内弟子制度 4
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●中産階級が中産階級の壁を乗り越えられない理由 曽川宗家の、貧困への厳しい指摘は、「中産階級が、中産階級の壁を乗り越えられない」と言うことについて、即座に次のようなことを言って諭(さと)すことである。 宗家の言に随(したが)えば、中産階級以下に位置する多くの人は、次のように分析できると言う。 その第一は、金銭哲学と言う、本当の意味を理解していない為に、その深層心理の中に、「世の中は金が総てではない」という反発意識を多くの人が持ち続けていると言う。こうした意識が、中産階級の壁を乗り越えられない原因を作っていると言うのだ。 その第二は、こうした深層心理の意識が働く結果、いつの間にか、「金持ちが汚い、あるいはケチで、不正な商売をして金を貯えているのではないか」と疑うことであると言う。その結果により、中産階級以下で、貧乏に甘んじている人間の方が、「格が高い」という意識が生まれ、こうしたものが無意識のうちに発生していて、常に、これに対峙する劣等感で汚染されていると言う。 この種の人は、「自分の方が格が高い」という意識で、金持ちに対峙(たいじ)している実情がある、と指摘する。これは中産階級以下の貧困層で組織する、日本共産党や創価学会等の新興宗教を見れば、一目瞭然だと言う。 曽川宗家はこの二つの集団に、次のような分析を行なっている。 まず、日本共産党であるが、この政党は第二次世界大戦以降、「宗教と教育を混同してはいけない」というテーゼを掲げて、日教組に影響を与え、教師達に対して、共産主義思想を培養することに成功した。 しかし「共産主義」こそ、明かに一種の宗教であり、ユダヤ・カバラ思想や、教典『タルムード』で培養されたマルクスの、「ユダヤ教思想」が根底に流れている。その証拠に、共産主義のスローガンは、一日八時間労働を限度として、それ以上の労働をすることは禁じているし、また土・日の休息日まで設けている。 つまりこれは、ユダヤ教をベースにした一種の宗教思想がつくり出したもので、共産主義を様々な角度から洞察すれば、共産主義こそ、まさに宗教であり、日本の教職員組合が、宗教の代用として共産主義を信じる様は、まさに「信仰」と言えるものであると指摘するのである。 また、仏教の日蓮正宗系富士門流の一派である創価学会は、表向きは宗教団体のような形態を取り、宗教団体を装っているが、その実態は政治団体であり、日本共産党と同じく、階級的には中産階級及び下層階級の人々から構成され、この構造は、日本共産党に酷似していると言う。 同時にこの二つの団体は、変動する社会情勢に於いて、最も生活に困難を感じている階級を総(すべ)て吸収し、失業者や病気で寝た切りの老人や、学歴のない人や、作業労働に従事している若い女性や、青少年労働層を取り込んで、熱心な創価学会信者に仕立て上げ、信者の多くは、政治団体の戦士であるかのような印象を受ける、とも言う。 更にこの二つの団体は、社会の正統派から、ややともすれば外れそうになってしまう人達であるが、これに対して、理論武装の何たるかを教え、理論で武装することによってのみ、他の市民と一線を画す優越感を培養することに成功し、仮性的な人生の意義と目的を与えた、とする。 共産党は攻撃的な理論武装で他を負かそうとするし、創価学会は富士門流特有の攻撃的な「折伏(しゃくぶく)」で、敵対者を理論で負かそうとする。 こうした角度から両団体を洞察すると、日本共産党に至っては、この政党を支持する多くの中産階級以下の労働者及びシンパサイダーは、同じように人生の目的を発見できず、自分が中心となって主体的に行動が出来ず、党の指導によって人生に仮性的な意味を見い出した人達であると言う事が分かる。 その意味で日本共産党と創価学会は、同じ階級層の人達で支持されていると言う構造を持っている事が分かる。 そして創価学会員と日本共産党員の共通性は、人生に対して、意義を感じ、それが仮性的なものであっても、自分が英雄になったと言う思い上がりと、優越感があり、この宗教の多くの人達は、この団体から多くのものを受け取ったと信じ込んでいる節が否めない。 また更に共通点を挙げるならば、同じ支持層で構成されている両団体は、一種の独裁者によって指導され、率いられていると言う現実に、その共通性を見い出す事が出来る、と言うのである。 つまり、中産階級以下の階級に働く意識の多くは、「優越感」であり、これを裏から分析すれば、この階級層は、優越感を擽(くすぐ)ることによってのみ、組織構成がなり立つのであって、その深層心理には「世の中は金が総てではない」という意識があり、また、「貧乏に甘んじて生きている人間の方が、金持ちより格が高い」という意識があって、これこそが、自らの手で、中産階級の壁を乗り越える努力を諦めてしまった、と言い現実があると指摘する。 また、だからこそ、その実態は精神的にも、日常生活的にも「一種の貧困」が付きまとい、その中産階級以下としての、優越感のみで生きていると言う、偽わざる実情があると言うのだ。 金持ちより、貧乏人の方が「格が高い」という意識は、何処かで金持ちを蔑(さげ)んでいる意識であり、そのくせ、自分が他人から「貧乏だ」と言われると、これに忽(たちま)ち憤慨(ふんがい)すると言うのもまた、この中産階級以下の層の特性だと言える、と曽川宗家は指摘するのである。 そして以上の指摘から、考えられさせられることは、こうした中産階級否の階級に属する人の多くが、この世の中を物質的社会並びに科学万能主義で捕らえていることであり、唯物的な指向に奔(はし)っていると言うことを痛感する次第である。これこそ、まさに物質に依存する貧困なる精神の最たるものでなかろうか、指摘するのである。 ●安易な金持ち指向は身を滅ぼす 一方、世の中の過半数以上を構成する中産階級以下の意識は、「中流階級の意識であり、日本国民の90%以上がそう信じ切っている」とも言う。この階級は、物質文明と科学万能主義に入れ揚げ、等しく、中途半端な唯物論を信じ、一方で、中途半端な無神論者でもあると言う。 だから日本共産党も創価学会も、その両方は、共に大いに繁昌し、多くの信者を集めているとも言う。 そして中産階級以下の階級を構成する階級層は、深層心理に「金が総てではない」と言いながら、一方で金の事を言い、もう一方で、他人から「貧乏だ」と言われることを、極度に嫌う矛盾があると言う。 「金が総てではない」と言いながら、では何故、パチンコ等の小ギャンブルに手を染め、これに現(うつつ)を抜かすのか。また、戎(えびす)神社参りや稲荷神社参りをして、金運をよくする為に奔走するのか、という矛盾も指摘している。 この階級をよく観察すれば、中途半端な唯物論者であり、また中途半端な無神論者でもあることが分かる。 世の多く人は、「棚からボタ餅」式で転げ込んだ思わぬ入金に、心を踊らせ、一時の有頂天に舞い上がる習性がある。しかしこうした意識を、「利(り)」と言い、やがてはここらか下り坂へ向かう事を暗示する。つまり「利」と「衰(すい)」は、損得についての心の動きであり、「利」に一旦偏(かたよ)れば、次は「衰」の反動が起こるのは、拮抗(きっこう)を保つ上でも当然の現象として現れてくる。 一時的に、思わぬ事で「お金が儲かった」という現象は、「これからお金に苦労する」という警告であり、ここで有頂天に舞い上がったり、入ったお金を出し惜しみすると、今度はそのツケがやがて廻ってきて、その悩みに悩まされることになる。 これはパチンコなどの小ギャンブルに手を出している人を見れば、一目瞭然である。ギャンブルで勝ち続けている人など、一人も居ないのである。 よくテレビなどで、プロパチンカーがパチンコの儲けで、高級外車を乗り回したり、豪邸に住んで左団扇(ひだりうちわ)の映像が流れるが、これは庶民を釣り上げる為の「ヤラセ」であり、自称パチプロと遊戯場組合が、中産階級以下を対象に、手のこった演出をしているに過ぎない。こうした一局面を庶民が羨ましく思い、「自分もあやかりたい」の想念が、「奪う想念」を作り上げ、やがてはパチンコ依存症へと傾いていくのである。 一種の、目先の小銭に転んだ困窮意識と言えよう。 パチンコ屋や公営ギャンブル場は慈善事業でない為、最初に甘い仕掛けで「とらせて」おいて、次に「根こそぎ回収」する営利事業なのである。客から奪う事ばかりに徹していれば、客足は遠のくからである。 曽川宗家の数学的統計によれば、パチンコ屋や公営ギャンブル場の中産階級以下の層から巻き上げる回収率は20%を客に還元し、80%を客から巻き上げ、その差し引きトータル利益率は、60%であり、一ヵ月に、例えば2万円をギャンブル場からせしめている人は10万円の遊興費を投資して、8万円を持っていかれ、年間トータル損害は96万円であり、この80%相当の中で、ある者は要領よく勝ちながらも年間30万円前後の損失を出し、また負け込みの多い者は100万円前後の金をギャンブル場の中に投げ込んでいると言う。 そしてこうしたギャンブル場は、慈善事業でない為、確実に60%程を純利益としていると指摘する。 パチンコ屋でも、この60%純利益を巡って、他店と取りつ取られつの攻防を繰り返しているわけで、競争に負けた店は買収されて乗っ取られ、買った方は益々大きくなっていく、弱肉強食が繰り返されていると言う。 こうした現世の現実を考えれば、金運を掲げた戎神社や稲荷神社が多く拝観客を集めて儲かっているのであって、ここに拝観する方が儲かるのではない。 またパチンコも、パチンコをする方が儲かるのではなく、パチンコをさせている方が儲かるのである。ここに中産階級以下の階級層の金銭哲学に対する錯誤があり、この錯誤で、死ぬまで踊らされて資本主義の輪廻の輪の中で、ラットレースをやらされるのが、この階級の特徴であるとも言う。そしてこうした階級層の何処にも、リーダーシップを感じさせるようなところは全く見出せないのである。 こうしたことが、死ぬまで搾取(さくしゅ)される続ける宿痾(しゅくあ)でもあると言う。第一博奕で、儲けようとする思考そのものが間違っているからである。 種々の公営ギャンブルも、パチンコ等の小ギャンブルも、法律に則った合法的な搾取であり、中産階級以下の層をターゲットに営業している営利団体であり、また諸々のローンや、住宅や車等のローンを代行する銀行貸し付けも、利息を払うと言う点に於いて、国民を合法的に借金漬けにする合法的組織化で運営されている利枝吃九団体であると言う事が分かる。 その真の実態こそ、金持ちには信じられない位の低利子で貸し、中産階級以下は審査を厳しくしてサラ金なみの29.2%の暴利で金の貸すと言う、貸し付け格差があるのである。 こうした深層部にこそ、金銭哲学の本題が隠れているのである。 ●二年間の内弟子制度を通じて、プロの道場経営ができる武術家を養成する 昨今の日本における道場の経営実態を見てみると、その大半以上が、アマチュアに毛の生えたような素人道場が多く目につく。こうした私設道場の多くの道場主は、普段は会社や商店等に勤めていて、一週間のうちの決まった曜日の、一日か二日しか指導をしていない。また、「○○少年団」と言う団体の指導者も、普段は道場以外に別の職業を持っている。ある意味で、これが日本の道場経営の実態である。 日夜斯道に励み、一日を通じて、自らも修行し、弟子に教えると言う道場主は稀(まれ)である。したがって一日を通して修行している修行者と、一週間のうちに、一日か二日の、ある時間帯だけを割いて、修行をしている人とでは、その修行している実力も、度合いも根本的に天地の開きがあり、その武術に向かい合う態度も、考え方も大いに格差がある。 これは強弱に優れ、どちらが強いとか、武道哲学に於いてどちらの指向が勝っているかと言う問題ではない。要は、没頭に情熱をかける姿勢であり、一週間に、某かの時間しか修行をしていない者とは、次元の問題で大きな開きが出るのである。 曽川宗家は、武術家は「豊かでならあらねばならない」と言う。この豊かこそ、武術を真摯(しんし)に学ぶ、「教育」というものがこの中にあると言う。 最も真摯に学び取った人間は、必ずしも経済的に豊かである必要はない。だからといって、借金に追い回されるような愚者であってもならない。 曽川宗家の言によれば、本当に、真摯に武術を修行した者の晩年は、物質的経済的に豊かである必要はないが、しかし一円の借金も残っていないことが、武術家としての、能(よ)く修行した人間の晩年であり、したがって喰う為に働く必要もなく、修行三昧に明け暮れる人こそ、本当の修行者と言うのである。 これこそが、例えば、禅の僧侶が坐禅三昧(ざんまい)に打ち込む、まさに同じ姿に酷似するのである。 だから武術を生涯かけて、やり抜く人間こそ、本当の修行者だと言うのである。特に大東流は、真の上級武士の武術であった。あるいは真の貴族の武術であった。 真の上級武士や、真の貴族は、物財的にも経済的にも、金持ちではなく、また、立派な邸宅を構えて、そこに棲(す)んでいる人間でもない。 粗末な衣服を着た人でも、あるいは貧相にみえる家に棲んでいても、一切の現世の流行に流されず、能(よ)くものを学び取り、能く悟った賢人こそが、武術修行を通じて会得した、真の精神的上級武士であり、また精神的貴族であるとも言うのだ。 一円の借金をすることもなく、人の世話はしても、人に借りを作らず、また、財産や金銭についても、何ら興味を示さないと言うのが、真の精神的上級武士、真の精神的貴族であり、修行を通して、術を学び、また一方に於いて、求道者として学問を積むと言うことは、精神的な貴族性を持つ上に、絶対に必要な条件であり、これが抜け落ちている人間は、最終的に、晩年は人から相手にされなくなる。それは、哲学が存在しないからである。 曽川宗家の言に随(したが)えば、日本人は民族としての誇りと、智慧(ちえ)を失い、日本民族が保有していた「偉大な魂」は、物質至上主義や金銭至上主義に押し流されて、これを失ってしまったかのように見える。 物質主義と言う、一つの偶像崇拝の宗教が、精神的には、満ったされない貧困な精神を作り上げ、この金・物・色という偶像に魅(み)せられて、多くの人はこうしたものに奔走する現代社会と言う虚像を作り上げてしまった。 現代の日本社会では、沢山の物を所有し、財産を殖やし、沢山金を集めると言うことだけが、その空虚な心を埋め合わせる、一種の宗教のようになってしまっている現実がある。 そんな空虚があるからこそ、夜の巷(ちまた)に出歩き、風俗等に一時(ひととき)の慰安を求めようとする心が湧き起こってくる。 中産階級以下の多くの階級層が思い描くことは、男の場合、沢山の若い女性を集め、沢山のセックスを経験することが、より豊かな人生をエンジョイすることなるというような、間違った観念に見て取る事ができ、巷ではこうした事が本気で信じられている。 戦後社会の日本では、西欧社会で行なわれている物質主義を直輸入して、それを鵜(う)呑みにし、消化不良を起こしていると言うのが、今日の中産階級以下の所有する精神構造である。こうした思考では、その他追う税の無生物に組み込まれて、人々の尊敬を勝ち取ることは出来ない。 貧しくても、その中にこそ、清貧の本当の姿があり、また、こうした中に、真の精神的上級武士や、真の精神的貴族の姿を見ることができる。 かつて沢庵禅師(たくあん‐ぜんじ)は、「安楽や快楽ばかりを追い求めると、心をかえって苦しめることになる」と説いた。 物財や金銭や美女に取り囲まれて、身を楽しませれば、それは自らで、自らの心を苦しめると説いたのである。 旅行好きは、外国や日本各地の名所旧跡に脚を運び、旅行に出かけて、方々(ほうぼう)を見て回り、目を楽しませることはできるが、その為に脚は疲れ、もし、この旅行が旅行業者のローンを組んでの旅行ならば、また、そのローン返済にも苦しまねばならぬことにもなる。 食道楽は、美味しい物と聴(き)けば外国にでも出かけて行くと言うが、その結果に於いて、舌を楽しませることができる反面、心の中には、何処に美味しい物を食べさせる店はないかと、追い求める気持ちが生まれて、普段の食事は全く食べられなくなってしまう。 行列の出来る店にしても同じであり、この行列に何時間も並んで、美味しい物を食べようとする心は、既に「苦しんでい心」と言うことになる。 人は、「安易」に流れるものであり、特に、流行には流され易い。木綿で出来た重い衣服よりは、絹や羊毛で出来た軽い服を着たがる。常にファッションを追い求め、仕掛人に踊らされる実情がある。 よい家に棲みたがり、便利で、快適で、豊かな、身を楽しませるものばかりを追い求める。身を享楽へと押しやり、安楽の方に向かう。しかしそれは快楽を貪(むさぼ)ることであり、かえって心を苦しませることになる。 以上を総じて、沢庵禅師は「身を楽しませるものは恥に近く、心を楽しませるものは恥に遠し」と一蹴(いっしゅう)した。 我々、真の武術を志す者は、世の中の物質的な豊かさを探究するのではなく、もっと低い位置の、「修行者」という立場の原点に立ち返って、下から上を見上げ、謙虚に、礼儀正しく、物事を学ぶと言う心構えが必要なのではあるまいか。 現在の世の中と言うものは、物の豊かさを追い求め、身体の安逸(あんいつ)や快楽は貪るような構造が出来上がっているが、こうした深層部に隠れているものを見抜き、こうしたものに翻弄(ほんろう)されない修行構造を作ることが、今から先の武術家に与えられた真の使命なのである。 だからこそ、大ローンで道場を開設したり、見栄ばかりを張り続けていても、こうした粉飾は時間と共に化(ば)けの皮が剥(は)がれ、結局は武術家として立てなくなってしまうのである。 また、武術修行を門人に指導する指導者の中に、技云々は指導出来る人はいても、我が身を「立命の一灯」として、武術で身を立て、こうしたことを人間の糧として、あらゆる広範囲で指導出来る武術家は、曽川宗家をおいて、他に、私は一度もお目にかかったことがない。 |