内弟子制度 5
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●社会の一員としての「転ばぬ先の智慧」 世の中に「内弟子」の名の付くものは多い。 しかし内弟子を経験した後に、その先どうなるか、という事を具体的に示唆し、教えてくれる武術の師匠は殆どない。 指導者はあくまで技術指導をする指導者であり、世の中の生き方など、教えてくれる指導者など殆どいない。 多くは「伎倆次第」「やり方次第だ」などと、曖昧な、抽象的な表現で、師匠から誤魔化される。確かに、それらしい技は教えるが、それ以上の「運営」や「組織造り」等について明確に教えてくれない。 これは芸能タレント(【註】歌手、落語家、漫才師、政治家の書生など)の内弟子にしても、同じであろう。内弟子として、付き人になり、これで芽が出て、常時テレビや演武場や寄席に登場するといった所まで登り詰める人は、ごく限られた人である。 これについて、師匠は責任をとらないし、難の示唆も与えることはない。 何故ならば、師匠もまた、こうした分野では「ド素人」であるからだ。芸人であっても、戦略家でないからだ。 曽川宗家は、常々、武人は武術家や武道家である前に「人間であれ」と教える。人間である事を無視しては、実社会に何一つ適応できないからだ。 その意味で、曽川宗家の指導する「内弟子制度」は画期的で、特異な存在だと言えよう。 繰り返すが、世の中に「内弟子」の名の付くものは多い。 しかし結局、内弟子と言っても、入門時に入会金として法外な金銭を取られ、ただだらだらと時間と歳月を浪費して、何年居ても、ウダツの上がらぬような内弟子で終わることが少なくない。 時々師匠の気紛れでくれる僅かな小遣いと、「秘書」の肩書きを貰っても、体裁のいい付き人になったとしても、生涯、師匠の付き人で終わるだけでは、何とも情けない話である。 これでは師匠から金だけ取られ、師匠の生活に自分の月謝が遣われただけであり、師匠に対して、滅私奉公したに過ぎないだけなのだ。 こうした内弟子制度に運悪くひっかかり、幾ら師匠に奉公しても、前途が開けていなければ、その内弟子制度は、単に金儲けの、師匠の為の集金システムにしか過ぎないのである。 しかし曽川宗家の「内弟子制度」は、この点が他とは全く違う。将来道場を開設するにしても、武術家である前に人間であるという事が全面に打ち出されている為、「人集め」や「人造り」や「組織造り」までをも指導してくれる。そして時代の流れに順応していく思考力と、洞察力までもを適切に指導するのだ。 現代は、かつての一世を風靡(ふうび)した良き時代の「看板」だけでは、中々人が集まらない時代である。だから道場運営にはそれなりの戦略(strategy)がいるし、地盤固めが必要である。その為には明確な運営方針を打ち出さなければならない。 政治、経済、軍事、宗教、哲学、法学、歴史、文化、国際情勢は勿論のこと、霊学や神霊学、医学や薬学、金融学までを熟知していなければならず、こうしたあらゆるジャンルを曽川宗家は指導してくれるのである。 そして各セクションごとに口述試験があり、それをパスしなければ、次へ進めないのである。落第すれば、合格するまで何度でも挑戦しなければならないのである。教える側も真剣ならば、教わる方も真剣にならざるを得ない。一対一の人間教育の原点は、ここに由来する。 かつて『陸軍中野学校』(【註】市川雷蔵主演)という映画を見たことがある。 その事が曽川宗家の所で、内弟子一日体験を受けてみて、ふと、それに重なったのである。 この映画の中でも、多くの脱落者が出る。途中でノイローゼになったり、発狂する者までもがいる。あるいは女に溺れて、身を持ち崩し、自決に追い込まれる者もいる。 しかし一方で、数々の苦難を乗り越え、「一人一国の理想」に燃え、日本政府の外郭団体である東亜経済研究所の所員として、中国大陸や周辺地域の海外へ飛び、地域住民に溶け込み、諜報員として活躍する卒業生の姿があった。 こうした、かつての印象が、曽川宗家の主宰する「内弟子制度」と重なったのである。次の時代を先取りしている、という強い印象を受けたのが、私の偽らざる感想であった。 こう言う意味で、西郷派大東流合気武術には「一人一国の理想」があり、何か新しい気吹が、ここから出始めているような気配を感じるのである。 ●えッ?自転車分解・組立修理技術までも…… 絶対に学ばなければならないカリキュラムの必須修業の一つに、「自転車分解・組立修理技術」と言うのがある。その為に尚道館の車庫には、常に十数台の、よく整備された自転車が置いてある。どれも、磨かれて整備が行き届いている。勿論、盗難車などではない。尚道館が内弟子に種々の整備を指導するために新車を購入して、教材用に置いてあるのである。 私が体験した、内弟子一日体験の中には、「自転車走行」という有酸素運動の稽古があり、実際に山路で自転車を止め、パンクしたと言う想定で、タイヤを外し、これを修理するというのがあった。 この指導は、御子息が担当して、その一部始終を丁寧に教えてくれる。 私が、「どうして『自転車分解・組立修理』が必要なのですか?」と訊くと、 曽川宗家は、 「世界の石油メジャーが、今、どう動いているか、こうした事を考慮すると、単に無造作に車に乗り、ガソリンをバラまく生活を無意識に営んでいても、やがては行き詰まるものだ。常に最悪の場合を想定した、非日常的な「戦場生活」の心構えが必要だ。 その基本が、『自給自足、自主自立』の精神が必要である。またそれに伴う、『サバイバル』も必要だ。 こうした、「人間である」根本を忘れてしまうと、必ず、やってくるであろう、大激変の世界的異常現象に、順応できず、滅びの道を辿らなければならない。 したがって金のかからない、安価で、機能的な、無駄のない行動を体得する為にも、自転車分解修理技術は必要であり、単にこれが乗れるという事だけでは、自主自立の精神は全うできない。分解が出来、そして組み立てることができる。こうして初めて、自転車の価値が解るというものなのだ。 今日の現代人は、こうした基本的な、現実に目もくれず、便利で快適な物ばかりに目を奪われているが、これは必ず破綻を招く。 あんた、今、ガソリンが流通しない状態に陥ったらどうする。日本のガソリン備蓄量は、たったの三日分なのだよ。その資源の99%は海外で、中東が約6割、中国、ロシア、アメリカ、北海海底油田等からが約3.9割で、日本の油田(新潟などの一部の小地域)もあるにはあるが、0.1%未満なのだよ。こういう情況で、どうして自家用車を乗り回せるというんだね。こうした生活が、近未来にも、そのまま通じるという事を考えること事態が、そもそもナンセンスなんだ。 その上、大地震、大災害、大交通事故、有事ともなれば、緊急車輌(自衛隊車輌、警察車輌、消防車輌など)が最優先されて、個人使用の自家用車など走らせる道路など、全く無くなるんだ。緊急時、マイカーを何処に走らせるというんだね。 また今日の近代農業は、トラックターや耕耘機を遣う、ガソリンに浮いた農業である事を知っているか。 そして突然、食糧危機が襲い、食べるものがなくなったら、何を食べるか? こういう時に備えてやはり、自給自足と自立の精神が必要はないか。 阪神大震災が起こったとき、時の政府は何をしてくれたと思う?何もしてくれなかったではないか。国民感情の中には「税金ばかりとって、何もしてくれない」という意識が根強く残っているんだ。 政府官僚は、無能なくせに威張り腐り、夜郎自大化に陥っているというのが実情だ。 ならば、こんな頼りの無い役人に頼るよりは、まず自分自身で自立するべきだ。 まだ日本の野山には、食養にできる野草が少なからず残っている。したがって野草の知識が必要で、出来れば農作物を自給自足ができ、それを他人から奪われないように、自前で防犯システムも考えなければならんと違うか? 終焉(しゅうえん)を向かえようとする、資本主義市場経済の輪廻の輪に填(は)まっていては、いつまでも、浪費の為の浪費を繰り返さねばならんのだよ。馬鹿馬鹿しいと思わんかね。 資本主義とはね。これは一種の『ねずみ講』なのだよ。 このシステムは、会員を鼠算式に拡大させることを条件として、加入者に対して、加入金額以上の金銭その他の経済上の利益を与える一種の金融組織だ。実際に『ねずみ講』は投機性が強いので法律では禁止されているが、国際間において国家がこれを行うことは禁止されていないんだ。資本主義における『消費のための消費』は、一種の連鎖配当組織であり、したがって『買い換え』が基本になっており、その為に企業はテレビなどのマスメディアを使って宣伝を繰り返し、国民に購買意欲を煽っているではないか。 社会システム上のメカニズムは、現在生きている人間と、これから生まれてくる人間を合わせた『無限連鎖講』そのものであり、これが市場経済において循環しているという事なんだ。 そして市場経済には必ず、光と影の部分が現われ、好景気と不景気を交互に繰り返しながら、その下で、多くの人民は一喜一憂と喜怒哀楽を繰り返しているんだ。 また歴史の中で、絶対に忘れてはならないのは、歴史には『周期』があり、その周期がある限定期間を以て、波を打っている事だ。同じ経済システム、同じ主義、同じ思考で支配されたものが、長くは続かないということだよ。 歴史を見れば、約三百年周期(【註】曽川宗家の説く「歴史工学」の説)で入れ替わっているんだ。 こういうものに振り回されていて、本当に自分を知り、それを向上させて、悟りに至る道など開けると思うかね。今こそ、資本主義の輪廻の輪から完全に独立した、自立の精神に還るべきだ」(【註】以上録音テープを編集)と言われた。 私は「ああ、そうですね……」と、対岸の火事のような返事を投げていたが、実を言って、曽川宗家の考えている事を洞察すると、単に武道馬鹿ではどうしようもない、という事を思い知らされ始めていたのである。 そして私が、いつまでも脳裡に余韻を齎したものは、「資本主義とはね。これは一種の『ねずみ講』なのだよ」という言葉だった。 今日の現代人は、資本主義の実態が「ねずみ講」であることに、殆どの人が気付いていない。またこうした社会構造の根本システムが、「ねずみ講」の上に立脚しているとも疑っていない。 多くに日本人は、国家が世界規模で行う「ねずみ講」は安易に見逃しながらも、小さな「小口ねずみ講」や、「小口マルチ商法」については厳しく警戒し、それが悪のごとき、産物と顔をしかめるが、国家が行う「巨大ねずみ講」については、一言も文句を言わない。 しかし第一、資本主義の商品販売方法自体がマルチ商法ではないか。組織内での地位昇進から得られる利益を餌に、商品の購入や取引料の支払いの負担を約束させる形でする商品の販売取引はまさに株式会社の構造ではないか。これが資本主義のシステムでなくて何であろう。また現行法では、マルチ商法には一切規制が無い。 現に国家が国民を詐取する「ねずみ講」の正体は、バブル崩壊以降、バレてしまっているではないか。 国民の血と汗の結晶である郵貯の金にしても、数字だけは値を留めているが、その価値たるや、大幅に目減りして、金融不安の引き金を引こうとしているではないか。 諸氏は不思議な郵貯のカラクリをご存じだろうか。 今、日本の経済構造は、郵貯も、財政投融資も巨大な「ねずみ講」と化しているのである。 郵貯残高の220兆円のうち、実際に60兆円が不良債権化し、また財投の430兆円のうち、120兆円は不良債権化しているのである。 また第二の国家予算として集められた財政投融資の膨大な資金は、一体どこへ流れて行くか、諸氏はご存じだろうか。 流れる経路は、公庫、公団、公益事業団、政府系金融機関、国の特別会計、地方自治体などであるが、これは役人の天下り機関に流出して、全く市場原理の働かない利権と談合の50兆円以上が失われ、この累積金額は既に400兆円を超えるとエコノミストや会計専門筋は見ているのである。 そして国民を喰い物にする公益事業を展開し、こうした現状を野放しにしている政治家や高級官僚の責任は重いが、諸氏は如何が思われるだろうか。 いつの間にか、国民に奉仕するはずの公僕が、既にこうした画策を裏で行い、巧妙な仕掛けをつくって、国民を搾取し続けているのである。 武術家は武術に打ち込めばそれでいいと言う。また武道家や格闘技家は、ただひたすらに練習に打ち込めばいいと言う。知性の欠片(かけら)など、一切必要無いという。しかしこの考え方は、正しいだろうか。 自分が人間であることを忘れ、弱肉強食論にうつつを抜かしている間に、裏ではこうしたことが行われ、聾桟敷(つんぼさじき)にされて、搾取されつつけているのである。まず、私達は「一個の権利を有する人間」であるべきなのではなかろうか。 曽川宗家の社会を見る目、政治を見る目、文化を見る目、軍事を見る目、世界動向を窺う目は、その博学な知識の中で、重厚に積み重ねられている。確かな眼を持っている。これには学ぶべき価値がある。 人類に歴史を振り返れば、その大半は食糧獲得に争い、奔走した歴史と言える。 |