トップページ >> 技法体系 >> 二刀剣 >> 合気二刀剣戦闘理論(一) >> | |||||||||||||||||||||||||||||||
●大敵は外の敵より、内の敵人生は戦いである。死ぬまで戦いである。一時(いっとき)も気を抜く事は出来ない。 しかしこの戦いは、単に努力すれば勝てるというものではない。我武者羅に努力しても、勝つという場合は、実に稀である。多くは、志半ばで挫折する。 しかし秀吉のような人間は、極めて稀なのだ。 人間社会は、その取り巻に、常に相手があり、裡側(うちがわ)から敵が取り囲むものである。「出る杭は打たれる」の例え通り、少しでも才覚を表わし、浮上すると、仲間内から袋叩きの憂き目に合うのが、浮世の常である。 であるならば、本質を見抜き、これを理論的に分析し、実戦において役立つものに、自らが作り替える能力を養わねばならない。 弱肉強食の世界では、原則的に「大は小より強い」ということなのである。 ●大兵力の戦闘理論 さて、現実社会には「大は小より強い」という大法則がある。 だが一方において、「秘伝」という古人の智慧が存在し、この智慧を用いて、「小能く大を制す」という現実がある事も、また事実である。 しかし現実問題として、恐怖に陥った人間の眼には、ピンチはチャンスであろうはずが無く、ピンチは何処までもピンチでしか有り得ないという現実がある。折角のチャンス到来に、これを困窮するピンチと錯覚したり、虞(おそ)れを成して、慌てふためくような、無態(ぶざま)な醜態では、いつまでたっても勝因を掴む事が出来ず、見掛けの恐怖に圧倒されて、自らの立案した戦法はうまく運ばないばかりか、下手をすると、逆効果を招いたり、ついには相手から葬り去られる憂き目を見なければならなくなるのである。 したがって、戦法を効果的に駆使するには、智慧を巡らせた「武略」という策略が必要であり、この策略を用いれば、「小が大を呑む」という、大きな心理的効果を自らが掴む事が出来る。 さて、「武略」に迫った場合、一種の策略と置き換える事が出来るが、これは決して自らを偽り、敵を騙す事ではない。 策略は決して、自他共に「騙す行為」ではないのだ。 智慧の集積であり、人間心理の流れを見抜いて、戦法として、より効果的に、現実社会をイメージして、これを智慧に反映させて、無駄なく、効果的にそれを用いる事である。したがって相手にダメージを与える事ばかりを考えて、我田引水的な、手前味噌の策略を展開すれば、必ず自分に跳ね返り、最終的には行き詰まる結果を招き兼ねない。まさに「策士、策に溺れる」の例えである。 主観的に見回して、自分以外は敵である。 自他の間に境目を造り、自分以外を敵と看做(みな)す考え方は、必ず行き詰まるものである。したがってこうした現実を踏まえて、「敵性」と「味方性」を逸速く見抜き、それを適切に使い分ける事が肝腎である。この適切な「策」が策略であり、自他共に崩壊を意味する謀略ではない。 合気戦闘理論において、絶対に見逃せない事実が、「大は小より強い」という、絶対に覆えす事の出来ない、人間社会の原理である。勝因は、常に大兵力の中に握られているのである。これは非常に重要な事であり、徹底的に理解しておかなければならない。 例えば、昨今の大企業同士の合併は、これを如実に物語った事実であり、勝ちを収めようとすれば、大兵力への努力を怠ってはならないのである。大は、小より格段に強いのである。勝つ為には、常に大兵力を参集させる必要があり、これは勝因への第一歩となるのである。 ●乱世の武略に学ぶ 十六世紀の乱世の時代、その命運を分けて日本列島は乱れに乱れ、揺れに揺れた戦国時代が登場する。そしてその中でも、特に光るのが、百姓の小倅(こせがれ)から天下を取った豊臣秀吉である。 秀吉の基本は、明晰な頭脳を駆使して、経済力で募兵を行い、あるいは巧みな心理効果を狙って、人間の打算的な一面を巧みに利用して大兵力を集め、その大兵力を以て、敵陣に攻め入り、敵を圧倒している事である。そして戦いにおける、名作戦というものは一切存在せず、人間の心理を旨く利用し、あるいは利害関係を利用して、人情の機微を表面(おもて)に出し、人は不憫(ふびん)なるが故に、打算に傾くという心理的理論を展開して、天下を収めた人物である。 「不憫」とは、「不便」(ふびん)の他に「不愍」(ふびん)の字が充てられ、『枕草子』(103段「かかる雨にのぼり侍らば、足がたつきていと不憫にきたなくなり侍りなむ」)、『徒然草』(「下部までも召しおきて、不憫にせさせ給ひければ」)、『古今著聞集』(10段「不憫に思し召したること」)にも出ており、ここには人間の側面に「可愛想に思う」という人情の機微が働いている事が分かる。 したがって秀吉は単に、「戈を止める武」を練ったばかりでなく、併せて、人間の心理を徹底的に研究した研究者でもあった。 中国の古典兵法書の『六韜』(りくとう)によれば、「大兵は傷つくこと無しに、楽に勝てる」とある。 この戦闘理論は、秀吉の戦闘思想に酷似する。 人を動かすには、単に体格や体力が優れているだけでは、駄目である。人間の心理を見抜いた、巧みな心遣いが必要である。だからこそ、その駆け引きは、どれだけ多くの味方を自分につけるかという事になる。 プロイセンの軍人だったクラウゼウィッツ(Karf von Clausewitz)すらも、「戦略(strategy)の第一条件は、大戦力をもって戦場に臨む事である」と明言している。 ●戦場における戦力二乗の法則とそれを覆えす戦術公理 では、何故大兵力に拘わるのか。 例えば、同等の能力・性能を有する火器を所持する両軍が居た場合、それを「十対六」の割合で対戦すれば、「六」しか所持しない方の軍隊は、「十」を所持する軍隊に負けてしまう事は誰にでも分かる。 例えば正攻法において、一人が各々一挺の火器を持ち、六挺を持った軍隊と、十挺を持った軍隊が対戦した場合、十ひく六で、四になるのではなく、戦力は実力の二乗に比例する法則から、「10の二乗マイナス6の二乗イコール8の二乗」となり、六人の方の軍隊は全滅したにもかかわらず、十人の軍隊の損害は僅かに二人で、八人は生き残ることになる。 これは国力が100有る大国と、国力が10しか所持しない小国が対戦し、一戦ごとに大国は10の損害を出し、小国は5の損害を出したとすると、小国は大国の半分の損害であり、、一見小国が大勝利したように錯覚するが、これで二回戦を戦った場合、その国力比率は「80対0」になってしまい、小国はこの時限で全滅したことになる。 また強大国が弱小国に攻め入った場合、その脅威を逃れて、大国に領土や資源を差し出し、奴属化してその属国に成り下がる道を選択する場合が多いが、これは全くの愚行である。弱小国は、こうした強大国の属国に成り下がるばかりか、強大国は益々強大になり、弱小国は益々弱小になって、強大国の脅威は増幅されるばかりなのである。敗戦後の日本とアメリカの関係が、これである。 ●奴属化は亡国である では強大国の威圧に屈せず、領土や資源を提供しなかったらどうなるか。 弱小国が強大国の脅威に楯を突き、これと戦い、戦闘の何たるかを理解しない者は「無謀」と云う、浅はかな言葉で一蹴する。多くの唯物史観を掲げる歴史学者や、反戦主義者はこれに入る。 日本の近代史を振り返れば、明治維新以降、日本は無謀な戦いを二度も戦ってきているのである。弱小国が強大国に勝てないという、二乗の法則を覆えす、一方の方程式が、ここにあるのだ。 第二次世界大戦当時、日・独・伊の提携する強大なワールド・パワーを、無条件降伏させたアメリカも、実は、開戦当時は、兵力においては圧倒的に劣っていた。昭和十六年当時の太平洋戦争開戦時には、日本とアメリカの海軍力の優劣は、圧倒的に日本が勝っていた。それなのに三年八ヵ月のこの戦争は、最終的に日本を無条件降伏へと追い込んだ。 太平洋戦争は、第二次世界大戦のうち、主として東南アジアおよび太平洋方面における日本と、アメリカ、イギリス、オランダ、中国、オーストラリア等の連合国軍との戦争である。また、十五年戦争の第三段階で、中国戦線をも含む戦争を言う。 昭和十年代当時、日中戦争は長期化の様相を呈し、日本の南方進出が連合国との摩擦を深めていた。太平洋戦争突入まで、種々外交交渉が繰り広げられたが、アメリカの挑発により、1941年12月8日、日本のハワイ真珠湾奇襲攻撃によって開戦に突入した。 戦争初期、日本軍は優勢であったが、42年後半から連合軍が反攻に転じ、ミッドウェー、ガダルカナル、サイパン、硫黄島、沖縄本島決戦等において、日本軍は致命的打撃を受け、本土空襲、広島・長崎の原子爆弾投下、ソ連参戦に及び、45年8月14日連合国のポツダム宣言を受諾、9月2日無条件降伏文書に調印よって、無慙な敗戦に至った戦争である。戦争中、日本ではこの戦争を、大東亜戦争と公称し、中国や東南アジアなどアジア諸国では、自国が戦域に含まれた戦争であった事から、アジア太平洋戦争とも称されている。 さて、この戦争において最も重要なことは、アメリカの工業力や生産性の高さもさることながら、この戦争を指導した日本とアメリカの戦争指導者の持つ、思想と発想の違いに大きな開きがあったということであろう。日本の戦争指導者・首脳陣が、実は「戦争」というものも、そこに横たわっている戦争哲学という実体も知らずに戦ったのに比べ、アメリカの戦争指導者は、戦争という非情な実体を、手に取るように把握していたという事である。また、彼等を取り巻く、スタッフも非常に優秀であった事だ。 この典型的なものがベトナム戦争である。 シンパに傾く歴史学者や反戦主義者は、こと、太平洋戦争においては日本の無謀を指摘する。 こうして考えてくると、何故太平洋戦争のみが無謀な戦争の譏(そしり)を受けるのか。
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