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誇りの裏付けとなる数々の技法
人はなぜ山に登るのか。これについて明確に答えられる人は少ないだろう。あるいは言葉で表現できないのかも知れない。しかし高山には、俗界と違う、何かがあるはずである。
 かつて、「山に居る人」を仙人といい、下界の「谷に落ちる人」を俗人と呼んだ時代があった。

 現代人は、その殆どが、みな平野部か、谷に当たる部分に棲(す)んでいる。この意味で、現代人は「俗人」といえるだろう。


西郷派大東流の呼吸法概論 ■
(さいごうはだいとうりゅうのこきゅうほうがいろん)

●死は呼吸法で云う、新生の為の「吐気」である

 生命には寿命がる。寿命に随(したが)って、生きとし生けるものは、死を迎える。三次元の肉の眼で検(み)れば、死で総(すべ)てが終わってように見える。「眼に見えないもの」が存在しないからだ。

 しかし、本当はそうではない。一旦生命は失われ、生命の姿形がなくなったとしても、また新しく、新生する。三次元の肉の眼に見えない生命は、実は本当の生命として、今もなお、存在している。多くの人が見失うのは、この点であり、凡夫(ぼんぷ)の多くには「人間は死ねば、それでお終(しま)いよ」などという考え方が独占するのである。

 しかしである。生命というものは、偶然に、何処からともなく湧(わ)いてくるものではないことは明らかだ。それには必然的理由がある。
 生命は、偶然という形で、形態を為(な)すものではない。必ず、そこには必然が有り、因縁があるはずだ。
 それは呼吸の「吐納」を見れば明らかであろう。呼吸の生と死である、吐気と吸気は、連続しているからである。武息(ぶそく)のような、少し高度な呼吸法ですら、「停気(ていき)」を挟んで、永遠に連続している。つまり、生命は生死を繰り返して循環しているということである。

 生命(いのち)の循環の中には、予(あらかじ)「絶え間ない命」というものがあり、そして、あるとき必然と因縁に応じて、生命という形をとり、姿を顕(あらわ)すものなのである。これは生命の循環であり、生命は非存在である為、生まれては、また「消える」という現象を起こすのである。そして、また違う形の生命(いのち)が顕(あらわ)れて、生と死を繰り返す。現象界とは、こうした処(ところ)である。

 この意味においては、まさに人間が無意識に行っている呼吸法のサイクルの中にこそ、生きとし生けるものの「生命の営み」がある。

 特に、胎児だった頃、母親の胎内の羊水(ようすい)の中で、胎児は皆、胎息(たいそく)という特殊な呼吸法をしていた。そうした記憶が、潜在意識の中に誰でも刻まれている。しかし、生れ落ちて、成長するに随(したが)い、胎内の羊水の中で、泳いでいた特殊な呼吸法は忘れてしまうのである。ここに現世に出現した人間の不幸があるのかも知れない。この不幸現象が、まさに病気だったのである。

 誰の心の中にも、「あの世は地獄」というような、猟奇的な妄念が巣食って居る。それを怕(こわ)いと、身を震(ふる)わせても、今日これから床に就く人は、睡眠することを怕いとは露(つゆ)ほども思わないだろう。それは人間の「免疫寛容」によるものであるからだ。

 原子物理学的に、「呼吸の一つひとつ」を取り上げれば、人間の存在としての「生」も、ほんの一瞬の間であるという。この瞬(まばた)きするほどの短い「生」が、人の一生であり、今、生きているという、この瞬間なのである。

 したがって、人間の吐気(とき)は、仏道で言うならば、釈尊(しゃくそん)の言う、「死の世界」であろう。
 そして納気(のうき)は「生の世界」である。そう考えると、私たち人間は瞬間瞬間に、生と死を繰り返している事になる。この事実は、如何なる反論でも否定できないであろう。同時に、この事実から、「死がなければ生が起らず、また生があるから死が起る」という定理が導き出せるのである。
 まさに、これこそ「呼吸法」を髣髴(ほうふつ)とさせるではないか。

 例えば、「冬」という季節は、死を髣髴とさせる季節である。冬に訪れる木枯らしは、樹木を枯らし、大地を凍(い)てつく寒さで覆(おお)う。草木の総(すべ)ては、枯れて死んだようになる。如何にも寂(さび)しい季節である。総てが寂寥感(せきりょうかん)で覆われる。
 しかし、やがて春が来れば、死んだように森閑(しんかん)とした世界にも、再び草木は芽を出し、花をつける。ここの季節が巡る因縁がある。

 もし、これが舞台劇の装置であるとして、舞台裏で一番忙しいのは、何もかもが死んだように森閑とした、この季節ではないか。死んだように、冷え冷えとしたこの季節ではないか。
 そして、死んだように、寂しそうに見える季節こそ、実は死を意味する冬の季節なのである。つまり「冬」とは、「殖(ふ)ゆ」であり、次の準備の為に、一番忙しい季節なのである。

 また舞台裏では、フォーシーズンの中で、一年のうちで最も旺盛な活動をする季節であり、来るべき時機(とき)に備えて、準備をしている季節が冬なのである。死を迎えることこそ、人生では最高に準備に忙しい季節であり、この季節に準備を怠ると、残された結果は不成仏に成り下がるしかないのである。此処にこそ、筆者は「人生の妙味」があると思っている。
 死から逃げ回らずに、「死」にこそ、乾杯をしたい。それは再生の為の死であるからだ。

 冬は、「殖ゆ」の季節。準備で忙しく、大童(おおわらわ)の季節。
 ところが、何の準備もなしに、春になって花は咲いたりはしない。冬の準備があって、花は咲くものである。だから、春には見事な花が咲く。もし、いま死に直面しているというのであれば、それは胸躍(むねおど)「躍動の季節」なのである。

 呼吸法の吐納の玄理(げんり)から考えると、生と死は表裏一体であり、実は同根なのである。生も、また死も、人生の等しい、生命(いのち)の発現なのである。そして両者は、同根である以上、「死」は生命が姿を変えたものなのである。

 

●大いなる還元力

 生命の循環と、生命の根源に焦点を当てるとき、私たち人間は、生命の根源の中で、循環する形で生まれて来たに過ぎず、たまたま「今」とうい時点に、形ある生命を繋(つな)いでいるに過ぎない。「今」という時限を生きているに過ぎないのである。
 人間の「生」とは、形ある生命(いのち)から、形のある伝達事項を送り、それを日常と非日常に関わらず、生きとし生けるものとして、営みをしているに過ぎない。

 つまり、三次元の肉の眼には見えない、異次元世界が、現世の三次元世界に関わっていることだけなのであり、「肉の眼に見えないもの」は、総て「眼に見えない生命」の顕(あらわ)れであり、これが「私」や「あなた」として存在しているだけなのである。

 総ては、決して減るものではなく、また増えるものでないことは、釈尊(しゃくそん)が説いた「不増不滅の法則」にはっきりと定められ、また、基礎物理学の世界にも、「質量保存の法則」があるではないか。これは生命が、増えたり減ったりしないことを説いている。

 したがって、生命は「ただ変化するだけのもの」である。此処を見失い、見逃しては、人類の頭上に「永遠の死が訪れる」のである。
 時節が変化する如く、自然界のサイクルは、春夏秋冬で季節を巡るではないか。この春夏秋冬の自然のサイクルの中には、春が死んだからといって、夏が来るというものではないことを明確にしている。

 季節は変化するだけのことである。循環するだけのことである。此処に大自然の「大いなる還元力」が働いているのである。
 春が夏を呼び、夏が秋を呼び、秋が冬を呼び、冬が春を呼ぶのである。まさに循環し、ここに大自然の「大いなる還元力」が働いているのである。

 人間もこれと同じように、ただ姿形が変化しているだけのことである。変化する実態から言えば、人間の生命(いのち)も同じだろう。大自然の循環の中に、人は生きる因縁によって生かされているというべきであろう。
 その生きる上で、人間は生命を全(まっと)うする義務がある。苦しいからとか、激痛に耐え難いという理由で、自ら死を求めてはならない。生きて生きて、生き抜いて、苦しみに対しては、一生懸命に七転八倒をすればよいことである。こうした「今」に、人間自身が身を置き、この現実を「今」に求めなければならない。そして「今の一呼吸(ひとこきゅう)」に、総てが凝縮されているのである。

 

●山と性的エネルギーと呼吸法の話

 現世という、人間現象界では、形のあるものはやがて消えていく。東洋医学的な思想も、此処に由来する。東洋医学の特徴は、「命の変幻」という思想がその背景にあり、姿形のあるものは、やがて変化して消えていくという思想的基盤がある。

 しかし、その一方で、この世の中の「性的エネルギーは限りなく膨張する」という思想を抱え込んでいる。この世の中は一切に性的エネルギーを抱え込んでいて、それが総てに満たされ、ますます膨張しているのである。

 この事は、人間という存在がなくならないことが雄弁に物語っている。人間の存在は繁殖にある。よって、繁殖期の第一次は、第二次で上回り、性的エネルギーは無限大に殖(ふ)えていくのである。

 この東洋医学的な発想で、世の中というものを考えた場合、此処には至る所で、エクスタシーが溢れ、その顕れが、つまり、「私」が生まれ、「あなた」が生まれたことである。これは同じエクスタシーの中から生まれたことを顕している。そして、それぞれは、一見個々に動いているようであって、実は同じエクスタシーのエネルギーによって動かされているのである。

 現代人の多くは、この現実を殆ど見逃している。しかし、同根のエクスタシーから発祥したとするならば、私たちはこの点について、もっと大きな価値観を置き、この価値観を求めるように行動してもよいのではないか。

 どう贔屓目(ひいきめ)に検(み)ても、同根の性的エネルギーが至る所で溢れ、時代が下るにしたがって、益々氾濫(はんらん)する状態になっている。

 それは恋愛小説やテレビドラマ、映画や歌謡曲を見聞きしても分かるであろう。主役はいつも決まりきった、若い男と若い女である。これは今も昔も変わりがない。
 また、販売される商品をとっても、これは明白であろう。資本主義社会で、市場原理が働く所以は、性的エネルギーの発散があるからだ。また、こうした物でなければ売れない。

 それは食品であれ、家電製品や携帯電話、更には車に至るまで、性的エネルギーの皆無であるものは、全く売れない。第一、そんなものは存在しないだろう。
 消費者の購買威力を描きたてるものは、みな「性」に絡み、性的な自己満足がなければ売れないのである。性を謳歌(おうか)し、性を喚起するものだけが、生き残れるのである。

 これこそが中国道教で言う、「タオイズム」であり、この根源には、中国の秘境と称された場所に、「タオ」そのものが存在するという。勿論、ここでいう秘境とは、嶮(けわ)しい山麓(さんろく)を指し、この遥(はる)か山頂に、古来より仙人が住み着いたといわれる。そして、ここに住み着いた仙人は、何千年もの長い間、生きて来たと謂(い)われるのである。

 さて、東洋医学では「先天の気」は、腎臓に宿っているといわれる。この腎臓は、極めて生殖器に関与している臓器であり、更には、「骨」と「耳」に関係しているという。

 生命というものは、みな姿形を変えていく中で、仙人だけが何ゆえ、姿形を変えずに、長生きが可能なのか。
 それは仙人の持つ「先天の気」ではなく、「後天の気」が関係していることが多いようだ。仙人は、伝説上の人間なのか、あるいは実際に存続を続けて居たのかは別として、ここには一種の気宇壮大なロマンがあり、仙人は「後天の気」より、性的エネルギーを取り出して、それを生きる原動力としたという推測が成り立つ。

 一般に食物には、「精」が宿っており、それが生きている間、そこから生命を抽出して、躰の中に詰め込む方法を編み出したのが、「仙術」という、仙人ご自慢の術である。
 一般に考える仙人像は、「霞(かずみ)を食べて生きている」といわれるが、一体これは、どういう意味なのか。

 人間の持って生まれた「先天の気」であるエネルギーを、多くの人間が、繁殖の為に使い果たして死んでいく。ところが仙人は、「先天の気」を先祖から貰ったエネルギーとして増殖させ、これを安易に使い果たすことはない。更に、このエネルギーを自己内で増殖させ、然(しか)もそれを使わないのである。益々溜め込み、「精」へと変換していくのである。

 一方、仙人は山の高いところに登る。あるいは高いところに棲む。それはエネルギーを上に挙げていく為である。高山を好むのは、エネルギー保存に最も優れ、山に居ることで、仙人としての資格は保たれる。仙人は「山に居る人」である。だから「仙人」という。

高山に登れば、そこには下界とは違う、何かが見えてくる。

 その一方で、「俗人」という種族の人が居る。俗人は、「谷に落ちる人」の意味である。つまり、先祖や親から貰った性的エネルギーを使って、射精や排泄によって使い果たし、身を落としていく人のことをいう。だから、「谷に落ちる人」のことを、「俗人」という。
 これは、仙人とは対照的である。この事が、俗人といわれる所以(ゆえん)である。俗人は、高山のような空気の綺麗なところには居ない。下界の淀(よど)んだ空気の中に居る。経済優先で、利益追求に余念がない。金・物・色にほだされて、これに奔走する。夜の巷(ちまた)の嬌声(きょうせい)の中を徘徊(はいかい)する。
 だから、淀みの中で種々の病魔に襲われる。

 また一方、俗人は生殖器を通じて、因縁から起る子供を作るが、仙人は自己の体内の中に、「光の子供」を宿す。 この「光の子供」こそ、極めてよく練り上げられ、昇華されたエネルギーのことである。
 したがって、次世代に繋(つな)げる生命の性的エネルギーに加えて、更に食物の中からも、同じような性的エネルギーを抽出するのに、優れた能力を持っている。それが仙人である。

 仙人は食物の中から、裡側(うちがわ)に蓄える性的エネルギーを抽出するのである。この性的エネルギーは、四ツ足などの、人間と同じ性(さが)を同じとする共食いを避ける為に、動物の肉は摂らない。動物の肉は、血液を汚染し、短命する元凶であるからだ。
 また、従来の性的エネルギーを、更に精選して、「精的エネルギー」に変換させるのに、動物や乳製品などの動蛋白は不適当であるからだ。

 仙人は、食物から第二種の工程で、「精的エネルギー」を変換する方法を知っている。それは、一つは酸素であり、また、食物を酸素で分解するのである。こうして昇華された「精的エネルギー」が作られる。

 酸素により、食物をよりよく分解する為には、空気の汚い俗人界では、目的が達せられない。だから仙人は、山頂の空気の綺麗な高山に棲(す)み、そこで植物が新鮮に繁茂(はんも)しているところでしか生きていけない。

 更に、もう一つの仙人が長寿を全うする秘訣は、「心」である。心が綺麗で、清らかでないと、精的エネルギーを蓄積することが出来ない。
 欲などがあり、常に煩悩(ぼんのう)に煽られるようでは、心が清らかにはならないし、最終目標は達成されない。

 したがって、仙人は、性的な衝動が起ったとしても、これに安易に排泄はしない。更に仙人は、膨大で絶大な精的エネルギーを溜め込んでいるにもかかわらず、排泄という、射精の類(たぐい)の愚行は行わず、更に欲情すらも外に漏らさず、内に溜め込むのである。
 こうして溜め込むことにより、これまでの俗人とは違う「性的エネルギー」を溜め込み、その溜め込んだ後、遂にこのエネルギーを、1ランク上の「精的エネルギー」に変換させ、昇華させ、精なるエネルギーに満たされて、千年単位の長寿が全うできるという。これが仙人が霞(かすみ)を食べ、何千年々も生きられる秘訣であるらしい。

 この話は、勿論、寓話を交えての話であるから、その真相は定かでないが、仙人が仙人たる所以(ゆえん)は、独自に「陽気」を発生させて、これを体内に巡らす「周天法」にあるらしい。周天法で得たものが「光の子供」であるらしい。

 仙人は陽気のエネルギーを丹田に蓄え、それを丹田から発気させて、会陰(えいん)、命門(めいもん)、夾脊(きょうせき/脊柱上の経穴)、玉枕(ぎょくちん)の上昇させて、やがて泥丸(でいがん)に至り、印堂(いんどう)を経由して人中(じんちゅう)、天突(てんとつ)を巡らせ、やがてこれを元の丹田に戻す術を編み出した。これを「小周天」という。正中線上にある、任脈(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)のルートである。

 更に、丹田に蓄えた「陽気」を全身に隈なく循環させて、再び戻す術を「大周天」という。躰全体が黄金に輝くという。

 仙術などで、仙人の房中術を「接して漏らさず」などと、俗人は揶揄(やゆ)するが、仙人は安易に排出する「精」を決して漏らすことなく、遂に溜め込み、「陽気」として蓄えたのである。
 一方俗人は、性的エネルギーを無駄に浪費する。盛りがついた発情期の動物のように異性を求めて奔走する。そして、「接して無駄に漏らす」のである。これにより「精」が衰弱する。仙人とは対照的である。

 また仙人は親を経由して、先祖から貰った「先天の気」を、食物から精的エネルギーに変換する方法を編み出し、更にこれを殖(ふ)やし、「陽気」としたのである。この陽気こそ、仙人が言う「光の子供」であったのである。光の子供を宿し、更に「精」を蓄えていく。これこそが、仙人行法の真髄であったのである。

 今では、「精力絶倫」などと称して、精力の強いことを笑い話の一つに房中術を、でっち挙げているようであるが、これは生命の大事さが理解できない俗人が垂れ流す侮蔑俗語(ぶべつぞくご)であり、本来、仙人が意図した言葉ではない。

 昨今では、「性」を対称にしている猥褻(わいせつ)サイトや、この手の講習会を開くと、どこも満員になり、儲け話の一つに挙げられているが、こうした卑猥(ひわい)なことを考える、中年男女は、その深層心理に「仙術の性を学べば、セックスが疲れないで出来、精力絶倫の状態で性交遊戯が出来るのではないか」という期待が、こうしたものへ興味を向けているようである。

 また、仙術や房中術の「性」を、不倫の材料として、女漁(あさ)りや男漁りをするのが今日の、中年男女の行動パターンで、誰とでも寝て、疲れないセックスに目をぎらつかせているようだ。
 これこそ、世の中が「一億総不倫」に傾き、至る所で性的エネルギーが浪費されていることを物語っているといえよう。だから世の中は、俗人の性的エネルギーで満ち溢れているのである。

 古くから人間に、潜在的に先祖から伝わった「後天的性エネルギー」は、今や、その排泄口を求めて右往左往している。現代人に残された先祖からの先天的な性エネルギーが遺伝子情報の何処に残っていて、この記憶が時々暴れ出し、性衝動を起こしているのではないか。それが昨今の「性の氾濫(はんらん)」ではないか。
 人間の欲望は、外に向かって限りなく拡散・膨張しているのである。

 また、この性衝動が存在する限り、俗界での俗人の性エネルギーの膨張は止まることがないであろう。半永久的に、拡散・膨張し続けるだろう。この拡散・膨張の中に、現代人は生きているのであって、私たちが、「今、生きている」ということは、人類を生きるのと同義語になり、私たち人間が生きるということは、地球の中で、「地球を生きている」という意味ではなかったのか。

 だから現代人は、既に忘れてしまったのであるが、「人間が生きる」ということは、地球と倶(とも)に生き、大宇宙と倶に存在し、あらゆる人々と倶にあり、「現世」という二つとない、このシナリオのないドラマを生きていることになりはしないか。

 現象界で起ることは、「結果」に合った「原因」が派生している。原因こそ、結果の裏返しであり、結果が原因を派生させ、結果に則した形で、結果が原因を辿って居るのではないか。

 したがって、いま起っている結果は、元を辿れば、やはり結果に則した原因が、過去に在(あ)ったということにもなる。
 もしかしたら、現代人の残された命題は、過去を辿り、生命の源泉にまで遡(さかのぼ)る旅が定められているのではあるまいか。
 また、これが、生と死の源泉から立ち上る「生命のひと雫(しずく)である、呼吸法で謂(い)う、「阿吽(あうん)」ではないのだろうか。

 

●山頂でする呼吸法

 「人間に磨きをかける」ということは、途方もない苦労を必要とする。気の遠くなるような路程を辿り、遂には、生まれた意義を検討し、あるいは生まれ直しを求めて、再び過去へと帰っていかなければならない。つまり、自分が生まれたということは、もう一度、過去に遡ることを再検討することである。

 では、自分の過去に遡(さかのぼ)るとは、一体どういうことか。
 それは呼吸法を顧みることである。
 例えば、呼吸が浅く、常に胸式呼吸だけを、人間がする呼吸法と思っている人は、自分がしている呼吸を、決して「浅い」とは思わない。また、多くの現代人は、このように無自覚のまま、浅い呼吸に何の疑いも抱いていない。

 しかし、呼吸法の歴史に中には、かなり古くから、意識と無意識を探求する為に、「修行」という形を用いて、「呼吸法」の研究に努力を傾けてきた痕跡(こんせき)がある。そして、この研究の行き着いた先は、呼吸は、意識下でもできるし、 無意識下でもできるという法則を発見したのであった。
 この歴史は非常に古く、役行者(えん‐ぎょうじゃ)の小角(おずぬ)が登場したという時代であるから、日本では最古の伝統を持つ修行法であるといえるであろう。

役行者・小角図像

 『続日本紀(しょく‐にほんぎ)』 によれば、文武天皇3年(699)5月24日条に、次のように記している箇所がある。
 「役君(えだちのきみ)小角を伊豆の嶋(しま)に配流した。はじめ小角は葛城山(かつらぎやま)に住む呪術者(じゅじゅつ‐しゃ)として知られていたが、弟子の外従五位下(げじゅごいのげ)韓国連広足(からくにのむらじ‐ひろたり)はその呪力(じゅりょく)を妬(ねた)み、妖(あや)しい言葉で人々を惑わしていると讒言(ざんげん)したので、遠流(おんる)に処された。世間では、小角は鬼神(きじん)を使役するのが得意で、水を汲ませ薪(たきぎ)を採らせ、命令に従わない場合は、鬼神を呪縛(じゅばく)したという」

 これによれば、小角は7世紀後半に葛城山(現在の金剛山を主峰とする山系)を中心に活動していたことになり、呪術者として、また山岳修験者として、かなりの人望があったことになり、この人望が仇(あだ)となり、讒言により伊豆に流されたといえよう。
 更に、ここに登場する鬼神は、当時の律令国家の権力の及ばない山中を、自分達の棲家(すみか)にしており、「山の民」と称された人々である。そのイメージから役行者像は、前鬼ぜんき/水瓶(すいびょう)を持つ)と後鬼ごき/斧(おの)を持つ)の姿に反映したのではないかと思われる。

 そして、役行者の登場は、日本においては神道、仏教、道教の三者が出合い、それが習合して、独自の山岳信仰を発展させ、山岳修験道になっていった歴史を持つと考えられる。つまり山岳信仰の対象は、やはり仙人と俗人の違いにあるようで、仙人である「山の人」は、高山に棲(す)み、俗人である「谷に落ちる人」は、下界の俗界に棲んでいたことが識別されている。

 では、役行者は「何ゆえ高山を好み、山岳地帯を棲家(すみか)としたのか」ということになる。
 それは大きく呼吸法と絡んでいたからであろう。また、呼吸は意識下から無意識下に繋(つな)がる為、此処には連絡回路があると思われる。

 一般に呼吸が浅いといわれる人は、胸式呼吸をしている人であり、この浅い呼吸をしている人に、どういう事態があこるかというと、それは自律神経を不安定にさせるなどの症状で、その最たるものが高血圧症であろう。これは外から入り込んだ病気ではなく、自らが、裡側(うちがわ)で、心を歪(ひず)ませて作り上げた病気である。

 浅い呼吸をしている人は、「肚(はら)の鍛錬」が出来ていない為に、自律神経を安定させることが出来ず、怒りっぽく、何事かに苛(いら)ついて、不安に脅(おび)えている人である。そして、来てもいない明日のことにまで、思い悩む。
 こうした人は、往々にして血圧が高く、動脈も硬化状態にあり、肚(はら)が据(すわ)っていない。その為に、心筋に負担が懸かり、末端の毛細血管までに、血を送る為に、かなりの圧力が懸かるのである。

 また、呼吸自体が肺を広げない為に、酸素と二酸化炭素の交換が悪くなるのである。つまり、呼吸が浅いということは、二酸化炭素が常に残った状態になって、血管末端部の毛細血管に酸素が送れないという状態になっているのである。また、こうした現象が、脳溢血や脳血栓、脳卒中という症状を惹(ひ)き起こすのである。

 更に浅い呼吸は、肺内部の上部だけでして居る呼吸であり、こうした呼吸動作は、肺を充分に動かさないという運動不足が起る。
 一般に運動不足というと、単にスポーツや競技をしないことを運動不足と勘違いするようであるが、実は本当の運動不足は、内臓や呼吸器系の臓器を充分に動かさないことの方が、本来的に検(み)て運動不足なのである。

 特に、呼吸器系の運動不足について、肺を充分に動かさないということは、実は横隔膜(おうかくまく)が充分に動かさないということであり、また、横隔膜の吐いたり膨らましたりして起る、生物電流が、横隔膜運動の運動不足で、容易に発生しないということになる。人間の体内に起る生物電流は、「陽気発生」の為の必要条件であり、この生物電流が発生しないことには、体内は益々陰圧の高い「陰気」で汚染され、陰気は邪気や邪霊を呼び寄せるという恐ろしいものである。

 その為に、身体的にも大きな不都合が起り、その結果、酸素と二酸化炭素の交換が悪くなり、酸素の少ない状態になって、血液が循環すれば、当然の如く生理代謝が、うまく行かないのである。このうまく行かなくなった状態の最たるものが、高血圧症である。高血圧症になれば、種々の異常事態が発生し、極めて免疫力が低下するのである。

 浅い呼吸が、酸素の二酸化炭素の交換率を悪くし、この悪さが、酸素の少ない血液を体内に流しているということになる。したがって、末端の細胞や毛細血管も目詰まりを起して酸欠状態となり、生理代謝がうまく行かなくなってしまうのである。
 その為に、高血圧症とか、動脈が硬化状態にある人は、往々にして血の巡りが悪く、頑迷で、物分りが悪く、間違いを指摘されても、これを素直に受け容れることが出来ず、協調性や順応力に乏しく、自分の人生を激怒や憤怒の状態で過ごす人である。この症状が進むと、最終的には鬱血(うっせき)状態となり、まさに生きながら、精神的植物人間になるのである。これが「ボケ老人」の実態である。

 高血圧症は、普段の呼吸の浅さから来る、呼吸法そのものの間違いであり、一般に呼吸など習わなくても出来ると考えている人が多いようだが、これが年齢を重ね、歳をとると、これまで自分のやっていた呼吸の間違いに思い当たってくるのであるが、多くの人は此処までのことに気付かず、高血圧になるのは塩分を取り過ぎで、それが原因で高血圧症になってしまったと考えるのである。まさか、自分の呼吸が浅いことにまでは思い当たらないようである。

 こうした人生の元凶から逃れるには、まず、呼吸法を正しく知ることであろう。その為には、呼吸を深くして、長い息をし、躰全体を充分に使い、特に肺臓を動かすことである。肺に充分に酸素を送り込むことが出来れば、血液中に取り込む酸素も多くなり、代謝機能の効率が格段によくなってくる。

 多くの人は、自分の躰には血液が巡らなければ生きていけないということは知っている。ところが、血液の中には、酸素が必要であるということには、あまり気付いていないようである。更に、血を動かしているのは、東洋医学では「気」であるとし、「気」があるから血液が動いていることまでは、余り知られていないようである。

 一方、現代医学は、十六世紀に組み立てられた、イギリス皇帝の宮廷医であったウィリアム・ハーヴェーの『心臓原動力説』が血液循環理論の基礎を成しており、東洋医学でいう「気の血行力学」は殆ど認めていないようだ。
 そして、大半の現代医学者たちは、盲目的に370年以上も前に提唱された『心臓原動力説』(1628年に発表された論文)を盲目的に信奉している。

 血液循環の原動力が、現代医学が言うように「心臓のポンプ作用」にあるのか、東洋医学のいう、「飢えた細胞の血液の吸引力」にあるのか、両者は大変な隔たりを持っている。
 また、東洋医学や民間療法でいう、断食によって血液循環の不全が改善されるという事実を見れば、「細胞が飢える為に、血液を要求する為、血液の吸引力が増大し、その結果、血液循環が促進される。更に、不完全であった病巣部の血液も正常化する」という臨床例より、血液の循環は、どうも心臓のポンプ作用のみではなさそうである。

 つまり、血液循環の原動力は心臓のポンプ作用であるとする現代医学では、断食によって、例えば中耳炎や蓄膿症が血液循環の不全がなくなることで、これが感知するという臨床例を説明できないからである。

 また、「西医学」の西勝造先生は、「血液の原動力は全身の細胞が飢えることによって生じる血液の吸引力にある」と論じている。これは、血の運行は「気」であるということになる。そして、循環する運行に関わっているのは「血気」である。

 気によって、人は生命(いのち)の流れを順調にし、気によって、生命の顕(あらわ)れを表現するのである。そして、人が本来するべき呼吸は、胸式呼吸ではなく、「腹式呼吸」であり、腹式呼吸の方が生理的には合っているのである。したがって、胸式呼吸だけでいいとか、胸式呼吸の方が正しいという考え方が、「腹式呼吸の大事」を知るこで、これまでの呼吸法に対する考え方が一変するのである。

 現代人が、多忙に追われて日常生活をしているので、その多くは腹式呼吸の大事さまで思い至らず、胸式呼吸の、「意識下」の浅い呼吸をしている。この意識下の呼吸が、高血圧症などの弊害を招くのである。そして強い意識下では、往々にして胸式呼吸のみが主体となり、この浅い呼吸が「緊張の息」という元凶を作り出すのである。
 つまり、人間が高血圧症になるという病根の根源には、この「緊張の息」という病魔を知らず知らずのうちに招き寄せていたのである。

 また、「緊張の息」は、単に高血圧症や動脈硬化だけを招くのではなく、ストレスを作り出し、このストレスは、種々の成人病を合併症に落とし入れ、ストレスから発症する慢性病が、実はガン発症だったのである。
 この元凶になったものは、免疫力低下に問題を抱え、毎日6000個も発生するガン細胞を、免疫力低下で、退治できなかったからである。

 病気の根源になる「トラウマ」というものは、ストレスの中に隠れ潜んでいて、これが血液中の酸素不足を招き、まず、血圧を上げるという「悪さ」をする。その上、病気になる根源であるトラウマを、多くの人は、臓器などの中に溜め込み、そこが胃であったり、大腸であったり、あるいは肺であったりするのである。このようにして、いろいろな五臓六腑に溜め込む為、その一番弱い部分にトラウマが取り憑(つ)くのである。
 例えば、その人にとって、肝臓が一番弱い箇所とすると、そこに取り憑いて、肝臓ガンを発症させるのである。

  要するに人間という生き物は、知らず知らずのうちに、無意識のまま、そのトラウマを呼吸器系の胸に溜め込んだり、消化器系の胃や腸に溜め込んで、感情を蓄積する傾向があるのである。その上で、これらが漏れてしまわないようにと、筋肉でしっかりと押さえ込み、閉じ込めてしまっているのである。
 これが「人の我(が)」であり、この「我」こそ、頑迷や頑固といわれる病根の根源なのである。よく、「あの人は我の強い人だ」とかいうが、実は、この我こそ、筋肉で押さえ込んで、閉じ込めてしまったトラウマの正体なのである。

 一方、「肚(はら)を割って話す」という俚諺(りげん)がある。
 これは、割らなければならないほど固く閉じ込めてしまった「我」であるので、トラウマを消滅させるには、やがり「肚を割る」必要がある。これこそが、頑固で頑迷なトラウマの正体である。

 東洋では、「肚」は古来より、「感情を表す箇所」として言い伝えられてきたが、よく考えると、「腹の固さ」については、子供と大人とでは医学的に見ても違うようだ。子供の腹は実に柔らかく、これに比べて大人の腹は、かなり固いものである。この、「大人の固い腹」こそ、頑固で頑迷な「我」であり、その正体はトラウマである。固いから、しこりもあり、この「しこり」が種々の病因を招くのである。

大人と子供の瞳の大きさの違い(画像クリックで拡大)
イラスト/曽川 彩

 また、眼を見た場合、子供の眼は、まず最初に気付くことが、「非常に瞳が大きい」ということである。これは純粋さを顕している証拠であり、その純粋な感情が、そのまま眼に顕れているのが、「子供の眼」である。更に子供の眼の特徴は、光を取り入れたら、光をそのまま素直な感情として、放出できる優れた感性を持っている。

 一方大人の眼となると、太陽の光を取り入れないように制限してしまっている。こうした人の眼は、瞳が小さく、これこそが「我」の象徴というべきものである。こうした「我」の強い人は、 腹の固さも相当で、ここでも感情を、自分なりに制限している元凶が顕れている。

 こうした眼は、純粋さや素直さが欠け、疑い深く、心と躰を鎧(よろい)で覆った状態になって、とても深い呼吸は出来ないような状態になっている。大きく息を吸い込もうとしても、鎧で固めた心の躰は、胸いっぱい、腹いっぱい息を吸い込んで膨らませることが出来ない。
 この状態が実は高血圧症の正体であり、またこの症状は多くの合併症を招く為、免疫力を低下させ、また、ストレスも呼び込むので、少しでも隙(すき)を作れば、ガン発症という最悪な事態が訪れるのである。

 大人の眼と子供の眼を比較した場合、それは「瞳の大きさ」に違いが顕れるわけであるが、同時の感情の豊かさや、心のおおらかさ、純真で素直な気質が、大いに失われているのが大人の眼であり、これは子供以上に小さな瞳をしているのである。

 一方、大人の眼も、都会育ちの人と、山国育ちの人と比較しても、その瞳の大きさは異なっている。山国育ちの人は、いつも山岳地帯の大自然に囲まれて育った為、その瞳は都会人に比べて大きいのである。喩(たと)え、瞼(まぶた)が一重瞼であっても、瞳だけを観察すると、都会人の二重瞼の人に比べて、瞳の大きさは断然大きいのである。

 この瞳が大きいということは、太陽光線もありのまま、自然のままに受け入れ、素直で純真であることを顕している。
 もともと、日本民族は、海洋族と山岳族の雑種民族であり、これは古典神話の、『海幸彦と山幸彦』の神話からも分かるであろう。

 神話によれば、彦火火出見尊(ひこほほでみ‐の‐みこと)である山幸彦が、兄の火照命(ほでり‐の‐みこと)の海幸彦と、猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求める為、塩椎神(しおつち‐の‐かみ)の教えにより海宮に赴き、海神の綿津見神(わたつみ‐の‐かみ)の女(むすめ)豐玉毘売(とよたまびめ)と結婚し、釣針と潮盈珠(しおみち‐の‐たま)と潮乾珠(しおひ‐の‐たま)を得て、兄を降伏させたという話に由来し、日本人のルーツは山岳民族であるようだ。この象徴が、眼の瞳の大きさだった。

 高山に登り、そこで深呼吸をするという行動は、まず、吐気(とき)を吐き出し、次に呼気を行う際に、胸いっぱいに息を吸い込むということである。山頂の、澄んだ綺麗な空気を腹いっぱい吸い込み、酸素と二酸化炭素を交換するのである。
 同時に、これまで溜め込んだ病気の源であったトラウマを吐き出し、これと引き換えに新鮮で綺麗な空気を充分に吸い込むのである。

 これまでのトラウマという「しこり」を超えて、自分で高山の山頂で深呼吸してみれば、自分が如何に浅い呼吸をしていて、呼吸法自体が間違っていたか、容易に気付くであろう。脈が速くなったり、血圧が高くなっていたのは、とにかく呼吸が弱く、せわしなく、浅い呼吸で、生きる為の生命力が欠乏状態になっていたということである。

 これを回避し、挽回するには、まず、大きく、最初の吐息を吐いて、次に腹いっぱい深呼吸することである。まず、大きく吐けば、次に自然と深い吸気が出来るはずである。更に、自然を腹いっぱい吸うことである。ただ、これだけのことを、やれば勝手に吐いて、勝手に吸っている自分に気付くはずである。

 また、そのことを知れば、これまでの間違った呼吸パターンが廃止されて、正しい呼吸法が出来るようになり、高血圧症の人はそれだけで、最高血圧値は40は下がるのである。これを実行するのに何の難しいことはない。山に登り、山頂で深呼吸をし、これまでの間違った、浅い呼吸を止めればよいのである。これまで溜め込んでいた、古い気と倶に、酸欠状態の息を持てる力を使って口から吐き出し、充分に吐き出した後、今度は静かに鼻から吸い込めばよいのである。
 この時の要領としては、吐くときは口から重たく吐き、吸うときは、後頭部の後ろを突き抜けるようなイメージで、軽く、静かに吸い上げればよいのである。これだけで、新旧は交換され、新たな精気は体内に漲り、細胞を活性化させるのである。

 疾患というのは、過去の病変の映像が、「今」に具現されたことで、総ての間違いは、過去の依存していたものであり、結局その出所を辿れば、疾患者は、これまでの自己の生活習慣の誤りから起ったことが、「今」という次元に具現されたことが分かるであろう。
 今を変えれば、種々の病気から解放の糸口がつかめるのである。

 

●現代文明が齎すストレスというトラウマ

 昔は、ストレスの原因になるものといえば、天地大自然から起る旱魃(かんばつ)や大洪水なのであった。これを昔の人は、勝手に神の怒りと思い込み、悩んでいたのである。シャーマニズムが起ったのも、こうした理由からであった。つまり、多くは内因性の、僅かなものであった。
 あるいは時には、戦争などという人間が人工的に作り出した、政治的なメカニズムもあったが、今日の多くのストレスに比べれば、高が知れたものであった。

 ところが、現代は科学万能主義の時代だというが、これにより得た、快適さや便利さに引き換え、不快さも増加している。
 航空機や鉄道、それに自家用車という人間の足に変わる乗り物は、人間の二足歩行の不便さを解消し、快適な移動性を齎(もたら)した。しかし、同時に自家用車を初めとする交通機関の発達は、排気ガス、騒音、秒刻みの慌しさなどの人間性や情緒を疎外(そがい)する元凶を生んだ。

 人間は文明という名の贅肉と引き換えに、それ以上のものを失っているのである。
 中でも、高速道路は車が掛けるブレーキにより、電磁波を発生させ、高速鉄道も同じくブレーキにより電磁波を作り出している。また、家庭内を顧みれば、あらゆる家電製品があり、照明や冷暖房のエアコンからテレビやコンピュータまで、此処から発生するものは、総てがプラス・イオンである。

 電磁波やプラス・イオンは自然界の中にも存在するが、人間が人工的に作り出すものに比べれば、そんなに大したものではない。むしろ人間が人工的に作り出すパワーの方がより大きいのである。

 そして、現代社会の空間には、人間が呼吸法などをしようと思っても、それを行える場所が極めて少なくなってきているのである。つまり、「修行環境が失われている」ということだ。

 その上、幹線道路が通っていたり、高架線の上を電車が通るところでは、自動車や電車がカーブを切るところでは、それが緩やかであっても、強い抵抗が起き、少なからず電磁波が発生し、また、プラス・イオンが発生しているのである。そして、そこに発生するプラスイオンの発生の影響は、一軒二軒単位ではなく、数百メートル、数キロメートルの広範囲に及んでいる。こうしたところでは、修行どころではないだろう。

 それに輪を掛けて、家電製品が常に作動しているのであるから、悪影響を及ぼすプラス・イオンは相当なもので、更にもう一つが現代社会の特徴である、高層マンションからの悪影響である。

 高層マンションは大気中のイオン、つまり大気電界は空気の汚れたところでは、プラスになり易い。特に、都心部の平野地の、海抜の低いところに建てられた高層マンションほど、この傾向が強い。
 尤も、大地にピッタリと建つ、平屋の地上部でも、地球磁気の作用により、発生した地球電界の影響は強いが、高層マンションの上階に比べれば取るに足らないものである。高層マンションの上階ほど、大気電界が強くなり、この空間は殆ど呼吸法などの修行が難しいところである。また、こうしたところで、無理に呼吸法を行うと、まず躰を壊すだろう。

 理由は、大気電界の強さによる。プラスイオンが、マンション上階では強力なのである。したがって、平野部で、市街地の地域に建てられた高層マンションでは、不安定な大気電界が充満していて、そこでは常にプラス・イオンが発生しているのである。
 その証拠に、例えばマンションのテラスで、植物などを育てると、直ぐに枯れてしまうのはプラス・イオンが影響しているからである。マンションの上階のテラスでは、植物が平地に比べて育ちにくいのである。

 植物か直ぐに枯れることからして、こうした高層住宅での修行環境では、却(かえ)って不健康を増進するようなものである。これも近代の物質文明が生んだ、紛れもないストレスである。そして、ある研究筋の「ガン発症率のデータ」によると、山地の高山地域に棲(す)んでいる人よりも、かつて海などを埋め立てて作った海岸に近い平野部に住んでいる人の方が、ガン発症率は高く、また高血圧などの発症率も、圧倒的に高いといわれている。

 これは、まず住んでいる人の場所が海岸に近いか、内陸部の山地であるかであり、その地域のナトロン塩とカリ塩の格差があると思われる。次に、プラス・イオンの発生量である。もし、ナトロン塩が勝っていて、プラス・イオンの発生量が多ければ、当然、内陸部の山地の人に比べて、不健康にはなり易いだろう。また、四ツ足などの食肉を好んで常食すれば、健康状態は更に悪化するのである。これこそが、ストレスの正体である。

 こうしたストレスから抜け出す為には、定期的に都心から抜け出し、山に入る必要があろう。
 かつて仙人が山で修行したのは、こうした理由による。
 また、平野部の平地に棲む人は、やはりしっかりとした大地に根を下ろした一階か、高くても二階どまりのところで修行する以外ないのである。そして、修行の場を選択する場合、三階以上の場所は避けたほうが無難であろう。
 現代人は、トラウマに、わが健康を奪われようとしているのである。こうした元凶から抜け出し、本来の自己を見詰める時代こそが、まさに「現代」という時代である。ここに俗人と仙人を結ぶ接点があるように思うのである。

 

●俗人と仙人を繋ぐ調息呼吸

 俗人と仙人の接点を見出すとするならば、それは呼吸法であろう。呼吸法こそ、両者を結ぶ接点であり、それは「調息呼吸」である

 調息呼吸を行う環境は、まず森閑(しんかん)とした静寂の中である。静かであることが、調息呼吸を行う上では、最も大事なことで、その空間は騒音で満たされたり、空気が綺麗でない処は不適格である。静寂の中に身を置いてこそ、呼吸法の条件が達せられる。

 こうした静寂の中に身を置き、いま暫(しばら)く静かに、自分のしている呼吸に気付くと、胸部のところが、まず上下運動をしていることが分かるであろう。つまり、横隔膜(おうかくまく)は横に膨らむのではなく、縦に上下するということである。この縦の上下が、実は生物電流を発生させる源なのである。
 しかし、一方で、横隔膜の胸部で行うこの呼吸は、所謂(いわゆる)、凡息(ぼんそく)といわれるもので、俗人がする呼吸である。

 凡息では、胸の広がりや、横隔膜の上下運動は極めて小さく、僅かな空気しか吸い込めないのである。呼吸回数も多く、せわしなく、吐いたかと思えば、直ぐに吸い込む短い呼吸で、極めて浅い呼吸である。この呼吸の連続が、実は現代病という病気を招く元凶になっている。呼吸が浅くては酸欠状態になり、血管内に酸素が送れないからである。

 一般に信じられている、喫煙者には「肺ガンが多い」とか、こうした喫煙者の家族や、周りに喫煙者の多い仕事場では、肺ガンになる人が多いと信じられているが、肺ガンの直接的な原因は、タバコの煙そのものにあるのではない。

 周囲の人が喫煙をしなくても、その人自体が、呼吸が浅ければ、やはり酸素と二酸化炭素の交換は充分に行われて居らず、浅い呼吸に、これまでの胸部に残る二酸化炭素と、大気中の有害物質が取り込まれるからである。肺ガン発生率を検(み)ると、実は喫煙者でも肺ガンに罹(かか)らない人が居るからである。このことは、タバコ自体が肺ガンを発症させる直接的な原因でないことを物語っている。

 その一方で、生まれてこの方、喫煙の習慣は皆無で、それで肺ガンになる人が居る。その人は、周囲に全くこうした喫煙をする人が、一人も居ないのに関わらず、肺ガンになるのである。

 こうした場合の問題点は、「喫煙の習慣がないのに、肺ガンになった」という、この点であり、この点をよく吟味すると、喫煙の習慣がないのに肺ガンになったという人の、生活習慣に問題があったのではないかと考えられる。

 その第一は、普段から深呼吸腹式呼吸を殆どした事がなく、呼吸法も知らず、こうしたことが禍(わざわい)している点である。
 第二に、食生活の中で、動蛋白摂取過剰で、その為に中庸(ちゅうよう)を崩し、血液が汚れていなかったかということである。血液の汚れは、間違いなくガン発症を誘引するものである。
 第三に、その人の棲(す)んでいる生活空間などの、周囲の環境である。大地に根を張っている一階か、二階か、何処の部分に寝起きしているのか、あるいは高層マンションの三階以上の、上階に棲(す)んでいるかということである。
 第四に、体質であり、体質が良いか悪いかということである。便秘症であったり、過食に疾(はし)るような生活習慣が身についていれば、どうしても血液を酸毒化し易く、腸内環境も優れているとはいえないだろう。
 第五に、睡眠時間は何時から何時迄で、就寝は午後何時で、起床は午前何時かという、時間帯の大事において、これを無視した行動をしていれば、当然そこには不健康や不摂生の皺(しわ)寄せが来るだろう。
 例えば、午後10時以降も、起きていて、テレビに夢中になったり、夜遅くまで遊びほうけ、遅い時間に寝て、午前8時過ぎの遅い時間に起きるといった、こうした生活のリズムの狂いは、当然そこには体内の「24時間時計」に狂いが出てこよう。

 人間は体内に、無意識に知覚する「24時間時計」が入っている。この時計の知覚で、人間は生活のリズムを維持しているのであるが、「太陽と倶に寝て、太陽と倶に起きる習慣」のない人は、「24時間時計」が狂っているのである。
 この狂いが、また病気を呼ぶのである。

 現代は昔と異なり、職業も多種多様である。夜間に働く人も多い。したがって職業上、現代という世の中は午後10時までに床に就くということは、甚だ難しい時代になったが、この難しさが現代病を招いているといえる。しかし、一週間のうち、あるいは一ヶ月のうち、やはり何日かは、午後10時までに寝て、朝は5時以前に眼を覚まして、太陽を拝むという行動があってもいいのではないだろうか。
 もし、こうした「24時間時計」に気付き、この狂いを少しでも訂正しておけば、病魔の禍(わざわい)から避けることは出来よう。また、現代人の多くが普段やっている凡息では、健康増進に何の役にも立たないことは、これでお分かりだろう。

 そこでお奨めしたいのが、「調息呼吸」である。
 但し、調息をやるには、ある程度の最低条件が必要である。都会人の多くは、自然環境に恵まれていない。したがって、本能的に、その呼吸は浅くなる。これは幸いというべきか、不幸というべきか、都会は余りにも空気が悪いので、大なり小なり、多くに有害物質で大気が汚れているので、ある意味で、「浅い呼吸」というのは防衛本能からそうなったのかも知れない。また、この環境下だからこそ、浅く、短い、せわしない呼吸をするのであろう。

 しかし、防衛本能を露(あらわ)にしつつ、いつまでも浅く、短い、せわしない呼吸では、そのうちに健康を害することは明白だろう。必然的に、病気環境の中に居るということになる。したがって、病気環境から抜け出す配慮と努力を怠ってはならないだろう。

 そこでお奨めしたいのが、調息呼吸であるが、まさか都会のど真ん中の、高速道路横の、汚染だらけの大気の下で、調息呼吸は出来ないだろう。その為に、やはり都会人の場合は、普段の凡息と、調息を組み合わせて、併用することが大事であろう。

 つまり、「24時間時計」の中で、普段の凡息は23時間していて、そのうちの1時間だけ、調息をするのである。こうすれば下腹を殆ど動かさない、浅い呼吸の運動不足も、解消されよう。運動不足とは、スポーツをしないことや、トレーニングジムに通っていないことを運動不足というのではない。
 最も肝心な、下腹を運動させるという深呼吸をしない運動の不足をいうのである。

 さて、調息呼吸を行うと、下腹の運動に伴って、横隔膜が下がり、肺が凡息とは比べ物にならないくらい大きく広がるのである。そして、呼吸の速度もゆったりしてきて、浅く、短い、せわしない呼吸から解放されるのである。その上、酸素摂取量は、凡息の約3倍以上であり、二酸化炭素の酸素の新旧を入れ替えることが出来る。沢山酸素を吸い込むことが出来れば、呼吸回数も自然と少なくなり、ゆったりとした寛ぎのひと時が訪れるのである。但し、やる場所や環境には配慮が要るであろう。

 調息呼吸をすると、酸素を大量に吸収するばかりでなく、下腹を動かす運動量が増えてくる。これはスポーツなどの力む運動とは異なり、心臓にも負担がかからないので、新陳代謝をよくする運動も兼ねるのである。

 下腹を殆ど動かさず、 運動といえば、スポーツをしたり、アスレチックジムに行ってその建物のランニングコーナーを走ったり、筋肉トレーニングマシンなどを遣ったり、室内テニスをしたり、プールで水泳をしたりと、やたらに「力む」ことばかりをするのが運動と考えている人が多いようであるが、こうした人に限って、心筋梗塞などで斃(たお)れて、突然死し易いものだ。

 こうした心臓障害で斃れやすい人は、西洋スポーツ的な、スポーツ体育理論に偏っていて、物事を「科学的」と称する弁証法的三次元思考をする人である。また、肉の眼で観察できるもの以外信じないという人である。
 したがって、「見えないもの」に対しては、侮蔑(ぶべつ)を込めてオカルトと称したり、科学的でないと一蹴する性癖を持っている。こうした人こそ、種々の病魔に警戒心を抱きながらも、最後には、「恐れるものは皆来る」の俚諺(りげん)に遵(したが)い、その人が「恐れるもの」によって、殺されていっているようだ。

 筆者は、こうした人をスポーツジム見学などで、よく見かけるのである。何とも皮肉なことであり、健康になる為にスポーツジムに通いながら、「運動」と称して、筋力運動はしているものの、みな「力む」ものばかりで、肝心な、「下腹を動かす」という、呼吸法で一番大事な、呼吸運動は疎(おろそ)かにしているのである。実に何とも、皮肉なことではないか。

 運動不足とは、「力むスポーツをしないこと」を運動不足というのではない。下腹を一日に、1時間程度、動かさないことを、本当の運動不足というのである。単に、体脂肪率ばかりの測定では、運動不足は見抜けないのである。

 下腹は、非常に血流の滞り易いところである。ここに血が留まり、鬱血(うっけつ)を起す。現に、都会人の腹を触ると、この部分が非常に固いのである。下腹の固い人は、鳩尾(みぞおち)から膀胱までの正中線上を左右四本の指で少し強めに押していくと、痛みを感じるという人は、間違いなく下腹に血が滞っている人で、既に腹部に鬱血を起している。

 こうした人は、心臓障害や血流障害を持っている。したがって、力むスポーツをやれば、当然心臓に大きな負担が懸かり、運が悪ければそのまま突然死して帰らぬ人になるのである。
 血の滞った下腹の運動不足を放棄して、放置したまま力むスポーツをやると、心臓に負担を懸け、心臓肥大症に進行する。また、下腹が固いまま放置して、カロリー摂取量の高いものや、動蛋白を摂り過ぎると、無気力になり、病弱となる。体液のアルカリ濃度が極めて低くなり、血液は酸毒化され、身体の「気」は外に向けられる為、性腺異常刺激状態となり、性欲のみが強くなる。病弱な人ほど、性欲が強い。それは性腺が刺激され、排泄本能だけが高まり、性的エネルギーを外に出そうとするからだ。

 性的エネルギーを膨張させては、早死の人生プロセスを辿る以外ないだろう。膨張する、性的エネルギーを押さえ、性器に逃げ込む「気」を抑止し、心臓に負担を懸けない為には、どうしても調息呼吸を行うことが好ましい。
 現代という時代は、老若男女を含め、至る所に「早死をする性的エネルギー」が溢れている。

 これを抑止しない限り、長寿は全うできないであろう。その為に、調息呼吸が必要である。これを行えば、心臓障害や血流障害を解消し、充実した基礎体力が維持できると倶(とも)に、体質改善に繋がるのである。そして、此処にこそ、俗人と仙人を結ぶ接点があるのである。


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