内弟子制度 18



総本部尚道館より内弟子志望者へメッセージ


●尚道館の募集要項と人材募集

 
総本部尚道館・内弟子寮「陵武学舎」では、「内弟子制度」により、広く内弟子を募集し、将来、道場開設などをして武術指導を職業にしたり、その本格的な日本を代表する指導者として世界に羽ばたいてもらい、我が西郷派大東流合気武術を後世に伝えることを使命とする人を求めています。

 志(こころざし)があれば、その熱意によって名誉ある入門が許可されます。
 入門審査に際しては、先輩格である内弟子の諸氏が最初に対応し、その結果を踏まえて宗家先生が直接、その人の将来の展望を訊(き)き、適性であると認められ、本人が熱望すれば入門が許されます。
 ただし、生半可な気持ちでは通用しませんので、宗家先生の眼力に適(かな)う人でなければなりません。
 昨今は、大東流ドットコムから内弟子制度をご覧になり、これについて問合せのメールや手紙が増え、電話を掛けて来る人が多くなりましたが、多くは生半可な、興味本位で訊(き)く人が多いようです。

 中には不躾と言うか無教養と言うか、「そこって、ゴウキドウ(本人は「合気道」の読みを「ごうきどう」と読んだらしい)の道場ですか」とか、宗家先生をわざわざ電話口まで呼び出しておいて、「へーッ、シュウケ(この人も「宗家」の読みを「しゅうけ」と読んだらしい)なんだ。へー」を連発させた、不躾かつ無教養の御人がおられました。呆れる限りです。

 既に、合否の判定をつけるならば、メール・手紙・電話の時点で不合格であり、内弟子の修行を甘く考えている人が少なくありません。生温い環境の許(もと)で、過保護に育っていることが手にとるように分かります。また、一種のマニアック系の武道オタクも少なくありません。こうした人は、恐らく、一日の24時間以内に挫折してしまうのは必定です。

 これを承(う)けて最近は、つくづく、生半可な、確固たる志をもたない若者が増えていることに、嘆息せずにはいられません。率直に言えば、内弟子の修行に耐えられるのは、一万人中一人以下で、それ以外は、途中で挫折してしまいそうな、すべて人間のクズばかりです。

 しかし、現在世界には、約60億人弱の人々が地球上に生きていて、そのうちの、一万人中一人の確率で内弟子になりそうな人を推測すると、約60万人弱が未来の内弟子予備軍であり、日本の人口も現在は、約1億2千5百万人と言われるので、1万2千5百人くらいの人が内弟子予備軍として推測されます。しかしこれは少なくとも、約五十年か、百年くらいかかって、門扉を叩く人達であり、年間にすれば、一人か二人と言う事になります。

 要するに適正者は極めて少ないと言えましょう。
 裏を返せば、わが流の内弟子として最後まで遂行し、自分の念願を果たせる人間は、ごく僅かだと言う事になります。しかし武術が、幾らマイナーだと言っても、マイナーな武道雑誌や格闘技雑誌の、熱烈な読者として入れ揚げる、武道オタク・格闘技オタクと言う人種で無い事は明らかです。

 尚道館の入門規定でもあるように、優柔不断なマニアック系の武道オタクや格闘技オタクは、わが流に潜り込む余地はありません。わが流が必要とするのは、こうしたマニアックな愛好者や同好者と言った類(たぐい)の人種ではありません。
 自分の将来の展望を鋭く見据え、流行に振り回されること無く、黙々と素直に言い付けを守り、自分を常に失わない、志のある青少年を求めています。常に信念をもち続け、青雲高く志をもって、最後までこれを貫き通そうとする、ごく限られた少数の青少年達です。青雲の志に燃え、どんなに辛い窮地に立たされても、それ挫(くじ)けず、最後の最後まで諦めずに最善を尽くして努力し、己の意志を貫こうとする人を、わが流は若干数求めているのです。

 さて、指導内容【註】指導は単に、西郷派大東流の技術指導や整体術ばかりでなく、政治・経済・軍事・哲学・陽明学・言霊学・金融工学・歴史工学・開業ロケーション理論・心理学やアイドマ理論・食養道・道場経理学・インターネット作製などの広範囲に及ぶ)は直接宗家が行い、修業年数は2ヵ年。ここを卒業した人は各道場や支部に派遣し、また新たに各都道府県で道場が開設・開業でき、支部長以上の資格を有し、将来我が流派の幹部要員を養成します。

 これまで多くの青雲(せいうん)の志に燃えた若者が、我が西郷派大東流宗家の許に参集しましたが、ここを卒業した人は、現在までに、一人も居ません。
 これは非常に残念な事ですが、我が西郷派大東流の修行に耐えた最高年月の人は1年1ヵ月であり、また、口だけで意気巻いて入門し、僅か1週間で逃げ出した人もいます。1年1ヵ月を越えれば新記録達成ということも。
 しかしそれだけでは満期終了には至りません。物事は満願成就が大切です。

 もし、わが尚道館の内弟子の厳格な修行に耐えることが出来れば、これは人生の素晴らしい教訓になり、少々の辛いことや、逆境に立たされても決してへこたれることはありません。会社などの組織の一員となっても、立派にリーダーシップを発揮する事が出来るでしょう。
 また、成功への鍵もこの中に含まれている事は請け合いです。



●尚道館陵武学舎の一日

 一日の日程は、午前5時30分起床(ただし冬場は6時起床。冬場と夏場は「秋分の日」と翌年の「春分の日」で分ける)、洗面後、道場内外や風呂場の掃除。水汲みや農作物の世話。野菜ジュースまたはドクダミ茶あるいはヨモギ茶の朝食。朝は排泄タイムであり、一般に信じられている「しっかり朝食を摂る」という事はしません。
 この詳細理由は、「大東流食養道」http://www.daitouryu.com/syokuyouを参照下さい。

指型指圧器

経穴刺戟鍼

 その後、足の裏の摩擦ならびに指型指圧器や、鍼灸師用の経穴刺戟鍼(けいけつ‐しげき‐しん)を使って、足の裏の湧泉(ゆうせん)を徹底的に刺戟し、大地から「気」を吸い上げるツボを指や指型指圧器や経穴刺戟鍼で30分程押さえます。これによって足の裏が柔らかくなり、血行が良くなって、内臓の諸器官が鍛えられます。また、寒さにも強い足に鍛える事が出来きます。

 大地の気は、足の裏側からのみ、取り込む事が出来、同時に足の裏から気を取り込む養成をしていると、冬でも足袋(たび)や靴下無しで過ごす事が出来、寒さに対しては勿論の事ですが、夏の暑さや、梅雨時のジメジメした季節に発生し易い水虫などの予防にもなります。

 水虫は、白癬菌(はくせん‐きん)による皮膚病の一種(カビの一種で水瘡(みず‐ぐさ)ともいわれる浸淫瘡)で、足の裏や足指の間などに、水膨れが出来たり、皮膚が白くふやけたり爛(ただ)れたりして、強い痒(かゆ)みを伴う病気です。汗疱(かんぽう)などとも言われるこの病気は、皮靴などで密閉された踝(くるぶし)から下の箇所の、特に足の裏の指俣(ゆび‐また)の辺りに出来る皮膚病で、一度発生すると季節に関係なく、痒みを増しながら悪化の一途を辿ります。そして残念ながら、今日の医学ではこの病気を完治させる治療薬は、まだ発見されていません。
 したがって常に足の裏を外気に当て、あるいは午前中の直射日光に当て、湧泉マッサージの刺戟を繰り返し、こうした病気に罹(かか)らないように予防しなければなりません。

 これが終わった後、今度は手頸(てくび)の指関節を逆に曲げたり、手の甲を順方向に極限まで曲げたり、小手返しの方向や小手捻りの方向に曲げ、手頸や指の老廃物【註】手指の尿酸塩の除去。尿酸塩の沈着は3〜40歳台の飽食する男性に多く、動物性蛋白ことにラーメンの汁などに含まれる核酸摂取の過剰により、発作性激痛の痛風を起こす。慢性化すると腎不全で死亡)を取り除く柔軟動作をします。この四つの動作は、儀法(ぎ‐ほう)を実践する上で、ストレッチを兼ねた手頸運動であり、関節などに溜まるゴミを除去する効果があります。

手首の甲極め法

指捕り法

小手返し法 小手捻り法

手と手頸の老廃物を取り除くストレッチ体操

 午前7時より10時まで自主的な道場稽古【註】特に「受身」を徹底的に稽古し、後ろ受身、前受身、前方回転受身、前方飛び込み回転受身を五百回、千回と繰り返す。そして目標は、アスファルトの硬度な上でも、「ネコ」のように軽く回転し、躰にダメージを受けない体躯と体質造りをする)
 宗家先生は、徹底的に受身をすることを示唆します。昨今は、コンクリートのような硬度な場所の上で、軽く受身をとれる人は殆ど見かけなくなりましたが、こうした硬度な床の上で受身をとれるようにしておくことが、実戦では大いに役に立ちます。
 受身は内臓を衝撃から護(まも)る効果があり、同時に頭蓋骨(ずがい‐こつ)ならびに頭部を支える頸椎(けいつい)を強化させます。
 人間の頭部の重みは、全体重の8%に当たり、例えば体重が65kgの人であれば、頭部の重みは約5.2kgということになります。この5kg強を、7個の頸椎のリングが支えているのです。そしてこの頸椎の7個のいずれかがズレる事によって、様々な種々の病気が発生します。こうした病気を防ぐには、日頃から受身などをして、「転がる」という動作を身に着けておかなければなりません。

 合気武術の基本は「受身」であり、また極意も受身の中にあります。本来受身と言うものは、日常活動から非日常活動に切り替わった際に、臨機応変に、咄嗟(とっさ)に反射的に行うものであり、意識してやるものではありません。無意識のうちに、反射神経をもって、ネコのような受身をとることを目的とします。

 交通事故などに遭遇し、四つ角などの出逢い端(ばな)に、急発進の車から身を護れるのは、「前方飛び込み回転受身」のみで、また、車などの乗っていて後ろから追突された場合も、鞭打ち症を防げるのは、「後方後ろ受身」のみです。
 他の大東流では、「受身は必要無い」と言い切る指導者がいます。この指導者の言によると、「技を憶(おぼ)え、自在に使えるようになれば、投げる方だけをやればいいのであるから、わざわざ投げられる受身など必要無い」というのです。しかし、これは大変な誤りです。

 指導者は弟子を投げるだけでいいでしょうが、投げられる方の弟子は、はやり受身を充分にしておく必要があります。合気道の演武会でも、指導者や師範格の人の技が、非常に見栄えが良く映るのは、受をとる人の受身の旨さが、指導者や師範格の技を引き立てているのです。もし、受をとる人の受身が下手だったら、彼等の技も台無しになってしまいます。

 ただし、西郷派大東流の言う「受身の大事」は、合気道の受身と類を異にします。受身の目的が違うからです。演武会用の受身とは異なるからです。
 大東流でも合気道でも、受身の上手な人は、先生達から引っ張りだこです。先生達の技を引き立てるのは、受身の上手な受け手がいるからです。受け手の受身が下手であれば、先生達の技は引き立ちません。これは大東流や合気道の演武会をご覧になれば、一目瞭然でしょう。

 しかし我が西郷派大東流の「受身の大事」は、演武会用の受身でありませんから、必ずしも、観客に旨く見せ掛ける必要はないのです。問題は、アスファルトのような硬い場所でも受身がとれ、内臓に衝撃を与えることなく、我が身を護ると言う事を目的にしているからです。したがって演武会に臨席する観客の目は、それほど重要ではないのです。他人の目を気にするよりは、自分の躰(からだ)を守る事を最優先するのです。

 受身は、他から先に攻撃を受けて、防ぐ立場になって反射的に行うものですから、攻撃なき場合は、わざわざ自分から派手なアクションを起こして受身をする必要はありません。受動的に、他から何等かの攻撃を働きかけられた時に限り、護身術は有効であり、自分から先にし欠けるものではありません。「先の先」をとって、これを護身法と言う流派もありますが、「後の先」こそ武術の真髄であり、過剰防衛にならない為にも、受身は必須課題の修得技です。

 私たちの周りには、無数の危険が取りまいています。わが家(や)から一歩外に出れば、そこは修羅場(しゅら‐ば)の危険地帯であり、いつ何時(なんどき)不慮の事故に遭遇しないとも限りません。
 受身を単純明解に表すれば、相手に投げられた時、あるいは他から被害を被った時、受ける被害ができるだけ少ないように倒れる方法であり、いつ日常が非日常に変化するかも知れない現代は、こうした反射神経を養い、それが「霊的反射神経」にまで拡張できるように養成しておかねばなりません。そして致命的な致死傷に繋がる「顛倒(てんとう)」だけは、絶対に避けねばなりません。
 正確な受身を会得するには、まず、繰り返し受身を研究する事が大事であり、五百回、千回と徹底的に受身を繰り返します。 

頸椎と脊柱の図

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 受身は、回数を重ねて、転がれば転がる程、脊柱(せきちゅう)の7個の頸椎(けいつい)、12個の胸椎(きょうつい)、5個の腰椎(ようつい)、岬角こうかく/仙骨の突起部にある)、仙骨(せんこつ)、尾骨(びこつ)の各々を正しく矯正します。脊柱は32〜34個の椎骨からなり、上から順に頸椎・胸椎・腰椎・仙椎・尾椎の順に重なっています。
 頸椎・胸椎・腰椎は椎骨といわれ、各々に独立した骨の、真椎(しんつい)といわれるもので、仙椎ならびに尾椎は仮椎といわれ、成人になるに従って、各々は癒合(ゆごう)して仙骨と尾骨に独立します。

 そして成人以降、腰痛に悩まされる理由は、幼児期から少年期にかけては仙骨と尾骨が各々に独立して腰椎が重なっていませんから、腰痛にはなり難いのですが、成人になるとこれらが独立し、その上に腰椎が重なりますから、しばしば「ギックリ腰」と言う椎間板(ずいかんばん)ヘルニア状態が起り、腰部の激痛が起るのです。これは脊柱の骨が正しく重なっていまいと言う事を表します。

 しかし常日頃から、受身をして転がりますと、脊柱の重なりを矯正し、重なり方を正しく復元します。転がれば転がる程、矯正度合いは高くなり、同時に脊柱の両側にある内臓に繋がる経穴も刺戟しますから、内臓が丈夫になるばかりでなく、内臓の位置すら正しく矯正し、元の位置に復元します。更に、衝撃に耐えられるような内臓は位置を行い、腹部すら鍛えてしまうのです。

頸椎とそれに附随する第四頸椎と環椎

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 また受身の健康法としての利点は、上下の血を回転することにより入れ替える事が出来、天地を逆さまにして、血液の交流を容易にすることも大事です。更に、回転する時に、眼を開けて一箇所を凝視する為、空中の感覚意識が養成され、平衡感覚が徳に発達します。これで受身は、西郷派大東流にとって無用の長物で無い事が分かるはずです。

 午前10時より昼食の弁当を持って、午後3時まで野外での山稽古。特に、剣術並びに手裏剣などの飛び道具の稽古が中心。斜面を利用しての山稽古は、室内の稽古と異なり、自然をよく知らなければならず、地形や地質や、転向や水の流れ、樹木の生息や自然動物の生態なども心得ていなければなりません。
 そして、「土」を知り、「水」を知り、「風」を知り、「火」を知り、最後に天空の「空」を知る「五大」に迫るのです。これは、道場と言う室内に居ては体得出来ません。道場と言う室内は、修行と言う大自然相手の一部に過ぎず、道場内稽古だけでは武術の真髄には迫れません。

 非日常とは、室内以外の、野戦が展開された時、これにどのように対処するかと言う事であり、単に平坦な、周囲にロープの張られた柔らかいリングの上や、クッションのある板張りや、あるいはスポンジの利いた畳の上と言った、風雨を防げる防禦構内では、その現実を知る事は出来ません。
 実戦とは観客のいる室内で戦う事ではなく、建物もなく、身を安らぐ場所もないような、過酷な大自然の中での、自然と己自身の戦いを繰り広げるのが、すなわち実戦であって、この中にあってこそ、我が身を護る手掛りがあり、これを会得してこそ、本当の「護身術」を身に付けたと言えるでしょう。

 多くの格闘技経験者やスポーツ武道経験者は、野外での稽古の経験が殆どありません。また、辺鄙(へんぴ)な、歪(ゆが)んだ地形での実戦を経験したことはなく、大雨の大自然の猛威や、暴風雨、大雪、寒気や猛暑などの過酷な自然状態にあって、我が身を護るという、実際を知りません。

 しかし尚道館では、非日常の中で「真の実戦とは何か」と言うことを、内弟子らは体験して行きます。大自然は無分別であり、無差別であり、いつ突然荒れ狂うかも知れません。あるいは、何処かの国に戦争が勃発して、この火の粉(こ)がいつ何時、日本に降り掛かるかも知れません。こうした時に、最後の最後に役に立つのは、大自然の中で経験した「本当の白兵戦」であり、人間の最後の戦いは、こうした大自然の中で繰り広げられる、白兵戦に他ならないのです。そして、自然を自分の味方に付けて戦う、特異な白兵戦を知らなければ最後まで生き残る事は出来ないのです。

 午後7時まで自由時間。その間、入浴して食事【註】食事の時は常に「静坐」することが基本。足を横の崩したり、胡座をかくなどの、だらしない姿勢は許されない)。午後9時まで道場生と混じって、夜の部の道場稽古。一日の反省を行った後、『内弟子日誌』を記載し、午後12時前後に就寝。
 ただし、この睡眠時間を割(さ)き、自己反省や精神統一の瞑想法「夜坐」やざ/今日一日を省みて、納得のいかない点を、自身で反省しつつ、瞑想にはいる術)に充(あ)てても構いません。人間は、常に「自分とは何か」という事を問い続けなければなりません。

 なお、内弟子期間中、経済活動の為に、アルバイトや短期就業で働きに出かける内弟子は、午後の時間が自由に使えます。また同じように、高等職業訓練所などで各種の職業指導を受ける者は、この間(午前九時から午後五時まで)を利用して、これに随(したが)い、約一年間に亘り、失業保険を受けつつ、尚道館での修行をする事ができます。

 尚道館で指導する野外稽古の中には、自給自足の為に、植物の苗を植える農作業も含まれます。
 人間は、古来より土と共に馴染(なじ)み、土地と共に生きて来ました。この基本的な教訓を大自然から学ぶ為に、尚道館では、こうした農作業にも、大きな指導要項に挙げ、有機農法を展開しつつ、大自然研究の一つに当てています。

 植物は、生命体存在の基礎であり、植物を知る事は、すなわち大自然を知ることであり、植物と関わり合いを持つ上で、「土を知る」ということも、大切な修得課題の一つなのです。
 植物は、その種別ごとに、あるいは季節ごとに芽を出し、花を咲かせ、実を付けます。人間はこうして、植物から恩恵を受け、季節の移り変わりを教えられ、その季節の移り変わりを巧みに読み取って、「護身術に活かす」と言うのが、西郷派大東流合気武術の教えであり、この教えに忠実であることが、すなわち宇宙の法則に従うと言うことなのです。
 すなおに、大自然の法則に従う事を知る事こそ、「合気」修得の近道なのです。

 そして大自然を知る第一の課程は、まず、「土を知る」ということであり、大地の仕組みを知らずして、「合気」の修得はあり得ません。
 土を知り、それを直接感じるのは、大地と接する足の裏であり、その要は足の裏のほぼ中央部にある「湧泉(ゆうせん)」という経穴(ツボ)です。湧泉から気を吸い上げ、掌の「労宮(ろうきゅう)」から抜ける回路と、もう一つは顔面から抜ける回路があります。人間はこの回路の循環によって大地から活かされ、同時に天の気を「泥丸」で感知し、霊的な能力を密かに発揮しているのです。

 内弟子の大事な仕事の一つとして、道場の事務処理があります。
 道場事務【註】入門願書やその他の書類、各支部道場の集金・受付・見学者への説明など)や電話応対【註】はっきりとした、てきぱきとした受け答え)といったものがあり、他にも食糧の買い出し【註】食品の良し悪しを見抜く眼を養う)、炊事当番【註】料理の技術を磨くのが目的)、便所掃除【註】尚道館では、便器を洗う場合は自分の手で直接洗うのが常識)や風呂掃除・風呂番【註】お湯の湯加減を看る。人の気持ちを観じ、勘を養うのが目的)などの雑用も課せられ、これは将来自分が道場を開業した場合に、大いに役立ちます。

一日24時間の道場稽古のない時の、普段の修行サイクル表。ただし、一日の修行のうち、稽古を中座してアルバイトに出る者は、事前の申し出により、修行継続の為の経済活動が許される。 一日24時間の道場稽古がある時の修行サイクル表。ただし、一日の修行のうち、稽古を中座してアルバイトに出る者は、事前の申し出により、修行継続の為の経済活動が許される。

 しかし稽古日以外曜日【註】火・木・土・日の稽古日および個人教伝が行われる時は、稽古に参加しなければならない)での外出は自由で、夜は点呼もなく、帰館門限も午前0時の就寝時間までに戻れば許されます。その間、経済活動の為、時間・曜日指定のアルバイトなどの活動を行っても構いません。
 以上、規則正しい修行者の生活が繰り返され、こうした事は将来道場を開設した時、大いに役立つようにプログラムされています。



●内弟子は宗家先生の御家族と共に暮らす

 稽古は差ほど厳しいものではなく(本当かな?……)、和気藹々(わき‐あいあい)とした実学生活を、曽川宗家先生の御家族と一緒に暮らし、共同生活をしながら、そこから「人とは何か……」あるいは「人生とは何か……」という最大のテーマに取り組み、学んでいくことになります。

 人は、社会性動物です。
 生物学的に言えば、サル目(霊長類)ヒト科の動物であり、現存種はホモ・サピエンスただ一種とされています。これを「人類」と呼び、また、その一員としての個々人を「人」と名付けています。

 更に、「人類」を追求しますと、霊長類としての人類は、その中で特に現在のヒトを指すのであって、行動的には直立歩行し、脳の発達が著しく、手を巧みに使い、道具を作って使用し得る動物です。そしてその「人」は、出生から死亡に至るまでの自然人であり、世の中を渡る社会的動物と言えます。

 人間は、「人間」と書いて、「ひとあい」とも言います。
 「ひとあい」とは、自分以外の他人と付き合って行く社会性を指し、心を通わせて、人の「気受け」をし、そこに人情に機微(きび)を感じ取ります。そしてこれを更に追求すれば、「人は如何に生きるべきか」という人生の命題に行き当たります。

 内弟子修行は、こうした命題に対し、日々これを探究し、自身で我が行いを省みつつ、精進する目的意識が、内弟子の果たさねばならない研究課題なのです。『内弟子四カ条』のテーマの一つに、「易より難へと修練を要す」という項目があり、内弟子は徐々に困難なテーマに対し、精進を図るのです。そして「日々新たに、精進する」のです。
 この研究課題は、毎日繰り替えされ、その日々の中で、人としての進むべき道を、日々新たに取り組むのが、内弟子の一日の重要な、今日一日の課題なのです。今日一日の反省の中に、明日への希望があり、ある事を成就させようと願い望むこと原点は、まさにこの反省の中にその答があります。

 人間は、ややともすれば自分を見失い、ある時は思い上がり、ある時は絶望の淵(ふち)に叩き付けられます。これは日々の反省に欠けた日常を送っているからに他なりません。安易な日常を送っていると、つい、こうなってしまいます。
 しかし「常在戦場の気持ち」を忘れず、安穏な日々を非日常に置き換えて、緊張して生きる事も人間には必要であり、何よりも「他人行儀」に人と接すると言う気持ちを忘れなければ、過保護な親に縋(すが)るような愚かな甘えも無くなって、日々新たに、清々しい毎日を送れるに違いありません。