■ 兵法 ■
(ひょうほう)
●出師の表
蜀漢の健興四年(226)、魏の黄初(こうしょ)七年夏五月、魏の文帝・曹丕(そうひ/初代皇帝で曹操の長子。220年、後漢の献帝に禅譲を受け、魏王朝を建てた)が死んだ。
これを受けてその子・曹叡が直ちに即位した。第三代の明帝である。
これが魏の隙を突いて、蜀が攻勢を掛ける切っ掛けを作った。
孔明の考えた戦略思想は、「天下三分の計」であり、あくまで魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)しなければ存立しないというものであった。
互いに牽制し、こうした状況下で安定した平和を作り出すというのが第一の目的であった。
だが、終局の目的は同時に、その第一の状況を踏まえて、呉と連衡策で提携を図りながら、中原の地の覇者である魏を討ち、漢の国家を再興する事であった。 その、孔明の掲げた、第一の目的である「天下三分の計」は曲がりなりにも成ったのである。ただ残念なことは、不幸にして荊州(けいしゅう)を失った事であった。
そして孔明が考えたのは、「北伐」であった。
中原進出の最前線基地であった荊州は、もぎ取られたが、劉備とともに築き上げた巴蜀(はしょく)は依然と存続する。
劉備玄徳は、今わの際で「中原に漢帝国を復興するためならば、我が子に替わって国を取り、我が大志を達成せよ」とまで言ってくれた。孔明は、こうした劉備の言葉が心に残るのである。
何故ならば、劉備の大志は、同時に孔明の大志でもあったからだ。
そして孔明は北伐に当り『出師の表』を著わす。
これが第一次北伐の動機であった。
●兵站部の確保とその苦労
孔明の計画した北伐初頭の成算は無慙に挫かれてしまった。
機先を制した機敏な仲達の作戦は、魏に荊州の安全を図り、魏が益々強大になっていく暗示を与えた。
これに対して、孔明は次の手を打つべく知恵を絞り、苦慮を繰り返していた。
ここで街亭の戦いまでをもう一度観て行くと、北伐の立案は次のようにして成されている。
蜀軍の漢中に結集した作戦会議では、北伐に当って進攻ルートを何処に定めるかが第一の課題であり、次にどういう作戦計画で、どういう戦法を用いるかということだった。
この作戦会議において、蜀の西征大将軍の魏延が、奇襲作戦とも言うべき進攻ルートを提案し、まず魏軍の長安を守っていた西安将軍の夏侯楙(かこうぼう/魏王の娘婿)を叩くという事であった。夏侯楙は、魏延に言わせれば臆病で軍略に疎いというのだ。
次に長安に残るのは、督軍長史や京兆太守といった文官だけであるから、米倉を襲ってそれで我が軍を養い、東方の魏が反撃するのは二十日以上かかるので、その間に丞相将軍の孔明と合流するという奇抜な作戦であった。つまり要約すれば、「子午谷から長安を奇襲するという」立案だった。
孔明は、これは一発勝負に賭けた奇策であり、「危険な賭けだ」と考え、魏延の唱えた案は退けられた。この時から魏延は、孔明の総大将としての采配に疑いを抱き、のち批判的になる。ここに人間関係の拗(こじ)れが生じ始めていた。
そして孔明は、北上して隴右(ろうゆう)をまず占領し、その後に渭水上流を平定して、正攻法を取る事がもっともリスクが少ないとしたのである。
魏延は、戦いは短期決戦で決着をつけ、その為には「奇襲作戦」が必要だとし、孔明は国家規模の劣る蜀軍はこうした危険な作戦を避けて、リスクの少ない常道の「正攻法」で勝機を窺(うかが)うとしたのであった。
そして両者とも、蜀軍が他の二国に比べて、劣りすぎるほど劣る、という実情は百も承知していたのである。
魏延は劣るからこそ、思いきった「奇策」が必要だとし、孔明は劣るからこそ、無駄に戦力の消耗は避け、まずは将兵を温存して「正攻法」を取り、小出しに遣っていくという考えであった。今にして見れば、どちらの立案が正しかったか、論争は尽きないであろうか、現実問題としてその真意は、正直なところ分からない。
健興六年の春、孔明が陽動作戦を採用した事は既に述べた。
孔明自らが本隊を率いて、西方の祁山に向かい、渭水伝いに東進して、長安を背後から狙うには絶好の場所であったからだ。
祁山に進出した孔明軍は軍律を厳しくして、隊伍堂々として進軍した。この威風堂々とした蜀軍に、南安、天水、安定の甘粛省三郡はいずれも魏に背いて、戦わずに降伏した。蜀軍は渭水上流域を占領して、東進策によって漢中に入り込んできた。この報せは漢中全域の魏軍にもたらされ、魏軍の中には動揺が趨った。
この時、明帝は西進して西安に大本営を置き、東進の構えを見せる孔明麾下の蜀軍を牽制したのである。
そして蜀軍前衛部隊の総指揮官に馬謖を用いたことは周知の通りである。
孔明が第一次北伐に出撃したのは健興五年(227)の春、四十七歳の時であった。
そして第二次北伐は健興六年の冬十一月で、祁山に進出して達しえなかった孔明は、散関を越えて、宝鶏(陜西省)にある陳倉城を包囲した。
陳倉城の守備隊は僅かに千人足らずであったが、魏の豪将・カクショウに率いられる守備隊は敢然として抵抗した。
孔明はこの時発明した、雲梯(うんてい/長梯子の一種で周りには矢止めに牛皮を張ったもの)、衝車(しょうしゃ/馬に引かせた戦車)、井闌(せいらん/高い櫓から矢を射掛ける兵具)等を用いたが、悉々く抵抗され、目的達成がならなかった。
ついに今度は、地下トンネルを掘って城内に入ろうとしたが、逆に城内からトンネルを作って、孔明側のトンネルを崩して回った。
こうした陳倉城攻防戦は二十日余り続いたが、さすがの孔明も兵糧が尽きた為に撤退せざるを得なかった。
翌健興七年に、魏の領国もっとも辺境に属するチベット族の武都と陰平の二郡を攻めて、これを手中にした。ここは重要な拠点でなかったが、あえてこれを行った。
目的は陳倉城の再攻略であり、陳倉城をこう攻略するに当って、敵に与える心理効果と、味方の士気を高める為であった。
戦略には、心理的効果を狙った全局的に負けの暗示を与える間接的な心理を利用したものがあり、一つでも、奪われたという事実は、敵に与える動揺が大きいものである。
孔明はこうした心理を以て、蜀軍を鼓舞しようとしたのである。
蜀の後主・劉禅はこうした孔明の働きの功を賞し、再び丞相将軍に復帰させた。この時、孔明は丞相府を南山の下原(現在の四川省南部県)に定め、これより東南の漢城、西南に楽城を築いて、魏攻略の足固めにした。そしてこの年に、勇猛で鳴らした名老将・趙雲が死んだ。
翌健興八年八月、魏は対蜀戦線以上ありとして、事態の急を告げ、曹真軍を斜谷道から、仲達軍を西城から、そしてチョウコウ軍を子午道から発進させ、漢中支配を目論む蜀軍の積極的討伐作戦に転じてきた。
ところがこの月、大雨が降り続き、中原の河川が氾濫した。巴蜀も同様であった。
この時は雌雄を決する事なく、両軍は戈を収めた。
健興九年(231)二月、孔明は三度目の北伐に向かい天水郡の祁山を包囲した。これに応じて仲達も出撃した。
目標は第一次北伐と同じく、祁山(きざん)であった。
これまで二度にたる北伐と同じように、今回もその泣き所は延び切った兵站部(へいたんぶ)であった。
成都からの兵糧輸送が如何に難しいか身を以て体験し、三度目の北伐は独自のアイディアによって、木牛や流馬を用いて兵糧を輸送する立案を計画した。
孔明の発明による木牛は一輪車であり、流馬は四輪車で、物資輸送の運搬車であった。物を運ぶのに、車輪というものが用いられたのはこれが初めてだという。
狭い道でも、手押しの一輪車の木牛は、狭い蜀の桟道も難無く通過でき、また四輪車の流馬は、大量に物を運ぶには非常に便利だった。
孔明は軍需物資を運び終えて、魏軍の出城である祁山を包囲した。ここを守るのは、魏軍の中でも名だたる魏平らの将軍であった。
包囲が終わると孔明は、鮮卑族の軻比能(かひのう)を喚び策を授けた。その策とは、長安の北方、北地郡石城を荒させて、魏軍の動きを牽制(けんせい)させる事であった。
魏は大司馬の曹真が病没した為、司馬仲達が関中の中核都市の長安を鎮守していた。そして孔明が祁山を包囲したと知ると、麾下の費曜(ひよう)と戴陵(たいりょう)の二名将に精衛四千の兵を授けて、西南の守備を任せ、自らは主力軍を率いて祁山救援に向かった。
孔明は仲達が出撃したと知ると、蜀軍を二つに分け、一軍は祁山を包囲させておいて、残りの一軍は自らが率いて、費曜の先遣隊を軽く一蹴した上で、わざわざ辺り一面の麦を刈り取り、兵糧を確保して魏軍を挑発した。
こうして孔明と仲達ははじめて対決する事になったのであるが、賢明な仲達は戦いを避けて、近くの要害に立て籠り、孔明もやむなく兵を引き揚げた。
これを見て仲達が孔明の後を追った。しかし孔明は祁山近くの山に立て籠り、塹壕(ざんごう)を掘って持久戦に出る構えを見せた。
仲達は、蜀軍の延び切った兵站部が孔明の泣き所と見て、麦を刈り取ったのはあながち挑発ばかりでなく、兵糧が欠乏しているからだと読んだ。
しかし持久戦の構えを見せている孔明に対して、仲達の部下たちはしびれを切らせ始め、祁山に立て籠っていた魏平らは、「公は蜀を畏るること虎の如し。天下の笑いいかんせん」とまで意見具申を始めた。
こうまで言われてはさすがの仲達も黙ってはおれず、意を決して孔明軍に戦いを仕掛けたが、結果はさんざんであった。
仲達軍は、孔明が次々に繰り出した魏延、高翔(こうしょう)、呉班(ごはん)の軍勢に大敗を喫し、馘級三千、鐙(あぶみ)五千、弩(ど)三千百が奪い取られ、大損害を被った。
仲達はこのさんざんな負け戦に逃げ返り、そのまま閉じ籠って動こうとしなかった。
また孔明も、折角の勝ち戦であったが、兵糧の補給がつかない事を嘆いて、漢中府に引き揚げる事にした。
兵糧補給の事情がよくない孔明は、苦戦を強いられながらも、木牛や流馬の発明で、何とかこれを凌いでいたが、仲達は孔明の策にまんまと乗せられ、大損害を被る。
しかし孔明も、食料の補給がつかず、漢中府に引き揚げるしかなかった。
この撤退の報せを聞くと、仲達はさっそく勇将のチョウコウに蜀軍の追撃を命じた。
仲達は深追いを禁じた。
しかしチョウコウは、「撤退する敵を深追いして、全滅させるのは兵法のいほはではありませんか」と反論し、仲達の命令を破って深追いに転じた。
孔明は、これを予測して辺りの地形を利用し、伏兵を設けた。この伏兵の策にチョウコウはまんまと嵌り、蜀軍の矢に当り、呆気なく死んでしまった。
●孔明の編み出した「交替休養制」のアイディア
祁山に布陣中、孔明は十人に二人は交替で帰国させた。
しかし接戦状態に陥ると、この交替に参謀からクレームがついた。
「今、交替させては、戦争継続が不可能になるではありませんか」
これに対して孔明は、
「約束した事は、必ず守るのが法家としての基本である。春秋の昔、文公(ぶんこう)は原城を包囲した時、三日間で終わらせると約束したが、三日かかっても城は落ちなかった。落城寸前ではあったが、三日かかって落とせない以上、四日目に持ち越さず、さっさと兵を引き、兵士との約束を守った。
このようにして古人も、信義を守り、約束を守ったのである。私も法家として約束を守りたい。
次の交替要員は既に帰り支度を整え、また兵士の家族も、その日が来るのをかねてから待ち構えている。皆、兵士の帰りを首を長くして待っているのだ。戦局が困難であるからといって、一旦約束した休暇を取り消して、いまさら兵務に就けとは信義にも劣る。休暇は取り消してはならぬ」
孔明はこう断言したのである。
これを聞いて、兵士達は感激した。そして交替要員は全員帰還させた。
帰国した兵士達は、再び孔明の許にやってくると、
「諸葛公のご恩に報いる為に、われわれは命賭けで戦おうぞ。命の或る限り、諸葛公と運命をともにしよう」と、将兵ともども誓い合った。
再び戦火が切って落とされた。
彼等兵士は、勇敢に白刃を振り翳し、我先にと敵陣に飛び込んで行った。兵士の奮闘振りは目覚ましく、その働きは凄まじいもので、一人で十人を倒したと史書は伝えている。
●兵士を人格教育した孔明
孔明は『韓非子』を知り抜いた法家の武人である。
しかし法家が重罰主義を用いて、人を動かすという意味からすると、孔明の人情味溢れる部下への配慮は、むしろ韓非子流というより、老子流と言えなくもない。
法家の考え方は、法によって人は動くという。それも然りである。そして罰則あるところ、必ずその前段階として「規則」なるものがある。
これを違背とした時、処罰することによって規則に従わせようとする分けである。
『韓非子』は人間を性悪説から考える。人間は、年齢が下がり、教養程度が下がると、自立的な行動をとれない者が多くなる。これを処罰で脅し、一定の秩序で世の中を運営しようというのが律法である。これは世界の何処の国でも、社会運営の手段として用いられている。
実際に他人に迷惑を掛けたり、法に触れる人間を社会のルールに従わせるためには、人間が人間として、人間である為の、最低条件となるであろう。
また世の中を平穏に守り、平和を維持して行く為には、一罰百戒の厳罰主義も必要になってくる。
しかしである。
厳罰主義はあくまで社会運営の為の方法であって、それが人間を、人間となさしめる究極の目的ではない。こうした社会ルールは、人間が人間として、人間になりえる為の、予備段階的なものであり、教育段階での修養期間である。
法により、あるいは厳罰により、人間を恫喝して、人間を育てるという事が、果たして人間教育になるのか。
厳罰主義は人間を法によって脅す事にある。脅せば言う事を聞くであろうが、これは心から服して言う事を聞くのではない。それは単に権威に服従している事だけなのである。
無能な教育者は、規則に触れる生徒が出ると、罰則によって掃除をさせたり、無料奉仕に朝から晩まで駆り立てて、こうした事を要求するが、これこそ教育者としては無能である事を自分自ら証明しているようなものである。
また無能な経営者は、社員が仕事に失敗し、その失敗を理由に左遷したり、降格する者がいるが、失敗を畏れていたら、社員は失敗から教訓を学ぶ事が出来なくなり、失敗してもそれを正直に報告せず、隠すようになる。こうした社員教育をしている経営者は、自らが無能であると証明しているようなものである。
日本は明治維新を経て外国勢力の外圧に屈し、欧米一辺倒の処世術を学び、白人主導の世界の中に飛び込んで行ったが、これは必ずしも日本社会の近代化とは結び付かなかった。小賢しい、西洋流の処世術だけが鼻につくようになった。
民主主義といえば、主権在民で、言葉尻を捉えれば中々の美名に映る。しかしこの主義の正体は個人主義であり、自分だけがよければというエゴイズムである。
したがって自分以外の他人は、粗末に扱われてしまう。
それは徳川封建時代よりも、あるいはそれ依然の十六世紀の乱世の戦国時代においても、古人は今日のように決して人間を粗末に扱わなかった。
人間が粗末に扱われ、命が粗末に扱われ出したのは、明治維新以降の富国強兵政策が西洋の植民地主義、帝国主義として日本に輸入された時からであった。
この考え方は今日でも替わりなく、特に兵士の訓練には、人間を人間と思わず、人格破壊によって命令に忠実な、消耗品としての下級軍人を作る為に、人が粗末に扱われる現実がある。
今日でもいずれの国の軍隊でも下級軍人は、一種の消耗品である。したがって兵士は兵士であって、武技を練る武人としては扱われない。
兵士は消耗品であるから、徴兵によって駆り立て、必ずしも育てる必要はないのである。
一概には、かつての日本陸海軍も、兵を訓練するのに「兵士教育」と称したが、それは消耗品としての戦士教育であり、ただの部品であり、道具としての躾の意味で、人格教育には程遠かった。
その証拠に、太平洋戦争末期、海軍から始まった特別攻撃隊という人間無視の特殊な攻撃法は、志願によって暗黙の了解で募集した事は、かつての戦争指導者の最大の罪である。
これに比べて、孔明の温情はどうであったか、比べようもない。
蜀の兵士は何故強かったか。
それは孔明が、兵士を消耗品と考えず、人間と看做していたからである。したがって兵士も、この総大将のためならば、自分は命を賭けて戦ってもいいというようになる。
かつて北支で日本軍が武装解除になり、この戦場で終戦を迎えた将兵達はソ連の突如の参戦で、その多くは捕虜となりシベリアに抑留された。
この時、ある陸軍大佐が、配給のパンに対して、「パンは階級順に大きい方から配れ!」と命令した。これを聞いた下級兵士達は、一瞬空いた口が塞がらず、後で「あんな奴の為に、むざむざと命を失わずに済んだ」と罵倒したそうである。
これなども、権力を笠に着た、虎の威を藉る狐であった。
●適材適所に人を用いる
蜀軍の将兵の奮闘振りは目覚ましく、着実に承知を重ねていた。
ところが兵站部が延びきり、再び食糧補給に悩まされ、やむなく撤退が余儀なくされた。
その撤退責任は後方支援の漢中府にあり、兵站の事務を司っていた李厳(りげん)は、降り続く雨のせいにして食糧補給が儘ならないとし、補給路の確保を怠り、陣中には撤退は後主・劉禅からだと撤退命令を伝え、一方、孔明が撤退の為に陣払いにかかると、今度は寝耳に水とばかりに、孔明が勝手に引き揚げてきたと言いふらして廻った。
李厳は自分の責任逃れを、一方で劉禅の命令といい、もう一方で、孔明が勝手に引き揚げてきたと、責任転嫁をして、孔明を陥れる肚であった。
こうした人間はどの時代も、あるいは何処にでも居るのである。
ただ問題なのは、こうした人間を「穢い」からといって、ただ斬って捨てるのか、それとも他の遣い道を考えるのかという事である。
凡夫・無能の経営者の類は、おそらく前者を安易に選択してしまうであろう。
しかし孔明は、こうした人間も上手に遣ったのである。
これまで李厳は、国家の大事も顧みないで、私利私欲に趨り、自分だけの地位や名誉を求めて奔走した人間である。上には弱く、下には強く、いつも下の者に威張り腐って、傲慢な性格であった。あることないこと、言いふらし、自分の都合の言いように物事を考え、どうにもならない鼻つまみであった。
第一次北伐の折り、事務官である李厳は、孔明が申し渡した漢中府駐屯を断わり、巴州の五郡の刺吏(長官)をやらせてくれるように変更を願い出た。孔明は刺吏を許可した。
また第二次北伐の際も、孔明の申し渡した漢中府の留守居役を断わり、将軍府をやらせてくれとねじ込んだのである。そして李厳は将軍格となった。
李福の肚は、どさくさに紛れて、少しでも楽で、少しでも上の地位を要求したのであった。孔明は仕方なくこれに応じるしかなかった。
そして第三次北伐にも、孔明は李厳の部隊に漢中府を守らせる必要から、今度は先手を打って、李厳の子の李豊(りほう)を江州の長官に任命して、李厳を漢中に赴任させるように仕組んだのである。
これは傍(はた)から見れば、李厳への厚遇であり、彼の言に従って機嫌とりをしているように映る。
しかし孔明は、国家危急の存亡に際して、李厳の短所を責めるよりは彼の名誉心と歓心を煽って、天下国家の為に、貴重な彼の才能を役立てようとしたのである。
孔明は、李厳の子・李豊を長官に任命した。息子が長官である以上、李厳も漢中に向かわない分けには行かず、李厳が到着すると後方支援の采配は総て彼に任せたのである。
戦いが済むと、孔明は李厳の罪に対して弾劾(だんがい)を開始した。後主・劉禅に上奏し、李厳の階級を平民に落とし、梓潼郡(しとうぐん)に流したのである。しかしその子・李豊はそのままの地位において、孔明は李豊に手紙を送った。
「道を思えば、則(すなわ)ち、福(さいわい)なるは、応(まさ)に自然の数(さだめ)なり。願わくば、都護(李厳)を寛慰(なぐさ)め、前の闕(あやまち)を勒追(ろくつい)せよ」と書き記し、尚も、かつて旧交のあった李厳を思いやった。
李豊はこうした孔明の配慮に深く感動した。
●五丈原
健興十二年春二月、孔明は十万の大軍を率いて第四次北伐へと向かった。
第三次北伐を終え、第四次北伐に移るまで約三年の歳月が流れた。疲弊しきった蜀軍は、こうした三年間という準備期間を設けなければ、国の経済は回復する事が出来なかったのである。
孔明はこの進攻作戦に蜀軍の総力を挙げて取りかかった。決戦の構えを見せた。
出撃ルートも慎重に検討し、今回は西安に近い斜谷道を選択し、孔明はこの一戦に賭ける意気込みだった。そして斜谷道を通過して、一旦武功(ぶこう)に出た孔明は、西側の渭水(いすい)の南側に当る秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)の北麓の五丈原(ごじょうげん)に布陣した。
五丈原は丘陵であり、渭水の南岸に突き出した秦嶺山脈の北麓にあり、ここから東方を臨めば石頭河(せきとうが)が流れ、北には渭水を臨む。そしてこの場所は、守るに易く、攻めるに難しい要地であった。
さて、五丈原の「原」(げん)と言う意味は、野原の原ではなく、中国西北の黄土大地特有の「台地」を指す言葉である。
仲達はこの時、「彼地の住民は作物を渭水の南岸に貯蔵しているはずだ。したがって戦場となるのは南岸だ」と踏んでいた。
そして仲達は魏の大将を集めてこう言い放った。
「もし孔明に勇気があるのなら、一旦武功方面に出て、秦嶺の北麓を東に向けて進攻するであろう。そうなれば我々にとっても事だが、西に向かって五丈原に登ったならば、我が軍は安泰である」
武功以東の広大な関中平野は、大軍を動かすには打って付けの戦場であった。饒(ゆた)かな農村地帯が広がっているから、兵糧の心配もない。そのような所に、用兵の扱いに長けた孔明が出てきたら、仲達も対応に苦戦を強いられる事になるが、もし五丈原から西の渭水南岸に釘付けしてしまえば、いずれは兵糧が尽きて撤退を余儀なくされるであろう。そうなれば、その時に勝機が訪れると読んだのである。またこうなれば、短期決戦も可能であると考えたのである。
孔明はこの時、奇策を避け、正攻法で五丈原に布陣した。これを最も喜んだのは仲達であった。読み通りであったからだ。
五丈原を蜀全軍の根拠地と決定した孔明は、まずこれまでの反省として、遠征の為、思うように兵糧が出来なかった事を挙げ、まず、成都から運んだ兵糧だけに頼らず、部隊を分けて屯田(とんでん)させ、渭水沿いの農民に交じって農耕に従事させた。
この時、孔明は軍律を厳しくして、土着の農民の私財を略奪する行為を固く禁じた為、農民との間にはトラブルは発生しなかった。
仲達は魏軍三十万を率いて渭水を渡り、彼もまた渭水南岸に砦を築き、孔明軍と対峙した。
●天下の奇才なり
「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という諺(ことわざ)がある。
対峙した両軍は、奇策に奇策が用いられ、この間も両軍の知恵比べの戦闘は続くが、いずれも雌雄が決し難かった。
仲達は五丈原に出撃する際に、あらかじめ明帝から、こう言い渡されていた。
「堅固な陣を築いて敵を撃退せよ。敵は進むこともならず、退くこともならず、長期戦となれば、いずれ兵糧も尽きて、略奪を重ねて農民の支持を失う。そうなれば必ず敗走する。その時に追撃するのが、最良の策であり、休養充分な我が軍を以て、疲労困憊の蜀軍を討てば勝利は必ず我が軍に転がり込む」
仲達は、こう言い渡されていたので、対峙したまま動こうとしなかった。
動こうとしない仲達に、孔明は様々な誘い出しの策を遣う。一向に動こうとしない、仲達に、今度は婦人用の髪飾りと衣服を送り、「男なら出てきて戦え。その勇気がなければ、これで女の恰好をして、そうして引っ込んでいるがいい」と挑発したのである。
仲達はこれに激怒し、無礼なと怒った上奏文を明帝に届け、決戦の許しを請うた。しかし明帝は「持久戦に貫徹せよ」と命じただけで、決戦を許可しなかった。
その後、仲達は孔明の挑発に誘われて度々討って出ようよしたが、皇帝の遣わした勅使に止められ、出陣をあきらめた。
これを知った孔明の側近は言った。
「勅使が来たからには、仲達も二度と出てこないでしょうか」
「いや、仲達自身が出てこようとしないのだ。決戦をしたいと上奏してみせたのは、討って出ようとはやる将兵を宥(なだ)める為だ。君主の命令であっても、受けてはならぬ場合がある。もし仲達に戦う意志があるのなら、何故、朝廷にまで許しを請うものか」
仲達が孔明を見透かしていたように、孔明もまた、仲達の意図を見透かしていたのである。
しかし両軍の戦いは持久戦に突入した。孔明自身も覚悟していた持久戦は、徐々に長引き、日一日と長引くなかで、彼の疲労も蓄積されて行った。
こうした中、最も彼を悩ませたのは大将魏延と長史(文官の長)楊儀(ようぎ)の対立だった。
魏延は、孔明とともに第一次北伐に参戦し、子午谷から長安を奇襲する作戦が退けられて以来、孔明の指揮や作戦には批判的であった。また、彼は孔明が経験に乏しい馬謖を前衛部隊の総指揮官に任じ、ために大敗を喫した事にも、孔明には批判的であった。
一方、孔明に酔心する楊儀は、魏延と真っ向から対立し、もともと軍事と後方支援を司る事務とは両者が二人三脚になって居なければならないのであるが、これが対立した為、孔明はこの板挟みとなって腐心の両者の調整に当らねばならなかった。
そして孔明の欠点を挙げるならば、彼には何事も自分で目を通さなければ気がすまない処があり、喩えば軍律違反で二十回以上の鞭(むち)打ちの刑に処する時も、自らが決裁するというこだわりようだった。
ために食事は一日合、数壕という少なさであった。
これを人伝(ひとづて)に聞いた仲達は、「孔明の躰、斃(たお)るるは、それを能(よ)く久しからんや」と語った。要するに孔明の命はそんなに長くないという意味であった。
この時、司馬懿仲達は弟の司馬孚(しばふ)に書面を送り、孔明をこう評した。
「孔明は大望を抱いているのにもかかわらず、機を見る目がなく、謀略は長けているものの決断力が乏しく、戦いを好みながらも臨機応変の才がない。今は、十万の兵を率いているとはいえ、既に我が術中に陥っている。退却するのは間もなくである」と自信満々に述べたという。
そして孔明はついに血を吐いた。五丈原に布陣して半年後の事だった。肺か胃の病気を抱えていたと言われる。
孔明の病気は重く、五丈原(ごじょうげん)の陣中で重態に陥った。これを知った劉禅は、秘書官の李福(りふく)を五丈原に遣わし、国家の方針の意見を求めた。李福は孔明の意見を漏らさず聞き取り帰途に就いた矢先、ハッとした。肝心な事を聞き忘れていたのである。
孔明は李福が何故戻ってきたか承知していた。
「そなたが引き戻した分けは知っている」
「先ほど、閣下にお尋ねしようとして申しそびれてしまった事が御座います。百年の後、閣下の後を継がれます方はどなた様かと思いまして……」
孔明は「ショウエンがふさわしかろう」と答えた。
「ではショウエン殿の後は……?」
「ヒイがよかろう」
「ではヒイ殿の後は?」
孔明は答えなかった。
孔明は沈黙を保った。この沈黙は何を意味するのか。孔明の答えた人物の二人でよいと思ったのであろうか。それとも、後はこの二人の人物以外に、人材不足の為に継ぐべき者が居ないと言いたかったのであろうか。しかし今は、その真意を知る由もない。
五丈原に大きな流星が落ちた。仲達はこれを見て、孔明が敗戦する前兆だと見た。そして孔明軍の後方から奇襲を掛け、馘級五百余、捕虜六百余、拉致(らち)した農民千余という戦火を挙げたが、孔明の死はこれとほぼ同じ頃であった。
この年の八月、孔明は五丈原の人中で没した。時に五十四歳であった。
統帥を失った蜀軍は、まず陣営に火を掛け慌ただしさが趨った。そして全軍は孔明の喪を隠して棺を守り、撤退の途に就いた。この異様な行動は、土民によって仲達の陣営にももたらされた。
仲達が直ぐさま追撃を開始した。
蜀軍は、孔明の死ぬ寸前の策に従い、部下に言い残した。
「わしが死んだら、我が軍の旗を高々と掲げよ。出陣の軍鼓を打ち鳴らせ。追撃があったら反撃の構えを見せよ」これだけを言い残して孔明は死んだ。
蜀軍は孔明の遺言通り、この危機に際してわざと旗を掲げ、軍鼓を打ち鳴らし、仲達軍の追撃を見たので反撃の態勢を取った。
この時、殿(しんがり)を勤めたのは、自ら殿軍の先鋒としてその役を買って出た楊儀であった。楊儀は孔明のこれまでの恩に報いる為、軍鼓を打ち鳴らし、威風堂々とした、毅然とした姿で魏軍を迎え撃つつもりだった。
仲達はこれに畏(おそ)れて、直ちに軍を停止させた。
「切羽つまった敵を追い詰めては、かえってこちらが危ない」
孔明は、死んだと見せかけて、実はまだ生きているのではないかという疑いを抱いたのである。そして慌てて逃げ戻り、それ以上の追撃はしなかった。
仲達が軍を停止させて押し留める中、楊儀はしずしずと撤退して行った。
その間、蜀軍は陣容を立て直し、斜谷道(やこくどう)に至って、はじめて孔明の喪を発した。
土地の人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と囃(もてはや)し立てた。
これを聞いた仲達は苦笑して、
「我は生を料(はか)るも、死を料る能(あた)わず」と漏らした。
意味は、生者が相手ならどうにでも料理してくれるが、死者が相手ならどうにもならないという名言である。
この後、退却後の蜀軍の陣営の後を見て回り、その敷陣の見事さに感嘆の声を漏らした。
「孔明こそ、天下の奇才なり」
司馬仲達が魏随一の知将なればこそ、知略家としての孔明の力量を計り知る事が出来、率直に孔明の才能を見たのであろう。
劉備玄徳の後主劉禅は、孔明の死を悼(いた)み、特使を下原の丞相府に派遣して、孔明に「丞相武郷侯」の印綬(官印)と、「忠武侯」という謚号を贈り、その遺骸は生前からの願であった、「水魚の交わり」を結んだ劉備との思い出の古戦場・漢中の定軍山に葬られた。
そしてこれより人は、孔明を「諸葛武侯」と呼ぶようになった。
定軍山は218年から219年に掛けて、蜀が魏と漢中支配を目してその争奪を行った所で、この時、蜀の大将・黄忠(こうちゅう)が魏の宿将・夏侯淵(かこうえん)を斬って勝敗を決した記念すべきと場所であった。
孔明が定軍山をわざわざ指定したのは、死して後もなお、宿敵・魏と対決しようという、覚悟すら窺えるのである。
●清流の知将・諸葛亮孔明
孔明は、まさに三国時代を清々しいほどの清らかさで駆け抜けた偉大な知略家であった。
概ね人は、大臣まで登り詰め、一旦権力の座に就くと、その地位を悪用したり、以前の約束を反故にして人民の膏血(こうけつ)を搾(しぼ)り、賄賂を取って巨万の富を蓄えるのが常である。これは今も昔も変わりがない。
国家人民の運命には何の関心も示さず、ひたすら我が身一身の保身を計ろうとするのが、世の小人(しょうにん)政治家である。
しかし孔明は、小国といえども一国の宰相であり、覇業に賭けた遠征軍の総帥として国家経営に粉骨砕身、これに尽くした。そして国家の運命に準じた後、孔明の死後、残された私財は清々しいほど、纔(わずか)なものであった。
「身を殺して仁をなす」を地で行った人物である。
そしてそれに見合うかのように、孔明は成都に桑(くわ)八百株と、やせた土地十五頃(けい/一頃は458,6アール)を僅かに所有するだけで、それ以外の余分な財産は一切蓄えていなかった。
家族が何とか衣食を賄い、それに見合うだけの俸禄(ほうろく)があればそれで充分であると考えていた。
孔明の心には、一片の私心もなく、憂国の情に燃え、それを実現せんが為に尽力した情熱は、壮大なロマンが感じられる。
そしてそれは恰度、武田信玄の軍師であった山本勘助と重なり合う。
両人は、生きた時代も、年齢も、国も違うが、どこか壮大なロマンを両者が胸中に秘め、乱世にあって、知を磨き、知略家として、粉骨砕身し、ただ一身に燃焼した人生を送った事は、その両者に軍師としての共通性を持つ。
それなるが故に、今もなお私達の裡(うち)なる存在として、いつ迄も、激しい印象を以て、鮮明に生き続けるのである。 |