かつて畳の上で格闘する柔術を「畳水練」を称されました。
畳水練とは、方法を知っているだけで、実際の練習はしていない事、あるいは理屈は解っていても実地には何の役にも立たない事を指した言葉です。畳の上で遣る、「水泳」を考えてもよいでしょう。
しかしこうした言葉の起こりは、元々剣術諸流派から起こった言葉であり、剣術道場の板張りに対して、柔術道場の畳だった訳です。
さて、柔術を主体にする道場には、何故、畳が敷かれているのでしょうか。
今日では、柔道も合気道も、その他の柔術も畳の上で技を掛け合います。投げたり倒したりの技法を用い、特に投げ技の場合、畳は防禦の為の必要不可欠な道具となります。
ところが、畳にはもう一つの意味があり、投げ飛ばした場合の防禦の道具になるばかりでなく、「当て」を行ったり、「合気」を掛けた場合に、非術者が意識を失って斃れ、崩れ込む場合というのがあるのです。その時の防禦にも遣われたのでした。
しかし畳稽古が中心となり、畳が当り前となりますと、喩えば合氣道の「呼吸投げ」のような技も、実際にはコンクリートの上や、砂利道の上では掛かる事はなく、クッションの利いた畳の上だからこそ、お互いの協力によって掛かる技であるという事が分かります。こうしたものを総じて「畳水練」を誹られたのでした。
本来、武術というものは場所を選ばないものです。そこが傾斜地であろうと、山深い僻地であろうと、あるいは水中の中であろうと、当然そこにはそれ相当の儀法が存在しなくてはなりません。また、こうした状況下で、ルールなどとは言ってはおれません。即、その場が武技の応酬の場となります。
大東流は畳の上で行う、水泳の稽古ではありません。術を会得する為の、総合武術であり、一種目の小さな、武技をやり取りするスポーツ種目ではないのです。
●体力や筋トレ不要の秘伝の体得
以上に示すように、大東流儀法習得の全貌は格闘中心の腕力やテクニックや反復訓練、あるいは筋トレや肉体的運動神経の養成でない事が解ります。
したがってテクニックを以て、その技量を競い合うものではありません。術の会得が急務なのです。
そして「術」は知っているか否かで、知っていれば不慮の事故に遭遇した場合、それを遣わなくても、非常に心強い「切り札」になりますし、イザという時は「緊急避難」として、我が身を護ってくれます。
「護身」とは、不法な暴力から身を護るだけではなく、その他の危険に対しても、「生命の安全」をはかる事を意味します。そして、わたしたちの身の周りには、いろいろな危険が取り巻いています。
特に、昨今の世の中の混沌とした状態と、そこから発生する不穏な動きは、既に日本という国が、徐々に秩序を失いかけているという現実を意味します。
もし、自分自身の生命に危険が及ぼうとした場合、直ちにそれを回避し、あるいは制して、そこから脱出する「術」を身につけていなければなりません。
この「術」を習得しているのと、そうでないのとは、その結果として雲泥の差が生じます。
しかし多くに人達は、自分は特別であり、こうした「危険な局面」には遭遇しないと安易に考えています。
悲劇とは、こうした安易の考えが招いた結果といえましょう。
そして現在の警察庁の防犯白書によりますと、ストーカー被害は年々増え続け、日々に悪質化の傾向にあり、急増するこうした犯罪に、警察の防犯対策や、具体的なキメ手は皆無であると報告し、現実問題として、今日の司法や行政機構は具体的な防衛対策を持っていないのが現実のようです。
今日のマスメディアの発達は、それまで手が届かなかった、人達をごく身近に感じさせ、一方において、これを巧みに利用した犯罪が急増しています。交通機関の発達で世界は身近に行き来できるようになり、自他の距離感が益々喪失し始めています。暴力もこれに伴い、外国からの勢力が忍び寄り、わたしたちを柔躙し始めました。そしてこれらは、征服し、支配しようと暴走を繰り返します。
街には不穏な動きの暴力とともに、精神異常者や覚醒剤患者が溢れ返り、武器を使った凶悪犯罪が多発するようになりました。また、そうした犯罪に関与する年齢層も年々低年齢化し、青少年犯罪がウナギ上りの勢いで増え続けています。
1980年12月8日、元ビートルズのメンバーの一人だったジョン・レノンがニューヨークの自宅のアパート前で、熱狂的なフィンのマーク・デビット・チャップマンの兇弾によって斃れるという事件は、わたしたちの記憶にまだ生々しく残っています。この時の衝撃は、世界中を震憾させました。
また、1996年1月、アメリカのスーパースターのマドンナが、かねてから殺すと脅かされ、付きまとっていた男が、ハリウッドの邸宅で不法侵入として警察に逮捕されました。このように偏執的に付きまとう、ストーカーによる犯罪は増加の一途にあります。これは日本とて、例外ではないのです。
こうした不慮の事故に対する防衛策も、普段から予期して、自分の特別な人間ではなく、いつでも事件や事故に巻き込まれる可能性があると、認識しておかなければなりません。
「備え」は常に怠ってはならないのです。
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