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古人の叡智が集約する護身武術

剣の奥儀は「多敵之位」にある。
 多敵之位とは、二人以上の大勢の敵を相手にする場合で、この場合に、特別か構え方や特定の太刀筋はない。しかし、これを行うこと自体を多敵之位という。

 左右に敵を配置し、先に討ち取る者と、後に討ち取る者を同時に目をつけ、後の敵と打ち合う場合は、初太刀に斃(たお)す敵をも目をつける。
 こうした前後の討ち取る敵に対し、眼と太刀を交互に使い分けるのを「二目遣い」というのである。


■ 大東流の歴史観には問題があり!■

●大東流の背景に太子流の相似が見られる

 今日に見られる、『大東流合気杖術秘伝』『大東流合気槍術秘伝』『大東流合気太刀秘伝』『大東流合気二刀秘伝』等の巻物は、植芝盛平が惣角から去った後の戦中に作られた、惣角自身の直心影流を母体にした武術観が記されたものである。
 一方、西郷頼母の溝口派一刀流、更には小野派一刀流を研究した「忠也(ちゅうや)派」や溝口派一刀流、それに太子流兵法【註】正しくは「聖徳太子流」といい、「軍法」として名高い)の軍法・軍学が欠落している。

さて太子流は、軍法の他に、剣・薙刀・長太刀・入身を得意とし、その祖は、望月相模守(もちづきさがみのかみ)定朝(さだとも)と言われているが定かでない。相模守定朝はなぞの多い人物で、一説には甚八郎重氏(じんぱちろう‐しげうじ)ともいわれる。

 相模守定朝は伝説によれば、清和天皇第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊の裔孫(えいそん)で、信州望月の人で布尾山城主で六万石の大名であったと言われる。
 望月相模守定朝は、夢の中で聖徳太子を見た。そして聖徳太子の軍要を、この夢の中で悟り、奥旨・奥儀を得たとされている。まさに伝説めいた起源である。

 本来、聖徳太子は内外の学問に通じ、深く仏教に帰依(きえ)した人物として広く知られている。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使(けんずいし)を派遣、また仏教興隆に力を尽し、多くの寺院を建立、「三経義疏(さんぎよう‐ぎしよ)」を著すと伝えられている。そして、その他に軍法にも卓(すぐ)ぐれた一面をもっていて、『上宮聖徳法王帝説』にはその一部が記されている。

 相模守定朝はこうした事を、夢の中で聖徳太子に教えられ、太子の「太子」から「太子流」と名乗ったとされる。後に、相模守定朝は太子流をもって甲斐武田家に仕え、屡々(しばしば)奇襲戦法などを用いて、軍功を立てたと言われる。
 また、相模守定朝は楠木正成(くすのきまさしげ)の軍略の流れを受けると言う。
 楠木正成(1294〜1336)は「楠木流軍学」の宗家であり、千早城攻防戦は楠木流の軍法の采配するところが多い。

 楠木正成は、南北朝時代の武将で、河内の土豪であった。1331年(元弘元年)後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、千早城に籠(こも)って幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。大阪府南河内郡千早赤阪村の金剛山の中腹にあった千早城は、坂路極めて険峻(けんしゅん)であり、守るに易く攻めるに難なる城であった。この地の利を、能く知り抜き、縦横に駆使したのが楠木正成であった。
 1333年(元弘三年)楠木正成は千早城に籠城(ろうじょう)した。そして多勢に無勢の北条氏の軍を防いだのであった。しかし1392年(明徳三年)楠木正勝の時に落城する。

 後に楠木正成は、九州から東上した足利尊氏の軍と戦い、湊川(みなとがわ)で敗死した。後世、正成は「大楠公(だいなんこう)」と言われるようになった。こうした大楠公の道統を、相模守定朝は継ぐと言うのである。そして相模守定朝は、長篠(ながしの)の合戦(1575年(天正三年)織田信長と徳川家康の連合軍が、新兵器の鉄砲を使用して武田勝頼を破った激戦。これにより武田家は滅亡に向かう)によって、天正三年五月二十一日に戦死したと言う。

 相模守定朝の、聖徳太子を夢見て悟りを開いたこの流派を「太子流」あるいは「聖徳太子流」といい、武田家滅亡後、太子流は会津藩や仙台藩が、後にこの流儀を起用する事になる。
 この流派の事は『日本武術諸流集』にも記されており、尾州の人で、江戸神田に棲(す)んでいた小山流の達人・飯坂庄兵衛にも伝授された。また飯坂庄兵衛の門人・御小人(こびと)黒田七三郎にも伝授され、後に黒田は仙台藩にも、これを伝えた。また明治初期に至っては、北原竜久が軍学者として有名であった。

 太子流の戦闘思想の中には、多勢に無勢の大集団の軍を、軍法によって敗る秘策が存在しているというのである。この思想は、大東流の『多数捕り』や『多敵之位』の戦法に相通じるものがある。大東流は、太子流の軍法体系が模索され、充分に加味されていると言う事が推測される。
 そして、大東流伝説の「清和天皇第六皇子貞純親王」の流祖なる説までも、非常に似通った歴史観を持っている。太子流が「清和天皇第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊からはじまり、……云々」と、挙げるところなどは、極めて酷似する内容である。

 以上二つを、歴史的に観(み)て行くと、「清和天皇」と言う皇胤(こういん)を誘導しようとする痕跡(こんせき)の跡が見られる。そして伝説は、皇胤に結び付ける事により、その素性を天皇の血統、または、その血統の流れとして、皇裔(こうえい)がそれを受け継いでいるとする意図的な働きが背後に浮かび上がって来る。これこそ、皇胤の誘導や、古き伝説を捏造(ねつぞう)する、虚構の最たるものであった。

 したがって、大東流の「清和天皇第六皇子貞純親王の流祖説」ならびに「新羅三郎源義光の大東の館伝説」は、皇胤への意図的な誘導があるものと思われる。しかし、断っておくが、流派の歴史観と、卓(すぐ)れた高級技法は別問題であり、技が卓れている事と、歴史を古く見せ掛け、皇胤に繋がるとする流派の意図的な誘導は、決して同じものではない。
 技法が卓れている事はそれだけ「洗練されている」ということであり、洗練は歴史を経なければ洗練されることはない。古い流派ほど、技法が原始的で、これが古くから伝承されたのであれば、その「原始的技法」が存在していなければならない。
 ところが大東流は、近代でも稀(まれ)な、極めて洗練された技法を有しているのである。この事は、非常に時代が新しいということを示している。

 そして「清和天皇起源説」を考えると、清和天皇の二人の親王が、一方に大東流を作り、また、もう一方に太子流を作り、16世紀の戦国時代、甲斐武田家を経由して、しかもそれを伝承した武家集団の中では、会津藩だけだったとするこの偶然は、果たして武家の歴史の結果から「偶然の一致」で、そうなったのか、あるいは意図的に誘導して、「会津藩だけが、両方の卓(すぐ)れた流儀を引き継いだ」と考えるのは如何なものか。

 あるいは会津藩だけが、皇胤的にも軍法的にも、同じ天皇の、二人の親王の血の流れを曳(ひ)いたものだとする二つの偶然は、何とも奇妙で、今なお疑問の残るところである。
 推察すれば、これらが明治後期から昭和初期の近代に、後世の何者かによって創り出された仮託である事は、まず間違いなかろう。

 まず事実としては、会津藩には御留流と言う武技は存在したが、これが大東流であったか否かは判定が難しい。そしてもう一つは、太子流は実際の会津藩に存在し、軍法として上級武士に学ばれ、会津藩祖以来、これが伝承して来たと考えられるが、太子流の歴史は、望月相模守定朝に或ると思われるが、太子流が会津に伝わったのは、藩祖・保科正之ほしな‐まさゆき/江戸前期の大名で、会津23万石の藩祖。徳川秀忠の庶子で保科氏の養子なる。1611〜1672)以降の事であり、太子流に「浦野派」「中林派」があることから、この二つの流派が存在した、約百年前から会津に流れたものと推測される。

 太子流浦野派はその流統が、会津藩士・浦野喜右衛門直勝によって興(おこ)されている。
 直勝は最初は流右衛門と名乗り、当時存在した太子流の望月新兵衛安勝(やすかつ)の高弟であった中林弥三左衛門尚堅(なおかた)に、太子流中林派を学んだ。しかし直勝は僅か三十三歳の若さで、宝暦八年(1759)十一月八日に死亡している。
 宝暦年間と言えば、江戸中期頃で、西暦では1751年10月27日〜1764年6月 2日を指す。天皇朝で言えば、第百十六代・桃園天皇(1741〜1762)から第百十七代・後桜町天皇(1740〜1813)の頃である。

 また、直勝が死亡した宝暦八〜九年にかけて、江戸幕府が尊王論者の竹内式部敬持たけのうち‐しきぶ‐たかもち/江戸中期の神学者。垂加流軍法の祖であり、橘家神軍伝や太子流軍要にも通じ、尊王思想を説き、幕府の忌諱に触れて重追放。世に言う「宝暦事件」である。更に明和事件に連座し、八丈島に流される途中三宅島で没した。1712〜1767)を処罰した事件が起り、世の中が騒然となった頃である。

 式部敬持は尊王論の大義名分を掲げ、一方、山崎闇斎やまざき‐あんざい/江戸前期の儒学者で、土佐朱子学(南学)の谷時中(たに‐じゅちゅう)に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人に達した。後に吉川惟足(きっかわ‐これたり)に神道を修め、垂加(すいか)神道を興した。1618〜1682)の橘家神軍伝を学び、太子流軍要にも、また橘家神軍伝にも通じていた。そして明和事件にも深く関わっていた。
 明和三年十二月、式部敬持は山県大弐(やまが‐ただいに)や藤井右門らと尊王論を説き、これに対して幕府は彼等を弾圧した。この弾圧により、三十余人が処刑されたとある。

 垂加流軍法は竹内式部敬持を流祖とし、正木正英より、垂加流神道を学び、堂上家(二条家歌学の流派中、細川幽斎以来の古今伝授を受け継いだ堂上家の系統)でこれを講じた。
 式部敬持は武技に長じ、扇子で弾丸払いを行い、あるいは飛んで来る矢を掴み捕ると言った秘術を持っていたと言うが、荒誕こうたん/「誕」は、いつわりの意で、「荒唐」とも)の観が強い。
 式部敬持は後に、京都宇治に引退するも、山県大弐(やまがただいに)の事件に連座して八丈島に流されるが、その船中病気になって三宅島で、明和四年(1768)十二月五日、五十六歳で没した。

 浦野直勝が生きた時代は、こうした時代であり、江戸中期は全般的に見て平穏な時代であったが、また軍学や軍法を学ぶ者は、幕府から目をつけられた時代でもあった。
 太子流浦野派は、その祖を浦野直勝とし、剣術と軍法を得意として浦野伊左衛門直景浦野喜右衛門直元浦野喜右衛門直景浦野喜左衛門村武と伝承された。

 一方、浦野直景の師匠筋に当る太子流中林派は、会津藩士・中林弥三左衛門尚堅を祖とする流派である。
 弥三左衛門尚堅は、最初、望月新兵衛安勝に安光流を学んだ。安光流の正称は、太子伝安光流といい、流祖は会津藩士・望月新兵衛安勝で、望月三清入道優婆塞(うばそく)安光の子として生まれた。父から太子流軍要ならびに太子流剣術を学び、父の名にちなんで安光流を名乗った。新兵衛安勝は七十六歳で、享保三年(1718)閏三月二十五日に死亡している。

 中林弥三左衛門尚堅は安光流の他に、小荒田吉兵衛に心清流剣術を学んだ。
 心清流は小荒田吉兵衛時定を流祖とし、時定は福島近郊に棲(す)んでいた武芸者であった。門人の中林弥三左衛門尚堅が元禄二年、会津藩剣術師範となってからは、心清流と太子流を併伝させ、太子流の剣術流派として有名を馳せた。

 弥三左衛門尚堅は後に太子流中林派を確立させ、太子流軍法を伝承し、この門からは多くの門人を排出した。享保十六年(1731)二月二十一日、七十四歳で生涯を閉じている。
 享保年間と言えば、第百十四代・中御門(なかみかど)天皇(1701〜1737)から第百十五代・桜町天皇の頃であり、「享保の改革」や「享保の飢饉」(1732)の頃であり、徳川第八代将軍吉宗(1684〜1751)がその治世(1716〜1745)を行って居た頃であった。

 会津藩において太子流が研究され始めたのは、江戸中期頃と推測される。
 太子流は望月相模守定朝を流祖とするが、一説には甚八郎重氏ともある。
 会津藩では中林派と浦野派が二つに分かれて広く行われていたが、文化八年(1812)三月に丸山左平治胤征(まるや‐まさへいじ‐たねまさ)が両派を合わせ一流に戻した。時代は江戸後期に掛かった頃で、文化文政時代を目近に控えていた。徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の治下で、町人芸術が爛熟(らんじゅく)の極に達した頃で、世は文化・文政年間を中心とした時代である。

 会津藩では、江戸中期頃に、太子流が軍法並びに剣術として伝承されたことは事実であるが、太子流軍法はまた、会津藩では、軍法を講ずる為、上級武士がこれを学んだとされている。当然、御留流(おとめ‐りゅう)として、その奥儀は門外不出として一子相伝(いっし‐そうでん)の形が取られたに違いない。
 そして幕末、公武合体政策で、会津藩は公武合体に尽力し、藩主・松平容保は京都守護職となり、尊攘派を弾圧する。しかし容保は、鳥羽伏見の戦に敗れ、東帰、後に征東軍に抗したが降伏し、その後、鳥取藩などに幽せられる運命を辿った。

 一方、西郷頼母は、会津木本派軍法を高津久左衛門忠懿(ただよし)に学び、剣は溝口派一刀流を学んだ。
 会津木本派軍法は祖が、会津藩士の木本九郎左衛門成理で、岡田甚右衛門正勝に長沼流を学び、享保二十年に免許を得た。九郎左衛門成理は明和八年、七十四歳で死去している。
 会津木本派軍法は長沼流木本派ともいわれ、また師匠筋に当る岡田甚右衛門正勝は同じ会津藩の室田金左衛門政良にも宝暦十年に免許を許し、岡田甚右衛門正勝は長沼流室田派を興している。

 室田金左衛門政良は元々幕臣で、書院番与力であったが、長沼流室田派軍法を会津に行って教えた。金左衛門政良は初め杉島甚兵衛氏成に学び、後に岡田甚右衛門正勝を請うた。
 長沼流室田派からは、金左衛門政良を祖として、室田主税政映江口新兵衛常好福王寺伴六繁勝桜井弥一右衛門政思らの門人が出た。

 一方、長沼流木本派からは、九郎左衛門成理を祖として、黒河内十太夫成揮篠沢仁右衛門秀雅丹波織之丞能教片峰四郎左衛門勝興高津久左衛門忠懿西郷頼母近悳と続いた。そして間接的には、西郷頼母も、太子流と関わり合いを持っている。
 以上の一連の流れを観て行くと、会津藩には太子流軍法と関わった形跡が強く、その伝承や、清和天皇の各親王(太子流は第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊。大東流は清和天皇第六皇子貞純親王)から伝わったとする点もよく似ている。

 伝説によれば太子流は第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊からはじまるとされ、大東流は清和天皇第六皇子貞純親王を流祖に立て、両流派は非常に似通っており、清和源氏の流れを意図的に誘導しているように思える。そして大東流の流祖伝説は、太子流をそのまま映した意図的な構図ともとれる。

 元々、武田惣角は自らの惣角流に、榊原鍵吉の直心影流を加え、これに柔術、合気術、棒術、捕手を加えて惣角流合気術あるいは惣角流柔術を名乗っていた。ところが、西郷頼母の指示に従い、一方で大東流柔術を名乗った。
 武田惣角は字学のない人であった為、頼母は騒客の為に伝書の形式的な原本を作成してやり、惣角が以降、剣を捨てて、柔術で自立出来るように武田家伝説とともに、清和源氏の伝説を付け加え、次のように認(したた)めた。

 「大東流は代々源家古伝の武芸として伝わり、新羅三郎源義光に至って、一段と技に工夫が凝らされた。新羅三郎義光は、戦死した兵卒の死体を解剖して、人格の骨格と経穴と謂(いわ)れる医術の研究をした上、女郎蜘蛛(じょろうぐも)が獲物を雁字(がんじ)絡めにする方法を観察して、合気柔術の極意を究めた」という、清和源氏伝説を付け加えたのだった。
 そして、特に注目していただきたい箇所は、戦死した兵卒の死体を解剖して、人格の骨格と経穴と謂(いわ)れる医術の研究をした上の一節である。そして、多くの新羅三郎義光の「大東の館」支持者は、大東の館で兵卒の戦死体が解剖され、ここに大東流の柔術の基礎が、医術的に研究されたと信じているが、日本で最初に人体解剖を行ったのは、江戸時代中期に入ってからである。それよりも、千年前の昔に、人体解剖が行われたというのは、明らかに後世の仮託である。

 日本で初めて、解剖の許可が許されたのは江戸時代の中期である。当時の元号で言えば、宝暦四年(1754)であり、歴史的に見れば近世になってからの事である。
 では、なぜ解剖が禁じられて来たのか。それは大宝元年(701)刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らが編纂した法律の「大宝律令」による。
  大宝律令は日本の法律の「もとじめ」である。その中に、「人間の解剖は行ってはならない」とある。以来、江戸時代の半ばまで約千年以上、解剖はしてはならない事であった。つまり、ずっと禁じられて来たのである。

 江戸時代半ばになって、日本で初めて人体を解剖したのは、山脇東洋やまわき‐とうよう/江戸中期の医家で解剖医学の先駆者。刑死体を解剖し、その結果を「蔵志」に記述し、旧説の誤謬を指摘した。日本で医学的に腑分けをした最初の解剖学者であった。1705〜1762)と言う医師であった。この時、解剖された者の名前は、屈嘉(くつか)という名前が残っているが、この者のは打ち首になった死刑囚だった。

▲オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の扉絵

▲解体新書。4年間の苦労を重ねて、翻訳された日本で最初の西洋医学の翻訳書。

▲解剖する図の『ふわけ』

 そして解剖は、これより遅れて杉田玄白すぎた‐げんぱく/江戸中期の蘭医。1733〜1817)がオランダの解剖医学書『ターヘル・アナトミア』を手本として、人体解剖の様子を翻訳する事になる。有名な『解体新書』は、この時に翻訳本として発表されたものである。また、日本ではこれ以前に体系的な人体解剖を行ったとする痕跡は一切ない。それは、「大宝律令」で、人体の解剖が禁止されていたからである。況して、戦死体解剖など以ての外であったからである。

 さて、頼母により作られた謄本を元に、惣角は頼母の言を墨守(ぼくしゅ)し、会津藩出身の名を辱(はずかし)めない為に、最初は大東流柔術本部長を名乗り、後年に大東流合気柔術総本部長を名乗った。そして惣角は、生涯を通じて、宗家とか、家元とか、第何代目あるいは第何世などの名称は一度も名乗らなかった。しかし武田惣角は、武田国次(国継)の末孫とされ、会津御池の御伊勢の宮の屋敷で生まれたとされている。

 また惣角は文盲であったので、新聞を読んだり、書かれた文字に何が記されてあるか理解できない人であり、しかしその記憶力は抜群で、それに頼り、近年に代書された巻物が作られたのである。その時、合わせて捺印された印鑑が「宗武」の印であった。そして惣角流並びに大東流合気武道なる流派は、剣を直心影流の「表の型」に寄せているようである。

 これを考えれば、惣角の大東流は西郷頼母の大東流と業を異にして、一人歩きし始めた事が分かる。西郷派大東流はこの異なる事を踏まえて「西郷派」と名乗る所以であり、剣術その他の激剣斬殺に於て、その方法論が異なるのは当然といえよう。

 更に、「新羅三郎源義光」の伝説に端を発すれば、合気・柔・杖・鉄扇を得意とする「武田流合気」も、新羅三郎源義光をその祖としている。そしてここにも、やはり清和源氏を挙げ、皇胤の誘導が見隠れする。
 「大東の館」や「大東久之助」も、清和源氏の流れの誘導に繋(つな)がり、その先には正しい歴史観とは別に、天皇の血筋と言う皇胤の流れを意識する意図があるようだ。


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