入門について 9
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●祥瑞災異思想と兵法としての八門遁甲 めでたい前兆あるいは吉兆を「祥瑞」(しょうずい)といい、災いや天地異変を「災異」(さいい)といいます。人間の人生はこの「吉兆」と「災い」によって、眼に見えない力で動かされます。そして特に「備え」を要する事は、火難兵乱の災いの前兆を逸速く見抜く「見通し」の能力です。 人間は大きく分けて、敏感な人と鈍感な人に分かれます。 前者は「見通し」の利く人であり、後者は近未来の異変に翻弄される人です。 「見通し」の利く人は、勘の鋭い人であり、想像力が豊かであり、近未来の起こる事を予測し得る人です。 幾ら腕力が強くても、幾らケンカが強くても、あるいは格闘における試合上手であっても、自分の乗った飛行機が高高度で、エンジントラブルなどで墜落する運命に遭遇すれば、機内の中で幾ら「ケンカ十段」を自称しても、助かる希望は殆どありません。この場合、搭乗者は皆おなじ運命共同体の中で、死に向かって突入が開始されます。こう言う意味で、人間の力は、高が知れている事になります。 しかしこうした祥瑞災異を逸速く見抜き、危険を回避する能力は、真の武術家にとって非常に大切なものです。この回避する能力ならびに「見通し」の利く術を、西郷派大東流合気武術では「八門遁甲」という軍立(いくさだて)の中に集積しています。 八門遁甲は一般的に奇門遁甲とも称され、三国時代、蜀の宰相・諸葛亮孔明が最も特異とした技でした。八門遁甲とは、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)のうち、乙・丙・丁を「三奇」とし、天の八門ならびに地の八門である休門・生門・傷門・杜門・景門・死門・驚門・開門の各々を八つに配当し、天地両者を合わせて、陰陽の変化を割り出し、隠遁の術を企てる事を言います。つまり「凶」を避け、「吉」を就(つ)く「術」なのです。 この術は推古天皇十年に百済の僧・観靭(かんろく)によって日本に持ち込まれ、暦本として天文・地理書として用いられ、元々は五穀豊穰(ごこくほうじょう)を祈願した遁甲方術書だったのです。推古朝に暦本天文遁甲方術の大家は、陽胡史(やこのおびと)の祖・玉陳は「暦法」、大友村主高聡(おおともすぐりたかさと)は「天文」および「遁甲」、山背臣日立(やませおみひたち)は「方術」を特異としました。その三者は各々に専門に、これらを学んで第一人者となり、後の甲賀流忍術の母体を築いた遁甲術は大友氏から出ています。 また天皇家のお庭番として、夜陰に乗じて秘かに活躍した「風魔一族」(ふうまいちぞく)は、月のエナジー(太陰之術)や方術を巧みに利用した、特異な志能備(しのび)集団でした。 さて今日、遁甲といえば「占い」の一種と考えられていますが、これは決して占いなどではなく、中国の列記とした古典物理学であり、「兵学」の一種であり、単に吉凶を占うものではありません。火難兵乱を避けるものとして兵法であり、この兵法は、五行(ごぎよう)に配当し、おのおの陽すなわち兄(え)と、陰すなわち弟(と)をあてて、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)などと訓じ、普通、十干と十二支とは組合せて用いられ、干支(かんし)を「えと」とします。 その根本には軍立を計算する計算式があり、人間の生まれは天空の星々と連動しているという「天文」から、人間の「命」(めい)を割り出します。この「命」を知る事によって、「凶」を避け、「吉」に就く「術」なのです。そしてこの術を用いる場合、八門遁甲はあくまでも占いの類ではありませんので、兵法の奥儀が重要になり、その根底には敵を知る事が課せられます。それを知る上で、如何なる「凶」が待ち受けているか、その「凶」の源泉を知らなければなりません。 ここに「日取り」の妙があり、これは非常に複雑な計算式からでき上がっていますが、この日取り計算が出来なくても、大意と知る事は出来、迫り来る狂瀾(きょうらん)を回避する事が出来ます。 つまり人間の人生は原因と結果において、原因によって次の事象である結果が作り出されていると、安易に考えがちですが、運命学では結果が原因を生むという宇宙法則の大原則があって、これは「予定説」として構築されているものなのです。 ●宇宙の大法則「予定説」 予定説では、喩えば善を行う者と悪を行う者が居て、環境の結果、善に傾いて善人を全うするのでなく、また悪に傾いて悪人を全うするのでなく、あらかじめ最初から定められたレールの上に立たされていて、善人であるから善を行い、悪人だから悪を行うと考えます。そしてこれらは、無差別に創造主が最初から、あらかじめ「予定していた」とするものです。 「吉凶」「禍福」の根源は、八門遁甲の中に集約されています。凶を避けて吉に就く。これは兵法の用兵軍陣の基礎です。迫り来る近未来が、あるいは蔭に隠れて忍び寄る敵が、如何なるものか知る事が大切であり、敵の拠(よ)り来る源泉を掴めば、「見通し」が立ち、近未来に控える深淵はおおよそ見抜けてしまうものなのです。そうなれば、更に自身を護る「備え」は自ずから強固になって行くものなのです。 つまり自分自身の運命に関わる「吉凶」「禍福」の分岐点は、八門遁甲の兵法によるところが大きく、この術は元々は軍略家の為に編み出された「術」なのです。 八門遁甲は吉凶を判断する術です。吉凶が解れば、凶は避けなければなりません。 世の中の現象で、偶然に起こるものは何一つありません。すべては必然です。一見偶然に起こったと思う現象でも、それは予定説に立てば、必然の要素から出来ています。 偶然は無数に存在するかのように感じられます。それが二つ重なると列記としたある種の現象が生じます。三つ重なるとまた別の現象が生じ、予測のつかない事が起こります。こうした現象を順に追うと、凡人のわたしたちは、逃れ難い「網の中」に閉じ込められるような錯覚を抱きます。 しかしこれは幻覚に過ぎません。凡人ほど、幻覚を多く見ます。幻に悩まされます。不安や悩みや恐怖は、こうした幻覚を見る中に宿っています。そして偶然の恐ろしさを錯覚するのです。 ところが偶然は実際には存在しません。宇宙法則にも存在しません。また偶然が繰り返し重なり、突然変異が起こると考える学問に、ダーウィンの進化論がありますが、これなども、まさに人知ででっち上げられた虚構理論といえましょう。 ●「ダーウィン進化論」という虚構理論 わたしたちは戦後民主主義教育の中で、自由・平等・博愛(友愛)の三原則を厳守するように教えられました。 そして日本では、平和主義が徹底されるとともに、愚かにも「ダーウィン進化論」の根底をなす、進化の過程の中で、「人類の先祖は猿である」という、妄想を植え付けられ、この妄想は今日でも小・中学・高校の理科の教科書の中で、公然と教えられています。 さて、「ダーウィン進化論」の特徴は「適者生存」にあります。 この適者生存は「運者生存」に置き換えて考える事も出来ます。そしてダーウィンの進化論の不可解な点は、突然変異が起きたからといって、直ぐに進化する訳でなく、突然変異が繰り返し反復されて蓄積され、これによってはじめて進化するという点です。 突然変異というのは、換言すれば「偶然の連続」です。そんな偶然が進化の過程の中で、都合よく何度も起こりうるのでしょうか。 喩えば、爬虫類から鳥類が進化したという仮説を上げて見ましょう。 爬虫類が鳥類に進化する為には、前肢(まえあし)が羽に進化する訳ですが、こうした変化が起こる確率は、果たしてどれだけあるでしょうか。 もし、爬虫類が鳥類に進化する過程の中で、変化が起こると仮定して、その変化は気の遠くなるような変化の繰り返しが、立て続けに起こり、然も整然と行われる必要があります。 単に羽が出来るだけでなく、その羽を動かす為の脳も、同時に進化しなければなりません。骨格が浮力を得る為には、中空浮上させる為に体重を減少させたり、空気抵抗を少なくする為の流線型的な身体の変化も必要になります。 「空を飛ぶ」のに必要な、無数の偶然、すなわち突然変異が、地球の高々四十五億年の寿命の中で、そう都合よく、何億回も、何十億回も都合よく起こったのでしょうか。 仮に無数の偶然が十億回起こったとして、果たして爬虫類は、実際に空を飛ぶ事が出来たのでしょうか。 爬虫類が鳥類へと進化した過程に、始祖鳥(Archaeopteryx)が 鳥類最古の祖先と考えられています。この化石動物は、ドイツ南部のジュラ紀の石灰岩中から発見されました。大きさは鳩と烏との中間ぐらいで、前肢は翼となり、全身が羽毛に被われる点は鳥類的ですが、歯のある顎、爪のある三本の指、長い尾椎など、爬虫類に似た点が多い事から爬虫類が鳥類に進化したのでは、という進化の仮説があります。しかしこの化石は、世界にわずか七点しか発見されておらず、爬虫類が鳥類に進化したと裏付けられるものは何一つ発見されていません。 突然変異は、あくまで気紛れな偶然でしか起こる事がありません。しかしこのような偶然が、爬虫類という一種類の一個の個体に限り、何度も繰り返し起こるったのでしょうか。 もし鳥類という個体に対して、十分な数の個体の間で、同じ様な変化が同時に起こり、進化していく過程は、ほぼ同じ速度で起こらなくてはならないはずです。 喩えば、自動車の部品を寄せ集めて、適当に繋ぎ合わせていたら、いつの間にか、偶然にも飛行機が出来たという事と同じで、こうした偶然が歴史の中で、一度でも起こった事があったでしょうか。 飛行機を造るには航空力学の理論が必要であり、陸を走る車とは、自ずから異なる理論が用いられます。 突然変異を繰り返す適者生存ならびに運者生存などは、そう簡単に起こる訳もなく、戦後、わたしたちが学校教育の中で教わった「ダーウィン進化論」は虚構の何者でもなかったのです。 しかし恐ろしい事は、「ダーウィン進化論」は虚構理論でありながら、いまだに公然と義務教育過程の中で教えられています。常識ある?一般大衆の多くは、「人間は猿から進化した」と思い込んでいます。 ところがこの「ダーウィンの進化論」に異議を唱える学者も増えはじめています。 生物学者のR・エイブリー博士などは「自然界では、同じ種は変化するが、絶対に進化しない。それは小麦はフルーツにならず、豚には将来何十億回、何百億回の突然変異が現われようと、決して前肢が羽になることはない」と断言しています。 わたしたちは、人類は猿から進化したものであるとする「ダーウィンの進化論」の虚構に振り回されて、精神文化を物質で換算する物質界の行事に参入してきましたが、ダーウィン説は、完全にでっち上げであったという事が解ります。 だとすれば、人類猿と人類の先祖であるクロマニヨン人を結び付ける、「ミッシング・リング」なるものも、最初から存在しなかったという事になります。 |