内弟子制度 12
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▲サタン・ルシファーの目は、完成されないピラミッドの上で庶民を見下す、微生物に対しての、階級下の平等観だった。ヒエラルキーの最下位には庶民がピラミッドの土台となっている。 日本では「平等」を口にする進歩的文化人や有識者の権威筋に「ルシファーの目」のエージェントが多く、テレビや新聞、雑誌などを通じて「平等意識細胞」を国民に培養している。 |
そして神の目から見た平等意識は、あのサタン・ルシファー(Lucifer/本来は「明けの明星」を指し、 神に反逆して天から堕した最高位の天使であり、堕天使たちの頭領としてのサタン)の目を彷佛(ほうふつ)させるではないか。 ルシファーの目は、完成されないピラミッドの頂点に君臨する、ヒエラルキーの最高位にある。もし、平等主義者達が、ヒエラルキーの最高位に位置し、この目と同じ目で庶民を、顕微鏡下の微生物と見下した場合、そこにいる微生物はどれも特徴がなく、同じ種の平等生物に映るではないか。 しかして、有識者や進歩的文化人の、庶民の高位に立つ者の目からすれば、「平等」という言葉の本当の意味が見えて来る。 私たち日本人は、戦後民主主義教育下で「平等主義」に染められてきたが、実は、隣人を平等と看做(みな)すのではなく、高位から庶民を見下す、顕微鏡下の平等観に慣(な)らされて来たのである。 安易な、権威筋の平等と、人間として同格であり、同等であり、対等であると言う意識は、根本から異なっている。人間は、その人権において対等であるが、その人権は肉体的な対等に移行される「平等」では決してないのだ。 これは男の体躯(たいく)と女の体躯が、決して平等ではないように、その体格も、体力も同様ではないし、女は子供を産める肉体を持っているが、男にはそれがない。これを、神の目で見るような感覚で、平たく、微生物の「平等」と豪語するのはお門違いであり、男は男なりに、また、女は女なりにその特徴を活かせば良いことである。 また、法の下では「人権」というものがあり、人は皆平等と言うが、権利として、その人権は平等であるのであって、法の下での平等は、実は人間同士が対等であり、同格であり、同等であると云う言葉の換言である。この、法の下での平等を取り違えると、“訝(おか)しな民主主義下の平等論”に発展し、ひと握りのエリート官僚が、庶民全体を見回して、見下した後、顕微鏡下の「微生物はどれもこれも同じで、平等だ」と見下す論理になってしまう。 これこそ、人間をして、ひと握りのエリートが、人間を見下す愚かな「ルシファーの目」と云わねばならない。 つまり、ひと握りのエリート官僚と、一部の有識者や進歩的文化人達は、同じ目で庶民を「平等視」している意識が働いているのである。何と言う傲慢だろう。 ●平等意識の中の不平等な現実 人間は生まれながらにして平等ではない。「人間は生まれながらにして不平等」である。 これは「アメリカ独立宣言」(【註】ジェファーソンが起草した宣言で、1776年7月大陸会議で可決され、ジョン・ロックの自然法思想に立脚して、自由・平等・幸福の追求を天賦の人権として主張した)を繰り返し読めば明白となる。 アメリカ独立宣言の冒頭には「すべての人間は平等に造られた」とあり、ジョン・ロックの思想を背景にしていることが分かる。そしてジェファーソンは「人間は生まれながらにして平等である」と付け加えた。 しかし「平等」というのは現実的でない。現実を見渡せば、余りにも不平等であり、不平等に満ちている。 マルキシズムならば、歴(れっき)とした階級が存在し、階級の上位者が階級の最下位を搾取(さくしゅ)する社会である。また、最後の階級社会と云われる資本主義に当て嵌(は)めれば、資本家が労働者階級を搾取する社会である。そしてこの社会では、失業者もいれば貧困もあり、現実問題としてこれらは現存する。 デモクラシーの総本山であり、資本主義の総帥として世界に君臨する、現実のアメリカは、人類の理想からは程遠く、あまりにも多くの罪で満ち溢れている。かつて「平等主義」から奴隸解放運動が起った。しかしその後、今度は人種差別が起った。 そしてこの国は、少しでも油断すると、直ぐに汚職や腐敗が蔓延(まんえん)し、ギャングの横行や不法行為などが地から湧いて出るように起り、その犯罪数は計り知れない。 また、民主主義が正しく機能する為には、勤勉で理性的な人間が国家内の集合体を造り、これを前提として平和な自然状態が到来する。 しかし、すべての人間は勤勉とは限らない。勤勉でもなければ理性的でもない人間が存在しているのが現実であり、これを起因として紛争が生じる。各地で戦争の火種が、未(いま)だ消えあらぬのはこうした事が原因している。一部の有識者や進歩的文化人は、自然状態に至れば戦争はなくなり、平和が到来すると豪語する。しかし、自然状態になっても紛争はあり得る。 現に、民事訴訟の多発現象は、これを何よりも明確に象徴している。人間関係におけるイザコザは、半永久的に無くならない現象人間の、定めと云うべきものである。双方の意思が食い違いから問題が起るとされるこの現象は、人間の宿命と云うべきものだろう。 勤勉でなく、理性的でもない人間は、資本主義下では労働力を投下しないから、私有財産を所持しない。また、持てる者に対し、羨望(せんぼう)を抱き、人のモノを強奪しようとする。かくして意思の食い違いから、保守と革新の攻防戦によって紛争が起る。紛争の起因は、私有財産の「持てる者」と「待たざる者」との間に起る。一種の階級闘争である。 アメリカ独立宣言は云う。「すべての人間は平等に造られた」と。 しかしここで言う、「人間は生まれながらにして平等である」とは、一つは「キリスト教的契約における平等」であり、他の一つは「私有財産獲得の為の平等」である。そしてこの根元には、「資本主義における平等」と、「民主主義諸国間における平等」である。 この二つの社会構造を追求すると、アメリカ・デモクラシーは「二分法的差別」が実在している事が分かる。それは「持てる者」と「待たざる者」の経済格差だ。 現実にこの両者は存在し、二分法的差別が実在する。この構造はマルクス理論にも見られる。 マルクスの云う、支配階級と被支配階級、あるいは資本家と労働者は常に二分法的対立である。したがって資本家の搾取する側と、労働者の搾取される側とによって、物質的恩恵が与えられるか、否かと言う事を起因として階級闘争が起る。 しかしこうした現実を無視して、有識者や進歩的文化人は庶民を前に、競って「平等」と云う言葉を乱発する。昨今は、こうした手合いに限らず、左派や右派の政治理念を飛び越えて、口から出任せのように「平等」を口にする政治家や、その手の権威筋の有識者が多くなった。 では、何故「平等」という言葉が乱発されるのか。 それは庶民のウケを狙っての乱発である。ただ「平等」を口にさえしておれば、庶民のウケが非常によく、単にそれだけの理由で、「平等」の文字が、言葉が、両陣営から投げ出され、「平等」の応酬合戦が繰り広げられるのである。 庶民攻略の狙いは、「人には上下の差別がなく、身分などない」と信じ切る庶民に対し、庶民の不満を柔らげる意図が隱されているのは明白である。そして、多くの政治家や文化人達が、「庶民ウケ」を期待して奔走するのは周知の通りである。選挙前ともなれば、「平等」の乱発合戦で世の中は騒然となる。 現代日本に深く根を下ろす禍根(かこん)は、戦後民主主義に起因する。現在に人倫の乱れや性風俗の氾濫、頻発する不詳事や教育の荒廃と云った諸問題は、総べてこれに帰着する。 強制された民主主義と云うこと事態最大の矛盾である。その上、民主主義の標榜する、「自由」「平等」「人権」「議会制」といった附随物は庶民の目を欺(あざむ)く、欺瞞(ぎまん)に満ちた錦(にしき)の御旗(みはた)である事は明確である。 その中でも、「平等」の誤解は目に余るものがあり、頭を切りそろえ、「平等」とするところに不可解な矛盾点が隱されている。そもそも「平等意識」は、知的エリートを根絶させる為に、手段として起こしたアクションではなかったか。 しかしこの手段は、逆手にとられ、知的エリートを温存させる官僚主義を生み出したではなかったか。そしていつの間にか、この「官僚」と云う身分制度は、庶民の知らない所で一人歩きし、国民の頂点的な役割をしているではないか。 絵に描いた餅同様の独立国家・日本には、国民不在でありながら、官僚だけが国家の顔をして存在する。本来、国家形成は、国民を有してこそ、国家は成立するのである。しかし、この国は国民が居ないのに、官僚と云う身分制度だけが存在する不可解な国である。 では、身分とは何か。それは階級に代表される。 階級を定義すると、経済を指標とし、この経済力の格差をもって、金持ちである資本家と、貧乏人である労働者を差別し、これを二分化するものである。 また、経済力の他にも、名誉や権力が存在し、更に様々な差別の指標を混入して、多次元化したものを「階級」(stratifiication/主に生産関係上の利害・地位・性質などを同じくする人間集団の、年齢・財産・職業・学歴・身分などが尺度と所属する組織の区別あるいは階層)と云う。 そして「階級」が存在する以上、「平等」など何処にも存在しないのである。 人が平等でない事は、何よりもこの事が証明している。 ともあれ、現代人は無制限な消費欲求の為に、「消費の為の消費」を繰り返している。普通では無駄と思えるような消費を繰り返し、エネルギーを浪費させ、地球環境を悪化させている。 一方において、エネルギーの消耗激しい、お祭り騒ぎや戦争は、如何にも無駄の最たるものと思われながら、「消費の為の消費」であるという点では、これも今後止むことがない。「消費の為の消費」を限り無く繰り返し、拡大再生産して行く為の、生産過程が自立した社会、これが資本主義だ。 また、恒常的に「消費の為の消費」が組み込まれ、これが「ねずみ講」構造で、グローバル的に稼動している社会構造が資本主義である。そしてこの社会構造は、無駄の多い社会なのである。 私たちは人間として、この社会の現実を、無制限な消費欲求を繰り返し、実現する、この「ねずみ講」構造について、再点検しなければならない時期が来ているように思う。 |