内弟子制度 1



内弟子入門体験記

曽川和翁宗家の手拭いによる「奪いの太刀」1

曽川和翁宗家の手拭いによる「奪いの太刀」2



スポーツライター/宮川修明       


●内弟子制度について

 此度、曽川和翁宗家の依頼により、内弟子制度について第三者の立場として、問い合わせ各位の質問に対し、それに答える意味で、筆を取らせて頂いた次第である。
 これまで多くの方が、問い合わせに殺到したと聞く。そして問い合わせの質疑と回答を一応整理してみた。
 これによって少しは、内容が把握できるのではないかと自負している。

 さて、問い合わせ者の多くの方が、まず誤解をしている点を幾つか挙げてみたい。
 第一に、某空手道場の寮生のような、非常にハードで、心身ともに酷使する稽古が展開されるのではないかと言う内容のものが一番多かった。しかしこれははっきり言って違うので、以下述べる事柄を参照して頂きたい。

 第二に、満期終了した後には、どういう道が開けているのかという質問が、これに続いている。
 更にもう一つは、費用の面についてのことだった。
 そして痛切させられるのは、目的意識が不明確で、単に憧れや情緒だけで、ものを言っている人が多かったことだ。

 以上ことから、これに対し、曽川和翁宗家から、「これについて、一言客観的な立場から、意見を述べてもらえないだろうか」という、ご依頼を賜わったので、こうして私が筆を取った次第である。

 しかし「一言」では到底語り尽くせず、ついに説明が論文調の長文になってしまった観があり、これも偏に内弟子について、その内容を十二分にご理解して頂きたい願から発したものである。何卒、平に、ご容赦頂きたい。
 そして私自身が内容を述べるにあたり、「内弟子一日体験」をしてその感想から述べさせてもらうと言う形を取った。

 さて、「内弟子制度とは何か」と言う事について、まず、お答えしよう。
 この制度は将来において、「西郷派大東流合気武術」を、日本および世界各地に普及するにあたり、その先駆者として、あるいは尖兵(せんぺい)として、専門の指導者を育成する事を目的にした制度である。
 なお、本題を書くために曽川宗家所有の資料を参考にした。



●その目的を要約すれば、次のようになる

1.どこで、どういう先生(例えその人が著名な人でも)に、何を学んだかは問題ではない。実際には何が指導でき、何を会得したかが問題である。これは自身が「西郷派大東流合気武術」を、どの程度、掴み取ったかを問題にしているのである。

2.内弟子修行期間を通じて、その資格(段位や師範免許の紙切れ)を得るのではなく、どれだけ西郷派大東流儀法に精通し、どれだけの能力を有しているかと言う事が問題である。

3.すべての人間は各々に特異な、知られざる能力を持っているが、それを実際に具現化し、使わなければ、一生の宝の持ち腐れになり、その隠された特異な能力を、自分自らが発見し、開発し、更に「自分とは何か」という、人間としての根本玄理に迫る修業を目的とする。

4.以上の目的を遂行する為に、その根底に「礼儀正しさ」と「武士道精神」が宿っていなければならず、これを具体的に習得し、この精神を通じて、これを実社会に広く還元する。武術家である前に、社会人たれと言うのである。

5.「人は武術家たる前に、まず、人間でありたい」これは常々曽川和翁宗家が申されている言葉である。社会的に評価されず、また、人間社会から遠ざかってしまった、「山篭り」的な武道観では、人民の心と支持を失う。
 したがって自他を社会から隔離する思考ではなく、むしろ俗事に交わり、「まごころ」を以て、人と接する「礼儀正しさ」を養うことを旨とする。

 以上の五項目が内弟子制度の主旨であるが、指導の中心課題は、あくまで心ある人々に対し、示唆を与えるのが目的であって、ただ強持(こわも)てだけでは、社会人として通用しないと言っているのである。
 これを達成し、実践していく為に、更に詳しく紹介する事にしよう。



●費用と修業年数

 まず、費用面と修業年数である。
 費用は以下の通りであり、修業年数は2年である。
 入門に際して入門金50万円。月謝は食費やその他を含めて10万円。



募集対象・稽古日/入門費用
16歳以上の義務教育を終了した
 健康な男女で、成人に関し、上限の年齢制限なし。
入門金
月 謝
500,000円
(入門契約後に支払うものとする)
100,000円
(月謝は毎月月初め5日迄に支払うものとする)
入門に必要な書類
1.住民票(家族全員のもの)。
2.入門審査提出願書。
3.身元保証人一名。
4.未成年の場合は保護者の承諾書。
・道場設備費並びに内弟子満期終了時の拝領刀に充てられる。 ・宿泊費用並びに生活食糧費に充てられる。


 さて、入門時に50万円と、一ヵ月分の月謝で10万円が必要であり、入門時には両方を併せで、60万円の費用が必要である。
 諸氏の多くは、果たしてこの金額が高いと思われるだろうか、あるいは安いと思われるだろうか。

 また、「内弟子になるのに何故金がいるのか」とか「内弟子はタダでなかったのか」という人が居るかも知れない。しかし、尚道館・陵武学舎は、資金提供者や興行権スポンサーに頼らない、「自力独立」の個人運営の道場である。

 その為に、他の道場ではよく見られる、ド素人の政治家を名誉総裁にしたり名誉顧問にすると言った、選挙の度に道場生が駆け回る道場ではない。あくまで「自主独立」あるいは「自力努力」で、総てを賄っている。また、寄付金集め広告集めと云った悪習もない。

 昨今は、甚だしい武道や武術の品位を低下させている行動に一つに、寄付金集めや広告集めがある。また、ド素人の政治家を名誉総裁に招いたり、名誉顧問に招いている。要は、選挙の度毎に、道場生が一丸となって票集めに奔走するのである。

 自前の足で立つ事に出来ない指導者が、「道だの」「青少年育成だの」と豪語しているが、寄付金集め、広告集め、票集めに奔走する武道家は、果たしてその資格があるのか。

 尚道館・陵武学舎は、「自力独立」の個人運営である。第三者の誰の意向も頓着しない。その為に、修行者はその修行期間、自分の経費は自分で払うというのが、尚道館の大原則である。その関係者のみで、自力で負担すべきものである。その為に、入門金と月謝を徴集している。

 現在、吾々(われわれ)の住んでいる社会は、霊学的に言うと、宇宙の最外郭にある「物質界」という所で、表面的には物質文明社会を形成している。金と物と色情が最優先し、その表皮的な側面は、セックスにおいても美男・美女が持て囃(はや)される世界である。またその対価価値は、物質的に価値があるか、否かにかによって評価が行われている。

 つまり、物・物・物の世界であり、金・金・金の世界である。多くの物財に取り巻かれ、多くの金銭を所有する人間が英雄と看做(みな)される世界だ。
 したがって世の多くは、物質界の英雄に肖(あやか)って、物集めと金集めに固執する人生を選択するようだ。

 例えば、大ローンを組んで自家用車を買ったり、マイホームを建てたり、あるいは家電製品を買ったりして、物質的な豊かさを求め、こうしたものに金銭を支払う場合、その裏には快適さと便利さと、物質的優越感が絡んでいる。
 そして殆どの人が、こうした物を手に入れる場合、金銭の支払える未来予測を計算して、購入を決断する筈である。金持に肖って、一点豪華主義の「物持ち」を自称してみたいという心理が働くからだ。

 ところが無形の、精神的な「稽古事」となると、多くは、多額の金を遣う事に躊躇(ちゅうちょ)を覚え、実際には物質的価値観が見られないので、二の足を踏む場合が多い。そして金額が、ある程度、まとまった出費となると、やはり躊躇を覚えるのが凡夫の悲しいところであろう。

 しかし一方で、金や物や異性(この場合、美男美女と言おうか)は、他人から奪われる危険性があるが、こうした自分の身体に身に付けた無形のものは、他人が奪おうとしても奪われる事がない。こうした利点がある事も、一応ご承知しておいて頂きたい。
 単刀直入に言えば、西郷派大東流合気武術を身に付けるということは、「無形文化財」あるいは「世界文化遺産」に匹敵する、到底、金では買えないものを身に付けるということなのだ。



●金や物に骨抜きねなった現代人

 日本の精神的な伝統文化と、その精神基盤は急速に失われつつある。
 日本人が古来より受け継いで来た伝統や風土、またその裏付けを為(な)す古人の培った智慧は、昨今に至って、その伝承が壊滅状態に陥った。そして人々は、金銭によってその価値観を計る現実が生まれた。

 日本国民の大衆層の多くは、その日暮らしの刹那主義に生きている。
 明日の未来を考えるより、その時、その日が楽しければいいと言うような、悪しき個人主義とエゴイズムに、誰もが生きている。全体の事より、先ず自分の事を最優先させ、自分の利益誘導の為に奔走したり、先見の明のある商上手(あきないじょうず)を、英雄とあがめる不思議な風潮が生まれた。

 道義や倫理、敬愛や忠節と言う、日本の良き伝統文化の基盤であった社会を構成する屋台骨は崩壊し、眼に見え無いもの、形の無いものに対しては、その価値観を見出せないいるというのが現代人の体質であるようだ。
 したがって型にとらわれ、容姿に囚われ、ファッションに囚われて、こうしたものに美的感覚を見い出し、価値観を見い出し、一方で、それ以外の眼に見えないものをことごとく古臭い物として扱い、時代遅れと侮蔑し、軽々しく扱う風潮が生まれた。

 そして世の有識者や文化人と言われる人達は、物質界特有の唯物科学至上主義を振り回し、欧米の学術情報によって、これを何の疑いも抱かず、国民にアピールし、安易にこれを受け入れると言う現実をつくり出した。
 また大衆の多くも、こうした権威筋にコントロールされ、有識者や文化人の言(げん)を珍重するという現実が生まれた。

 特に、現代医学や現代栄養学という学術の世界では、欧米の権威が猛威を振るい、その権威の言(げん)を、大衆が全面的に支持するという事が常識となった。権威筋の言う事は、疑いを抱かず、鵜呑(うの)みをすると言うのが、今日の大衆層の実像である。

 現代栄養学は、大衆に何を促しただろうか。
 肉や乳製品(牛乳、チーズ、ヨーグルト)を優良な健康食品と定義し、厚生労働省と総ぐるみで、これを売り込んだではなかったか。その結果、現代人は、見掛け上の体格だけは立派になったが、眼は虚(うつ)ろで、無気力であり、無感動な人間、精神障害者、そしてガンをはじめとする、三大成人病を煩った病人ばかりを蔓延させたではなかったか。

 一方、現代医学はどうだろうか。
 医療検査技術はハイテク技術が導入され、確かに病名を探し当てる技術は進歩し、その的中率は上がったが、人間そのものに寄生する病気を治す事に至っては、殆ど効果を上げていないのが現実ではないか。
 ガンはその最たるもので、ガンと診断はできても、ガンを治癒する方法は未だに解っていないではないか。
 特に、医療技術が発達する一方、多くの抗生物質系の新薬が発明され、こういう状況下で、一向に病気をの減らない現実を見ると、そこには、これ等の二つの欧米流学問(現代栄養学と現代医学)が、現実的に矛盾の極地にある事を明白に物語っている。

 現在の日本は、今だかつてないほど、薬物に汚染された医療の実態が浮上しはじめた。病院に行けば、ちょっと具合が悪いだけで、不必要な薬物を処方され、その結果、極めて有害な副作用などを起こす薬が患者に手渡され、これを飲用することで益々悪化するケースも起こっている。

 一方、未来の日本を担う青少年はどうだろうか。
 学校では勉強のできない子供や、活発な子供達は「学習障害」、また「注意欠陥多動性障害」というレッテルを貼られ、薬物を投与され、もともとは病気でないのに、本当の病人なってしまうと言う現実が起こっている。
 また青少年における薬物乱用の状況は、近年例を見ないほど悪化しており、今や中学校や小学校まで、麻薬の魔の手が伸びているという現実がある。こうした青少年の多くは、「やせるから」「いい気分になるから」という甘い誘惑に誘われて、自ら悲観的な将来を選択している。
 このような状況下に、合法、非合法のドラックが闇売され、その依存性に群がる青少年層をカモに、暴力組織が彼等の骨の髄までしゃぶり尽くしている実態がある。

 この状況に対して、手を打つ為の活動を展開している救いの手は極めて少ない。
 その国の将来と言うものは、その国を担う子供を見れば分かる。
 今日の青少年を見るがよい。その青少年を育てた親を見るがよい。
 その多くは、人格的に人間性に欠け、品位を持たず、親子ともども倫理と道徳観が薄く、人間として優れた人格形成は為(な)されていないように見える。こうした親子関係にも、犯罪の温床はある。

 自らの子供を自由奔放にするばかりでなく、自らも不倫や性風俗の店に入り浸(びた)り、肉体的享楽に明け暮れて、現実逃避を企てていると言うのが大人達の実情である。

 また打算的個人主義に走り、金銭的価値観によって、人を品定めする軽い見識眼しか持っていない。
 今日の日本国民の持っている興味の対象は、金や物の他に、スポーツ観戦、レジャー、海外旅行並びに国内温泉巡り、セックス、映画、テレビなどのエンターテインメント(entertainment)などの、演芸や余興の類(たぐい)であり、その他、美食指向のグルメや、競馬、競輪、競艇、オートレース、パチンコ等の小ギャンブルである。そしてこれ等の興味の対象には、人格と心身を鍛練して、己の人格向上、並びに霊格向上を促すものは何一つ入っていない。

 むしろ害になるものばかりを追い求め、その日暮らしの刹那に生き、こうした次元の低いものに夢中となって、日々戦々兢々となっているが、今日の現代人の偽わざる実像のようだ。

 したがって、精神的なものに月謝を払うと言う事に、認識の薄い大衆層が殖(ふ)え始めた。
 こうした現実が、真剣に武術を学ぶと言う事を衰退させてしまった観が否めない。また、これを商行為の、それと誤解して、道場を、街の商店のような次元の低いものに作り替えてしまった観がある。

 こうした誤解が精神文化を、物質文化より、一等も、二等も低く見てしまう現実をつくった。こうした現実を踏まえて、更めて精神文化を見直す必要があるのではあるまいか、と思う次第である。



●入門時に必要な費用

 さて実際に入門を許され、最初に60万円が必要であり、その資金が、もし諸氏の、生涯を通じての、それを消化して、自分自身の所有になり、自分を護る最大の「切り札」となると考えてた場合、ここには金や物以上に大きな価値観を見い出す筈である。

 よく曽川宗家は、「稽古事」に金銭を払う事に躊躇する人に対し、「あなたの命の値段は如何程ですか?」と訊く。こう問われて、多くの人はギクッとする。多くが、自分の命の値段を知らないからだ。自分の命を護る最大の「切り札」に、躊躇した心の裡側(うちがわ)を見透かされるからだ。

 自分の命を軽々しく考えている人は、物質優先の生活を送る人が実に多い。自分を粗末に扱っている人が多い。だから稽古事に、何でそんなに高額な金銭を払うのかと……金を惜しむ。

 しかし、これが一生涯を通じて、自分のものになり、それを会得できれば、この入門時に払う60万円は、そんなに高くない金額である。

 その上、内弟子修行満期終了時には、曽川宗家から、高価な拝領刀を賜わり、これは一生涯の自分自身を護る強い味方になるのである。


日本刀を鑑る曽川和翁宗家

 この拝領刀は、既にこれだけで、日本刀剣保存協会の「保存刀剣クラス」の日本刀であり、これだけでも刀剣店で買えば、軽く70万円はする代物である。
 これを曽川宗家から、内弟子修行満期終了祝いとしてプレゼントされるのである。商売人的な考え方をすれば、日本刀を拝領を賜わった時点で、物質的な換算をして、入門金の50万円の「元を取っている」ことになる。

 曽川宗家は、また日本刀の鑑定士でもあり、刀の目利きは相当なものである。その目利きによって、「あなたは、この刀を生涯の護身刀としなさい」と満期終了数日前に申し渡されるのである。この時が終了間際の一番華やかな時期であろう



内弟子修行満期終了時には、生涯に亘って自分を護る護身刀を拝領する

 内弟子修行満期終了時、とにかく70万円相当の日本刀の拝領を受けるのである。
 商業的な損得勘定で計算し、金銭的な言い方をすれば、この時点で元をとったということになる。
 入門時には入門金と第一回目の月謝を合わせて60万円の支払いをするが、その金額が高いか安いか、それはその人の受ける人間性と価値観によるものである。
 またデフレ不景気(正確にはハイパーインフレ構造と言うそうだが)の物価高の世の中、一か月の一切が10万円という月謝で、本当ならば果たしてどれだけの事が出来るか、考えてみれば分かると思う。こうした費用面を計算すれば。この中には家賃、水道光熱費、食費、技術指導料、学科指導料、その他の一切が含まれる。果たして、一人の学徒が10万円と言う金額で、このご時世、就学が可能だろうか。

 一番分かりやすい例を挙げれば、県立高校に通っている高校生を考えてみればいい。彼等は果たして学校の授業料や食費やその他の経費を合わせて、10万円以内でおさまっているであろうか。当然この中には、家賃あるいは固定資産税の分担負担金も入る。これを全て合計すれば、10万円は越える筈である。

 尚道館の内弟子クラスの毎月の月謝が10万円と言うのは、決して高い事はないはずであるし、むしろ良心的である事は明白である。

 一言で金の遣い方と言うものはいろいろある。そして「生き金」と「死に金」というものがある。
 幾つになっても青雲の志に燃えて「生き金」を遣えばそれは一生の宝になるし、物や色に固執して一時の享楽に興じれば、それは「死に金」となるだろう。
 尚道館の内弟子の修行に遣われる金は、まさに「生き金」であり、つまり尚道館では、内弟子に対し、金で買えないものを伝授するのである。この制度を尚道館では「内弟子制度」というのである。