内弟子制度 11



尚道館内弟子の言葉使いとその態度


 尚道館での指導のモットーは、「言葉を重く用いよ」という精神で、門人一人一人を指導する。これは内弟子ならびに外弟子の区別はない。
 人間の使う言葉に表裏の無いことは、正しい言霊(ことだま)を発する上で大きな要因となる。これを乱せば、忽(たちま)ちのうちに、自らの人生の使命は失われる。言葉には、「自分の命が賭(か)かっている」ということを認識すべきである。

 また、言葉に命を賭(か)ける行動力が失われれば、人間として、指導者として、何の威力も迫力もないのである。二枚舌は、何処までいっても軽蔑の対象にしかなり得ないのである。

 男の顔は一つあればよいのと同様、言葉も一言(いちご)で、二言(にごん)があってはならない。言葉の使い道を幾重にも分けて、政治家のように、行き先別に言葉を使い分ける必要はなく、武人は、簡明直截(かんめい‐ちょくせつ)を尊び、これをその生涯の信念とした。

 『葉隠』の著者・山本常朝は言う。
 「物言ひの肝要は言(げん)はざる事なり、言(げん)はずして済ますべしと思わば一言も言(げん)はずしてすむものなり」と言い切っている。
 これは言わずに済ますわけにはいかないことを、「言葉少な」に、言語明晰ならびに簡明直截に言えと云っているのである。

 さて、言葉使いとその態度として、尚道館では次のように指導している。

何人に対しても丁寧語を遣う事は勿論であるが、敬語【註】話し手(または書き手)と相手と表現対象(話題の人自身またはその人に関する物・行為など)と尊敬語【註】話題の人や、その人自身の行為・性質およびその人に所属するもので、その人に対する行為などに関して、話し手の敬意を含ませた表現)の違いを学ばせ、自他離別の意識を無くして、他人に対して敬意を払う態度を指導している。

 人接 春風のごとし 己には秋露のごとし  

 である。

 人は、自分の甘く、他人には厳しいものである。自分を何処までも甘やかせる。しかし、甘い自分こそ、自分を粗末にしていることになり、しいては墓穴を掘る事になるのだ。
 また、これを知ることにより、他への中傷誹謗の妄念は少なくなり、礼儀が身に付くのである。

 話し言葉の態度としても、常に正確な言葉使いを心掛け、言葉に責任を持たせると言うのが尚道館での教えである。

「聞き上手になれ」ということであり、聞き上手は、言葉巧みな話し上手と異なり、相手の意見をよく聴き、それを分析する能力が養われるからである。人はややともすると、他人の意見を聴くよりは、自分の手前味噌の自己主張ばかりを強めて、自他離別意識で他を卑下すると言うのが常である。マスコミなどで一廉(ひとがど)の人物として知られていても、言葉巧みに自己主張ばかりを主張する輩(やから)が実に多い。また、誹謗中傷ばかりをして、それに対抗できる自分自身の確固たる回答を持たない人間も少なくない。

 将来の展望がなく、ビジョンがない人間は、やたら他人を中傷誹謗はするが、それに対して自らの回答を、何等示せず、見苦しい泥試合に身を窶(やつ)している者も少なくない。こうした見苦しさは、聞き上手でないからだ。
 マイナーな武道雑誌などで、他を誹謗中傷している記事を目にするが、この張本人こそ、この種類の人間に入り、思考能力が「幼児なみ」と言うことを、自分で暴露しているようなものだ。
自分の専門趣味などの「得意芸や表芸を話題にするな」と言うことである。
 例えば、コンピュータなどが多少詳しくなると、人の集まる席で、やたらパソコン専門用語を並べ立て、素人も巻き込んでこうした話に誘おうとするが、これは、この種の人間が、いかにも品格が低いということを顕わしている。その上、素養の無さを感じ、人間として余裕の無いことを自ら暴露していることになる。しかし、こうした人間に限り、これに気付かず、また自覚症状も感じないようだ。
 人が集まる席で、話題にする内容は、その席に、みんなが関心を持っているものを選んで話すべきである。
「酒の席で普段口に出来ない事を言うべきでは無い」ということである。酒の勢いを借りて、酔っている相手に、理屈がましいことを言ったり、説教調でモノを言う人間がいるが、自分だけを棚に挙げているところから、実に見苦しい限りであり、酒の席で議論などをすることは慎まなければならない。
 また、この時とばかりに他を非難するような言動も慎まなければならない。これは自らが心に余裕がなく、人間的に一周りも二周りも、スケールが小さいことを自分自身で暴露しているのである。
他人が話している最中に、欠伸(あくび)をしたり、頭をかいたり、鼻クソをほじくったり、寝転んだりするな、と言うことである。
 また、隣の者と耳打ちをすることも慎まなければならない。他人の話を聴く時は、真摯(しんし)に耳を傾け、他の用事をしたり、平気で席を立ったり、よそ見をしたり、汗を拭ったりせず、こうした「中座の非礼」に当たることは固く慎まなければならない。
 しかし、人間は生理現象などもあって、どうしても中座しなければならない時は、丁重に一礼して、中座の非礼を詫びて席を立つべきである。
 また、他人の話に腰を折ったり、割り込んで無理な誘導をしないことである。更には、話の中で他人の間違いを名指しで指摘し、これを攻める言動は慎まなければならない。しかし、これは談話時の作法であるが、会議などの討論や議論とは別物であり、議論するべき時は、よく聞く耳を持ちながら、充分に議論しなければならない。
他人の身体的な特徴や不具を指摘して、笑い者にしたり、侮蔑する言葉を投げてはならない。また、相手の知られたく無い秘密を明白(あからさま)に指摘し、これを暴露するようなことを行ってはならない。密告や中傷も見苦しいものであるが、秘密の暴露は、覗き見趣味的なところがあり、武人は、古来よりこうした者を賎しんだ。

 武人が毅然(きぜん)とした態度を取ることは、実に清々しいものがある。
 武士道が廃れ、西洋流の騎士道chivalry/中世ヨーロッパで、騎士身分の台頭にゆって起った気風。キリスト教の影響をも受けながら発達、忠誠・勇気・敬神・礼節・名誉・寛容・女性への奉仕などの徳を理想としているが、必ずしも武士道に対峙するわけではなく、武士道の言う全人格を代表するようなところはない)にとって変わられる現代日本の昨今、武人の態度は、総て武士道に回帰されるのである。

 欧米を追従し、欧米を真似ることを常識とした明治維新以降の日本人は、欧米文化に、白人コンプレックスを感じつつ、西洋流の騎士道をもって白人のように振る舞うことを模倣して、自分が一種独特な文化人になったように勘違いしてきた。日本精神が蔑ろにされ、武士道が廃れて、欧米の騎士道に取って代られた元凶は、武士道の根底に掲げられている「毅然とした武士道観」が見失われた為である。

 そして今、多くの日本人は自分の財産目録に、金や物【註】最近では色の代表である美男・美女も入るそうだが)以外の財産目録を挙げる人間は、殆ど居なくなったと言ってよい。



●言霊の狂いは、身を誤らせ、身を滅ぼす病気へと誘われる

 現代ほど言霊(ことだま)が狂っている時代はない。言葉に宿っている不思議な霊威が狂いを生じれば、やがて光透波(ことば)の波調と波動が乱れ、光透波の持つ威力が、力の働きを失い、発する光透波とは逆方向の事象が出現する。そして光透波の持つ事象通りの現実が逆の方向に吸引され、人倫が乱れ、世相が乱れ、強いては国家が騒然となり、世の中に不穏が蔓延する。
 昨今の事件多発は、これを如実に物語っている。そして、この元凶は携帯電話の急速な普及にあると言っていいだろう。

 若者層を中心にして普及してきた携帯電話は、その会話内容が会話にしてもメールにしても、言霊を狂わせるような内容の物が多くなってきている。また、携帯電話が間接的な、事件絡みの材料になっていることも多い。奈良の女子小学生誘拐殺人事件にしても、福岡の通り魔的なOL殺害事件にしても、被害者の携帯電話が奪い取られ、加害者がこれから発信すると言う、携帯電話絡みの事件であった。

 携帯電話下の出逢いサイトやバーチャル・ゲーム感覚で性に関する遣り取りが展開される時代である。両事件とも、性に絡むマニアック系愛好者の、間接的には、携帯電話と連動した事件ではなかったか。
 そして携帯電話下にも、言葉の乱れや歪みが飛び交っている。

 また、昨今の言霊を狂わせる現象の一つに、老若男女の区別に関係なく、動物の子どもを見たり、小さなアクセサリーなどを見て、やたら「可愛い〜い!」コールの乱発がある。
 現代人の、躰を通じての体験の乏しい時代は、バーチャル遊戯が大流行し、何事につけ、「可愛い〜い!」の乱発から始まり、次に「すご〜い!」とか、更に不可解な「こだわり」という、「さしさわる」あるいは「小事に固執して融通がきかないこと」の意味合いを含む訝(おか)しな日本語が流行している。
 つまり、横文字の持つ、感嘆符を遥かに通り越して、日本人特有の訝しな和製表現型が、現代の奇妙な日本語として持て囃(はや)されていると言うことである。

 「可愛い〜い!」とか「すご〜い!」などの形容詞の異常表現は、感嘆表現が安っぽく使われるだけでなく、光透波そのものの波動と波調をも狂わせ、言霊すら狂わせているのである。こうした感嘆表現の奇妙な現象は、大人から子供の隅々にまで至るようだ。

 何事にでも一応、安っぽく驚いてみせ、その媒体が過度な程度や特殊な状態に無いのにも関わらず、外国人顔負けの感嘆や驚嘆を表すことで現代の風潮を混乱させているように思える。
 これは、自覚症状の無いまま慢性化すると、まるで中毒症状になったように、何事につけ、今度は可愛がってみせたり、驚いてみせたりの、強調符号を顕わす感嘆符なしでは話が出来なくなり、興味の対象は次から次へと移行をはじめ、移り気のような変化を繰り返さなければ居られなくなる。

 そして、最も不思議なことは、一度感嘆表現で感動詞をつけた対象物は、もう二度と感動や応答あるいは呼掛けを表す言葉が出て来ない事である。
 活用がなく、単独で文となり得る感動詞は、他の語句に修飾されることもないから、一方に於いてマンネリ化する傾向にあり、乱発によって感動が感動を派生しなくなるのである。これが言葉を誤って表現する、光透波の乱れの持つ恐ろしさだ。


●感嘆表現の安っぽい連発から起る現代人の麻痺症状

 現代人が何かにつけ、安っぽい悲鳴コールを上げる中、物品への価値観も狂っているのか、食事処なので出される料理に感嘆して、「うわ〜、安〜い!」という、今度は「安〜い!」の感動詞を連発させることが大流行になっている。

 こうした現象の張本人は、グルメ番組などの、内輪だけのお笑いを取るしか芸のない無能な芸能タレント達であり、物の値段の本当の価格を知らない彼等は、「うわ〜、安〜い!」と驚いてみせることで、現代の価格破壊を奨励しているようにも思える。

 物の値段に対し、安価を表現する「安〜い!」コールは、果たしてこれを連発する芸能タレントが、本当の物の適正価格を知っていた上で、媒体が安いか、高いかを表現しているのか、甚だ疑問である。媒体を判定する価格基準が、彼等の言動から、果たして適性であり、信じられるものか否か、疑いを抱かざるを得ない。

 例えばグルメ番組や旅行番組の芸能レポーターが、越後地方などに取材旅行に出向き、朝市の店先で松葉蟹(ズワイガニの別称)の山積みを見つけ、一杯二千円と聞いて驚いた表情をしてみせ、「うわ〜、安〜い!」と感嘆の嬌声きょうせい/嬉々とした声)を挙げたら、これに反応して視聴者はどう思うだろうか。

 東京の高級料亭などで、食通として食べ慣れた美食家が、大振りの松葉蟹一杯二千円と聞いて安いと感じるのか、逆にこうした手合いの食材に対し、一度も松葉蟹を食べたことがない人はこれを、たかが蟹一匹で二千円もするのかと、目を丸くして驚くのか、この両者の判定は、人各々であろう。しかるに、芸能レポーターが連発する「安〜い!」コールは、一度も松葉蟹など、食べた事のない庶民までもを巻き込んで、安易な感動詞によって庶民の価値観を狂わせる価格破壊が起っているのである。
 そして庶民までもを巻き込んで、流行に乗じ、金銭感覚の破壊が行われるのである。

 こうした現象は、昨今既にお馴染みとなった各駅ごとに、巨大な看板で借金客を誘い入れる、サラリーマン金融のお財布バンクをあげるまでもなく、金銭感覚の疎い人間を作り出して、消費者ならぬ浪費者に、庶民を借金漬けへと誘(いざな)っているのである。
 こうして庶民は益々、借金漬けのカモにされ、此処(ここ)から抜き差しならぬ状態に陥り、借金地獄の憂き目を見る事になる。
 そして、借金漬けに嵌る庶民の多くは、マスコミによって狂わされた金銭感覚が、自分の給料以内で生活をすると言うことを忘れてしまい、借金によって浪費すると言う生活を身に着けてしまうのである。これを不幸と言わず、何と言おうか。

 芸能タレントの安易な「安〜い!」コールは、実はこうした、間接的な庶民階層にまで及び、光透波を狂わせる元凶を招いているのである。

 現代はこうした光透波の乱れの中で、多くの日本人が日常生活を余儀無くされ、人間の弱点は自己中心的な発想へと習慣化していくのである。
 そして一度光透波の波調と波動が狂えば、他人との意思伝達が遮断されることになり、現代人は大なかれ少なかれ、迷いと狂いの迷宮に閉じ込められて、次から次へと過ちを犯す、避け難い窮地へ、地獄へと誘い込まれるのである。

 ところで凡夫は、無能な芸能タレントの安易な「安〜い!」コールには直ぐに反応するが、肝心な、無形遺産である、わが流の内弟子制度に参加しよう試みる青少年の中で、わが流の定める、「入門金五十万円、月謝十万円」を、商行為に換算して、「ボッタクリだ」の、「金儲け集団だ」のと中傷誹謗して、非難する心無い一部の論客が居る。

 またメールの問合せでも、「内弟子に掛かる費用が、もっと安くならないか」と問い合わせる者が居る。中には、「○○道○段」【註】こういう段位書の紙切れこそ無用の長物で、わが流では何の役にも立たない)を持ち出して、ちゃっかりと「自分を特待生にしろ」などと、売り込む者まで現われる始末である。

 デフレ不景気で、安易な「安〜い!」コールが飛び交う中、物品と、武術と言う精神的な無形遺産を同じように考え、これに対比させて、同等に扱うのは如何なものか。
 わが流で定める「入門金50万円」は、二年後の卒業時まで一時的に預かる、一種の保証金であり、わが流は、見事二年の修行期間を遂行・成就し、満期満願を果たす者が居たら、その者には遥かに50万円を上回る御信刀【註】七十万から百万以上の刀)を一振り、卒業記念に送るようにしている。

 また、一ヵ月の月謝十万円は、食べて、飲んで、寝て、住んで、いつでも24時間稽古三昧に明け暮れる事が出来る道場を使用し、その他のライフ・ライン【註】水道光熱費や入浴や洗濯に掛かる費用など)や、当館の自転車やバイクや車、更には全自動洗濯機を無償で利用し、ネット使用も無償で自由に使わせてもらい、自分のパソコンからレーザー・カラー高速プリンターにもアクセスが出来、その上、西郷派大東流の儀法や整体術は勿論の事、あらゆるジャンルの角度から、政治・経済・軍事・哲学・陽明学・言霊学・金融工学・歴史工学・開業ロケーション理論・心理学やアイドマ理論・食養道・道場経理学・インターネット作製などの広範囲に及ぶ学科を研究させ、指導して、一切合切(いっさい‐がっさい)で十万円である。

 このデフレ不景気の時代に、人間一人が何処かのアパートに権利金や家賃を払って住み、水道光熱費やその他の維持費を払って、コインランドリーで洗濯をし、パソコンを設置してネットを使用し、交通費を捻出して、その上、同僚や友人と社交辞令のように付き合いし、食事を自炊するとして、果たして10万円以内で生活できるだろうか。
 あるいは高等学校、短期大学、各種学校、専門学校、大学の教育を受けつつ寮生活をし、たまには社交辞令として酒を酌み交して接待交際費を使いながら、学費や教科書代や部活費を含めて、10万円以下で片付く学校が、果たして日本にあるだろうか。
 むしろ尚道館の内弟子制度に掛かる全費用は、あらゆる教育機関の中で、「一番安い!」と云うべきではないか。

 やはり、わが流を守銭奴扱いしたり、金儲け集団と非難する輩は、しっかりと安易な、「安〜い!」コールに洗脳された、今風の、無能なクズ人間であろう。
 また、クズ人間程、モノの価値が分からず、有形のものを安いとし、無形のものを高いと見る、愚かしい先入観があるようだ。有形の形あるものは、やがては消滅する。しかし無形の伝統武術は、後世へ遺産として残るのである。


●言霊の過ちを軌道修正する

 人間と言うのは、いつの時代も迷い続けている存在である。
 したがって迷いが過ちを誘導することは明白であり、迷いが狂いを誘発し、狂いが過ちを招き寄せるのである。こうした過ちは、避け難い対象物となる。そしてこうした事態が発生した場合、問題はその過ちの種類と、その時とその場合の「詫び方」となるであろう。

 今日、人間の犯す過ちは各種の領域に至り、時として人格論や品格論にまでその火種を誘発することがある。そして人格や品格に応じて、過ちを償う詫び方も色々であるが、大きく分けてこれには三種の詫び方のランクが存在する。

 人間の出来が悪く、下賎(げせん)である場合、一切の自分の非を認めない人間は何処の世界にもいるようだ。
 また、過ちに気付いても、居直ったままで、膨れ面(づら)して、頭一つ、その下げ方も知らない者も少なくない。自分が過失を犯していながら、その責任を他人に押し付けて、責任転嫁に長(た)けている人間がいる。知能程度や知識認識に関わらず、また知力とは一切関係なしに、こうしたタイプの割り合いは、全体集合の中で一定数存在する。これを「下」の人間と言う。

 次に、ごく普通の平凡な人間が、何等かの過失を犯し、その過ちを認めても、必ず何か一言加えて自分自身を弁明し、言い訳がましい弁解を付け加えるタイプである。こうしたタイプの人間は、過ちを認め、過失責任を感じつつも、その過ちを取り繕(つくろ)って、美化工作をする特性を持っている。
 裁判で起訴されたり、過失責任を追求された場合、この種のタイプは必ず何か一言付け加え、弁護士の先回りをして情状酌量の美化工作を意図的に弄(ろう)することである。この種は「下」の人間と違って、一応の過ちは認めるものの、美化工作を弄すると言うところに、このタイプの人間の意図が働いている。

 起訴され、裁判を受けて立つ法令下の「中」の人間であり、「中」にランクされるものの、一度間違えば、「下」以下の小悪党に成り下がる危険性も持っている。全体集合の中で、このタイプの人間が占める割り合いは、全体の過半数以上を占めていると思われる。

 この種の人間が、一度小悪党に成り下がると、その危険は社会全体を狂わす現実を誘発する。そもそも小悪党と言うものは、「下」の人間以上に市民生活のルールを大切にし、十二分に法律を認識し、ある程度の社会常識を持っている。法律の意識下で市民生活を大事にし、その枠の中だけで、自分だけ旨く遣(や)ろうと奔走する。
 懸命に新技術を駆使したり、なけなしの知恵を絞り、何処か隙間は無いかと、自分の入り込む余地を検討する。車の運転一つにしても、交通ルールは大勢の見ている前では、その違反は犯さないが、人目の無い所では、侵入禁止を無視して逆走したり、違法駐停車をして憚らない。表面は、きちんと背広を着、ネクタイを結んでいても、人目の無い所ではこのザマなのである。そして、いっぱしの紳士面(しんし‐づら)した人達である。

 「中」の人間は、「下」の人間が、法の規制や市民生活の社会的倫理を端(はな)から無視して掛かるのと対照的に、ある種のスマートさを求め、体裁をつけて立ち回ろうとする。世間風の常識と、市民生活のルールを守ろうとする意識を持っているから、一概に小悪党と決めつける手立てが無いところが、非常に厄介である。そしてその仮面は、何処までも善人面(ぜんにん‐づら)のそれであり、最後の最後まで、中程度の善人の仮面をとろうとしない。

 特に、裁判所の定義する「善良な市民」【註】裁判所では、特に、性質が正直で温順な人間をこう定義する)と言う位置付けにランクされ、ごく普通の人間に多く、善人の仮面を被っているので、「下」か「中」か、甲乙つけ難い。
 しかしこうした普通の仮面を被った小悪党が、一度狂うと大悪党以上の事をやってのけるのであるから、実に始末の悪い事もある。日本の経済犯罪者の多くは、この位置にランクされる者達である。

 一方、サラリーマンにもこのタイプは多い。
 戦後の民主主義体制下で解体されたはずの、かつての全体主義的な、強制的かつ抑圧的な社会規範は、現代では「企業」という組織集団の中で息づいている。現代では大企業を中心とする企業体が、かつての財閥企業の規模を縮小し、穩やかな仮面を被って偽装(ぎそう)し、再現する形で生き残っているが、その実態は、命令調の全体主義的な体質が依然生き続けているという事である。

 利潤を追求する最近の管理された企業体は、企業論理や組織集団と言う関連性の中で、益々、個としての一社員の存在は無視され、主体が個人に置かれるよりも全体に置かれると言う実情がある。個人の主体性を見た場合、個としての、個人の人間的な主体性は殆ど顧みられることがなく、個は阻害される対象物に成り下がっているのではあるまいか。

 そして企業集団による独特のエゴイズムによって、企業独占のエゴイズムが罷(まか)り通り、やがてはそれが重役達の私物化へと繋(つな)がって行く。昨今の某巨大銀行の副頭取らが関与した不正経理ならびに証拠隠滅事件などは、これを如実に顕わした事件ではあるまいか。
 また、都道府県の警察機構の中で不正経理が、次々に発覚する現実は、要するに、大企業の重役同様、警察官僚にもこの種のエゴイズムが蔓延こっている実情を明白に物語っている。
 そして不詳事の手先にさせられるのが、いわゆる「会社人間」とか「下級官吏」という人種ではあるまいか。

 会社人間は企業家の一社員であるが、この一社員が、「管理職の立場に立って、経営者の気持ちで物事を考えよ」と上司から命令された場合、例えば公害問題などでは「公害を出しているのはウチだけではない」とか、「公害対策をいちいち行っていては、会社が潰れてしまう」というような結論に至った場合、もう、こうこれは立派な犯罪に加担したことになる。

 日本人サラリーマンの企業と言う組織体に対する帰属意識は、非常に強いものがあり、企業と雇用関係を結び付けていなければ生きて行けないと言う現実がある。組織体の枠組の中で、自分の帰属する部署は濃密な結びつきで繋がっていなければ、安心して生活をする事も出来ず、したがって、多くのサラリーマンは企業と運命共同体の形を選択する。

 「会社主義」とか「愛社精神」などという言葉は、既に使い古された言葉であるが、日本のサラリーマンの多くは構造的に、こうした意識が未だに強いのではあるまいか。
 農密度が企業と一体であればあるが程、会社人間の要素は濃厚になり、また愛社精神も旺盛になる。やがて自社のみの利潤追求が臨界点を迎えると、これまで普通の市民の一員として通っていた善良なサラリーマンが、大悪党以上の大それたことをやってのけるのである。

 こうした大悪党顔向けの犯罪を犯す犯罪を「ホワイトカラー犯罪」という。この名前は、アメリカの犯罪学者エドウィン・H・サザランドが1939年に命名したもので、地位も名誉もあり、経済的にも恵まれているはずの経営首脳が、その利潤追求の経済活動の中で、刑法に違反する犯罪行為を働くというのが、これに入るのだ。

 そもそも犯罪学(criminology)と云われるものは、犯罪の原因やその遂行過程についての法則性の発見、犯罪抑止についての施策を対象とする学問であるが、精神医学・犯罪心理学・犯罪社会学・刑罰学などから成る学問である。しかしこれ以外に、近代企業活動に結びついた犯罪は、これまでの犯罪意識と大きく異なっている。

 犯罪学からすれば、近代企業が犯す企業犯罪は、これまで犯罪の原点と思われていた「貧困」からは実に程遠いものとなっている。いっぱしの経済的上位階層でありながら、貧困とか環境の悪さとも無縁であり、それでいて、高い地位を占めている実業家や政界の名士と謳われる政治家が、上流の階級にありながら、刑事訴追をされるような犯罪を犯すという事である。

 一般的に見て、犯罪は貧困と環境悪化によって、犯罪が引き起こされると考えられて来た。ところがサザランドは、こうした従来云われてきた犯罪人口の大部分の、経済的困窮者が起こすと言う、下層階級の環境悪化を原因とする犯罪心理を覆して、善良なサラリーマンの仮面を被った、中流以上の階級の人間も、時として犯罪に身を染めると指摘した。

 某巨大企業の株式不正売買事件は、この上流階級に位置するワンマン経営者自身、貧困や環境悪化から起る経済的困窮者とは無縁の人であった。ところが地位もあり、名誉もあり、様々なスポーツ団体や、日本オリンピック連盟の役員も勤めた経歴を持ちながら、刑事訴追をされるような犯罪を起こしたのである。
 また、東京都選出の某国会議員は強制猥褻(きょうせい‐わいせつ)を働き、議員の職を棒に振った。彼もまた、貧困とは無縁であった。

 並みの人間、普通と表される人間、善良な市民の一員などと、裁判所の定義事項にランクされるこうした善良な市民は、時として荒れ狂い、人間の欲望原理を逸脱した、「常識」を超える不可解な行動をとることがあるのだ。
 「中」の人間にランクされるホワイトカラー族の特異性や意外性は、したがって、大悪党のそれを大きく上回る犯罪を平然とやらかしてしまうのである。

 株式交換における時間外取引や不正操作、巨大銀行の経理報告における虚偽記載、高級官僚の贈収賄事件、商取引における不正買収、背任横領や信託財産の不正流用、粉飾決算の詐欺事件、偽装倒産など様々な不正が、合法的恐喝の名において水面下で実行されているのである。
 そしてこうしたワンマン経営者の走狗となって奔走するのが、ホワイトカラー族と称される会社人間のサラリーマン達であり、普段は凶悪犯罪とは無縁な人達である。

 この階層は、直接犯罪行為の実行者として現場で行動する暴力団に比べると、間接的で、如何にも普通を思わせる穩やかな階層であるが、縦型社会の構造を持つ日本のサラリーマンは、上層部からの命令には逆らえないヒエラルキーが出来上がっている。
 もし、上層部に逆らいでもすれば、「業務命令違反」という処罰が待っているからだ。
 だからサラリーマンならば、誰でもこの命令に逆らえない構造が出来上がっている。勿論、会社組織と云うのは、犯罪親和集団でないから、企業を挙げて犯罪に加担していると云うことは一概に言えないが、時として犯罪シンジケート顔負けの、企業ぐるみの犯罪は、いつの時代も、ある一定の割り合いで起っている。

 だからこそ、普通の人間の仮面を被った裏側には、大悪党顔負けの小悪党の仮面が隠れているという裏側も知らなければならないのである。
 更に、「中」にランクされるサラリーマンらがやらかす、個人的な犯行であるチカン行為などの痴情犯罪事件も、貧困とは無縁なホワイトカラー族の仕業(しわざ)が大半を占め、彼等は貧困とは無縁の人達である。

 世界中の先進国の中で、あるいは北半球に位置する文明国の中で、「チカンを犯罪と戒め、チカン防止を促すアナウス」がJRの電車や地下鉄の中で流れているのは日本だけであり、飽食に飽きたホワイトカラー族は、今度は痴情に狂い出すと言う元凶を抱えているようだ。更には、不倫もセクハラもこの階層が中心だ。
 携帯電話のマナーの悪さも、この階層がダントツで、「電源を切れ」「マナーモードにせよ」という鉄道会社の警告にもかかわらず、平気で電話を掛けているホワイトカラー族の図々しさを見ると、実は「善良な市民」と裁判所から定義されるこの階層は、一皮剥くと、それなりの「大卒者」と云う学歴を持ち、それでいてこの「ザマ」なのである。

 また戦後民主主義教育下で、最高学府までの教育を受けた、一応良識?あるホワイトカラー族がこの程度の常識しか持ち合わせないのであるから、海外出張などで破廉恥にも、現地の女性を買い漁ったりするこの種の階層は、近隣諸国や東南アジアの人々から蔑まれるのも当然であろう。
 そして彼等は、「中」にランクされる、貧困とは無縁の人間である人々であることを忘れてはならない。

 さて、最後に登場するのは、過ちを犯した場合、その態度に、克明に人としての品格が顕われるタイプである。人としての品格は、窮地に立たされ、絶体絶命に追い込まれて、進退(しんたい)(きわ)まった時機(とき)に顕われるものである。

 このタイプは、死が目前に迫ったとしても、恐れるでもなく、嘆くのでもなく、毅然と立ち向かう信念を持っている。
 また、「死」と言う現実や、「窮地」という現実を素直に感じ取る事が出来る。狼狽(うろた)えることを知らない。したがって詫び方も立派である。人間の品格の差は、こういう時機に顕われる。

 態度が立派な人間は、概して「詫び方」や「謝り方」が立派であり、また実に見事で、言い訳がましいことを一切口にしないものである。
 出来の良い人間と言うものは、その過失の意味や、事態をよく理解しているから、その理解度に応じた謝罪が出来、詫び方にも誠実さが込められている。

 しかし、これが「中」にランクされる人間になると、その九割方が、内心では「何もあんなに責めなくても……」とか、「あんなに言わなくてもよさそうだが……」という、「悪いのは自分だけではない」という自己弁護の思いが働くものである。

 これが「下」の人間になると、叱責されたり、抗議された内容の把握に疎いから、「こんな時は、まあ、とにかく頭を下げておくか」などと、不誠意な、心の裡(うち)ではぺろりと舌を出している。知性より感情でこれを受け流すと言うのも、「下」にランクされる人間の特徴だ。

 人は各々に、過ちを修正する機会が与えられている。
 しかし、それを試煉(しれん)と考えずに、感情で捉えてしまえば、せっかく巡ってきた修正のチャンスもみすみす逃してしまうことになる。運の良し悪しは、この「巡り」をチャンスと捉えるか、ピンチと捉えるかで、その人の幸・不幸は明暗を分け、これを活かすも殺すも、自分の裡側(うちがわ)に存在することに気付かなければならない。