トップページ >> 日本人としての誇り(六) >> 半自給自足 | ||||||||||||||||||||||
●なぜ、自給自足に徹しなければならないか 人間の営みは、元々が自給自足の精神から出発した。その意味で、古代人はその総て誰もが、生きる為のスペシャリストであった。 現代人が営む現世は、一見して実力社会のように思われている。国家も、国家を担う政治家も、あるいは日本屈指の実業家や経営者の財界人においても、平素の言論では有能な士を任用せよと豪語している。 天下国家の段になると、こうした政財界の識者と言われる連中は、まったく、小事にはよく気がつくのであるが、大事・大問題となると有能な士を任用するどころか、骨肉の親戚・親族で重要ポストを固めてしまい、手腕のない子弟や縁故にそれを任せ、暗記力に優れ、表皮だけが見栄えがい男女を採用する。同族政治家集団や同族企業がその良い例である。 識者は、例えば自分のグルメを満喫させようとすれば、まず、よい料理人を探す。よい料理人は、自らで食材が作れないので、農産物、海産物のよい生産者を探す。畜産の生産者は、自分で育てた牛や豚を自分の手で屠殺(とさつ)できないので、よい屠殺人を探し、その者に解体を委ねる。 ところが、国家の大事となると、骨肉の親戚・親族で重要ポストを固めてしまうのは何故だろうか。 かつての美徳とされた、力ある者が弱き者を助け、財のある者が努めてそれを社会に還元・分配し、教養ある者や徳の高い者が進んで低い者に教え諭(さと)すという事がなくなった。 識者の恩恵に預かるのは、骨肉の親戚・親族、手腕のない子弟や縁故、表面的で見栄えの良い美男美女ばかりである。 もはやこうなると、表彰されるべき賢者が表彰されず、刑罰のある無法者が刑罰を受けず、功績のない者が賞を受け、無罪の者が罪を受けるという現実を招く。 「もの」が主人を得ずして腐る現象とよく似ており、社会もこれと同じように蝕まれ、腐って行くであろう。 さて、尚道館ではこうした観点に基づき、まず、自らが畑を耕す事、土をいじる事、苗を植える事、それを育てる事、そして最後は収穫する事という一連の作業を、「一種の人生」と捉えたのである。 ●無農薬と有機農法で、頑強で丈夫な体躯づくり頑強で丈夫な体躯とは、武術実践者のそのままの体躯を指す。試合での勝利最多記録者でも、怪我ばかりして、事故ばかり起こし、至る処に故障ばかりを持っていてはなにもならない。 そこで尚道館では、食べ物を自給自足で、自らが生産すると言う農本思想に立ち、現在これを実践している。 これまでの農業や漁業に従事する生産者達は、失敗も少なく、手軽で効率がよく、大量に生産できる農業や漁業に手を染めて来た。そして農薬や化学物質で地球の大地を汚し、また海を汚染して来た。 また、こうした現実を政府・厚生労働省は指摘せず、化学肥料や農薬を使った農業を支援し、またハマチの養殖等に見られる海洋汚染で、海底をヘドロで覆い尽くす現実が生まれた。畜産農家もこうした地球汚染に一役買っている現実がある。 さて、尚道館はこうした愚をさける為に、半自給農作物収穫運動を実施している。 1.農薬や化学肥料で、人体に悪影響をおよぼすアトピー性皮膚炎を排除する。 2.自ら安全な食品を作り出すばかりでなく、有機野菜の四季折々の味を楽しみ、本当の季節感を食卓に取り戻す。 3.人間の人体は「食の化身」である。 4.農薬や化学肥料が使われ始めたのは、農作物が商品として大量に生産されて、消費者に多く買わせると言う経済的背景があった。これが資本主義の「消費の為の消費」である。 ところが、自給自足で農作物生産を展開すると、食べる量だけを計画的に予測して生産でき、無駄を無くす事が出来る。自給自足を目的とする場合、僅かな土地で家庭菜園を作る事が出来、ここでは全く農薬や化学肥料を使う必要がなくなる。 また農薬や化学肥料を使わぬから、家庭で出た生ゴミや落ち葉等を再利用して、これを上手に活用し、身近な有機物で、有機栽培による安全な野菜づくりが楽しめる。 今日格闘技は、スポーツ形式を模倣し、多くの観戦客を集める事によって興業として成り立ち、本来の武術とは全く正反対の、拝金主義・金銭至上主義の方向に向かって歩き始めている。 こうした価値観で格闘技が展開され、観客に媚びを売る事ばかりやっていると、末路は武術本来の「心」というものが失われて、それを愛好するのは「金の為」という事になるであろう。 これこそ、日本武術にとっては退化であり、こうした愛好者が黄金の奴隷に成り下がって走狗すれば、日本にとっては、まさに「亡国」である。
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