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槍術を含み独特の体捌きを錬成する

桜の木で造られた「仕込槍杖」。見た目は刀剣が仕込まれたように見えない巧妙な造り。(写真提供:大東美術刀剣店 福岡県公安委員会 第10221号)

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杖術
(じょうじゅつ)

●仕込槍杖

 杖とは、棒術や槍術に向かう為の、小手はじめの「動き」として、この動きの中に、中心課題に迫る秘術が隠されているのである。
 杖は、一つには、「振るう」ものである。二つには、「突く」ものである。三つには「打つ」ものである。四つは「払う」ものである。五つは「受ける」ものである。六つは「躱わす」ものである。七つは「捌く」ものである。

 では、「八つ」は何か。
 質問すると、誰もが行き詰る。情けない限りであるが、それも今日のように、室内稽古、道場内稽古では、それ以上、探求せよとは無理な過大なのかも知れない。
 「八つ」こそ、西郷派の論ずる、「刺す」ものであり、「薙ぐ」ものであり、「投げる」ものであるという、新たな戦闘思想、あるいは戦術論になるかも知れないが、「刺す」「薙ぐ」「投げる」は、構えなき構えから、突如飛び出してくるものである。

 西郷派には、「仕込槍杖(しこみやりじょう)の発想がある。
 これは「杖の中に槍が仕込んでいる」といえば、仕込杖(しこみづえ)のように、「ああ、そうなのか」と安易に落ち着いてしまうが、実はそうではない。

  仕込槍杖は、最後の最後で、例えば、「杖格闘戦」で絶対に活用に造られた「術」である。
 杖は何処まで、その杖そのものを、どんなに調べても、樫(かし)や琵琶(びわ)や桃の木からなる、単なる「杖」であり、これをどんなにひっくり返して眺(なが)めてみても、武器らしいところは、何処にも現れない。

 ところが、西郷派は、この最終的な杖が、「桜の木」である。何故、桜なのか。
 それは、第一に乾燥すれば「硬い」からであり、第二に「折れない」からであり、第三に濡れても腐らず「朽ちない」からである。だから、桜の木は、木の皮肌が美しく、気品を讃えている。普通、材木は、皮を剥(は)ぎ取って遣うのが常である。皮肌というのは、あまり利用されることは少ない。

 ところが、桜は違う。桜は、木そのものが硬い為、日本では「版木」に使われてきた。変形せず、その上に硬く、版木に使った場合、彫り物が決して崩れない。例えば、文字を彫れば、その版木は数百年単位で長持ちし、彫り込んだ字は、角が朽(く)ちたり、歪(ゆが)められたりしない。

 この特徴が、仕込槍杖(しこみやりじょう)に応用されたらどうなるだろうか。
 幕末期から明治にかけて、テロが横行したことは、歴史に明るい読者諸氏なら、既にご存知であろう。ざっと上げても大まかに次のような暗殺ならびに襲撃事件が起っている。

1867年(慶応3)
11月、京都近江屋で坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺。刺客は幕府見廻り役というが、真相は不明。(両名ともフリーメーソンで亀山社中)
1868年(明治元)
1月23日、暗殺予防礼発布。
1867年(明治元)

4月20日、官軍参謀・世良修蔵暗殺。

1869年(明治2)
1月5日、横井小楠暗殺。
1869年(明治2)
9月4日、日本陸軍の創立者・大村益次郎暗殺。(日本陸軍の五芒星(ごぼうせい)は、ユダヤの六芒星に準じ、メーソンの秘号)
1871年(明治4) 1月9日、参議広沢真臣(フリーメーソン結社員)暗殺。
1878年(明治11) 5月14日、大久保利通(フリーメーソン結社員)暗殺。
1882年(明治15) 4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。そしてこの年の7月には、朝鮮日本公使館員4人が暴徒によって虐殺され、京城ならびに仁川でも日本人十数名が虐殺されている。ここで注目したいのは、福沢諭吉が、日本人虐殺者であった暴徒を庇護していることである。
1889年(明治22) 2月11日、森有礼(フリーメーソン結社員)暗殺。
1889年(明治22) 10月19日、大隈重信(フリーメーソン結社員)狙撃事件。
1892年(明治25) 12月11日、渋沢栄一(フリーメーソン結社員)暗殺未遂事件。
1894年(明治27) 李朝末期の政治家・金玉均(キム‐オクキュン)上海で暗殺さる。
1901年(明治34) 6月21日、逓信相や東京市会議長を歴任した星亨(ほし‐とおる)暗殺。犯人は心形刀流の達人で宗家筋の伊庭想太郎。
1906年(明治39) 朝鮮軍司令長官・長谷川好道暗殺未遂事件。
1909年(明治42) 10月、伊藤博文(フリーメーソン結社員)、ハルピンで暗殺。

 時代は以上のように流れていった。この流れを深刻な顔をして、経緯を見守っていた男が居た。福沢諭吉である。

 明治新政府にとって、倒幕の政治的手段として、鼓舞した「尊皇攘夷思想」が、倒幕段階に達して、自らがその政権の座に就こうとすると、何とも厄介な障害物が顕れるようになった。幕府が攘夷の尊王浪士にテロリズムで討ち取られていったように、今度は明治新政府がテロリズムの脅威にさらされはじめた。

 そして手を焼き、明治新政府自体が尊王攘夷思想のテロリズムに振り回され、ほとほと手を焼いたのである。
 かつて、幕府には民間から募った「新撰組」という頼りがいがある民間ガードマンが居たが、倒幕が実現し、ガードマンが居なくなると、消滅した幕府にテロリズムが向けられるのではなく、今度は明治新政府の要人に対して向けられるようになった。福沢諭吉が野に降り、政府の要人とならなかったのはこの為である。

 福沢は、京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺されると、「次は俺の番か」と呟(つぶ)いたと言う。この時から、武家嫌いで、武術嫌いだった福沢は、居合術の稽古に励む。福沢が、後に居合術の達人の域までに達したことは、あまり知られていない。それどころか、テロリスト達をも庇護(ひご)するように動いたことを、あまり知られていない。

 福沢の居合術の腕と、西欧近代主義の信奉者としての福沢の行動律と理論は相反するものであった。その上、フリーメーソンであった福沢と、坂本龍馬【註】竜馬の亀山社中を、武器商人のして資金的に援助したのは日本フリーメーソン支社長のトーマス・ブレーク・グラバーであった。グラバーは上海経由で日本に潜入している。)は同程度のフリーメーソン結社員として、その内容を知り抜いていた。その為に、福沢は政府高官になれる身分でありながら、在野の人となったのである。

 ちなみに、会津藩に軍事顧問として家老職格で優待された平松武兵衛こと、ヘンリー・シュネルは、武器商人のグラバーの子飼いの従順な僕(しもべ)であり、弟のエドワード・シュネル(武器商人)と企み、会津藩に取り憑き、会津戊辰戦争を画策した。
 ヘンリーは、オランダ系のプロシア人で、フリーメーソンのヘンリー・シュネルがプロシア公使館書記官を辞任し、弟のエドワードシュネルと伴に奥羽越列藩同盟に与し、会津藩を操った。当時もそうだが、今日においても、会津人の一部の中に、平松武兵衛こと、ヘンリー・シュネルを会津藩に迎えたことを歓迎する式典が開かれているが、何とも愚かなことであり、自分たちの先祖が、フリーメーソンに騙されていたことを今でも気付いていない
。そして、フリーメーソンの走狗のように使い分けていたのは、グラバーと同じ、司令塔の背後にあったイルミナティである。

 小説『竜馬が行く』の著者であった司馬遼太郎氏も、坂本龍馬がフリーメーソンで、「もう一度、日本を洗濯いたしたく候」の本当の意味を見抜けないまま、故人になってしまった。かくして、坂本龍馬は司馬氏の小説で一躍有名になり、日本各地に坂本龍馬の銅像が建つようになった。この銅像の象徴の裏にこそ、フリーメーソンの意図や、イルミナティの世界制覇の新世界秩序が隠されているように思える。

 こうした事件の起った年代順に考えていくと、福沢諭吉が、居合道に精を出さなければならない理由は忽然(こつぜん)と浮かび上がってくるし、なせ彼がこうまでに暗殺を懼(おそ)れていたのか、明白になってこよう。

 福沢は慶応義塾の創始者であり、民主主義の神様のように思われている。しかし、福沢諭吉の足跡を振り返ると、明治15年の京城でのクーデターや、血腥(ちなまぐさ)い日本人虐殺事件を起した朝鮮人を援助し、庇護していることである。これを知れば、福沢諭吉の意外な一面が浮上してくる。

 なぜ、民主主義者が、それも同胞を虐殺した朝鮮人暴徒を庇護するのか。
 また、福沢は本来は人命尊重の立場をとるべきはずの人間であるが、彼の思想は実に血腥くて、今日の時代感覚とは大いに逆行している。

 此処で問題になるのは、福沢は、他国の進歩主義者や欧米追従者を愛し、こうした行動を採(と)ることが、新世界秩序に寄与し、また朝鮮半島の独立運動の思想を持つ者に、庇護することが「人類の平和」に繋がるとでも思ったのだろうか。もし、こうした考えで、朝鮮人暴徒を庇護したのであれば、既に福沢の思考の中には、日本人同胞や、人命尊重という意識はなかったことになる。また、今日、日本銀行券として出回っている、一万円札は、同胞殺しの血で穢(けが)れ、更には当時日本の植民地であった台湾人を犬のように看做(みな)して侮蔑したことは、「脱亜論」の中に克明の記されており、福沢の「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の論破は偽思想ということになり、私たち日本人は、訝しな論理によって撹乱(かくらん)され、奔走させられていることになる。

 福沢諭吉の「脱亜論」の詳細については、九州科学技術研究所「満鉄の研究」(民本主義)を参照されたし。

 さて、福沢は確かに「居合の達人」の域まで、自らの躰(からだ)を鍛え上げ、その腕前は天才的であったというが、福沢の用いた「仕込杖」に注目したい。果たして、福沢は居合術の達人であったが、これを誰に習ったのか、現代に至っても、あまりはっきりとしていない。
 また、福沢の日向となり影となって、彼とともに寄り添っていた、「杖」は果たして、一般に言われているような「仕込杖」だったのか、それとも、わが流が研究結果から結論を得た、「仕込槍杖」なのか、まだ釈然とせず、判明していない。
それについては、今後の研究が急がれよう。

仕込槍杖の構造。

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 ここにおいては、「仕込槍杖」の構造と遣い方のみを、簡単に説明しておこう。
 仕込槍杖の全杖長は、約130cmである。その杖の中心部には、槍の中心(なかご)は長々と挿入されるようになっており、重量的にも普通の杖とは若干重くなる。
 仕込槍杖の特徴は、長い中心を杖の中心部に納める事により、非常にバランスがよくなり、振りやすく、特に、「刺す」「薙ぐ」「投げる」は、絶妙な軽快さがある。

 一般に槍というのは、「突く」一点張りだと思われている。しかし、これは槍の使い方を知らない愚者の安易な思い過ごしである。槍の最初の用い方は、「突く」より、「振り回すように払う」であり、「振り回すように薙ぐ」ことが重要視される。突くのは、最後の最後ということになる。
 最初から突いて出るような槍は、人間の血脂(ちあぶら)で直ぐに使い物にならなくなる。人間の血は「脂」であることを忘れてはなるまい。

 したがって、槍とは「振り回しつつ払い、薙ぐ」ものなのである。そして、最後の最後に「投げる」という動作が加わる。つまり、槍を投げるわけだ。
 「槍投げ」という陸上競技がある。まさに、あれであり、最後の最後には、槍を投げるのである。
 日本の槍の流派の中で、「投げる」とする流派は少ない。しかし、西郷派の杖術では、杖を投げる儀法がる。

 逃げる敵に対して、あるいは押し寄せつた的に対して、杖の場合は、敵の足許に向けて投げつけ、一瞬怯ませておいて、太刀を抜いて反撃に出る。仕込槍杖の場合は、杖と同じ戦闘思想であるが、これは追い詰められての、最後の最後の儀法となる。
 仕込槍杖は、杖術を熟練した後の儀法である。


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