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古人の叡智が集約する護身武術
剣術のおける剣の太刀合。太刀合いにおける尖先の競り合いにおいて、如何にして敵のバランスを崩すか、如何にして敵の戦意を喪(うしな)わさせるかが、徹底的に研究され、武儀が練られたのである。
 剣の躰術こそ、やがて無刀捕りへと発達するのである。

■ 大東流の歴史観には問題があり!■

●大東流柔術の伝承体系は「太子流軍法の写し」の可能性が高い

  武士の興りは、平安中期、農村で発生したが、ここから武士団は、やがて「土豪」や「豪族」という形態を取りつつ、武力を以て、社会支配層に伸(の)し上がって行く基盤を築いた。
 土豪や豪族を中枢とする武士団は、中世の鎌倉時代に至って隆盛(りゅうせい)を見る。こうした現象は十一世紀頃から全国的に発生し、鎌倉幕府創設から江戸幕府の終末までの、約670有余年の間、武家政治の中枢を担った。そしてその存在形態は、武士団をはじめとして、「党」「一揆」「大名家臣団」等を構成し、これ等は時代や各地域によって様々であった。

 さて、そもそも「武士」を定義すると、広義に解釈すれば、百科事典などの本では「武芸を習い、軍事にたずさわる者を広く指す」とある。
 この専業者は、武技を職能として生活する「職能民」の事であり、後に独自の武家政権を構築し、平安後期頃に登場したとある。しかし、武士が興った平安中期の武士は、半農半兵の従事者であり、武士の起源と、半農半兵として歩いた足跡を理解しなければ、「職能民」としての武士団の興りは理解できない。

 しかし、武士が武芸を専門職として身に付け、職能民化するのは鎌倉時代に入ってからである。それまでは、平将門(平安中期の武将。摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に赴き、伯父国香を殺して近国を侵し、939年(天慶二年)居館を下総(しもふさ)猿島(さしま)に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振ったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。生年不詳〜940)の従えた武士からも分かるように、半農半兵であった。
 そして、血族の「血」というものを重んじて、武士間の階級構成は、内部的なヒエラルキーを構築させつつ、一個の戦闘的権力組織を築き上げたのである。これを「武士団」と言う。この武士団は、それ以前になかったのである。

 次に、半農半兵の武士団を形成し、侍(さむらい)が登場することになる。そして平安時代後期に至ると、皇族や貴族などは、身辺に常時伺候する侍を身辺警護に当てるようになる。
  侍の本分は、「武勇の士」として高く評価されることになり、皇族並びに身分の高い貴族らの護衛を任務として、これを専業化することになる。

 ちなみに「大東流」と言う流名の名称は、大東流合気武道や大東流合気柔術や会津大東流柔術ばかりでなく、江戸時代、関口流柔術から出た「大東流柔術」(関口流柔術第九代の関口柔心氏胤から出て、関口万平氏柔に至り、一方柔心氏胤から枝別れして、半田弥太郎に至り、門人の上村義雄、伏見辰五郎、池田為治、山本精三、松田栄太郎、雑賀寅応に至り、広島藩士の松田栄太郎は大東流柔術から真貫流柔術を創した)や、手裏剣術の「大東流手裏剣術」、あるいは合気術ならびに導引術を技法を名称とする村上源氏(村上天皇の子孫から出た源氏。源師房(もろふさ)に始まる。清和源氏とともに著名で、院政期以後の朝廷に活躍し、久我(こが)・土御門(つちみかど)・六条・岩倉・北畠などの諸家に分れる)の伝承を標榜(ひょうぼう)する「大東流合気術」がある。この村上源氏伝承の大東流は、堺市在住の大高坂清氏を宗家とし、茨城市在住の早島正雄氏がその後を継いだ形となっている。

 また、「武田大東流」という流派があり、この大東流は会津藩の大東流柔術の伝統系統とは異なる別伝を挙げている。武田大東流は武田勝頼の二男・武田竜芳が伝えた大東流で、現在、第十五世宗家・小林大竜氏がこれを継いでいると言う。何とも、訝しい限りではないか。
 果たして「武士団が存在しなかった以前から、武芸などが存在し、それも素手で戦う「素肌武道」なるものが存在しただろうか。

 この他にも、「大東流合気柔術山本角義派」や「大東流幸道会」や「大東流琢磨会」、また甲斐武田家の重臣・大東久之介が伝えたとする「大東流合気道」や、新羅三郎義光が興し武田信玄が伝えたとする藤原会の「大東流」、更には伝承や技術体系には関係なく、大東流の技法研究のみを重点においた、単に大東流の名称を用いる「大東流○○会」がある。そしてこれらの武道団体が一致して自称することは、自流が「清和天皇から興った」としていることである。不可解千万ではないか。

 以上の共通点を分析すると、多くは清和天皇(平安前期の天皇で、文徳天皇の第4皇子。水尾帝ともいわれ、即位した時が七歳で、幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。三十歳の若さで崩御。850〜880)に起因している事が分かる。あるいは清和源氏を標榜し、あるいは村上天皇(平安中期の第六十二代の天皇で、醍醐天皇の第14皇子。在位が946〜967年。後世、天暦の治と称される。日記「天暦御記」あり。926〜967)の子孫から出た村上源氏を標榜している。
 更にこれ等が、新羅三郎源義光(平安後期の武将で、清和源氏の流れを汲むという。1045〜1127)、後に甲斐武田を経由して、武田家滅亡後、そこから秘伝としてある特定の人に伝わり、伝承しているという説である。

 しかし、ここで重要視しなければならないことは、平将門を武士発祥の中心人物と考え、これに第五十六代の清和天皇と第六十二代の村上天皇を考えた場合、武士が武芸の専門家として職能民化されるのは鎌倉時代になってからであり、これが平安末期にその兆候が顕れたとしても、まだ数十年から百年も、後の事である。正しい歴史認識からすれば、武士団の興りは武芸と密接な関係を持つのである。

 更に、平将門を平安中期の武将として、ここに起点におき、考えを進展させると、清和天皇朝時代(清和天皇在位は858年から876年まで十八年間)は、これよりも六十年程前であり、この時代は、まだ武技や武芸なるものは一切存在しなかった事が分かる。それは武士団が専業者として存在していないからであり、この時代の武士は、季節労働者的な半農半兵であったからだ。然(しか)もその主体は、職業的に言って、農民である。

 平安時代は、桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府の成立まで、約四百年間を指す。政権の中心が平安京すなわち京都にあった時代を指すのである。この時代区分は、初期・中期・後期の三期に分かれ、初期を律令制再興期(律令国家が形骸化した後も官制などは京都の朝廷に存続)とし、中期を摂関期(日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、平安初期の清和天皇は幼少の為、外戚の藤原良房が任ぜられて後は、藤原氏が専ら就任した)とし、後期を院政期(上皇が院政を行なった時代で、白河・鳥羽院政期、後白河・後鳥羽院政期、後高倉から後宇多までの三期に大別することができる)または平氏政権期に分けることができる。こうして考えて来ると、少なくとも武士が武芸をもって、職能民化するのは、平氏政権期から兆候が見え始めたことは容易に想像が付こう。

 したがって平安初期の清和天皇や、平安中期の村上天皇に流派伝説の起源を求めることは、非常に不自然になって来る。
 では何故、清和天皇や村上天皇に流派伝説の起源を求めるのか。
 それは、まさしく「皇胤」こういん/天皇の血統をいい、皇裔(こうえい)ともいう)への誘導であろう。

 清和源氏の流れを見れば、天皇の皇子貞固・貞保・貞元・貞純・貞数・貞真の六人の親王に賜(たまわ)ったが、第六皇子の貞純親王の子と称する源経基(平安中期の貴族で武人。はじめ経基王と称し、のち六孫王と称されたが、源姓を賜り清和源氏の祖となる。「平将門の乱」にその謀反を奏し、のち小野好古(おお‐の‐よしふる)に従って藤原純友を滅ぼした。生年不詳 〜961)や、孫の満仲は鎮守府(古代、蝦夷(えぞ)を鎮撫するために陸奥国(むつ‐の‐くに)に置かれた官庁)将軍に、その子孫の頼朝は征夷大将軍に任ぜられているということが分かる。つまり皇胤の血統がものを言っているのである。

 こうして考えていくと、武士としての重要な条件は、その元を糺(ただ)せば、源姓や平姓を持ち、清和源氏や村上源氏、あるいは桓武平氏を名乗り、比較的に近い先祖が皇胤に繋(つな)がると言う事が、また一方で、貴族社会の仲間入りをする事実を作り上げていた。
 ここに武士団の首領が貴種性を主張し、権威を重んじ、天皇と血族関係にあり、こうした事が重視され、周囲がそれを信頼し、「都の武者」として、源姓や平姓の威厳が保たれたと言えよう。したがって「清和源氏」「村上源氏」あるいは「桓武平氏」などの名称を用いることは、武士の“格”を引き上げる必要十分条件であった。日本人の思考は、天皇に拠(よ)り所を求める考え方が根強いのである。その考えは、今日でも同じである。日本人が血筋を問題にするのはこの為である。したがって、江戸時代の封建制下にあっては、なおさらであった。

 そしてこの貴種性は、都に於てだけではなく、地方にあっても、なおこれが尊ばれ、平将門は貴種性と地方豪族としての伝統的勢力との結合によって、私営田領主の支配を行い、また地方豪族の一大勢力として成功した第一人者と言える。

 その後の土着した中央貴族の子孫は、大なかれ少なかれ、父系における貴種性と、母系における在地性とをもって、これを在地支配の上に活用したのである。そして、これが在地小武士団の組織を統合する原理となった。将門より一世紀遅れて登場する豪族的武士は、この貴種性を持つ武士団であった。

 以上を整理すれば、大東流に限らず、流派伝説は意図的な皇胤誘導に辿り着く。天皇の血族として、その血を引いてていると言う事が政治的にも、軍事的にも必要不可欠であったと思われる。その為に、清和天皇やその親王達が登場する。
 また、村上天皇が登場し、清和源氏や村上源氏が登場する。更にこれ等の流れを受け継いだ、新羅三郎源義光や、義光が女郎蜘蛛(じょろうぐも)の態(さま)を見て、武術に没頭とした「大東の館」が必要になって来る。
 そして次に、甲斐武田家伝説が必要になって来る。

 では何故、武田家伝説が必要になって来るのか。
 これは武田家が伝承したとされる、「甲州流軍法」に拠(よ)り所を求めようとしている事である。
 甲州流は、江戸初期に小幡勘兵衛景憲(おばた‐かんべい‐かげのり)によって説かれた軍法・軍学の一派である。武田信玄や山本勘助の兵法を祖述したものと言われている。この流派は別名「武田流」とか、「信玄流」と謂(い)われた。

 この歴史的な流れを観(み)て行くと、これに「太子流」が少なからず、関わっている事が分かる。特に会津藩は太子流に重きを置いた。
 そして出来上がった後世の仮託が、その皇胤を求めて「清和天皇」「天皇の六人の親王」「清和源氏」「新羅三郎源義光」「甲斐武田家」「会津藩上級武士の軍要・太子流軍法」という図式が描かれたことが浮かび上がって来る。
 そして大東流を考えた場合、大東流は幕末から明治に掛けて創作された「太子流の写し」である可能性が高い。

 結論から言えば、大東流は会津藩家老・西郷頼母のよってその流名が名付けられ、幕末から明治に掛けて創作された「新興武術」である可能性が強い。また太子流の流統や体系と、非常に酷似し、太子流の清和天皇第四皇子貞元親王と、大東流の清和天皇第六皇子貞純親王は、皇子同士の「第四皇子と第六皇子」の兄弟関係を、そそまま武芸に移行した後世の仮託が見て取れ、大東流柔術は「太子流軍法の写し」である可能性が非常に高いからだ。
 あるいは歴史の偶然の一致だろうか。

 大東流は明治末期、西郷頼母の命名後、武田惣角から大東流を学んだ人々によって、戦前・戦中の大正から昭和の初期に掛けて、多くのダミーが作られた。本来ならば巻物を書き記さないのが秘密情報を秘密として保つ唯一の方法であるにも関わらず、幻の武芸として、多くの巻物が作られ、またそれが一般に公開されていった。

 この巻物は武田惣角が代書人に依頼したものや、教授代理を得た人達によって創作されたものであり、当時惣角の講習会に同行していた八光流柔術(当時は紳士道と称した)の創始者・奥山龍峰(おくやま‐りゅうほう)や、生長の家(大本教より分派した宗教教団で、信者には八光流や植芝合気道の人が多い。【註】大本教は正しくは「大本」)初代総裁・谷口雅春(たにぐち‐まさはる)らが、『英名録』などの代書に当たったもので、他にも達筆の代書人(代書を職業とする某氏)らで次々に代書されたダミーが作られていった。

 また、大東流より出たとする八光流柔術は、初代奥山龍峰(吉治)師が宗家であり、大東流を武田惣角の門人・松田敏美豊作に学び、のち旭川などを巡回指導していた武田惣角の代書を手伝いながら講習会の巡回を蹤(つ)いて廻った。その後、旭川市二条通に大日本士道会竜武館を創設し、流名を「大東流士道」とした。
 更に東京に出て、神田お玉ヶ池に八光流講武塾を構え、この時に「八光流」を名乗り、独自の指導法を創始した。また、昭和十三年頃、「大日本士道会」を創設している。現在、大宮市に二代目・奥山龍峰が八光塾本部を構えている。

 また植芝盛平の戦前の呼称であった「武産(たけすむ)合気道」は、植芝盛平が「常盛」と名乗っていた頃の合気道で、植芝流合気道と称する以前の旧称であった。これは武田惣角の大東流と一線を画する試みが見て取れる。
 つまり合気道と大東流は、体系的にも歴史的にも違うという、一線を画する意識である。


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