内弟子制度 2
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人の歩く人生は、その生き方に左右される。そして、武術の世界に生きる人も同じだろう。 そこで、内弟子修行に関し、ただ武術をしたいのか、あるいは「武術家」になりたいのかが問われるところである。 ただ武術をしたければ、何も内弟子修行などする必要はない。ただのアマチュア愛好のレベルで止まり、武術オタクを続けていればいい事である。 しかし、武術家になるのなら、ただ武術をしたいというレベルに止まることは赦(ゆる)されない。もっとその奥にあるものを、掴む必要があるからだ。 それは人を集め、集まった人を纏(まと)め、組織し、道場運営と言う「人間学」を学ばねばならないからである。そして、それを学び終えたら、「自前の足」で立って行く必要がある。 |
●入門金と月謝を払う意義 道場活動を展開する集団は、一般の道場の場合も同じであるが、「人の道」を掲げているので、この活動は利潤追求の「営利目的」ではなく、また「商行為」でもない事はお分かりいただけるであろう。 道場運営を将来に亙(わた)り維持する為には、それなりの経済基盤が必要なのであるが、西郷派大東流合気武術の運営は、これを政財界の有志に求めないというのが、曽川宗家の一貫したお考えである。 武術は元々、自立独立・自主独歩の気概を尊ぶ求道者の道である、と私は信じている。つまり、「自前の足」で立つという事である。 だから財政面の援助を政財界に求めず、自力で活動を展開するというのが、「奉仕」の真の姿であるし、これは「武の道」に邁進(まいしん)する者の、極めて健全な姿ではないかと思う次第であるようだ。 さて「武術家とは何か」と問われれば、私は直ぐに「奉仕者である」と答えるようにしている。 したがってこうした奉仕者が、政財界人に援助を求め、政治家の為の売名行為の手下として走狗した場合、言行不一致のそしりを受ける事は必定だ。しかし、世間にはこうした武道団体やスポーツ団体が多いようである。 西郷派大東流合気武術は、政治家や財界人を人脈目当て、金金銭目当てに、「名誉総裁」にしたり、「最高顧問」にするなどの、武術の「武」の字も知らないド素人に、こうした職は与えていない。金銭の無心と、御機嫌伺いとして、太鼓持ちに成り下がる気持ちは全く無い。これが曽川宗家の、強い武術の基本理念である。 西郷派大東流は、自立独立・自主独歩の気概を尊ぶ求道者の武士道集団であるので、他者の負担になって、「他人に借りを作る」ことはあってはならないと考える。 武術の実践者は、「道を求める求道者」であり、企業の寄生する総会屋や暴力団の類とは根本的に異なるのである。 他人に借りを作らないという心構えも、武術家としては、大切な心構えの一つだ。 したがって人の世話をする事はあっても、なるべく他人の世話にならないように心がけることが大事ではないかと思う。 そうした武術家の特異な思想を以て、活動を展開するのであるから、その運営の維持の源泉は、門人が毎月支払う月謝に委(ゆだ)ねられる。これを「自前主義」というのだ。 そして月謝の納入については、幾ら納入すればすむのか、あるいは月謝を払うと、どういう特典が与えられるのかというような、対価的な考えはもっての他だと思う。 むしろ考えねばならないことは、修行者が自分の通う道場に対して、どういう協力し、援助し、負担すべきかという事を模索するようでありたい。 それが人格というべき、独立した一人前の「おとな」という態度であるまいか。 道場における月謝の徴収とは、商行為としての徴収ではなく、自らが感謝の気持ちで自発的に差し出すものである。 これを商行為と捉えれば、人格ならびに霊格ともランクの低い、幼児社会の有相無相と、種が一緒になってしまうのである。 お家の事情はそれぞれの団体によって異なろうが、中には会費や月謝の類(たぐい)を要求しなかったり、講道館柔道のように、年間会費が、たったの三千円というスポーツ武道団体もあるようだ。 しかしそいうい安い年間会費で、あれだけの大組織を動かし、維持・運営しているのであるから、当然そこには、収入の源泉が他にあると考えねばならない。背後に巨大なスポンサーを持ち、あるいは柔道を放映するなどの放映権があったり、政治的な圧力を懸けて学校教育の正課授業に、国民皆兵式(【註】高校体育の授業に「柔道」があるのはこれを雄弁に物語っている)に体育に取り込み、これにより裾野(すその)を広げるという巨大組織が出来上がっている。 即ち、何処かで、誰かが不足の分を負担しているのであり、これと引き替えに、当然何かが提供される筈(はず)である。果たして、こうしたものに寄りかかった態度が、好ましい姿であるかないか、あるいは正しく青少年健全の育成に貢献しているかどうか、その裏側を考えれば、どこか訝(おか)しなカラクリがあるのはと思うのが当然である。 また、こうした団体の背後には、興行としてのテレビ局などの放映権も絡んでいるので、そこから多額の放映収入が入ったり、選手のコマーシャル出演で、出演料が入手出来るようになっていて、背後に強大な政治力があることも否定できない。 そしてこうした巨大組織は、資金力も政治力も大きいから、組織の選手は次から次へと湧いて出て、怪我や負傷などで役に立たなくなれば、直ぐに捨てられれてしまい、消耗品として使い捨てされている現実を知らねばならない。一番得をしているのは、試合に全く参加しない連盟組織の幹部であることは、誰の目から見ても一目瞭然の筈だ。 こうした裏を察すれば、柔道を、知育のそれに対峙(たいじ)させ、学校教育の中に持ち込み、これを生徒に強要して「体育」とした嘉納治五郎の考え方が、政治力と無関係であったかどうか、実に疑わしい限りである。 ある意味で柔道連盟が、教育団体を自称する日教組と、五十歩百歩の団体である事は明白であり、教育を喰い物にした組織である事は、否めない観があるが、諸氏はどうお考えだろうか。 その点においては、剣道を高等学校の体育課目に指定している日本剣道連盟も然(しか)りである。武術の実践者は政治家の集団ではなく、「道の求道者」だったのではあるまいか。 ●月謝を払うという行為の大事 月謝というのは理念の上では「謝礼」である。謝礼であるので、これはれっきとした「謝儀(しゃぎ)」であり、「月謝を払う」という行為は、自分自身の「身分確認の為」と「人間性の証(あかし)」を表現する行為である。 毎月、威儀を正し、謝意を表わすのであるから、己の置かれた立場を忘れるにいるという行為でもある。したがって月謝という実態は、商行為の対価ではない。
かつて、古人は「のし袋」に瑞引(みずひき)を掛け、衣服を改めて、師匠の前に出(い)でて、両手で差し出すのが作法であった。そしてこうした事が「礼儀」に繋(つな)がり、この礼儀をもって「師弟関係」と称するのである。 |
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▲ドクダミの葉
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▲食養とするドクダミの根
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またドクダミの根は、キンピラにして胡麻油で炒めれば非常に美味であり、また葉は胡麻油の天麩羅(てんぷら)で美味しく頂けるのである。 最初は食べ慣れないと強烈な匂いに少し閉口するが、食べ慣れれば中々の珍味だという。私はこのドクダミに最後まで慣れる事が出来ず、宗家から薦められても、「はあ……」といって渋々口に運んだものだった。 そして最も躊躇し、驚いた事は、駅前や繁華街の街頭に立って道場のチラシや、時間待ち等で止まっている車の運転士に、道場のアドレスの入った広告テッシュを配らされた事である。 これはまさに、サラ金嬢のテッシュ配りにも、ひけを取らないものであった。 「おはようございます。尚道館です」と声を出し、にこやかに笑顔を湛(たた)えて、通勤中や買物中の老若男女に手渡すのである。こうした経験は全くの初めてであり、一瞬面喰らい、躊躇(ちゅうちょ)を覚え、困惑している自分に気付かされた。 つまり、全くもって、人ごみの中で、こうした行動をとること事態が恥ずかしいのである。人間の凝り固まった日頃の固定観念とは、実に恐ろしいものであると気付かされた次第である。 ある意味で、こうした固定観念が誤りを導くものだとも考えさせられた次第である。人間は、人間として初心に戻り、もっと無垢にならなければと思う。 無垢であり、無私でなければ愚かな「我(が)」に振り回されて、いつまでも人格が改善されないまま、自分の殻に閉じ篭る愚かな先入観の強い愚か者で、人生を終わる事になるのである。 また、御子息の竜磨(当時弐段)指導員補とチラシの宅配をした事である。 マンションの宅配では、早朝に起床し、高層マンションの上階まで階段を昇って、一戸一戸ドアの郵便口にチラシを差し込み、その差し込み方までもを指導された。これには配り方も、チラシの畳み方も、ちゃんとした法則があって、この方法でないと中々見てくれないという事であった。これもよく研究していると思った。 御子息は、この宅配を随分長く経験しているらしく、高層マンションの上階でも、足早に意図も簡単に、軽やかに、階段を登っていく。天狗のような素早さだ。やはり武術家は足がこうでなければならない。 彼の発達したガッシリと下半身と、競輪選手のような太腿の大きさは、こうした訓練によって鍛えられたものであるようだ。 彼はこれまで一人で、六万枚以上のチラシ宅配をしたと自負するだけあって、さすが慣れたもので、手際よく、速やかにポストの中に投げ入れていく。後から私が、おろおろしながら蹤(つ)いて行くという無態な恰好だった。 慣れているので、その配り方も要領を得ていて、早朝でも人に出会えば、にこやかな笑顔で「おはようございます」と、誰彼構わず声をかけ、こうしたところが今までの、恐持てで、威張り腐った武道家とは一味違うという印象を受けた。そして、その印象が実に爽やかなのだ。 今にして思えば、先入観と固定観念に染まり、私の一番欠けている一面を、御子息が、無言で指摘したようにも思える。 私は彼の、風のような素晴しいスピードでマンションの階段を駆け登っていく、足の素晴しさを褒めて、「随分と足が早いですね」と言うと、彼は「わし(関西で育った彼は自分の事を「わし」と言う)は、西郷派の中でも一番弱い、一番間抜けな黒帯なんです」と謙遜して、笑顔に白い歯を覗かせた。 そして更に素晴しかった事は、何があっても心に根を持たず、意に介しないという事であった。 チラシ宅配やテッシュ配りは往々にして、頑迷な人間に遭遇し、愚か者に遭遇し、時として嫌われ、時として敬遠される事がある。何をしているのだ、と言われそうで気恥ずかしい思いをする。そしてテッシュを差し出しても外事(そっぽ)を向かれる事がある。 しかしこうした事に対して、彼は一々くらい気持ちになったりせず、意に介しないのである。行乞(ぎょうこつ)の雲水(うんすい)の如く、たんたんと流れ、風のように近づき、風のように何事も気にせず、去って行くのである。 その姿が、また実に爽やかなのだ。 彼より、三回りに近い年齢の私だが、実は教えられる事の方が多かったのである。人間は、いつの頃から、こうした暗い固定観念と、先入観に汚染されてしまったのだろか、と思う次第である。この一線を越えなければ、中々本当の自分は見い出せないようだ。 |