1.「目立たない」と言う態度
目立たないと言う態度は、武術修行の基本である。
昨今は、競技武道や格闘技が観戦スポーツとして持て囃(はや)され、その勝者は英雄視されるようになったが、武術で云う「目立たない」ということからすれば、既に「武」の意味を失い、芸能タレント同様の扱いを受けている。愚かしい限りであるが、その愚かさの特徴として、英雄視されて有頂天に舞い上がった人間は、言動や動作、服装、髪型(特に男女を問わず茶髪が多い)、態度、生活振りが派手で横着に成り下がるという現実がある。これに誰一人として、免れた者は居ない。
武門の礼法では、こうした手合いを「ことごとし」(【註】事事しい)として評価は低く、嫌われる対象となった。また、英雄視されている多くに人間は、肩で風を切るが如く歩き、肩肘を張っている。これは礼法の説く「自然さ」とは言い難い傍若無人振りである。
日本では、昨今の現状を見てみると、殺傷事件などが多発し、一般市民が通り魔などにも襲われる事が多くなったが、それでもアメリカなどの国に比べれば、多少は治安が良い方であるように思われている。しかし肩肘を張り、肩で風切るような歩き方をしていると、アメリカならば命を狙われて、ボディ・ガード無しでは、とてもでないが歩けないのである。この点が、島国日本とアメリカ大陸の違いと言えよう。
アメリカは民族の縮図であり、いろんな考え方を持った人間が寄せ集まっている。習慣も違えば、宗教観も異なり、多民族国家である。したがってスラムの底辺には、スポーツ格闘技の有名人を殺傷して、自分がこれにとって代わろうとする異端的な考えを持っている人間の少なくない。
アメリカで興業する格闘家の多くは、自分専用のボディ・ガードを持っていて、稼ぐだけ稼いだら、さっさと目立たぬ田舎に引っ込み、静かに余生を送っているのである。
ところが日本はこれと違う。
若干の治安が保証されている為か、アメリカのようにスポーツ格闘家は姿を控えめにする事はない。謙虚とは程遠く、羽手で横柄で、態度も傲慢である。テレビやスポーツ新聞の話題の的になり、これに気を良くしてか、有頂天に舞い上がり、有名人気取りでいる。
これまでの自然な態度から一変して、服装が羽手になり、肩肘を張って、態度も横柄(おうへい)になる。そして庶民を見下すだけ見下し、その態度は、いま流行(はや)りの政治家顔負けの、極めて傍若無人である。
いつか彼等も、アメリカ並に命を狙われ、下剋上の的にされるであろう。
さて、尚道館では「謙虚」を旨とする。横柄な態度は禁物である。自然な物腰を尊び、肩を怒らせない姿勢を徹底的に指導する。公民に紛(まぎ)れれば、完全にその中の人となるような佇(たたずま)いを指導する。
人間の肩には、人間の態度が一番先に現れるものである。
礼法では、肩から手頸(てくび)にかけての箇所を「水走り」という。この箇所は、人間を形成する人格の現れる場所で、個人の態度を形成する箇所だ。
次に、起居振る舞いにおいて、その動作は「途切れる事がない」という「流れ」を、動きの中で表現できる事が、最も「自然」として尊ばれる。自然な動きを「よし」とし、途切れを作らない事が、合理性を重んじる武術では、最も大事な要素となるのである。
またこれが、武術的に云って「隙のない動作」に通ずるのである。
2.控え目と謙虚
慎む事を知ることは、人間として大事な修行の一つである。
特に武士道を全うする人間は、謙虚さと、常に控え目という姿勢は重要課題で、「脳ある鷹は爪を隱す」の例え通り、目立たぬ事が大事である。
ところが、昨今は自分が何かの武道を遣っている事を表に出し、これをひけらかす人間が少なくない。本人は風雪に鍛えた拳ダコを人前に曝(さら)して、強(こわ)持てを狙っているのであろうが、決まってこの種の人間は、性格が好戦的で、必ず喧華に巻き込まれて、何等かの傷害事件を起こす。また、弱肉強食の論理を信奉している為か、態度も、物言いも弱い相手には横柄である。
しかし、自分の知らない所で「恨みを買われている」という事も知っておかなければならない。アメリカのように、ビルの陰から、いつ飛道具やナイフで狙われるか分からないのである。
こうして考えて来ると、「控え目」と「謙虚」さを保つと言う武人の行動律は、隙のない態度にも繋がり、これが同時に護身術の役割を果たしている事が分かる。
この事が理解できれば、謙虚さと控え目から、その動きも、スピードに頼るものから滑らかさに重んじる動きへと変化する。スピードに頼っていなければ相手に負けると言うのは、「未熟」な証拠であり、自分の観察眼が鈍感である事を物語っている。
達人に達している者の動きを観察すると、決して速くない。観察眼が疎(うと)い素人目には、「鈍(のろ)い動き」と映る。ところが、決してそうではない。
達人の動きは決して速いものではない。非常に滑らかなのだ。
流れるような動きがあるから、素人目に見て、「あんなに遅くて、よく間に合うものだ」とか、「ひどく、のろのろしている」と映るのである。
そして「動きが遅い」と映るのは、スピードの頼らなくても済むような、時間や空間の「間」の取り方が非常に旨いからなのである。
一口に控え目と、素人は蔑視するようであるが、実は「控え目」にはこうした形に現れぬ、別の空間や次元で、「動きの余裕」に繋がる事を教え、余裕のある動きこそ、武術では最も大事にしなければならない行動律であると説いているのである。
また謙虚に振る舞う事は、観察眼を養う切っ掛けを作る事になり、同時に人間研究にもなる。
観察眼を養う最初は、自分が謙虚でなければ養う事は出来ない。出しゃばったり、自分が、自分がと、「我(が)」を通していたのでは、こうした眼は養われず、謙虚に、じっくりを相手の言語や動作、服装や態度、生活スタイルや仕事振りなどを観察しなければならないのである。聞き上手になる事も、然(しか)りだ。
こうして高い見識を養って行く事が、武術の礼法に通じるのである。
しかしこれが理解出来ない未熟者は、バタバタと騒がしく、スピードに頼る動きに眼を奪われて、それでいて結局肝心なツボを外し、最後は無慙(むざん)に敗北するのである。この種の愚行を遣(や)やらかす人間に、スタンド・プレーを遣りたがる人間が挙げられる。またこれは、未熟さと言うより、生まれながらに性根の腐っている証拠であろう。
要人物として、この種の人間も、武門の礼法からは外される下衆(げす)の種類である。
武門では、「着座」一つにしても「控え目にせよ」と言う教えがある。
これは自分の分相応と言う位置よりも、一等下位に下がり、席に着く教えである。
「席」とは、自分のポジションであり、地位や順位であるが、同時にこれば「自分の場」と言う事にもなり、この「場」は万一の場合、敵との間合(まあい)ともなる。
したがって武門では、喩(たと)え上席に薦(すす)められても、これを薦められたからと云って、直ちに上席に昇る事はしないものである。辞退し、引き下がるのが礼儀である。これは武門の礼法に限らず、世間一般で行われている世の中の風習であるといえよう。
これは「分際を知る」と云う事にも繋がるのである。
これを語るのに面白い話がある。
ある暴力団の組長に、カラオケの好きな人が居た。この組長は北島三郎の『兄弟仁義』が十八番(おはこ)だった。この組長は毎年恒例の忘年会を伊豆のある温泉地で催した。この席には組幹部や正式組員の舎弟達が招待された。そしてこの席には、この程やっと、準構成員から昇格して金バッチを貰ったある正式組員も居た。
大広間で数十名の全組員が勢揃いし、組長ならびに幹部の挨拶も終え、いよいよ無礼講の酒盛りが始まった。「乾杯」の音頭と共に、司会者役の幹部は、カラオケで各々の「のど自慢」を披露するように皆に告げた。
そして例年の如く、トップバッターは組長だった。
司会者役は「是非組長に」とお願いする。組長は「今夜は無礼講であり、若いもんに歌わせろ」と、一応は辞退してみせる。しかし司会者役は更にお願いする。組長は、司会者役の勧めを断って、「若いもんへ」と再び辞退する。
そしてこの時、この度、正式組員になった若者を見つけ、顎をしゃくって「お前が歌え」と云うようなゼスチャーをした。この正式組員になったばかりの若者は、これまでの忘年会の経緯(いきさつ)を知らず、組長の勧めに応じ、「では、自分が歌わせて頂きます」と云って立ち上がり、事もあろうに、組長の十八番だった『兄弟仁義』を歌うと、カラオケ係に指定した。辺りは水を打ったように静寂になり、それに反して「お前が歌え」と指示を受けた若者が、イントロに続いて、陽気な歌声を響かせ、辺りは一面にこの組員の歌がこだました。
これだけで大広間は、恐怖と共に凍り付いた。司会者役は泣き出しそうな顔になって呆然(ぼうぜん)となった。組長は席を蹴って室外に出て行った。
カラオケのコードは直ちに引き抜かれ、会はこれで打ち切られたが、その一曲の歌が問題を残した。
組長は「お願いされる立場」を無理に演出しているわけで、口に出して、自分から希望する事はないのだが、「頼まれれば仕方ない」という、希望とは裏腹な意思で自分を表現するのである。
ところが組長は、自分の唯一の十八番を、駆け出しの組員にとられ、組長としての面子(めんつ)を失ったのである。その後、この若い組員が、どのような半殺しの目にあったか想像に難しくない。
若い組員は無礼講を真に受け、組長の事を考えて、わざわざ古い歌を選んだつもりだったが、これが仇となり、袋叩きにされ、小指を詰めらて、破門された事は云うまでもない。
控え目を忘れ、箍(たが)を外すとこのような目にあうと言う、典型的な出来事であった。控え目か否か、これには「人を試す策略」も含められれおり、安易にこの言葉には乗らないものである。乗れば、以上のような目に遭うことも、世間ではよくある事なのだ。
だから武門では、こうした先を見越した教訓を叩き台にして、「控え目」と「謙虚」という言葉で戒めているのだ。
武門では控え目を忘れて、上席を薦められ、安易にこれに乗る事を「一人上臈(じょうろう)」として嫌う為来(しきた)りがある。
何故ならば、「一人上臈」は、「上臈女房」(良人(おっと)より身分の高い女官の意)の略の、逆の意味を指すからである。
上臈とは、身分や地位の高い事を指すのであるが、この他にも中臈(ちゅうろう/修行の年数の多少によって上・中・下に分けた、中の位の者あるいは官位の中位の後宮などに仕える女官)、下臈(げろう/年功を積むことが浅くて地位の低いことの意味であるが、普通は「下郎」の当て字が使われ「下種(げす)」を指す)という言葉があり、江戸幕府大奥の職名を指す言葉でもある。
更に「一人上臈」には、知識や才能をひけらかす「前煌(きら)めき」の意味も含まれ、スタンドプレーを働く者や、目立ちたがり屋は、武門では最も嫌われ、卑しめられる対象である事が分かるであろう。また、控え目を忘れると、とんでもない出来事に遭遇する事がある。
3.途切れのない自然さ
「途切れがない」という事は、「型が無い」ということである。
そもそも西郷派大東流合気武術は、「型が無い」武術である。西郷派大東流は、他の大東流と比べ、柔術百十八箇条などと型を設け、型を反復する事でこれを修得すると言う方法はとらない。固定した型を決められ、これを反復練習する事は、型以外の方法で攻撃された場合、全く役に立たないからだ。
こうした時代遅れの骨董品は、技自体の極めも甘く、単に型を反復する為に、型を覚えるというう事に終始し、詰めも厳格ではない。
また、見識の備わっていない人間は、とかく「動作」を教条化したがり、この範囲内で形式化したがる。そして、教条化すれば覚え易いと錯覚する。
しかし、これには落とし穴がある。
教条化し、形式化すれば、この動きは途切れのあるものになり、「ことごとしい」ものになってしまって、「目立たざる躾」が、逆に目立ってしまうのである。
「ことごとしい」とは、「事事しい」という文字を書くが、つまり、「おおげさ」であり、「仰山(ぎようさん)」であり、「たいそう」である事を指す。
昨今の大東流を見てみると、ある指導者が自流の作法に、居合道の進退動作を取り入れ、更に、技の掛け終わりに、「見栄を切る」動作を取り入れているが、これは正に武門の礼法から外れる、「ことごとしさ」で、見る者に大袈裟の観(かん)を与える。また芝居掛かり過ぎて「猿芝居」の観が否めない。
恐らくこの指導者は、一通りの辛酸をなめた事の無い、底の浅い人なのであろう。
4.機転
武術の礼法の基本は、この裏側に、教養と見識に支えられた思想が流れている。この思想こそ、「機転」といわれるものの別称であり、武門では機転を最も大事にする。
礼法と云えば、堅苦しく、細かな取り決めで縛られているように考えがちだが、基本的には一種の「思想」であり、古人の積み重ねから起った「教訓」を集大成したものである。したがって実地の運用には、これを実践する者の応用力が問題となる。応用力の欠ける者は機転が利かずに、猿真似として、何処かから別のものを持って来なければならないであろうし、訝(おか)しな、仰々しい、芝居役者顔負けの「大見栄」を切らねばならなくなるのである。
相手を掛け捕った後に「見栄を切る」あの動作は、必ずしも「残心」とは違うようだ。
武術では「残心の残せ」という。我が流も残心は煩く、腰に脇指を対当していれば、これを抜刀して敵に対して残心を残すが、無刀の場合は、「てがたな」を振り上げ、残心をとっている。
これは撃突した後に、敵の反撃に備える心の構えを教えたものである。また、その後の敵の反応に応える「構え」をいう。そして闘志を失わない敵は、再度反撃する恐れがあるからだ。
しかし、我が西郷派大東流は、一般に行われているような大東流の「見栄」を切る事はない。「てがたな」を敵に対して振り上げるのは、あくまで「残心」である。これは芝居がかった見栄とは異なる。
また、「型に嵌(はま)った見栄」は目立ち易く、武門の礼法にはそぐわない。「ことごとし」甚だしい限りである。見識の無さや教養の無さがこうした、平和惚けの国・日本の何処かの、武道演武会で繰り広げられているのである。そして応用力に乏しいから、こうした見栄きり芝居以外に、新たな発想が浮ばないのである。
倒されたり、抑えられたりした敵の反撃は、単に刃物や拳銃と行った物ばかりではない。時には砂とガラスを細かく砕いた眼潰しを相手に投げ付ける事もあるし、「筒飛し」と云って、藁(わら)スボ(【註】藁で作ったストローのようなもの)の中にトリカブトなどを毒薬を仕込み、これを相手の眼や口の中に、隙を見て流し込む術も使われたと古典にはある。
また、着物の裏に縫い合わせた小刀や、鍼(はり)もあるのである。こうした「隠し物」と云われた隠し武器がいつを襲い掛かって来るかも知れないのである。こうした術者の隙を狙う、卑怯な武器が幾らでも或る武術の世界で、芝居ががかった見栄を切るのは、隙をつくる原因にもなり、要注意なのだ。
機転の利かない様は、また、人間の発想を乏しくする。更に、伝承と伝統の違いも、武術には克明に現れる。
伝承一辺倒は、次の時代の伝統を作り上げる事が出来ない。応用力が乏しくては、時代について行けず、臨機応変の発想の転換が出来ない。したがって伝統武術になり得る要素に欠ける。
一般に伝承と伝統は混同され易く、これを同じものと考える素人は少なくない。そもそも、この辺が見識の無さであろうが、伝承は例えば、江戸時代の形をそのままを現代に残していると言うものであるが、伝統は古いものを研究しつつ、時代に臨機応変して、次の時代に残す為にこれに改良を加えるものである。改良を加えるからこそ、それは「伝統」となりうる。
しかし骨董品の儘(まま)では、時代にそぐわなくなり、時代に取り残されるのである。
機転とは、物事に応じて、機敏に心が変化し、これが機知として働く様を云う。そしてここに人間としての「進化」の現実がある。進化を怠った人類は、次の時代の「亜人類」でしかないのだ。
5.配慮
人としての配慮や気遣いは、「心くばり」と言う面で、隙を作らぬ心構えを教える。隙を作り易い人間は、配慮や気遣いが欠けるからだ。
また慎重でない様も、隙を作り易い。
同時に、配慮や気遣いが欠ける人間の特徴は、「へつらう」人間であると云う事だ。
こうした人間は、強きに弱く、弱きに強いという面を多く持っている。
これを如実に表したものが、お追従人間であり、強い者の顔色を見ながら、その事だけを巧みに読みとって、世渡りをし、保身を図る人間である。寄らば大樹であり、強者の気に入るように、自分自身を変態させる事が出来る。
したがって容易ならぬ、要注意の人間とも言える。
組織や団体が、何等かの理由で崩壊する時、陰でこうした人間が必ず暗躍(あんやく)している。こうしや走狗(そうく)が水面下で走り回り、裡側(うちがわ)から滅ぼす側に廻るのである。
歴史的に見れば、秦帝国の趙高(ちょうこう/〜前207。秦の宦官)がそうでなかったかと思う。
秦の宦官(かんがん)だった趙高は、始皇帝の崩御の後、末子胡亥(こがい)を二世皇帝に立て、のち丞相(じょうしょう)の李斯(りし)を獄死させ、自ら丞相となり横暴を極めた。
李斯は秦の宰相で、楚の上蔡の人であり、荀子(じゅんし)に学び、始皇帝に仕えたが、最後は趙高の策略に掛かり、讒ざんせられて刑死が言い渡され、獄死した人物である。
李斯なき後の趙高は、自らが宰相になり胡亥に仕えるが、二世皇帝・胡亥に「鹿を献じて、馬といったが、衆怖れて皆これに和した」という、恐れられ振りだった。また、趙高は世界三大悪人のギネスもの人物であるが、劉邦(りゅうほう/前漢の初代皇帝で、高祖と呼ばれ、長安に都して漢朝を創立。前247〜前195)の軍が関中(かんちゅう)に入るや否や、胡亥を殺し、異母兄弟の兄・子嬰(しえい)を立てて帝(みかど)としたが、子嬰は皇帝を名乗らず、一等下がって王を名乗り、悪辣卑劣(あくらつ‐ひれつ)な趙高はやがて子嬰によって殺されることになる。
さて、武門では二本指を旨とする。仁侠の博徒と違って、長刃(なが‐どす)の一本刀ではない。また、相撲力士の太刀指し一本刀とも異なる。
武士が身分や家柄に関係なく、登城してからも脇指の帯刀が許されるのは武門の配慮からであり、上意討ちの場合、処分を不服とする場合は、上士に対して自分の意見を堂々と述べ、それでも不服がある場合は手向かう事が認められていたことを表す。その手向かう武器として、脇指帯刀が城内でも認められ、万一、事がある場合は脇指を抜いて討ち果たし、最後に自決すると言う事が認められていた。
したがって、意見陳情や具申には命を賭けて居たと云う事が分かる。
特に、武門の礼法を更に追求すれば、刃向かう相手が君主であっても、敢(あえ)て刃向かう意地を見せ、お追従(ついしょう)に下るような武士を「下」の武士と賎(いや)しんだ。
お追従人間はいつの時代も存在するが、武門の礼法では、お追従こそ風上にも置けない卑屈な態度として、たちどころに見透かされ、蔑まれたのである。
江戸時代も含めて、それ以前の時代を「封建時代」と云い捨てる。しかし主従関係から考えれば、君主にも刃向かう事が許されていたのであるから、単に封建制度下の、滅私奉公的な始終関係は存在しなかった事が分かり、一部の有識者や進歩的文化人の云うように「悪い時代」という酷評は必ずしも正当でない。
この時代の武士階級は、ある意味で今以上に、「人間は対等」であるという意識が強かったのではあるまいか。「平等」という安易な表現はなかったであろうが、「彼も人なら、吾(われ)も人」という考え方があり、時代小説や時代劇で勝手に報じられるような、ああしたものではなかったようだ。
そして当時の武士階級には、「忠義面(ちゅうぎ‐づら)」ということは通用しなかった事が分かる。
忠義面こそ、お追従の最たるものだったからだ。
したがって「配慮」を、「心配り」としたり、「あれこれと心を遣う」と解釈するには、余りにも早計な、短絡的な解釈と言えよう。
「配慮」の解釈は、「見識が育って居ないとする者」や「へつらう者」に向けての、見透かしであり、目配りであり、「見好(みよ)い態度」というべきものであろう。そしてこれこそが、人間を何処までも「対等」に扱う基本的な行動律ではあるまいか。
対等という次元では、君主も家臣も、「みな同格」と云う意識があったのである。
ちなみに尚道館では、教えるが側と教わる側の子弟関係の上下はあるが、人間としては「対等」であり「同格」であり、以上の子弟関係に物を言わせて差別的な扱いはせず、門人の一人一人の人格は、「独立した主体として、これを何者も侵す事は出来ない」と定めているのである。
師匠も弟子も、人権的には「対等」であるとするのが、尚道館の教えなのである。しかし、これは民主的であると云うわけではない。あくまでも「人権」において対等であり、同格とするのである。
「道」とは、道統を頂いてこそ、道は極められるものである。道統は、権威の最高位に位置し、その示唆によって、門人は道を学ぶ。したがって「道」は、師弟関係に於ては、「けじめ」をつける事が大事であり、「けじめ」の伴わない意識が強くなると、その道は滅ぶのである。
武の道の世界は、世界的に見ても特有の「序列意識」で秩序が保たれている。序列とは、道徳や慣習として守らなければならない区別に加えて、発心順に、順序を追って並ぶことが求められる。
かつての指導を受けた先輩と段位が同じになれば、都南に対等な口を利きはじめる者がいるが、こうした態度は、やがて師を師と思わなくなる傲慢であり、「礼」の感覚も混乱し始め、順序が逆さまになって混迷する元凶を作り出す。したがって「けじめ」は重要な要素であり、そこには「配慮」というこの世界特有の厳しさと格調を維持する心配りも必要になるのである。
そして俗塵(ぞくじん)に塗(まみ)れ、崩壊に至る、道の中心を柱とする「けじめ意識」だけは常に忘れたくないものである。
●我が西郷派大東流は「礼」を重んじるが、その基本は韓非子流の「愛の鞭」だ
『論語』の「為政篇」には、「これを道(みちび)くに政(まつり)をもってし、これを斉(ととの)うるに刑をもってすれば、民免(まぬが)れて恥無し。これを道くに徳をもってし、これを斉うるに礼をもってすれば、恥ありて且(か)つ格(ただ)し」とある。
『論語』によれば、法律や禁制のような規則や手段で人民を指導し、これに背く者を規制するには、刑罰をもって臨(のぞ)むと言う方法では、人民はその刑罰を逃れさえすればよいのだと、悪事を働いても、少しも恥じる事がないと言うのである。
したがって『論語』では、「道徳」によって人民を導き、「礼」を厳守すれば、人民は恥を知るようになり、その性根も正しくなって、心構えも正常のなるというのである。
だが、『論語』には実行不可能なタテマエが表面に打ち出されている事が多い。政治の基本は、「道徳」と「礼」と云うが、これを現実に照らし合わせれば、必ずしも現実的でない。今日の政治家に、道徳や礼など、備えた政治家など、一人も居ないからである。保身に明け暮れ、我が身一つを主軸においた、その取り巻らの生活保障の為に奔走しているだけではないか。
孔子の徳治政治は、礼治主義を表面に打ち出したものであるが、道徳を重視する孔子は、人の登用や採用、あるいは人事管理の分野にまでこれを適用しようとした。
「直(なお)きを挙げて諸(これ)を枉(まが)れるに錯(お)けば、則(すなわ)ち民服せん」(同「為政篇」)
これは正直な人間を登用して、邪(よこしま)な人間の上司に据(す)えれば、邪な人間が正直者に矯正(きょうせい)されるであろうと言う意味だが、実際にはそうならず、これは単なる「お題目」に等しい。国政の重要ポストには、孔子は予々(かねがね)、正直な人間、人格的に高い人間を置くようにと主張したが、この人員配置でうまくいった例(ため)しはない。
正直者が邪な者の上に立ったからと言って、邪は、早々矯正されるものではないからだ。
時代は歴史を重ねるごとに複雑化し、外国の横文字思想が雪崩れ込み、道徳的な価値観や、個人的な主観主義では、価値判断が既に維持できなくなってきており、そこには客観的な、新たな規制が必要になり、これにより、少なからず、社会秩序が維持できていると言うのが正直なところである。だからこそ、韓非(かんぴ)は秦の時代に於てでさえ、儒家の徳治主義を厳しく批判した。
人間は、修行レベルが低く、教養に乏しいと、本来の性質は低空飛行をする生き物であるから、苦労を嫌って、享楽や安逸を好むものである。また、激動の時代に慣れ切ってしまえば、結局激動を好むようになる。今日の、世界の最高の政治システムと信じられる民主主義が、正しく機能しないのは、以上のような理由からである。
激動の時代には、激動を、絶好の好機と捉え、乱世を喜ぶ風潮が生まれる。これこそが、現世の現実であり、これまでの価値観を変えて、厳しい変革が必要な時代でもあるのだ。
しかし一方で、激動に慣れ切ってしまえば、新たな危機が迫る事も知らなければならない。
「礼」を忘れた時代と、一言で言い捨てるのは易しい。
ところが「礼」を口にする側が、「礼」の何たるかを知らなければ、それは百万べん繰り返す、徒労努力のお題目に等しい。
現実主義にこだわって「理想」を見失うのも困りものだが、空想や夢想だけを追い求めるのは、なおも困りものである。現実の厳しさを充分に知って、事に処する態度が大事であり、これは必ずしも、理想主義とは矛盾しないのである。
目前の既成事実に屈服する態度や、日和見主義と同じ意味になる場合があるが、現実に存在している総べてのものの存在性格を把握(はあく)する事は、非常に大事である。
虎や獅子が「百獣の王」といわれ、犬や猫を服従させる事が出来るのは、虎や獅子には鋭い爪と、ひと咬(か)みで喰(く)い砕く、残忍な牙があるからだ。虎や獅子が爪や牙を捨て、これを犬や猫に遣わせれば、虎や獅子の立場は逆転するであろう。
激動の時代と云われる今日は、二千数百年前の中国の春秋戦国時代(【註】中国で、前770年周の東遷から前403年晋の大夫韓・魏・趙の3氏の独立に至る約360年間)と少しも変わっていない。
韓王(かんおう)を諫(いさ)めた韓非であったが、彼は次のように説く。
「君主が賢明だと分かれば、人民はそれに応じて用心し、君主が無能だとわければ、人民は君主を騙しにかかる。君主が無欲と見れば、人民はその実情を探(さぐ)りにかかり、君主に欲があると見れば、欲をもって君主を恰好のエサにする」とある。
ここには礼・義・廉(潔いこと)・恥の四つの手綱(たづな)が弛(ゆる)むと、社会秩序は崩壊し、国は保たれなくなると言う教えが述べられている。
下剋上を暗示する激動の時代は、君主が有能過ぎても無能過ぎても国は乱れ、君主は万全の策をとっていなければならないという事が分かる。
『韓非子』の「亡徴」には、次の如き一篇がある。
「君主を頂く国で、国土が小さいのに家臣の邸宅が大きく、君主の権力が軽いのに、家臣の方が重いというような、かかる君主の国は、亡ぶべきなり」
「群民が学問を好み、重臣の子弟は弁術を玩弄(がんろう/もてあそぶこと)し、商売人は他国に財を貯え、庶民の依頼心が強い国は、亡ぶべきなり」
「宮殿楼閣池苑の贅沢(ぜいたく)を好み、車や衣裳、道具や家財に凝(こ)り、民衆を疲弊させて浪費を行う、君主の国は亡ぶべきなり」
「時日の吉凶を占い、鬼神を尊崇し、卜筮(ぼくぜい)を信じ、祭祀を好む君主の国は、亡ぶべきなり」
「果てしなき貪欲をもって、利益のあるところに近付き、損得のみを考える、かかる君主の国は、亡ぶべきなり」
「浅はかな性格を他人に見透かされ、直ぐに真相を他人に洩らし、周密な配慮に欠け、群民の語に左右され、喋り散らしてしまう君主の国は、亡ぶべきなり」
「剛情(ごうじょう)で、人と和する事を知らず、いつも諌言(かくげん)に逆らって、負けず嫌いで、国家人民の事などはお構え無しの、己(おのれ)のみを軽率に信じる、かかる君主の国は、亡ぶべきなり」
「法令や禁制を無視し、謀略を好み、国内を放置して、他国の援助を頼りにしている、かかる君主の国は、亡ぶべきなり」
「多くの人民の心が弛(たる)み、何事もし遂(と)げる事が出来ず、優柔にして不断、物の善悪も判断できず、こうした人民で覆(おお)われている、かかる君主の国は、亡ぶべきなり」
「弁説爽(さわ)やかで、舌峰(ぜっぽう)巧みなる者を政治家に据(す)え、その実行力を考えず、見て呉れの綺麗に溺(おぼ)れて、その実効性を顧みない、かかる君主の国は、亡ぶべきなり」
以上を詳しく調べて来ると、何処なくその輪郭が、民主主義のうまく機能しない日本に酷似してはいないかと、思い当たるではないか。
さて、「礼」を説く場合、単に礼儀を力説しても、現実にそぐわない事が多い。
「礼」の本質を説くには、同時に「義」、すなわち物事の理にかなった事の道理が必要であり、「廉」、すなわち清廉などを表現する潔さが必要であり、「恥」、すなわち恥ずかし目を受ける事に敏感で、更に無恥(むち)の元凶を招く、恥を恥とも思わない事への傲慢(ごうまん)を正す必要があるのである。この「四つ」が総べて揃ってこそ、「礼」は正しく機能するのである。
一口に、「武は、礼に始まり礼に終わる」という。
しかし武の持つ「礼」には、単なるお辞儀や挨拶ではない、礼・義・廉・恥の四つを把握する手綱(たづな)がうまく機能しなければ、その礼は、単なるお辞儀や挨拶になってしまうのである。
|