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古人の叡智が集約する護身武術

■ 平成22年5月2日・曽川千歳『道場葬』告別式 ■

●追悼の和歌

 宗家先生が、まだ大津に住まわれている頃に、よくお宅に伺わせていただきました。武道修行だけではなく、実は人間の身の処し方についても、相談させていただいたことがあります。
 もう、あれから十五年以上が経ちました。

 最初にお伺いしたのは、阪神大震災が起こる前の年の、確か平成六年の四月頃だったでしょうか。この頃より、 瀬田のお宅にお伺いすると、奥様がいつも笑顔で出迎えられ、それ以来、奥様の笑顔とお付き合いすることになりました。

 最初の宗家先生の第一印象は、一瞬眼を見て怯みました。眼が非常に怖かったことを覚えています。先生の眼は、人の心の中を、何もかも分かっているぞ、という風な鋭さで見透かされるという気持ちを抱いてしまうのです。こうした眼を持つ人に会ったことは、今まで一度もありませんでした。とにかく眼が怖かったことだけを、異様な気持ちで受け止めたことがありました。それに比べて奥様の眼が、何とも優しく、笑顔を湛えていらして、このお二人は、実に対照的でした。こうして先生と奥様とのご縁が始まったのでした。

 武道の話だけではなく、先生は政治や経済や軍事のことにも詳しく、また数学と物理学に造詣が深く、八門遁甲の研究家で、戦略と戦術についてよく話されましたが、私が大変興味をそそられたのは、世界動向の話で、これは水面下で活発な動きをしていると言うことでした。その動きを、逆の意味で活発化させるのが、人間の心と言うのでした。つまり、先生の言う「心法」であったのです。人間の心は常に動いている。だから動く心を静止させようとしても無理だ。為すがままにさせる。これは心の用い方、というのでした。

 これを経済に例えるのならば、斜陽にかかった倒産会社の話をされ、先生の言うには、倒産などというのは考慮の外として、経営者や役員が懸命に動き回っているときは、簡単に倒産しないものである。周囲の取り巻きにも、危ないかな、と見えたとしても、倒産という言葉は滅多に使わない。しかし、ほんの一瞬、止むを得ないと諦めの気持ちが起ったとき、倒産という運命の危機は露骨な姿のなって襲ってくる。その時が一番危ないというのでした。恰好をつけて、形振り構わずという気持ちを失ったとき、そこを衝かれて、運命に支配が始まる。運命には、陰と陽の支配があるというのでした。諦めれば、陰の支配に陥り、必死で動いていれば、つまり陽の支配を受けて、まだ生き残れる、というのでした。
 そして形振り構わずという教えに、私の場合は、まだ恰好をつけている。それは言葉の意味を理解しないばかりでなく、既に倒産モードになって、墓穴を掘る姿だと指摘されたことがありました。

 話しているうちに勉強不足に散々詰られ、ついに指弾されたことが身につまされて、情けなくなってしまうことがありました。そして二時間ほどお話をして、退散するとき、肩を落として去っていくのですが、そのとき奥様が玄関まで追っていらして、「元気を出して下さい。主人も、会社を随分と潰しているのです。だから柿原さんには、そうさせたくないと思って敢えて厳しいことを言うのです」と、笑顔で話されたことがありました。そして奥さんの笑顔を見ていると、何となくですが、先生も随分と人の知らないところでご苦行をなさってきたのだ、と思い直し、つい、また再び、ここのお宅に足を運んでしまうのでした。

 私は小学校から剣道をはじめ中学、高校、大学と、学生時代は剣道を遣っておりました。しかし、宗家先生の敵ではありません。大津時代、玄武館で術を教わったとき、その術は単純化して会得せよ、とよく言われました。
 現代という時代は、単純なことでも、物事を複雑化させて、これを独占する輩が多くなったので、こうした者の言動に惑わされたり、論理に圧倒されて実体を見失ってはならないというのが、先生の持論でした。現代では全ての学問は、細分化され、複雑化されて、素人の眼を晦まし、簡単なことを難しくしているというのです。だから、これにより貧富の差だけではなく、賢愚までもが開いてしまい、専門バカばかりが増殖されて、全体像を見抜く人間が、昔と違って減少しているというのでした。

 先生がおっしゃるには、世の中はタテマエで動いているのではなく、裏に隠されたもので動いているというのです。裏にこそ、人間の欲望と思惑があり、これを繁栄したものが現実の世の中というのでした。
 武道では心技体と申しますが、心こそ、その底に隠れた欲望と思惑があり、体は肉体のことで、両者は眼に見えないものと眼に見えるものとに分かれています。そして眼に見えないものと眼に見えるものを繋ぐのが、先生のおっしゃる技というのもでしょう。技こそ、還元すれば心法の術ということになるでしょうか。
 三者は総合的に連動しており、これを統合するのが、人間の力量と申しますか、その使い手の器量ということになるのではないでしょうか。しかし現代は、こうした力量や器量に長けた人が少なくなったように思います。

 宗家先生のお話によれば、全体像を端的に見れば、一目瞭然なのに、近くに寄って近視眼的に見るから、複雑に映り、複雑に圧倒されて墓穴を掘るというのでした。こうした事態に陥らない為には、遠くから離れて、全体像を見れば、それは決して複雑でないことが分かる、というのでした。現代人は、媒体に近付きすぎて、細胞レベルで複雑化して物事を考えるから、物事の全体像は見えていない、というのでした。単純化して、全体像を見るという思考法は、確かに現代にあっては、先生の言うようにコペルニクス的発想だと思うのです。

 現代人は、森を見ないで木だけを見ている時代の申し子かも知れません。既にこの言葉は使い古された言葉ですが、私も小さな会社を経営していますので、時代の流れや全体像に見通しを立てるのが急務と思うのです。これから先の方針に、先生のよくおっしゃるグランドデザインが欠如しているということが分かります。時代は、そんな時代の真っ只中で翻弄されているように映ります。まさに適者生存に勝ち残って、生き残ることが難しい時代といえるかも知れません。

 さて、現代という時代は「内助の功」などという言葉が持て囃されたりもします。しかし、内助の功などという言葉は、人に自慢するのでもなく、また自分でも意識して、良人に尽くしているという意識を持っていては駄目だと思うのです。

 つまり、良人に尽くしているという意識もなく、また自分が如何にも見せ掛けだけの内助の功に奮闘しているというのでは、良人を支える夫人としても頼りない限りです。この手の内助の功も、所詮、幻に過ぎません。
 近年、内助の功が話題になったのは、司馬遼太郎氏の小説『功名が辻』ではなかったかと思います。司馬氏の小説は、戦国期の武将、山内一豊の妻、千代がそのモデルとして描かれ、一豊と妻との二人三脚の生き方を逸話としてイメージしたと思うのですが、時代が下って、戦後は道徳上、あまりこのことが扱われることがなくなりました。むしろ社会の流れは、女性の自立だけがクローズアップされ、その最たるものが夫婦別姓であったり、性交遊戯を象徴する不倫という現象ばかりが、半ば、当たり前のように扱われ始めました。

 こうした現象が克明になっていく中、時代は変わったなと、つくづく考えさせられます。
 私は、宗家先生より三年ばかり早い、昭和20年生まれですが、夫婦別姓とか、不倫などという言葉を聴くと、宗家先生ではありませんが、もう、そろそろこの辺が娑婆の切り上げ時かな、と考えさせられることが多くなりました。
 気の合う人間が益々減っていって、これはあたかも酒の席で、ケーキを食べさせられるようなもので、実に遣る瀬無いものを押し付けられているという感じがします。夫婦で二人三脚という言葉も、今では死語になりつつあります。

 そうした時代の流れの中にあって、宗家先生の奥様は、まさに二人三脚に相応しいお方だったように思います。尽くしておられるというより、尽くしていることを意識してなかったように思います。ご自分では、自覚しないまま、自然と、結果的に尽くしているという感じがいたしました。その象徴が、奥様の笑顔だったように思えるのです。

 奥様の笑顔は、まるで花が咲いたような華麗さがありました。僭越ながら、奥様の笑顔になぞらえて、和歌を三首詠みましたので奥様の霊前に添えていただければ幸いです。
 

 平成22年5月13日

個人教伝門人 柿原征史郎

 

岡山県の門人・柿原征史郎氏より、和歌三首が贈られました。

 

●追悼文

 門人ならびに道場関係者より追悼文をいただきました。(順序不同)

曽川千歳様 追悼文

 私が千歳様と初めてお会いしたのは、平成7年頃であったと思います。
 当時は有段者講習会などで、年に数回、瀬田の宗家宅にお世話になっておりました。
 その度に、弟子のために自宅に寝泊りさせ、食事や風呂を準備している姿を拝見していて、大変だなと感じておりました。
 その後小倉に引っ越されてからも、合宿や個人教伝の折に、大変お世話になりました。
 宗家から呼ばれ、食事や風呂等の準備と片付け、火の気のない中で震えながら過ごしていた姿などが目の前に思い浮かび、弟子とは何をするものかを考えさせられました。そんな中でほんの僅かですが、お話しする機会もありました。非常に純朴で真直ぐな印象を覚えております。
 宗家のお話や生活の様子から、旅行や休みなどなく、苦労が絶えない毎日であったと思います。ただ宗家と千歳様の間には、頂点を目指す男と支える女の姿があり、それを羨ましく思っておりました。それだけに、55歳という生涯は非常に残念になりません。
 千歳様に支えらた西郷派をこれからも盛りたてて行きたいと思いますので、あの世から温かく見守っていてください。ご冥福をお祈りいいたします。

有段者会会長 福島 維規  

 

追悼文

私が瀬田へ個人指導にうかがった時、いつも玄関でお出迎え下さったのが、千歳様でした。
世間知らずの若輩者であった私に、いつも笑顔を絶やさず、にこやかに対応して下さいました。
酒席を設けていただいた時は、美味しい食事と肴をご用意いただき、至福の時間を過ごす事ができました。
稽古中、宗家から厳しくお叱りいただいて落ち込むこともありましたが、そんな時も、いつもと変わらぬ笑顔で接して下さり、あたたかな安心感を覚えたものでした。

また、合宿や講習会の開催時には、門人が不自由なく稽古することができるよう、裏方として大活躍して下さいました。
我ら門人が修行に邁進できたのは、影で支えて下さった千歳様のご尽力があってこそです。

本当に、胸が詰まる想いです。
振り返れば、宗家のお隣で、慎ましく、しかし力強く西郷派大東流を支えておられたのが千歳様でした。
笑顔と奉仕の心で溢れた、敬服する生き様でありました。
これから先は、千歳様から頂戴したものを忘れることなく修行を深め、社会に還元することでお返ししていければと思います。

ただ感謝の言葉しかありません。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

奈良県 荒木 一弘  

 

追悼文

昨年の5月に本部道場へ伺った際はまだお元気で、私とも明るい笑顔をもって接していただいておりましたので、その後、半年もせぬうちの急なご容態の変化を遅ればせながら知り、そして今回のこと、まことに驚愕し、寂しくてなりません。
宗家先生よりお話をうかがい、宗家先生の奥様へのお気持ち、お二人の結びつきの深さに、夫婦としてのあるべき姿、人間同士のつながりといったことをご教授いただいた思いです。
奥様も、宗家先生よりお心づくしを受けられ、幸せであったとお察しいたします。
心よりご冥福をお祈りいたします。

東京新宿支部道場生 高安 伸明  

 

安らかにご永眠下さい

 あれは確か十五、六年前のことだったでしょうか。季節は秋口だったと思います。
 私と曽川宗家とは、ある大学で教鞭をとっていた同僚で、講義終了後、高円寺界隈でよく飲み歩いたものでした。このとき、もう1人親しくしている同僚の飲み仲間が居て、この3人でよく飲み歩いたものでした。最初、高円寺を皮切りに、次第に食指を伸ばし、最後は銀座でバカ騒ぎするのですが、このとき今までの飲み代を、誰が払うかということになり、これをジャンケンで決めて、3人のうちの1人が全額を払うのです。

 最初は、居酒屋程度ですから飲み代といっても高が知れていますが、体にアルコールが入るに従いだんだんエスカレートしていき、タクシーで銀座に駆けつけたときには、目の玉が飛び出るくらいの飲み代になっているのです。流石にこれを払うときは、今までの酔いが、いっぺんで醒めてしまいます。
 確かこのとき、曽川宗家がジャンケンで負けたのですが、この御仁はこれでもへこたれず、更にもう一軒飲みに行こうと言うのです。自分が負けると、直ぐに「こんなジャンケン八百長だ」というのです。ジャンケンに八百長もへったくれもありはしません。ところが、この御仁は違う。勝つと大人しく、すんなり引き下がるくせに、負けると、なんだかんだといってイチャモンをつけるのです。まったく困ったものでした。

 もう一軒行こう、そこが問題でした。
 どこにだ?と訊くと、京都だ、というのでした。このとき、この御仁は京都近くの大津市瀬田に住んでいましたので、京都とは目と鼻の先で、どうしても京都で飲んで、もう一勝負やろうというのでした。まったくこの御仁の言っていることはクレージーでした。何しろ酒豪であり、一般に、酒を飲まなければ良い人なのに、という、そんな感じの人で、負けると意地になって、もう一番もう一番と、まるで下手な将棋指しのように張り合ってくるのです。

 それで渋々、その日の最終の新幹線に乗って、東京駅から京都へ旅立ったのでした。そして京都に着くと、この御仁は、行きつけの馴染みがあるらしく、そこの深夜スナックで一時間ほど飲み、更に、うちに来いというのでした。もう時間は、深夜の二時を回ったときでした。それはここでまたジャンケンして、この御仁が負けたからです。負けたことが、怒り心頭、という感じでした。

 私と同僚は、顔を見合わせながら、困ったなあ、こんな時間に家へ押しかけたら奥さんもきっと良い顔をしまいと、そんな気持ちで困惑しました。しかし、この御仁のことだから、無碍に断ると、後の仕返しが怕いと思いながら、京都からタクシーを飛ばして、瀬田のお宅へ、夜中の三時頃にお邪魔したことがありました。

 何しろ、夜中の三時です。とんでもない時間です。こんな時間に他人を連れてくれば、普通のお内儀だったらきっと良い顔はしません。しなくて当たり前です。
 ところが、曽川宗家とお宅に着くと、奥さんはまだ起きていらして、夜中に押しかけた私たち2人に、いらっしゃいませ、というのでした。それに、何ともいえない笑顔で、にっこりと笑い、決して怒っているそぶりは見せず、座敷に通されると、お酒になさいますか、それともお食事になさいますか、と訊くのでした。

 更に、曽川宗家は、「今日講義が終わって、こいつらと東京で散々飲んで、ジャンケンして大負けし、おまけに東京からの交通費まで持たされ、一ヵ月分の給料は今日の飲み代で全部吹っ飛んだよ」と奥さんに告白するのでした。
 それを聞いた奥さんは怒る風でもなく、「それはそれは残念でした」と、まさに残念賞を渡すような感じの、ただその一言で終わったのです。太っ腹と言うか、よく教育されていると言うか、愚痴の一言も出てこなかったのが、何とも不気味でした。

 遠山満翁ではないが、「お天とうさまと米の飯は人間について回る」といった名言に回帰するまでもなく、譬え一ヵ月分の給料をスッても、奥さんはこの真骨頂を信じているのだろうか。あるいは、かねがね曽川宗家が言っていた「涸れない泉」の源泉のようなものを持っていて、この家には何某かの蓄えがあり、汲んでも汲んでも涸れない泉が存在しているのだろうか。そんな不可解が起ったのです。

 最初、なんだかこの家は、変な家だなあと思っていましたが、朝になってその理由が分かりました。
 その夜は、再び奥さんから酒の酌をされて酩酊に浸り、その後寝入ってしまったのですが、目が覚めると、ちゃんと布団の中に寝かされていて、朝七時ころであったでしょうか、子供さんたちが学校に行く時間だと見えて、朝の慌しい時間だったと思うのですが、一番下の小学校一年の男の子供さんを私たちの居る座敷に呼び入れて、この子に漢詩を吟じさせたのです。また、この子が凄い記憶力の持ち主で、題名を言うと、どの漢詩もすらすらと、李白から杜甫、杜牧、白楽天は言うの及ばず、陶淵明や孟浩然、王維を、たんたんと諳んじるのには恐れ入りました。

 私が曽川宗家に、あの子はいつ漢詩を覚えたんだ?、と訊くと、毎日一緒に風呂に入って一詩ずつ教えて、暗誦させるというのです。それで、この家の家庭構造が何となく分かったような気持ちがしました。
 奥さんの、普通だったら怒って当たり前のことでも、この家は違う。なぜ違うかと言うと、この家には、昔の武士の生活がそのまま、日常当たり前のように繰り返されている。それを誰も不思議には思わない。流派の宗家と言う家は、実はそういう家なんだということが分かり、曽川宗家をこれまで以上に理解すると共に、また奥さんも、武士の妻としての役割を充分に果たされているということに気付いたのでした。この家には、古きよき時代の、日本の武家の伝統が息づいている。そう、感じずにはいられなかったのです。

 それに、今でも忘れることが出来ないのが、深夜押しかけた、私たちに向けたれた奥さんの笑顔でした。あの笑顔は、決して作り物などではなく、昼間の客でも、深夜の客でも別け隔てなく向けられる本物の笑顔でした。たった一度きりの、一期一会のことでしたが、その奥さんの笑顔は、今でも忘れられません。

 きっと奥様は十万億土からも、私たちに笑顔を投げかけていることでしょう。
 安らかにご永眠下さい。心より、奥様のご冥福をお祈り申し上げます。

東京都八王子市 Y  

 

曽川和翁先生

 奥様が ご逝去されたとのこと、びっくり致しました。心からご冥福をお祈り申し上げます。
 五月の連休は家をずっと留守にしていたものですから、というより四月から五月上旬にかけて大阪滞在が多かった為(絵画制作で頭がいっぱいだっただけに)ほんとうに驚きました。
 奥様とは過去に二度お会いしたことがあったように思います。
 一度は東京で?二度目は大津でした。
 大津では奥様の自然食豊かな煮染をおししくいただかせてもらいました。まだ お若いのに残念です。
 御愁傷様でした。先生もお躰を大切に。

 草々

 2010.5.9

東京都杉並区 バロン 吉元

 

 

ご冥福をお祈り申し上げます

 謹啓 先日はお取り込み中に訪問の義、大変ご迷惑をお掛け致しました。然しながら告別式の際、生花の生け込みの大任を仰せつかり無事に果たせた事で安堵致しております。
 さて、この度、大奥千歳さまが突然のことで、沈鬱な心持であります。
 千歳さまの印象と申しますと、宗家先生宅には数少ない訪問回数ではございましたが伺うと明るい笑顔でご挨拶を戴きましたことをしっかり記憶しております。
 人生に於いて、良き友、良き知人、良き同僚、良き師、そして究極のよき伴侶に巡り合えることはこの上ない幸福であるように思います。そう言った意味において、千歳さまは宗家先生の慈愛に満ちたお気持ちを、しっかりと受け止めらたことと察し致します。
 千歳さまのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

平成22年5月12日

 
 

千葉東葛支部 明倫館支部長 田川義弘 以下道場生一同

 

 

義を通すサムライの奥方様へ

 奥様は昨年の十月から過酷な闘病生活を強いられたと聞きます。半年以上も不自由な寝たっきりの生活を強いられ、点滴だけで、他のものは一切口にせず、普通の人だったら耐え切れない、そんな過酷な状態の中で、病気と闘っていたと聞きます。随分お辛かったことだろうと思います。そしてお亡くなりになるまで、三回も大きな手術をしたと聞きます。

 肺炎を起しての肺の切開手術。心臓の動脈確保の手術。それにお亡くなる前にやられた大腿部からの中心静脈の経静脈確保手術。いずれも奥様にとっては、死を賭した大変な手術であり、体の至る所は切り刻まれ、孔を開けられ、生きながらにして、既に、死を体験する臨死体験をしていたのではないかと思うのです。さぞ、お辛ろう御座いましたでしょう。

 また、宗家先生も大変で御座いましたでしょう。
 宗家先生は、いつも「俺は中途半端な中間層の納税者だから、高額医療の適用にならないんだよ。それに病院の検査費用も莫迦にならないんだ」と洩らしておいででした。

 そして奥様の手術の度に、もう金がない。そういえば簡単である。しかし、それでは一番身近な人間が、伴侶を見捨てることになる。味方を見捨ててはならない。これでは、「武士道を実践している」と標榜する西郷派大東流が泣く。「義」に生きるのが、サムライではないか。義によって、助太刀申すのがサムライではないか。 僅かな、生きる可能性があるのなら、「これに賭ける」というのもサムライの道ではないかと思うのである。借金してでも、万難を排して助けなければならない。本来武士とは、こうした「人情に機微」の持ち主を謂ったのではないかと思うのである。いくら人間が歳をとって、肉体が古くなり、ボロになったからといって、これをボロ雑巾のように捨てることが出来るかと、よくいっておいででした。

 私はこのお方は、義を通されているのだ。奥様のことを、心の中では本当に大事に思っておられるのだ。口では、奥様のことを愚妻と申しておりましたが、それはどうも違うようで、 宗家先生の義を通すお考えに、深く感銘いたした次第です。

 世の中には、裏切り者や不義理を欠く人間が横行しております。二枚舌を使い、人を誑かし、そして欺くという人間ばかりが急増しています。男女の仲にしても、表面ばかりのベタベタとした、アメリカ流の自由恋愛術が流行しております。こうした流行に汚染されてしまった現代人は、何とも哀れな存在です。
 ところが、宗家先生と奥様は、そうした流行には目もくれず、大らかな、人間の余裕を感じさせる生活を、ごく自然に、肩肘張らず、たんたんと生きてこられたように思います。そうした夫婦仲を、私はある羨望をもって眺めたことが御座いました。

 しかし、その奥様も還らぬ人となりました。
 奥様への想い出を寄せるならば、何といっても奥様の、「華麗な花一輪の笑顔」でした。花が咲いたように、いつも美しい笑顔を湛えておいででした。それが今でも、深い印象となって脳裡に焼きついております。

 わすが半年足らずの間に、三回も大きな手術をやられて、お体を切り刻まれ、孔を開けられて、さぞ、お辛ろう御座いましたでしょう。
 しかしもう、そうしたお辛い目に遭われることは御座いますまい。闘病生活には終止符が打たれました。苦しむことはありますまい。これからは、ただ安らかにお眠り下さい。
 

 左様なら

 平成22年5月13日

滋賀県個人教伝門人 大垣一太郎

 

 

お悔やみ申し上げます

 この度に奥様の訃報をきき驚いております。何しろ突然のことで、言葉がありません。
 奥様の印象と申しますと、宗家先生宅に御伺いすると、いつも明るい笑顔で私を迎えられたことであります。
 その笑顔はいつも慈愛に満ちておりました。菩薩さまの化身のように思われました。
 人生はいつも楽しいことばかりでは御座いますのに、奥様は何か毎日が楽しいことで満たされているような、本当に素敵な笑顔をなさっておいででした。私は個人教伝でお伺いするたびに、全く赤の他人に信じられないくらいの笑顔を投げかける奥様は、いったい何ものだろうと不思議に思ったことがあります。そして、きっと菩薩さまの化身であろうと考えたことがあります。その笑顔に支えられ、今を、今日を生き延びる私でありました。
 人間の儚さは、虚しいものがあります。しかしその虚しさに、残るものに何か伝言があるとするならば、人が人に向ける「やさしさ」で御座いましょう。その「やさしさ」を、私は奥様の笑顔から頂きました。有難う御座います。
 奥様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

平成22年5月17日

 
 

個人教伝広島県門人 僧侶 荒井哲空

 

 

突然のことで驚いております

 拝啓 奥様の訃報をお聞きし驚いております。
 この度に奥様のこと、心よりお悔やみ申し上げます。
 私も奥様には、お子様たちの小さな頃など大変お世話になりました。長い間、ご苦労されて、それでも音を上げず頑張っていらして、素晴らしい奥様でございましたね。

 お子様たちのお力落としは言葉にいえないものと存じます。
 早く平静に戻られることだけを念じ、願っております。
 曽川先生も、どうぞお体に十二分にご養生を願っております。ご自愛くださいませ。

 私はなんとか生活を、自分の子供に迷惑をかけないようにと、懸命に治療の日々を送っています。毎日、私のわがままな生活です。本当に色々とこれからの生活、難題続きでしょう。しかし窮地に勝つ心をお教えいただき、この力強い生き方に感謝いたします。これも偏に、曽川先生の激励の賜物を信じております。
 合気の心は、私の生き方の中に、希望に続く光を、いつも投げかけるものでした。その光をいつも見ております。お礼申し上げます。

 この度の奥様の訃報、心よりお悔やみ申し上げますと共に、ご冥福をお祈りいたします。

平成22年5月19日

 
 

黒崎道場八幡西支部長 西原万記子 道場生一同

 


波乱万丈の曽川宗家と伴に歩いた奥様の苦難の足跡は、次のHPで読むことが出来ます。

『吾が修行時代を振り帰る』 こちら  『吾が修行時代を振り帰る』第二部 こちら

 


 
小児科の看護婦を辞めて塾の講師になった頃。昭和55年の初秋(24歳)
明林塾のチェーン塾の講師時代。平成2年8月の夏期講習。二児の母(32歳)
習志野時代。平成3年初夏、大久保の旧明林塾跡で(36歳)
大津時代。末っ子の竜磨の小学校の入学式。平成6年(38歳)
 有名な唐代の詩人の陶淵明(とうえんめい)の詩に『対酒』というのがあり、その中に「まさに勉励すべし。歳月、人を待たず」という一節が出てくる。歳月の去るのは早い。俚諺にも「光陰矢の如し」とある。それだけ年の経つのは早い。人生は、長いようで短い。
 この短い人生で、人は皆、生・老・病・死の四期を辿って人生を成就する。人の四期は儚(はかな)いものだ。それは同時に、生命の果敢(はか)無さでもある。
 果敢無い生命を所有しているのが、また人間である。万物の霊長である、と自負している人間でも、迫り来る死を前にしては、手も足も出せない。これを科学力で覆(くつがえ)せない。科学は万能ではない。死を宣告する、死神の前では敵ではないのだ。
 これを思うと、人間はつくづく不完全な生き物であると思う。しかし、この不完全な生き物が、少しでも完全に近付こうとして生きてきた足跡には、何か意味があるように思う。だからこそ、人の死も、何かのメッセージが込められているのではないかと思うのである。
大津時代最後の年。平成13年春の北九州小倉移転の数日前(45歳)
黄泉の国への旅立ちに、妻に持たせた「後代国包」(無名・八寸七分、保存刀剣)の短刀

 

『道場葬』告別式

 
 平成22年5月2日に行われた、宗家夫人の曽川千歳様の『道場葬』告別式は、道場生たちが一致団結して、何から何まで手作りの告別式だった。
 曽川宗家が日頃から行っておられる、「智慧の出る者は 智慧を出せ、 力の出る者は 力を出せ、 汗の出る者は 汗を出せ、 何も出ない者は 去れ」の、この言葉を実践したものだった。
 勿論、この中に、何も出ずに去る者は一人もいなかった。それぞれに手分けし、例えば、生花業を営んでいる千葉東飾支部明倫館の田川義弘師範は生花の仕入れから飾り付けまで、一人でこなされ、五月二日の告別式に間に合わせた。また、田川師範だけではなく、半旗の設置、道場前での交通整理、受付、仕出料理やその他の食酒の手配など、他の支部の門人達も、よく働き、動いてくれた。
 葬儀屋に依頼せず、道場生たちの智慧の結集で、この告別式を遣り終えた。

 告別式当日、奥様の「妻を偲ぶ夕べ」には、夜遅くまで残って談義を語る、尚道館出入りの、ある建設会社の社長などは、深夜になっても道場生たちと談義を交わし、「妻を偲ぶ夕べ」に相応しい、とてもいい『道場葬』告別式だった。
 奥様を偲んでいただいた方々に、深く感謝を致します。
 
 

平成22年5月12日

尚道館 謹書

 

 

平成22年5月2日の『道場葬』告別式の模様。
 

 曽川宗家は告別式において道場生たちに「酒でも酌み交わし、武道談義に花を咲かせ、妻を偲んで頂ければそれで幸せです」と語ったりました。
 また、在りし日の奥様のことを、このようにおっしゃっていました。

 「お〜い、お茶」とか、「お〜い、コーヒー」とか言ったら、台所で「は〜い」と応えて、お茶やコーヒーを持って現れる家内がいるのではないか、と錯覚した。
 そんな錯覚は、今でも時々ある。そんな気配を傍で感じるのである。しかしそれはあくまでも錯覚だった。
 そして「お〜い、お茶」とか、「お〜い、コーヒー」とか言って、思わず呼んでしまい、ふと、また現実に引き戻されるのだった。ああ、もう、家内は居ないのか、という思うのだった。長年連れ添った伴侶を失うとは、こういうことなのかも知れない、というのでした。

 長年連れ添った……というのは、そうした夫婦のことを言うのかも知れません。心より奥様のご冥福をお祈りいたします。

 

平成22年5月2日

総本部尚道館 道場生一同

 

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