妹でも、弟や妹の方が、兄や姉に劣っているとは断言できないし、むしろ弟や妹の方が優れている場合もある。
 怠けていれば、指導者と雖も、後から来た者に逆転され、ついには追い抜かれてしまうのである。

 指導者はかつての師から技を学び、それを教わったが、その技が真物(ほんもの)であるか否かを確認する為には、「離れる行動」を起こし、今度は自らが弟子を集め、「指導する」という立場に廻るのである。
 しかし弟子を集めるだけではダメで、「弟子を持つ」という事は、弟子から尊敬されなければならないのである。
 弟子から尊敬されるという事は、絶対に自分の事を「さん」付けで呼ばせてはならず、私は十八の時に道場を開き、既に50人の弟子を集めたが、その弟子のタダの一人でさえも、私の事を「曽川さん」等という馬鹿者は一人も居なかった。これは非常に大事なことで、年下や同年齢に対しては、当然「先生」と呼ばせるべきであり、上の者からは「師範」と言われるべきである。

 「師範」あるいは「先生」と尊敬されることが道場の運営については大事なことであり、これが「家庭的な雰囲気」等と称して「さん」付けで呼び合うのは「秩序の崩壊」であり、こうした「馴れ合い」が道場の根本的な武士道精神を崩壊させるのである。

 私は弟子から十八の時に「師範」あるいは「先生」と尊敬されて呼称され、また進龍一師範も習・離・破を実践し、二十四の時に私の許(もと)から離れ、習志野で道場を開き、彼ですら「進さん」等と一度も言われた事はなかった。
 それに、今思う事であるが、彼は私の若い時から厳しく躾(しつけ)られた為か、わが師匠に逆らう事を知らなかった。昨今の指導は技中心となり、あるいは強弱論に傾いて、「躾」や「礼」を軽んずる傾向にある。また師匠の言った事は二つ返事で実行した。師匠は自分の手本であり、鏡であり、これが間違っている事は絶対にあり得ず、またそう思う事が、やはり自分自身の価値観を高め、弟子を強くしていったようだ。

 ところが現在はどうであろうか。
 「おことばですが」と、逆に自らの師を、世間一般的な世俗の常識論で諭(さと)す者がいるではないか。これがそもそもの「武士道崩壊」の元凶である。
 しかし習・離・破の意味を知って、「離」を実践した者は、師イコール自らの鏡であるから、喩(たと)えば、自分の師匠が遠路遥々(えんろはるばる)地方から出て来る場合、これを丁重に迎えるのは常識である。この丁重さに、「やり過ぎ」はない。
 かつては、師匠に対しての「出迎え」「見送り」は、求道者の常識であった。しかし求道者は、その目的意識を180度変更した為、礼儀を重んずる事より、師匠を勝つ為の「ヒント提供者」にしか思っておらず、単にコーチ的な存在以外には扱わないようになってきている。

 かつては毎回、私が上京する際には、進龍一師範が、東京駅の特急寝台の到着するプラットホームまで出迎えに来ていたことが、今思えば懷かしく思われ、それが非常に印象的であった。
 しかし現在の指導者に、こうした者を見る事は余りにも少なくなった。そして我が流に於ては、以後、進龍一師範を上回る、彼以上の礼儀を心得るものは、誰一人として出ていない。

 これを考えると、もう一度「自分の師匠とは何か」という武術の「習」と言う、第一段階について考え直すべきであろう。
 また「離」とは何か、ということも真剣に考えなければならない。「離」とは師匠から離れる事ではない。師匠から習った事を、慎んで厳粛(げんしゅく)に受け止め、師匠とは違った自分独自の技法を展開する事であり、これに際して、「解らぬ点は、直々に総本部まで足を運び、師匠に再質問するなり、再教授を受ける」という事が肝心であり、離れて、独自に自分勝手な道場展開をする事ではない。自らも「修行者である」という事を忘れてはならないのである。

 西郷派大東流は決して「教えない」流派である。したがって、教えなければ、自らがそれを求道(ぐどう)しなければならない。「教えない」「見せない」「公開しない」「大衆化しない」が、西郷派大東流合気武術の流派の在り方で、これこそが「秘伝」を秘密にする最大の理由である。

 武術の秘伝と言うのは、弟子を取り門人に教えれば、解らぬ事は再浮上するのである。しかし弟子を取らない人間はこれが解らないから、自分が、まだほんの一入口に立ちっぱなしである事も解らず、「紙切れ」(初段以上のものが貰う免状の事を「かみきり」という)だけを貰って、これを有り難がっている愚者も少なくない。師匠より頂いた『紙切り』の中には、「切磋琢磨せよ」とあるではないか。

 しかしこうした事に目を向ける段位取得者や資格取得者は少なく、『紙切り』だけを有り難がり、まるで車のペーパードライバーのような形で傍観者となり、これだけを後生大事にしている手合いも少なくないようだ。真物(ほんもの)の「人格」と言うのは、時代の流れと共に、徐々に廃れていっているようである。
 そして習・離・破と言うような言葉だけが、一般的に弄(もてあそ)ばれて、時代を一人歩きしているようだ。

●捨身と言う「死ぬ」の意識

 現代文明は、「死」をひらすら怖れ、「死」から逃げ回る社会を作り出した。昨今の「ガン恐怖症」もこの一つである。それはマスコミに誘導されて、「ガン」イコール「死」のイメージが植え付けられているからである。かくして人が、明日の事を憂い、死ぬ事を憂うるようになった。そしてこれこそが、精神的動脈硬化の元凶となるようになった。

 さて、『葉隠』等の武士道書に挙がっている言葉の特徴に、「死に身」なる語源が出て来る。死に身とは、「捨身」のことであり、我が身を最初から捨ててかかる態度をこう呼ぶ。
 命の遣(や)り取りに於いて、生と死の二元対極の中で、ああか、こうかと迷う心は禁物であり、ひたすら自分のこれ迄の錬磨した腕を信じ、ただ一刀の下に斬り据えると言う、不動心こそ真理があり、武人はこれに、大いに学ばねばならない。

 かつて武士は、一朝事のあるときは、我が身を捨てて全体に奉仕する事を以て、その価値観が認められ、「日々死を当てて」日常生活を営んだ種族である。
 これを想う時、同時の薩摩示現流のただ一刀の下(もと)に斬り降ろす、「一之太刀」に賭(か)ける凄まじさに、この「捨身懸命」を感じるのである。我が剣のみを信じ、斬ったり、斬られたりの事は二の次にして、あの凄まじい斬り込みは、同時に自分が斬られる時の悲鳴を掛け声にして、とにかく斬り込むだけの事である。そして自分が斬られる時の悲鳴を「猿叫」という。
 したがって、薩摩示現流には他流派に存在する「二太刀以降」がない。「一之太刀」を信じるのであるから、陶然「二太刀」等はなく、己を信じて討ち込む様は、さまに簡潔性を顕(あら)わしたものである。

 武士にとって、死と言うものは生の隣り合せにあり、またこれが表裏一体の関係を為(な)していた。人はその態度に、死にざまを見る事が出来る。死ぬ時を間違わない者は、その身辺が常に小ざっぱりとしているものである。それは行動にも、一種の簡潔性があり、一種独特の清々しさや、潔さと言うものがその根底に流れているからである。
 だからこそ、死して悔いがなく、後ろ髪を惹(ひ)かれるような未練が伴わないのである。


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